第8話 翁の死に方
要石の間を見た夜から、鈴は、縹の顔を、まともに見られなくなった。
昼の斎庭では、縹はいつもどおりだった。鈴の足場を、目で教える。役人が近づけば、袖の指を二度鳴らす。あたたかい手で、鈴の傷を手当てする。何も、変わっていなかった。変わったのは、鈴のほうだった。あの手が自分を、白い座へ運ぶための手だと知ってしまえば、もう同じ手には、見えなかった。育てろ、と言ったあの声が、いまは耳の奥で、鍛冶の槌の音に、聞こえる。
それでも、籠り堂の戸が閉まる時刻を、鈴は待っていた。待っている自分が、許せなかった。
弾圧は、要石の真実を覗き見た夜を境に、目に見えてきつくなった。
大灯が衰え、暦が急かされるほど、天理院は、苛立っていた。式神の数が、増えた。都の下、無名たちの溜めや、地下の回廊で、禍狩が、夜ごと何かを狩りはじめた。鈴が、燼に連れられて下りた、あの道。無名衆の気配を、嗅ぎつけたのだ。下から、悲鳴と焦げた匂いが、立ちのぼってくる夜が、続いた。
禍狩に追われて、逃げ場を失った無名衆の何人かが、斎庭の隅に、引き立てられてきた。鈴は白い候補者の衣のまま、その列を見送った。番号を灯された首。引きずられる足。昨日まで地下で、別の火を絶やさずにいた者たち。鈴は、目を伏せなかった。伏せれば、また、蕗のときの自分に、戻る。見送りながら、鈴は思った。あの中の誰かが、自分を下へ手引きしてくれた子かもしれない、と。世界は、またひとり分、ふたり分、勝手にはみ出していった。
引き立てる守人の中に、若い顔があった。朱の上衣が、まだ、体に馴染んでいない。歩幅だけが、妙に揃っていた。灰郷の、労役の列の歩幅だった。下の郷から朱に上がった者が、下の者を引き立てている。この都の仕組みの、いちばんよくできたところだった。檻の格子を、檻の中から出た者に、組ませる。組んだ者は、二度と格子の内側を、見ない。見れば、自分の出てきた場所だからだ。
夜になると、下から、焦げた匂いが、立ちのぼった。何が焼かれているのか、上の者は、誰も訊かなかった。訊かないことが、この都の、行儀だった。鈴は窓の桟の花穂を、藁の奥へ深く押し込んだ。守るものの置き場所が、日ごとに狭くなっていった。
鈴は、知りたかった。
選を生き延びても、座が待っている。負ければ薪、勝てば要石。燼の言うように、全部を焼くか。縹の檻の中で、飼われるか。その二つしか、ないのか。誰か、二つではない道を、知っている者は、いないのか。燼でも縹でもない、利害のない誰かに、鈴は訊きたかった。
だから、また、下りた。
あの夜の、唄の老人を、探すつもりだった。誰でもない者なら、利害もない。それに、あの「急げ。今夜は、灯が多い」は、禍狩の動きを、読んでいた者の言葉だった。地下のことを、あの老人は、知っている。
◆
崩れた水路の縁に、近づくと、唄が聞こえた。
あの節だった。耳の底に残っていた、言葉の半分聞き取れない、古い唄。鈴はその節を辿って、暗がりを進んだ。禍狩の灯も届かない、地下のいちばん奥に、その老人は、前と同じように、座っていた。
無名衆ではなかった。番号の冷光も、ない。けれど、灰郷の労役の褐でも、神籍の紫でもない、ただ煤けた衣を着て、膝に、欠けた椀を載せ、独りで何か古い唄を、低く口ずさんでいた。
鈴が近づくと、老人は顔も上げずに、言った。
「鈍色に握っとるな。下手くそに」
鈴の足が、止まった。火を、握っていた。息を殺し、鈍色に。誰にも読めないはずの握りを、この老人は、唄いながら、読んだ。
「……あんた」
「読み手だったのよ。昔な」
老人は、ようやく顔を上げた。落ちくぼんだ目をしていた。灰の、白き読み手とは違う。あれが燃え尽きた静止なら、この目は燃え尽きそこねて、苦く湿った、生きた目だった。「鏡守の、なれの果てだ。今は、ご覧のとおり。誰も読まん。誰にも読まれん。気楽なもんだ」
老人は欠けた椀を、鈴のほうへ、ずいと差し出した。
「飯は、あるか。ないだろ。下りてくる若いのは、いつも腹を空かせとる。なに、毒は入っとらん。入れる気力も、もう、ないわ」
乾いた笑いだった。この都へ来て、鈴が初めて聞いた、たくらみのない声だった。
「その唄」
鈴は、訊いた。
「なんの唄」
「ん?ああ」
翁は、椀の汁をすすった。
「古い、灯の唄よ。神名簿より、ずっと前からある。火がまだ、誰のものでもなかった頃の唄だ。郷の婆どもが、子守に唄っとった。いまじゃ、唄える者も、おらんがな」
「どういう意味」
「知りたきゃ、また来い」
翁は、にやりとした。
「続きは、また今度な。唄ってのは、一度に教わると、忘れる。少しずつ、もらうもんだ」
鈴は、それでも警戒した。たくらみのない声ほど、この都では、危ない。けれど、老人はそれきり、鈴に何も求めなかった。旗になれとも、座れとも生き延びろとも、言わなかった。ただ薄い汁を、半分、椀の縁から、こちらへ寄せて、また古い唄を、口ずさみはじめた。何を企むでもなく、ただそこに、いた。燼の大義も、縹の檻もここには、なかった。利害のない人間に会うのが、鈴は灯都へ来て、初めてだった。それだけのことが、奇妙に、胸にしみた。
◆
老人は、翁と呼べ、と言った。名はとうに焼いた、と。
鈴は欠けた椀の、薄い汁をすすりながら、ぽつぽつと、話した。話すつもりはなかった。けれど、この老人の前では、なぜか、嘘が要らなかった。要石を見たこと。座から伸びた、銀の糸。選の正体。焼かれるより、悪い行き先。二つしかない道。
「下に、誰か、おるのか」
途中で、翁が訊いた。話の筋とは、関わりのないところで。
「……妹」
「歳は」
「十四。体が、弱い。熱が引いたり、戻ったりする」
言いながら、鈴は自分の声が、変わるのが分かった。灰郷でも、枯れ野でもない声。土間で小夜にだけ使う声が、こんな地の底で、出た。
「熱冷ましの草の生え場所は、あたししか知らない。あたしが摘んで、あたしが煎じて、あたしが飲ませてた。いまは、効きの落ちる代わりの草を、誰かが回してくれてるらしい。らしい、しか、分からない。十六年、ぜんぶ、この手でやってきたのに、いまはらしい、しか」
言葉が、途切れた。椀の汁が、揺れていた。持つ手が、震えていたのだ。
翁は、何も言わなかった。慰めも説教も、しなかった。ただ自分の椀の汁を、鈴の椀へ、もうひとすくい、足した。
「飲め。妹の代わりに、お前さんが、温まっとけ。お前さんが冷えとると、帰ったとき、妹が心配する」
帰ったとき、と翁は言った。帰れたら、でも帰れるなら、でもなく。鈴は、汁を最後まで飲んだ。味は、薄かった。それなのに、喉の奥が熱かった。
それから、鈴は残りを話した。翁は唄をやめて、黙って、聞いていた。
「白き読み手をな」
聞き終えて、翁は言った。
「お前さん、遠目に見たろう。あの白い人を」
「……見た。なんだか、知ってる気がした。会ったこともないのに」
「会ったことは、あるさ。鏡の中でな」
翁は、椀の底を見つめた。
「あの人はな、昔、お前さんと同じだった。移ろい火だ」
鈴の手が、止まった。
「腐った世を、正そうとした。全部を失った。最後に残った、ひとかけらの土地を守るために、自分から、あの座に座った。自分の魂を、火に縛って、結界になった。百の名を焚べるよりは、己ひとりを焚べるほうが、慈悲だ。そう信じてな」
翁の声が、低くなった。
「真実を知った移ろい火が、行き着く先が、あれだ。知って、なお、システムになった男。あれがお前さんの、行く末を、待っとる座だ」
「あんたは」
鈴は、訊いた。
「あんたも、知ってたの。要石のことを」
「知っとったよ」
翁は、苦く笑った。
「鏡守だったからな。同じ真実を、知った。だがわしは、座らなかった。守るために自分を縛るくらいなら、守るに値する世かどうか、もう一度、疑え。そう思って、鏡を捨てた。神籍を、捨てた。失墜した。この、どぶの底へ、落ちた」
翁は両手を、広げて見せた。煤と、垢の、痩せた手。
「同じものを見て、あの人は座って、システムになった。わしは拒んで、ごみになった。——どっちが正しかったか。さあな。わしは、まだ答えを、持っとらん。ただごみのほうが、夜は、よく眠れる」
答えを持たない、と言われたのに、鈴は不思議と、軽くなって、階を上った。燼は、答えを持っていた。縹も、たぶん、持っている。答えを持つ者の前では、鈴は、いつも選ばされる側だった。答えを持たない老人の前でだけ、鈴は、ただの、汁を飲む小娘でいられた。
「また来い」
別れぎわ、翁は椀を振った。
「飯時にな。今度はお前さんが、何か持ってこい。上の膳は、どうせ残しとるんだろう」
◆
その後の数日で、斎庭の空気は、また一段、硬くなった。
朝の数えに、守人の隊長が立ち会うようになった。候補者の寝所が、夜半に、二度、検められた。鈴の部屋の式神は、一枚から、二枚になった。窓の桟の、干した花穂は、検めの前に、寝台の藁の中へ移した。見つかれば、何かは分からないが、何かにされる。この都では、説明のつかないものは、ぜんぶ、罪の側に数えられる。
地下から上がってくる無名の盆は、日ごとに減った。盆を運んでいた、あの印をくれた子も、見かけなくなった。禍狩が下の水路を、順に灼いている、と囁く声を、水場で聞いた。燼たちは、無事なのか。あの水路の縁の老人は。確かめる術は、なかった。
縹はその数日、目に見えて、口数が減っていた。籠り堂の稽古は、続いていた。けれど、戸を閉める前に、外の闇を確かめる時間が、長くなった。一度、鈴が「下で、何が起きてるの」と訊いたとき、縹は答える代わりに、言った。
「しばらく、夜は、部屋を出るな」
それが、答えだった。
だから、二度目に下りたのは、その言いつけを、破ってだった。
懐に上の膳の残りを、布で包んで。干した魚と、白い飯。灰郷なら、祝いの日の膳だ。約束は、約束だった。それに訊きたいことが、たまっていた。二つではない道のこと。それから——握りの稽古で、ずっと喉につかえている、あのこと。
◆
水路の縁の唄は、その夜、いつもより、低かった。
翁は鈴の包みを開けると、干した魚を、しげしげと見た。
「上の魚は、味が薄い」
文句を言いながら、半分に裂いて、大きいほうを、鈴へ寄越した。
「ほれ。育ち盛りが、遠慮するな」
大きいほうを、寄越す手。鈴はその手を、一瞬、見つめた。枯れ野の、別の手を思い出していた。
食い終わると、翁は鈴の手を、取った。
「握り、見せてみい」
鈴は手のひらに、火を灯した。鈍色に握ろうとする。回る色を束ねて、一点へ。翁はそれを、じっと見て、ふん、と鼻を鳴らした。
「悪くない。誰に、習った」
「……鏡守に。担当の」
「縹色の、袖の若いのか」
鈴は、息を呑んだ。翁は、笑った。
「その握り、わしの手癖だ。何十年も前、神籍に見どころのある子が、ひとり、おってな。白き読み手の、弟子だった。けれど、その子は、システムの読み方だけじゃ、足りんと思っとった。だから、わしのところへ、こっそり、習いに来た。握る術を。読まれぬ術を。失墜した老いぼれから、こっそりな」
縹。
縹は白き読み手の弟子であり、同時に、この、失墜した翁の、隠れた弟子でもあった。システムの中枢と、システムを拒んだどぶの底と。二人の師を、併せ持っている。あの、あたたかい手と、冷たい目。どちらが本物か分からなかった、その理由が、鈴の中で、ひとつ、像を結びかけた。
「だがな」
翁は、鈴の手の火を、覗き込んだまま、言った。
「お前さんに、ひとつ、言うておく。握る術は、半分だ。守りの、半分でしかない。火を鈍色に握って、隠す。読まれずに、やり過ごす。お前さんが、十六年、やってきたことと、同じだ。それだけでは、お前さんは、最後まで客体のままだ。読まれぬように、隠れるだけの」
「じゃあ、残りの半分は」
翁の落ちくぼんだ目が、火を映した。
「逆だ。隠すんじゃない。——名づけるんだ」
「名づける」
「鏡は、外から、お前さんを、読む。色だ、番号だ、禍だと。押し込める。だが握る術の、ほんとうの先は、その逆さまにある。お前さんが、内から、お前さんの火に、お前は何色だと、言ってやる。誰の読みも、受けつけずに。それができたら、お前さんは、もう読まれる側じゃない。名づける側だ。神名簿すら、揺らぐ」
翁はそこで、口をつぐんだ。
「もっとも」
乾いた笑いに、戻って。
「わしには、できなんだ。やり方は知っとっても、わしの火は、もう灯らん。種は蒔けるが、咲くのは見届けられん。お前さんなら、どうかな」
「……縹は」
鈴は、訊いた。訊くつもりのなかった名前が、口から、出ていた。
「あんたの弟子だった、あの鏡守は。どんな子だったの」
翁は椀の底を、しばらく、見ていた。
「読みの才は、図抜けとった。神籍の誰より」
昔を見る目だった。
「だがな、あの子は読む側の顔を、しとらんかった。鏡を覗くたび、覗かれる側の顔を、した。読まれる者の痛みが、読めてしまう子だった。だから、わしのところへ来た。読まずに済むすべを、習いに。——読み手に、いちばん向いとらん子が、いちばん高いところの、読み手になった。あの白い人の、すぐ隣にな」
読まれる側の顔。鈴は籠り堂の、燭の灯の横顔を、思った。あたたかい手と、冷たい目。冷たいのは、目のほうではなく、目に映させられているもののほうなのかもしれなかった。
「あれが今、何を考えとるかは、わしにも読めん」
翁は、椀を置いた。
「ただ、ひとつだけ言える。二人の師を持つ者は、いつか、どちらかを、選ばされる。あの子の選びは、まだ、終わっとらん」
唄が、止まった。
いつのまにか、翁は口ずさんでいなかった。痩せた首が、わずかに傾いた。耳を、澄ませている。水路の暗い水面に、細かな輪が、いくつも走った。鼠だ。奥の闇から、手前へ。何かから、逃げてくる向きに。
翁の手が膝の椀に、静かに置かれた。
その時だった。
水路の上の暗がりで、灯がいくつも、点った。青白い、冷たい灯。禍狩の、棒の灯だった。
◆
「いたぞ。移ろい火だ」
声と足音が、雪崩れ込んできた。
鈴の握りが、ほどけた。恐怖に、火が応えて、暴れだす。鈍色が、藍へ、朱へ止まらずに回る。隠せない。見られている。覗かれたぶんだけ、火は燃え盛る。
翁が、立ち上がった。
痩せた老人の、どこにそんな力があったのか。翁は鈴の前に、出た。膝に載せていた椀を、放り捨てて。痩せた両手を、開いた。鈴に握りを教えた、その手で。
翁の手のひらに、火が灯った。
灯らないはずの、燃え尽きた火が。ひとすじ、頼りない、けれど、確かな、ひとつの色。翁はそれを、禍狩のほうへ、突き出した。
「こっちだ!移ろい火は、こっちにおる!この、わしだ!」
禍狩の灯が、翁へ集まった。鈴ではなく。翁の、消えかけの火を、ほんものの移ろい火と、読み違えて。
「逃げい」
翁が、振り向かずに、言った。低く、けれど、鈴にだけ、届く声で。
「上へ戻れ。明日の、最後の試練を、受けろ。握って、脱落して、帰る道は、もう、ない。お前さんが下りてきた時点で、その道は消えた。だったら、前へ、行け。残りの半分を、見つけろ」
「翁……」
「いいから、行け!」
鈴の体が勝手に、動いた。狩りの、いちばん深いところ。考えるより先に、足が、闇へ走った。背中で棒の灯が、翁を囲んだ。読み上げる声。名前の、ない名前を、焼く音。翁の、最後の唄が、ひとふし、闇に、響いて——途切れた。
鈴は、振り返らなかった。
振り返れば、戻ってしまう。戻れば、翁の死が無駄になる。狩りで覚えた、いちばん上手いこと。聞こえないふり。見ないふり。それを、鈴は最後まで、上手くはできなかった。走りながら、頬が濡れていた。
地下の階を、駆け上がりながら、鈴は、唇を噛んだ。声を出せば、見つかる。翁が命で稼いだ、このわずかな隙を、無駄にできない。一段、また一段。背中で棒の灯の数が、減っていく。禍狩が、翁を本物の移ろい火と信じて、囲んでいる。偽物の火に。燃え尽きたはずの、ひとすじの火に。老人は最後の最後まで、読み手を欺いてみせた。守るための、欺き。それが、翁の、生涯で最後の、鏡守の技だった。読む側に生まれた者が、最後に、読まれる側を逃がすために、その技を使った。鈴はそれを、忘れまいと思った。忘れたら、翁の死がほんとうに、ただの薪に、なってしまう。
◆
籠り堂にたどり着いて、鈴は、戸を内から閉めた。
膝が、抜けた。冷たい床に、座り込む。
懐の布が、空だった。干した魚は、渡した。包みの布だけが、戻ってきた。あの欠けた椀は、水路の縁に、残されたままだ。誰も、取りに行けない。禍狩の灼いた闇の底に、欠けた椀が、ひとつ。あの人の持ち物は、それでぜんぶだった。名前すら、持っていなかった人の、ぜんぶ。
翁の、欠けた椀。乾いた笑い。煤けた手のひらに、最後に灯った、ひとすじの火。あれは、燃え尽きたはずの火だった。それでも一度だけ、灯った。鈴を、逃がすために。種を蒔く老人が、咲くのを見届けられぬまま、自分を焚べた。
灰は座って、システムになった。翁は拒んで、どぶに落ちた。同じ真実を見た、二人の移ろい火。片方は何十年も、火に縛られ続けている。片方はたった今、ひとすじの火を、燃やし尽くして、終わった。
どちらにも、鈴はなりたくなかった。
二人の師を持つ者は、いつか、どちらかを、選ばされる。
翁の、最後のほうの言葉が、戻ってきた。あれは、縹のことだった。けれど、いまは自分のことのようにも、聞こえた。鈴にもいつのまにか、二人の師がいた。籠り堂で、握るすべを仕込んだ縹。水路の縁で、その先を指さした翁。握って隠れるか。名づけて、立つか。鈴の選びも、まだ、終わっていなかった。始まっても、いなかった。今夜、始まったのだ。
握る術は半分だ、と翁は言った。残りの半分は、逆だ。隠すんじゃない。名づけるんだ。お前さんが、内から、お前は何色だと、言ってやる。
鈴は手のひらに、火を灯した。
回る色を、見つめた。鈍色に握ろうとは、しなかった。今夜は、隠さなかった。あらゆる色を、移ろう火を、ただ、見た。十六年、消せ、隠せ、と言われてきた火。翁が最後に、種を蒔いていった火。
——あたしは、何色だ。
問いかけて、けれど、答えは、まだ出なかった。出し方を教わる前に、翁は逝った。種だけが、胸に残っていた。
明日は、最後の試練だ。握って脱落して帰る道は、もう、ない。翁がそれを、自分の命で、閉ざしていった。前へ行くしか、ないのだ。
鈴は、火を握りもせず、消しもせず、ただ手のひらの上で、燃やし続けた。明日のことも、縹のことも、何ひとつ、片付いていなかった。それでも、鈴は生まれて初めて、自分の火を、隠さずに眺めていた。
口の中で気づくと、あの唄をなぞっていた。
言葉の半分、聞き取れなかった、古い唄。節しか、覚えていない。それでも、なぞれた。声には、出さない。出せば、籠り堂の外まで、届いてしまう。ただ息の形だけで、ひとふし、もうひとふし。唄っていた人は、もう、いない。唄だけが鈴の中に、引っ越してきていた。椀の汁と魚の大きいほうと、種と、唄と。あの老人が、ひと月足らずで鈴に手渡したものは、欠けた椀ひとつに、収まるほどしかない。それなのに、腰の袋より、ずっと重かった。
翁の唄の、最後のひとふしが、まだ耳の奥で、消えずに鳴っていた。戸の外で式神の紙の羽が、低く、一度、鳴いた。




