第9話 籠り堂の告白
最後の試練の、前夜だった。
その夜、鈴は、眠れずにいた。翁の、欠けた椀と、乾いた笑いが、まぶたの裏から、消えなかった。煤けた手のひらに、最後に灯った、ひとすじの火も。種は蒔けるが、咲くのは見届けられん、と老人は言った。それから、自分を、焚べた。鈴を、逃がすために。
握って脱落して帰る道は、もう、ない。翁が、命で閉ざした。明日は、最後の試練。その先に、あの白い座が、待っている。考えれば考えるほど、足の下の地面が、薄くなっていく。鈴は、籠り堂の、ひとつきりの燭の前で、膝を抱えていた。
膝の上で、指を折ってみた。
蕗。呑み込んだ名前。菫。覚えなくていいと言われて、覚えた名前。翁。名前ですら、ない名前。本当の名は、とうに焼かれて、役目の呼び名だけが、椀と一緒に、残った。三つ。灰郷を出てから、鈴の中に、呼べないまま積もった名前が、三つになった。
名前は火より先にある、と小夜は言った。先にあるほうが、後から消されていく。妹の言うとおりだった。鈴の中の三つの名前は、どれも火より先にあって、火のほうの都合で、呼べなくなった。
呼べない名前は、重い。呼べる名前は、もっと重い。小夜。その名前だけは、まだ呼べば届くところに、ある。あると信じられるうちに、帰らなければ。
戸が、開いた。
縹が、入ってきた。いつものように、稽古のために。けれど、鈴は、火を隠さなかった。
手のひらの上で、移ろい火が、回っていた。鈍色に握りもせず、消しもせず。あらゆる色が、燭の灯の隣で、燃え替わっていく。藍から、朱へ。朱から、萌黄へ。縹は戸を閉める手を、止めた。
その火を、縹は長いあいだ、見ていた。叱るでも、慌てるでもなく。まるで、初めて見るもののように。あるいは、二度と見られぬかもしれぬもののように。籠り堂の闇の中で、移ろう色だけが、生きて、息づいていた。鈍色の郷にも、白い都にも、属さない色。どこにも、居場所のない色。その色を、縹は、ただ見ていた。
「……握れ。式神は、ここには来んが、用心に越したことは、ない」
「今夜は、いい」鈴は言った。声が自分でも驚くほど、静かだった。「隠すの、疲れた」
縹はしばらく、戸口に立っていた。それから、いつもの場所に、膝をついた。火を覗き込む、いつもの距離。
近づいたとき、匂いが、した。
花のような、冷たい匂いの、その下に別の匂い。香の煙とも、違う。乾いた、白い、熱のない匂い。鈴はそれを、知っていた。大灯の根の、あの間に満ちていた匂いだ。名前の、焦げる匂いの、手前にある匂い。この人は、今日、あの白い火の、近くに、いた。呼ばれたのだ。また。誰に呼ばれ、何を言いつけられたのか。訊けば、答えないだろう。鈴はその匂いだけを、覚えておくことにした。
そして今夜は、鈴のほうから、その目をまっすぐ見た。何の色もない目を。あたたかい手と、冷たい目を持つ、この人を。
◆
「下に、行ったね」鈴は言った。問いでは、なかった。
縹の、火を覗き込む睫毛が、動かなくなった。
「要石の間を、見た。白い座も。座から伸びた、銀の糸も。白き読み手が、何に縛られてるかも。——立って歩けるのに、どこへも行けない、燃え殻に何十年も、繋がれてるんだね。あれが、要石」
縹は、答えなかった。
「選が、何の儀式か、知った」鈴は、一語ずつ、置くように、言った。「勝者なんか、選んでない。次の、要石を選んでる。移ろい火だけが、座れるから。庶民は、移ろい火は焼かれると信じてる。あたしも、そう信じてた。焼かれるなら、まだ、終わりがある。けど、ほんとうは、もっと、悪い。終わらない。それがあたしたちの、行き先」
燭の灯がふたりの影を、壁に長く伸ばしていた。
「だから、あんたは」鈴は、縹を見た。「あたしの火を、握れるように、育てた。耐える火に。痛みに、慣れさせて。あの座に何十年も繋がれて、削られても、砕けない火に。——“育てろ”って、あの夜、言ったよね。鍛冶が、刃を打つみたいな声で。あれはあたしを、座に繋ぐための、仕込みだった」
否定する、と思っていた。いつものように、平らな声で。読みなおしただけだ、と。けれど、縹は否定しなかった。膝の上で握った手が、白く、なっていた。否定しないことが、肯定よりも、ずっとこたえた。
◆
鈴は、息を、ひとつ、ついた。それから、言った。
「年寄りに、会った。下の、どぶの底で」
縹の目がわずかに、上がった。
「失墜した、鏡守だって。名前は、とうに焼いたって。欠けた椀で、薄い汁を分けてくれた。——あたしの握りを、ひと目で読んで、下手くそだって、笑った。この握りは、わしの手癖だ、って。何十年も前、神籍に、見どころのある子がいて。白き読み手の弟子なのに、システムの読み方だけじゃ足りないって、こっそり、握る術を習いに来た子が、いたって」
縹は、もう、火を覗いていなかった。鈴の、顔を見ていた。
「あんたの、ことだよね」鈴は言った。「あんたには、師が二人いる。システムの中枢の、白き読み手と。それを拒んで、どぶに落ちた、翁と」
「……翁」
縹の唇から、その名がこぼれた。声に、ならない声だった。
「死んだよ」鈴は言った。言いながら、また、頬が熱くなった。堪えようとしても、止まらなかった。「あたしを、逃がすために。禍狩が、下りてきて。翁はあたしの前に、出た。膝の椀を、放り捨てて。燃え尽きたはずの火を、最後にひとすじだけ、灯して。こっちだ、移ろい火はこっちだ、この、わしだって、叫んで。——あたしの




