9 新しい日常
ヴェルドは、最初の一週間、ほとんど食べなかった。
アイリスが用意した精霊用の餌——魔力を含んだ小石や、乾燥させた薬草の葉——を皿に並べても、ヴェルドは遠くからじっと見るだけで近づかなかった。警戒しているのではないと、すぐにわかった。皿に近づかないくせに、アイリスの後ろをちょこちょことついてくるからだ。
食べ方を、忘れているのかもしれなかった。
アイリスは強制はせず、ただ毎日、同じ時間に同じ場所に皿を置いた。
五日目の朝、気づいたら皿が空になっていた。
◇ ◇ ◇
寮の自室は狭かったが、ヴェルドには十分だった。
窓際に小さな寝床を作った。柔らかい布を重ねて、その上に乾燥させた薬草を少し散らした。図書室で読んだ本に、香りが落ち着くと書いてあったから。
最初の夜、ヴェルドは寝床をじっと眺めてから、アイリスの枕の横で丸まって眠った。
アイリスは少し迷ってから、そのままにした。
前の運命のライガルドは、アイリスの部屋に来たことがなかったから。
精霊が自分から契約者のそばにいようとする、ということが、アイリスにはまだよくわからなかった。
◇ ◇ ◇
学院での日々は、前の運命とは静かに違っていた。
前の運命のアイリスは、常に次の素材集めを考えていた。
どの魔域に何が出るか。どのルートが最短か。傷が癒えたら次はどこへ行くか。頭の中がいつもそれで満たされていたからだ。
だけど、今はそれがない。
授業を受ける。図書室で調べものをする。ヴェルドの様子を観察する。それだけの日々。最初は手持ち無沙汰な気がして、何もしていないことへの焦りが、じりじりとした。
でも、一月も経つ頃には慣れた。
穏やかな日々というのはこういうことかと、実感した。
◇ ◇ ◇
ヴェルドの傷は、少しずつ癒えていった。
最初は鱗の間から覗いていた生傷が塞がり、光沢のなかった鱗が薄く輝き始め、欠けていた尻尾の先が——完全にではないが——少しずつ形を取り戻してきていた。
体も大きくなった。
手のひらサイズだったのが、一月後には両手で持つほどになり、三月後には腕に抱えるほどになった。それでもヴェルドは相変わらず、アイリスの肩や膝の上に収まろうとした。重くなっていくのに、本人はまったく気にしていないように。
「……重い」
図書室で本を読んでいると、頭の上に乗ってくることがあった。アイリスが呟くと、ヴェルドはそれをどこ吹く風で尻尾をぱたぱたさせた。
そのしぐさに思わず笑みが漏れる。
(なんだか、怒る気になれないわ)
◇ ◇ ◇
前の運命と、一つだけ同じことがあった。
シェリルとライガルドのことだ。
ライガルドは相変わらず、自分が認めた相手としか戦わないらしい。
ライガルドが自分を気に入らないから起こしていた行動かと思ったが、そうでもないようだ。
シェリルが演習の授業で「一緒に戦って」と頼んでも、気が向かなければ動かなかった。シェリルは持ち前の愛嬌でそれを笑い飛ばしていたが、授業の成績は芳しくなかった。
だが、それはアイリスには関係のないこと。
あるとき、演習場の廊下でシェリルとすれ違った。シェリルは友人たちと笑い声を上げながら歩いていて、アイリスを見ると「お姉様!」と手を振った。
アイリスは小さく頷いて、通り過ぎた。
それだけだった。それだけでいい。
胸がざわついても、気のせいだと思うことにした。




