第7話 要石の継ぎ手
関門は、五つ目を数えていた。
候補者は、半分に減っていた。
越えた者は、上の段へ召される、と斎主は言った。けれど、召された者も、戻ってこなかった。下がった者と、同じだった。上へ消えるのも、下へ消えるのも、結局は消える。鈴は、それに気づきはじめていた。勝っても負けても、誰も戻らない。この選は、戻る者の、いない競べだった。
四つ目の関門で、菫が、ずば抜けて、火を御して見せた。
第二の関門の比では、なかった。聖鏡を三枚並べて、三方から覗かせながら、菫の紫は、半刻、糸ほども揺れなかった。揺れないどころか、終わりごろには、鏡のほうが、菫の紫に染まって見えた。庭じゅうが、それを見ていた。斎主が座を立って、菫の前まで降りてきた。
「見事。——大灯も、さぞ、喜ばれよう」
菫は、深く、頭を下げた。上げた顔は、いつもの、数える目のままだった。足りたか、足りなかったか。けれどその夜、寝所の前ですれ違ったとき、菫の頬には、めずらしく、ほんのわずか、色があった。足りたのだ。生まれてからずっと数え続けてきた帳尻が、今日、初めて、合ったのだ。
次の朝、菫はいなくなっていた。
上へ召された、栄誉だ、と誰かが言った。けれど、菫の使っていた寝台は、もう、別の候補者のものになっていた。枕元に、いつも、洗った布がきっちり四つに畳んで置いてあった。あの布も、なかった。荷物も、名も残っていない。
朝の数えで、鈴の目は勝手に、まっすぐな背を探した。列の、どこにもなかった。
覚えなくていい、と菫は言った。呼ばれない名前は、忘れられる。自分でも。——では、誰が、もうあの名を呼ぶのだろう。召された先で、菫は、菫と呼ばれているのだろうか。それとも、もう。
鈴は胸の奥で、一度だけ、その名を呼んだ。声には、しなかった。蕗のときと、同じだった。呑み込んだ名前が、また、ひとつ、増えた。
大灯も、さぞ、喜ばれよう。斎主の言葉が、あとから、別の意味を、帯びはじめていた。褒められた者から、先に消える。鈴はその並びの意味を、計りかねていた。計りかねたまま、こわかった。
考えてみれば、候補者は、みな、同じ白い衣だった。神籍の菫も、灰郷の鈴も。生まれた郷は、ばらばらなのに、ここではどの色にも属さない、色なしの白に、揃えられている。なぜ、と問うたことは、なかった。問えば、また布の下に、手が触れる気がして。
縹の稽古のおかげで、鈴は、火を、鈍色に握れるようになっていた。関門のあいだ、息を深くし、鈍色を思えば、聖鏡も式神も、鈴を、ただの脆い生の火と、読み違える。おかげで、鈴は五つ目まで、目立たずに、来られた。来られてしまった、と言うべきかもしれなかった。
五つの関門で、鈴はいくつもの顔を、見送った。火を御せずに泣き崩れた子。毒の野で足を抜けなくした子。最後までにこにこと、栄誉を信じていた子。みな、ある朝、寝台から、消えていた。上へ、下へ。どちらでも、同じだった。残った候補者は、もう互いに口を、きかなくなっていた。隣の子が、明日には消えているかもしれない。その隣に自分が、いるかもしれない。名前を覚えるのが、こわかった。覚えた名前ほど、消えたとき、重くなる。鈴はそれを、灰郷で、もう知っていた。
大灯が、衰えていた。誰の目にも、分かるほどに。あの、空を半分灼いていた白い柱が、このごろ、芯のあたりが、わずかにくすんでいる。揺らいでいる。儀礼の暦が、急かされる理由を、その火が語っていた。何かが、尽きかけている。その何かの代わりが、この選で選ばれようとしている。
何の代わりなのか。鈴は、まだ、知らなかった。知るのが、こわかった。
◆
その夜、縹は、籠り堂に、来なかった。
戸の前で、半刻、待った。来なかった。代わりに、昼に盆を運ぶ無名の子が、鈴の戸口に、また布を落としていった。炭の印。今夜、と読めた。
鈴は、迷った。けれど、足は、もう決めていた。
縹がいない夜は、めったにない。担当の鏡守は、鈴が眠るまで、どこかから、見ている。その縹が今夜は、いない。どこへ行ったのか。考えて、ひとつだけ、思い当たった。庭で伝令の式神が、縹の名を呼んでいた。白き読み手の、お召しだ、と。
あの、白い、燃え殻のような人が、縹を呼んだ。
夕刻、庭の渡りで、召されて戻る縹と、遠目にすれ違っていた。声の届く距離では、なかった。ただ、その背がいつもと違った。張りつめているのは、いつものことだ。違ったのは、張りの向きだった。まっすぐ立っているのに、どこかが押し下げられていた。重いものを、頭の上に、載せられて戻る者の背だった。白き読み手の前で、何を言いつけられると、あの男の背が、ああなるのか。鈴はそれを、知らなかった。知らないことが、その夜は、妙に胸に障った。
鈴は、火を鈍色に握った。息を殺し、土の色になって、闇の庭を、縫う。今夜の印は、都の、もっと下を指していた。塔の根。雲より、下。鈴が、籠で吊り上げられてきた、あの道を、逆に、下る。
無名の子が、待っていた。声は、出さなかった。番号の冷光を首に灯したまま、ただ、ついて来い、というふうに、顎を引く。鈴は、従った。狭い石の階を、何段も何段も、下りる。
下りるにつれて、空気が変わった。上の、花と香の匂いが、薄れ、湿った石と、錆びた鉄の匂いが、濃くなる。籠で吊り上げられたとき、足の下を奪われた、あの感覚を、鈴は逆向きに、辿っていた。あのときは、地面が遠ざかった。いまは地面の、もっと下へ、潜っていく。聖山の、はらわたの奥へ。階の段はすり減って、つるりとしていた。何百年、何千人がこの段を、下りたのだろう。下りた者の、何人が、また上ったのだろう。鈴の足音だけが、狭い石の筒に、こもって、響いた。
階の途中、崩れた水路の縁を、渡った。
暗がりに、人がひとり、座っていた。
鈴の足が、止まりかけた。煤けた衣の、老人だった。膝に、欠けた椀。番号の冷光は、ない。守人でも無名でも、ない。誰でもない者が、聖山のはらわたの奥に、ただ座って、何か古い唄を、低く口ずさんでいた。聞いたことのない唄だった。言葉も、半分、聞き取れない。それなのに、節だけが、妙に耳に残る唄だった。
案内の無名の子は、老人を恐れなかった。会釈に似た目配せだけして、先へ進む。老人は唄をやめずに、すれ違う鈴を、ちらりと見た。
「急げ」唄の合間に、老人は言った。「今夜は、灯が多い」
それきり、また、唄に戻った。
誰なのか、訊く暇はなかった。ただ、下りながら、鈴は思った。この都の、いちばん明るい場所には、燃え殻のような白い人がいて、いちばん暗い場所には、唄う老人がいる。どちらも誰にも、名を呼ばれていない気がした。
下りるほどに、都の、別の顔が現れた。上の、宝石のような塔も、光の橋もここには、なかった。剥き出しの石。煤けた壁。太い管が何本も、壁を這って、下へ下へと、伸びている。あの管の中を、何が流れているのか、鈴は知りたくなかった。美しい都の、足の下。きれいなものの裏側は、いつもこうだった。鈴の生まれた灰郷も、きっと誰かの足の、ずっと下に、こうして、隠されている。
香の匂いが、消えていく。代わりに別の匂いが、立ちのぼってきた。
熱と、灰と——名前の、焦げる匂い。
◆
階の底が近づくと、案内の子の足が、止まった。
子は回廊の先の、白い光のほうを、見なかった。見ないように、首を固定していた。それから、鈴の袖を、二度、引いた。ここまで、という合図らしかった。番号の冷光の下で、子の喉が、ひとつ、動いた。声を持たない子の、精いっぱいの、言葉だった。あれを二度見られる者は、いない。そう言っていた。
子は来た道を、戻っていった。鈴はひとりで、最後の角を、曲がった。
階の底に、燼が、待っていた。
「来たか」
短く、それだけ言って、燼は、鈴を暗い回廊の奥へ、手招いた。回廊の先に、光が漏れている。白い、揺れる光。大灯の、いちばん下。火を、焚べる場所。
「見ろ」燼が、低く言った。「お前が、自分の目でしか信じない女だってのは、知ってる。だから、連れてきた。見て、信じろ」
鈴は回廊の陰から、覗いた。
広い、円い間だった。中央に白い火が、柱になって、立ち上っている。大灯の、根だ。その火のまわりに、守人が、列をなしている。守人の前に、無名たちが、ひとり、またひとり、進み出ていた。
進み出た無名の首から、番号の札が、外される。その胸に鏡守が、聖鏡を押し当てた。
鈴は、息を呑んだ。
無名の胸から、薄い、頼りない魂火が、引き出されていく。鏡がそれを、吸い上げる。名前を読み上げる声。その声が読み上げたそばから、無名の顔から、何かが消えていった。名前を、奪われている。魂火ごと。引き出された魂火は、鏡を伝って、中央の白い火へ、注がれた。大灯がその一滴で、ほんの少し、明るさを取り戻す。
くべられた無名は、くずおれた。守人がその体を、引きずっていく。もう、動かなかった。番号ですら、なくなっていた。ただの、空の体。名前を燃やし尽された、抜け殻。
それは一人では、なかった。
守人の列の先に、無名たちが、何十人も順番を、待っていた。番号の冷光を、首に灯したまま。列の奥は鉄の格子で仕切られた、広い暗がりに続いていた。溜めだ。蕗の行き先だと、灰郷で聞かされた、あの溜め。格子の向こうに、座り込んだ小さな影が、いくつも見えた。
鈴の目が勝手に、その影をひとつずつ、なぞった。
両手で息を吹く仕草を、探していた。見つからなかった。暗すぎたのか、いないのか、分からない。見つからなかったことに、息をつきかけて、その息の浅ましさに、気づいた。蕗でなければ、いいのか。あそこに座っているのが、知らない子なら、いいのか。格子の中の影は、どれも誰かの五軒先の子だった。誰も、抗わなかった。抗う力はとうに、奪われていた。番号で呼ばれ、番号で並び、番号のまま、進み出る。鏡が胸に当てられ、名前が読み上げられ、火に注がれ、抜け殻が引きずられていく。次。また次。流れ作業の、静けさだった。悲鳴も祈りも、なかった。ただ鏡守の読み上げる声と、大灯の、満足げな、唸りだけ。鈴はその静けさが、いちばん、おそろしかった。人が薪にされるのに、誰も声を上げない。声を上げないことを、この都は何十年もかけて、教え込んだのだ。
次の無名が、進み出た。子どもだった。
鈴は思わず、身を乗り出しかけて、止めた。蕗では、なかった。知らない子だった。それでもその子が、両手を口元に当てて、はあ、と息を吹いたとき、鈴の心の臓が、握りつぶされた。怖いときの、あの仕草。蕗と、同じ。下の子はみんな、ああやって、冷たい手を、あたためる。あたためる手の、その魂火が、いま、鏡に吸い上げられていく。子どもの名前が、読み上げられ、火へ注がれた。大灯がほんの少し、明るくなった。子ども、ひとりぶん。
これが、薪。これがあの白い火を、燃やしているもの。蕗の番号も、いつか、ここへ。鈴は、口を手で覆った。声を出せば、見つかる。出せないことが、こんなに苦しいとは、思わなかった。
火の音に、耳が慣れてくると、別の音が、聞こえた。
囁きに、似ていた。白い火柱の、芯のあたりから。何百、何千の、小さな声の残りが、燃えながら、まだほどけきらずに、こすれ合っている音。名前だったものの、燃え殻の音。鈴は、耳を塞ぎたかった。塞がなかった。これを聞かずに上へ戻ったら、また、聞こえないふりの上手い女に、戻ってしまう。だから、聞いた。覚えた。あの囁きの中の、どれか一つが、いつか、蕗の名前になる。そうさせない方法を、鈴は、まだ一つも、持っていなかった。
「これが、結界の正体だ」燼が、囁いた。「無名の名前と、魂火を、毎日、喰わせてる。あの白い火に。八洲を守ってるんじゃない。八洲の下のやつらを、燃やして、上のやつらの空を、浮かべてるんだ」
「……でも」鈴は、やっと声を絞り出した。「これは、薪、でしょう。無名は、焼かれる。あたしは……あたしは、禍だ。移ろい火だ。焼かれるのは、無名であたしたちは、違う……」
「そうだ。お前たちは、違う」燼の声が、暗くなった。「お前たちのほうが、ずっと、悪い」
◆
「見ろ。あれだ」
燼が、間の、いちばん奥を、指した。
白い火の柱の、その根もと。そこに一段高い、白い座があった。座には、誰も縛られていない。鎖も、ない。けれど、その座から、無数の、細い、銀色の糸が、伸びていた。糸は、大灯の火へ。もう半分は、間の、入口のほうへも。
入口に白い衣の人が、立っていた。
白き読み手だった。斎主。声を持たぬ、燃え殻の人。その人の背から、銀色の糸が、座へ繋がっていた。何十本も。その人は、火に縛られていた。鎖ではなく、自分の、魂で。立って歩けるのに、どこへも行けない。座から伸びた糸が、その人を大灯に、繋ぎ止めている。
鈴はその銀の糸を、目で辿った。座から、白き読み手の背へ。背から、また座へ。何十本もの糸が、人と、座と火のあいだを、縫っていた。蜘蛛の巣の、まんなかに、自分から座った、蜘蛛のように。あの人は囚われているのに、囚人の顔を、していなかった。抗う顔も、嘆く顔も。ただ何もない顔で、供物が焚べられるのを、見ていた。あれが何十年の、果ての顔だ。座に縛られ、魂を削られ続けた者の、行き着く先の、無。鈴はその顔から、目を逸らせなかった。あれが明日の、自分かもしれないのだ。
「あれが、要石だ」燼が言った。「薪は、一度くべれば、燃え尽きる。すぐ終わる。けど、要石は終わらない。何十年もああやって、火に繋がれて、魂を少しずつ、削られ続ける。死ねもしない。あの白い火が、衰えるたびに、自分を薪の代わりに、燃やして、繋ぎ止める。あれは結界の、生きた錨だ」
鈴の、膝が震えた。
あの糸がいつか、自分の背からも、伸びる。何十年もあの座に、繋がれて。立って歩けるのに、どこへも行けない、燃え殻になって。そう思うと、背骨が一本ずつ、冷えていった。
「移ろい火だけが、要石になれる」燼は、拳を握った。「あらゆる色を燃やせる火じゃないと、何十年も繋ぎ止められない。無名の火は、すぐ燃え尽きる。だから、お前たちだ。お前たち、禍だけが、要石になれる」
選。儀礼の暦。耐える火に、育てろ。痛みに、慣れろ。それができて、初めて、使いものになる。
縹の言葉が、ひとつずつ、おそろしい形に、組み変わっていく。
「選は」鈴は、呆然と言った。「勝者を、選ぶんじゃない」
「次の、要石を、選んでる」燼が言った。「今の要石が、あの、白き読み手が、もう尽きかけてるからだ。大灯が衰えてるのは、あいつが、削られきる寸前だからだ。だから、急いでる。新しい錨を、お前たちの中から、選んで、繋ぐために」
「……上へ召された子は」鈴は、訊いた。声が、掠れた。「四つ目の関門のあと、消えた子がいる。上へ召された、栄誉だって。あの子たちは、どこへ」
燼は、鈴を、見た。それから、目を逸らした。
「戻った者を、見たことがない」
それだけ、言った。それ以上は、言わなかった。言わないことが、答えだった。菫の、四つに畳まれた布が、目の裏に浮かんだ。鈴はそれを、振り払った。いまは、考えるな。考えたら、立っていられない。
焼かれるのでは、ない。
繋がれるのだ。何十年も。あの、白い、燃え殻のように。座から伸びた糸に、魂を少しずつ、喰われながら。死ぬことも、許されずに。
庶民は移ろい火は焼かれる、と信じている。鈴も、そう、信じていた。焼かれるなら、まだ、終わりがある。けれど、本当はもっと、悪かった。終わらない。それが、禍の、ほんとうの行き先だった。
◆
回廊を戻る足が、もつれた。
燼が鈴の腕を、支えた。昔のように。けれど、鈴はそれを、ほとんど、感じなかった。
水路の縁まで戻ると、あの老人は、もういなかった。欠けた椀だけが、暗がりの石の上に、伏せて置いてあった。唄の節だけが、なぜか、鈴の耳の底に、残っていた。さっき見たものの、どの音より、長く。
燼が、何か、言っていた。逃げよう、とか、無名衆へ来い、とか。鈴の耳には、遠く、聞こえた。水の中で聞く、声のように。さっき見た、抜け殻の体が、まぶたの裏から、消えなかった。引きずられていく、番号だったもの。あれが、無名の行き先。あの白い座が、禍の行き先。下の者には、二つの炉が、用意されている。すぐ燃え尽きる炉と、何十年もかけて、ゆっくり燃やす炉と。鈴は自分が、ずっと前者を、恐れて生きてきたことに、気づいた。焼かれることを。けれど、いちばん恐ろしかったのは、後者だった。焼かれることすら、許されないこと。終われないこと。
縹の、あたたかい手を、思い出していた。籠り堂で、鈴の火を「美しい」と言った、あの声を。育てろ、と言った、あの、鍛冶のような、冷たい声を。耐える火に。使いものに。
——あの人は、知っていた。
鈴を、選へ回したときから。火を握るすべを、教えたときから。鈴の火を要石に耐えられる火に、育てていた。鈴をあの白い座に、繋ぐために。あたたかい手で、鈴をいちばん、おそろしい場所へ、運んでいた。
信じたく、なかった。籠り堂の闇で、鈴の火を「美しい」と言った、あの一瞬の声。あれが嘘だったとは、鈴にはどうしても、思えなかった。あの目は確かに、鈴を見ていた。分類せずに、押し込めずに。けれど、その同じ手が、鈴を、座へ育てている。優しさと企みが、同じ人の、同じ手に宿っている。どちらが、嘘なのか。あるいはどちらも、本当なのか。鈴には、読めなかった。読めないことが、いちばん、こたえた。
「縹も、ぐるなの」鈴は、訊いた。声が、自分のものでないようだった。
燼は、すぐには答えなかった。
「……おれが知ってるのは」燼は、慎重に言った。「あの鏡守が、白き読み手の、いちばん近くにいる、ってことだけだ。直弟子だ。それ以上は、おれにも読めない。あいつが、何を考えてるかは。だが、鈴。優しくされたからって、信じるな。この都の優しさは、ぜんぶ、布の下に別の顔を、隠してる」
布の下の、別の顔。
鈴は地上を、いや、雲より下の、ずっと下を、思った。鈍色の郷。坂を下りきった窪地。小夜。
ただ、帰りたかった。生き延びて、妹のところへ。それだけを、願って、ここまで、来た。
けれど、たとえ選を、生き延びても。鈴を待っているのは、家ではなかった。あの、白い座だった。何十年も火に繋がれて、削られ続ける、終わらない緊縛。生き延びることが、いちばん、おそろしい結末になる選。負ければ薪、勝てば要石。どちらの道も、小夜のところへは、続いていない。
「ただ帰る」は、もうどこにも、なかった。
鈴は、立ち止まった。回廊の、闇の中で。
十六年、鈴は生存者だった。読まれずに、目立たずに、ただ生き延びる者。世界は、腰の袋に入るぶんだけ。それで、よかった。それで、生きてこられた。けれど、その生き延びかたは、もう通用しない。目立たず生き延びた、その先に、座が待っている。土の色になって、やり過ごせる場所は、もうどこにも、なかった。
鈴は初めて、思った。
——生き延びるだけじゃ、駄目なんだ。
どちらかを、選ばなければ。燼の灰か、縹の檻か。あるいは、まだ名前のない、別の何かか。生存者でいることを、やめなければ。側を、選ばなければ。それが何を意味するのか、鈴には、まだ分からなかった。
ただ、ひとつだけ、分かっていた。明日もあさっても、この階の底では、誰かの名前が、火に焚べられる。鈴が、座っても。座らなくても。鈴が目を伏せて、鈍色に握って、無難に脱落しても。その夜も子どもが、両手で息を吹きながら、鏡の前に立たされる。聞こえないふりは、もう、できなかった。一度、見てしまった。見てしまったものは、二度と見なかったことには、できない。それが灰郷の鈴と、いまの鈴の、違いだった。
ただ足の下の、地面を奪われた、あの感覚が、もう一度、来ていた。今度は空ではなく、自分の、いちばん奥から。
縹に会ったら、何と言おう。鈴には、分からなかった。あの、あたたかい手を、振り払えるのか。それとも、振り払えないのか。考えるほど、答えは遠かった。大灯の唸りが、頭の上で衰えながら、それでも止まずに、無名の名前を、喰い続けていた。




