第6話 燼、ふたつの未来
三つ目の関門が終わった日の夕方、水場に、鈴とあの娘の、二人だけが残った。
候補者は、また減っていた。暦盤の灯も、また一つ、消えた。水場の桶の数だけが、最初の数のままで、使う手が足りなくなっていた。誰のものだったか分からない桶が、縁にいくつも伏せてある。
娘はいちばん端の桶で、手を洗っていた。指の股まで、一本ずつ。火の御しのあとは、いつもそうしている。儀式のような手洗いだった。
「名乗っておく」
ふいに、娘が言った。こちらを見もしないで。
「菫」
鈴は、桶の水を止めた。
「……聞いてない」
「聞かれる前に言うの」菫は、洗い終えた手を、布で拭いた。「ここでは、毎朝、頭の数を数えられる。名前は、誰も呼ばない。呼ばれない名前は、忘れられる。自分でもね。だから、名乗りは、人のためにするんじゃない。——覚えなくていい」
覚えなくていい、と言われて、忘れられる名前など、ない。
菫。紫に届かない、小さな花の名。神籍の娘に、誰がその名をつけたのだろう。蕗と、同じだ、と鈴は思った。枯れ野の縁の、苦い葉と同じ。火でも色でもない、薪にできない、緑の名前。
「あたしは——」
「要らない」菫は、布をたたんで、遮った。「あなたのは、聞かない。覚えると、重いから」
それだけ言って、菫は水場を出ていった。背はいつものように、まっすぐだった。ただその言いかたで、鈴には分かってしまった。この娘は、もう、重さを知っている。覚えた名前が消える朝の重さを、どこかで、一度、量ったことがあるのだ。
呼ばれない名前は、忘れられる。自分でも。
その言葉は、夜になっても、鈴の耳から、落ちなかった。
◆
その夜、盆を運ぶ無名が、鈴の足もとに、布を一枚、落としていった。
拾え、という意味だと、すぐに分かった。下では、いつもそうやって物を渡した。落として、拾う。手から手へは、渡さない。見られるから。
布には、炭で印が一つ。枯れ野で、鈴と燼だけが使った、罠の在処を示す印だった。
鈴の心の臓が、跳ねた。
この印を知っているのは、この世に、ただ一人。
去年の灯改めで、連れていかれた、はずの相手。
盆を運んだ無名の背を、鈴は目で追った。痩せた首に、番号の冷光。顔は、覚えのない子だった。けれど、その子はすれ違いざま、ほんの一度だけ、鈴と目を合わせた。番号にされて、声も奪われて、それでもその目の奥に、消えていない何かが、灯っていた。無名衆だ、と鈴は思った。焼かれるのを待つ顔をして、この都の腹の中で、別の火を絶やさずにいる者たち。
布の炭の印を、指の腹でなぞった。枯れ野で何百回も、互いに残した印。雨の日は、葉の裏に。雪の日は、岩の南側に。この印の読みかたを知っているのは、世界に二人しか、いない。二人しかいない、ということが、あの頃は、ただの遊びの取り決めだった。いまは命綱で、罠だった。
布を、袖に隠す。指が、震えた。会いたい、という気持ちと、会うのが怖い、という気持ちが、同じ強さで、胸を引っぱった。連れていかれた者は、戻らない。それが、灰郷の理だった。戻ってきたのなら、それは、もう鈴の知っている燼では、ないのかもしれない。
◆
印は、斎庭の北の、験の野の、その奥を指していた。枯れの濃い、誰も近づかない縁。式神も、毒を嫌って、そこへは寄らない。読まれない場所。籠り堂の闇とは、別の聖域。
鈴は、握るすべを使った。火を、鈍色に握り、息を殺し、土の色になって、夜の庭を縫った。縹に習ったすべで、縹に隠れて、動く。皮肉だった。
験の野の毒は、夜のほうが、濃く匂った。油の虹が闇の中で、黒くにじんでいる。昼の関門で、足を抜いた、あの子のことが、よぎった。あの子は無事に、戻れただろうか。鈴はその問いを、いつものように呑み込もうとして、できなかった。呑み込めないものが、このごろ、少しずつ、増えていた。
来る途中、庭の暦盤の前を、通った。
夜の盤は昼より、よく見えた。消えた灯の黒い穴が、残った灯の明るさのぶんだけ、深く見えた。残りを数えそうになって、やめた。数えはじめたら、菫と同じになる。数えられ、急かされ、量らされる。この都の望みどおりに。それでも視界の端に、灯の数は勝手に焼きついた。狩りの目は、数えるなと言っても、数えてしまう。
それがこの盤の、いちばん巧妙なところだった。数えさせる側は、棒も声も、要らない。
崩れた祠の在処は、印が示していた。それでも、足はなかなか進まなかった。会えば、確かめてしまう。死んだはずの相手が、ほんとうは、生きていることを。生きているのに、別のものに、なってしまったことを。どちらを知るのも、こわかった。
枯れの縁の、崩れた祠の陰に、人影がしゃがんでいた。
「鈍色に、握れるようになったか」
声を聞いた瞬間、鈴の足が止まった。
低くなっていた。乾いて、硬くなっていた。それでも聞き間違えるはずが、なかった。
「……燼」
影が、立ち上がった。
背が、伸びていた。頬が、こけていた。枯れ野でいつも笑っていた、あの少年の顔が、削られて、別の形になっていた。目だけが暗がりで、ぎらついている。生きている。連れていかれて、薪にされたと思っていた相手が、目の前に立っている。
鈴は駆け寄ろうとして、できなかった。
その目が、もう鈴の知っている燼の目では、なかったからだ。
枯れ野で、二人、罠を見回った朝が、いくつもあった。獲物が一匹もかからない日も、燼は笑っていた。空の都を指さして、いつか、あそこの飯は、さぞ不味いんだろうな、と言って、笑った。下の者の、貧しい笑い。それでも灰郷の朝を、あたたかくする笑いだった。
その笑いが、目の前の顔から、削り取られていた。頬の肉も声のやわらかさも、まなざしの温度も。残っていたのは、骨と信念だけ。何かのために、自分の柔らかいところを、ぜんぶ、燃やしてしまった顔だった。
灰になっている、と鈴は思った。生きているのに、半分、灰になっている。
「死んだと、思ってた」鈴は、やっとそれだけ言った。
「死んだよ」燼は言った。「灯改めで、無名と読まれた。連れていかれて、薪の溜めに、放り込まれた。——そこで、燼って名前の男は、死んだ」
「逃げた、の」
「焼かれる前に、溜めから這い出した。下水を、何日も。地下に、おれたちがいる。無名衆が。消されたはずの者が、灯都の腹の中で、生きてる」燼は、鈴へ、一歩、近づいた。「お前を、ずっと待ってた。鈴。お前が、ここへ来るのを」
「小夜は」
それが鈴の口から出た、最初の問いだった。燼の生死より、無名衆より、先に。訊いてから、自分でもそれに気づいた。
燼は、責めなかった。頷いた。分かっていた、という頷きだった。
「生きてる。熱は引いたり、戻ったりだ。ばあさまが、朝晩、様子を見てる。お前の干してった薬は、もう、切れたらしい。代わりの草を、灰里の婆から回させた。効きは落ちるが、ないよりましだ」
膝から、力が抜けそうになった。生きてる。熱は引いたり、戻ったり。それだけの言葉が、何日ぶんの息よりも、深く吸えた。
吸ってから、冷えた。
燼は答えを、用意していた。鈴が何を最初に訊くか、分かっていて、調べさせて、揃えて、ここへ持ってきた。枯れ野で、罠のまわりに餌を撒くのと、同じ手順で。
「……あんた、それ、いつから調べてた」
「お前が改めで引かれた日からだ」燼は、悪びれなかった。「おれたちの網は、灰郷まで届く。お前がこっち側に立つなら、妹の様子は、月ごとでも知らせてやれる。薬も、回せる」
優しさの形をした、縄だった。鈴はその縄の手触りを、確かめるように、黙った。ありがたい、と思う気持ちは、ほんとうだった。ぞっとする気持ちも、ほんとうだった。この男は、鈴のいちばん柔らかいところが、どこにあるか、知っている。知っていて、そこにまっすぐ手を入れてくる。
◆
「お前は、移ろい火だ」
燼の声が、低く、熱を帯びた。
「結界を、繋ぎ止める火。だったら、砕くこともできる火だ。お前一人で、あの白い火を、壊せる。神名簿を、灰にできる。お前はおれたちが、何十年も待ってた、鍵だ」
「待って」鈴は、首を振った。「あたしは、鍵なんかじゃない。あたしは、ただ……」
「家に帰りたいだけ、か」燼が、鈴の口癖を、先に言った。乾いた声で。「まだ、それを言ってるのか」
「小夜が、待ってる。あの子は病気で、あたしがいないと……」
「妹一人のために、お前は、目をつぶるのか」
燼の声が、鋭くなった。
「鈴。お前、まだ、気づいてないのか。あの白い火が、何を喰って燃えてるか。選が、何の儀式か」燼は、験の野の向こう、大灯の白い柱を、顎で示した。「あれは、薪を選んでるんじゃない。栄誉でも、ない。——もっと、悪いものだ。選ばれた者がどうなるか、知ったら、お前、帰りたいなんて、二度と言えなくなる」
「何が、悪いの。教えてよ」
「いずれ、お前自身が、知る」燼は、目を逸らした。「おれの口からじゃ、お前は信じない。お前は昔から、自分の目で見たものしか、信じない女だ」
それは、本当だった。鈴は、口をつぐんだ。
灯都へ来てから、見たものが、胸をよぎった。宝石のような塔の足もとを、音もなく動く、灰色の背中。番号の冷光を、首に灯した無名たち。験の野に囲い込まれた、毒の土。下がった候補者を運ぶ、夜の棒の灯。どれも布の下に、答えを隠していた。きれいなものの足の下が、いつも、空だった。燼の言いかたは、その空の正体を、もう見てしまった者の声だった。
知りたく、なかった。知れば、帰り道が消える気がした。
「下は、どんなところ」鈴は、訊いた。「あんたたちの、いる場所は」
「暗い。狭い。湿ってる」燼は、短く言った。「だが、誰も読まれない。式神も、鏡も来ない。来れば、紙が腐る。鏡が曇る。下水と枯れの際ってのは、そういう場所だ。毒の縁だけが、おれたちの聖域だ。——笑えるだろう。お前の枯れ野と、同じだ。上のやつらが捨てた毒の土地でだけ、下の者は、息ができる」
笑えなかった。ほんとうの、ことだったから。
「焼くしかないんだ」燼は言った。「全部。神名簿も大灯も、天理院も。一度、灰にしないと、夜は明けない。お前の火なら、それができる。お前が象徴に、なれ。皆の、旗に」
「あたしは、旗になんか、ならない」鈴は言った。「あんたの言ってるのは、大勢を、火に焚べる話だ。それはあの白い火と、同じだよ」
言ってから、鈴は自分の声が、震えていることに、気づいた。怖かったのではない。腹が、立っていた。燼が、人を数で数えていることに。千人、と燼は言った。一人を惜しめば、千人を失う、と。その千人の中に、顔は一つも、なかった。名前も、なかった。燼の目には、もう目の前の一人が、見えていない。大義だけが、見えている。
燼の顔が、こわばった。
「同じじゃ、ない」
「同じだよ。燼」鈴は、まっすぐ、彼を見た。「昔、あんた、言ったよね。枯れ野で。上のやつらは、取れるだけ取る。だから、おれたちは、逆をやるんだ、って。獲物の、大きいほうを、いつもあたしに、くれた。——あの燼は、どこへ行ったの」
◆
燼が、息を呑んだ。
ほんの、一瞬だった。
けれど、鈴は、見た。削られて硬くなった顔の、その奥で何かが、崩れかけたのを。暗がりでぎらついていた目が、ふっと揺れた。
燼の手が、上がった。
鈴の、頬のほうへ。何かを、確かめるように。あるいはもっと、昔のように。枯れ野で、二人、枯れ草に寝ころんで、空の都を、指さしていた頃のように。
その手の動きを、鈴は息を止めて、見ていた。逃げなかった。逃げたく、なかった。削られた顔の下に、まだ、あの少年がいるのなら。その手が、昔のままなら。鈴は、確かめたかった。連れていかれて、死んだはずの相手が、ほんとうは、まだどこかに、生きているのかを。
その手が鈴の頬に、触れる、寸前で。
止まった。
燼は上げた手を、握りしめた。きつく。爪が手のひらに、食い込むほど。そうやって、何かを自分の中で、絞め殺している、という手の形だった。鈴はその形を、知っていた。第二話で自分が、小夜を思って、戸口へ走ろうとした、あの衝動を。それと正反対の、力。湧いてくるものを、力ずくで押し戻す力。
「……その燼は」燼は、絞り出すように言った。「枯れ野で、死んだ。獲物の取り分なんかで、笑ってた男は、もう、いない」
「いるよ」鈴は言った。「今、いた。あたし、見たよ」
「いない」
燼は握った手を、下ろした。目から、揺れが消えていた。また、暗い、硬いものに、戻っていた。自分で自分の、いちばん柔らかいところを、断ち切った。そういう、戻りかただった。
「お前を、愛してたら」燼は、鈴を見ずに、言った。「おれは、皆を救えない。一人を惜しんでたら、千人を焼かれるままにする。だから、おれはお前を、惜しまない。そう、決めた」
それは鈴に言ったというより、自分に言い聞かせた言葉だった。
「考えておけ」燼は、背を向けた。「お前が、その気になったら、また印を寄越す。——縹の、犬になるな。あの鏡守が、お前に優しくする理由を、お前は、まだ知らない。知ったら、吐くぞ」
それだけ言って、燼は枯れの濃い闇へ、溶けるように、消えた。
崩れた祠の石の上に、小さな包みが、残されていた。
油紙の包み。開くと、乾いた草の匂いがした。熱冷ましだ。灰里の婆の回す、効きの落ちる草ではない。枯れ野の北の縁の、あの白い花穂。鈴しか知らないはずの生え場所を、燼は、知っていた。当たり前だ。半分は、二人で見つけた場所だった。
こっち側に立つなら、薬も回せる。そう言った男が、返事も聞かずに、薬を置いていった。取り引きの前払いか。それとも。鈴は包みを、衣の内に、しまった。問い詰める相手は、もう、闇の中だった。
崩れた祠の陰に、鈴は、一人、残された。
しばらく、動けなかった。
枯れの匂いが、鼻の奥を刺した。枯れ野と、同じ匂い。燼と、毎朝、罠を見回った、あの土の匂い。その匂いの中に、たった今まで、燼が、いた。手を伸ばせば、届くところに。それなのに、鈴はその手を、握り返せなかった。握り返せば、燼はもっと、壊れる気がした。彼が、必死で絞め殺しているものを、鈴が、また、呼び覚ましてしまう気がした。
愛してたら、皆を救えない、と燼は言った。お前を惜しまないと、自分に言い聞かせた。あれは、鈴を嫌いになった声では、なかった。逆だった。嫌いになれないから、断ち切ろうとしている声。いちばん惜しいものを、自分の手で、薪にくべようとしている声。
そのほうが、鈴には、ずっとこたえた。
◆
部屋へ戻る道で、鈴は二つの顔を、思い浮かべていた。
縹の、何の色もない目。あたたかい手と、冷たい目。美しい檻の中で、生き延びろ、と差し出される、白い布。
燼の、削られた顔。爪を食い込ませた、握った手。全部を焼け、と差し出される、灰の夜明け。
二つの未来が、鈴の前に立っていた。どちらも、鈴の知っている誰かの顔をして。どちらも、鈴にお前は何者かに、なれと迫っていた。象徴に。鍵に。旗に。読まれる客体から、もっと大きな、何かへ。
縹は生き延びろ、と言う。読まれぬように、火を握って、この檻の中で、息をひそめて。それは、鈴が十六年、やってきたことだった。土の色になる。目立たない。けれど、縹の檻は美しすぎた。美しい檻の中で、ゆっくりと、何かに飼い慣らされていく。その先に何があるのか、鈴には見えなかった。
燼は、焼け、と言う。全部を灰にして、夜を明けさせろ、と。けれど、その夜明けのために、燼は目の前の一人を、平気で焚べる。獲物の取り分を、譲ってくれた手が、今は、人を薪にしようとしている。鈴はその夜明けの中に、小夜の居場所を、見つけられなかった。
それから、もうひとつ、別の顔が勝手に浮かんだ。
菫の、まっすぐな背。完璧な一色の紫。あれも、ひとつの道なのだ。染まりきって、見せ続けて、勝ち続けて、生き延びる。檻でも、灰でもない。鏡の求める色そのものに、自分から、なっていく道。三つの道が、それぞれの色で、鈴の前に並んでいた。縹色の檻。燼の焼け跡の黒。菫の、揺れない紫。
どの色も鈴の色では、なかった。
檻か、灰か。飼われるか、焼くか。染まるか。どの未来にも、ただ家に帰りたいだけの鈴の、居場所はなかった。
鈴はそのどちらにも、なりたく、なかった。
王冠も、いらない。首輪も、いらない。あたしは、ただ、家に帰りたいだけ。妹のところへ。鈍色の郷へ。腰の袋に入るぶんの、世界へ。
それなのに、と鈴は思った。
験の野で足を抜いた、あの子の指。手首に、まだ、残っている。籠り堂で、自分の火を「美しい」と言われた、あの一瞬。胸の奥に、まだ、灯っている。今夜、燼の目に一瞬だけ甦った、昔の少年。あれを、見てしまった。
世界は、もう腰の袋には、収まらなくなりかけていた。
はみ出したぶんだけ、鈴は危うくなる。火が、出たがる。読まれたく、なる。誰かを見捨てられなく、なる。
今日一日で、袋は、また重くなった。
菫、という名前。生きてる、という知らせ。引いたり戻ったりの熱。優しさの形をした縄。覚えなくていいと言われた名前を覚え、知らせてやると言われた知らせに、ぞっとして、それでも欲しかった。重いものばかり、増えていく。捨てかたを、鈴は知らなかった。拾いかたしか、知らずに育った。
大灯の唸りが、夜の底で止まずに、続いていた。
燼の、最後の言葉が、耳の奥に残っていた。縹がお前に優しくする理由を、知ったら、吐く。
知りたく、なかった。
知りたくないと思うことほど、この都では、いつも本当だった。




