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最下層の「鈍色」と蔑まれた少女、たったひとつの『言葉』で理不尽な帝国システムをぶっ壊す  作者: 星村 流星
第一部

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第5話 ひといろの嘘

(はなだ)は、(すず)を、籠り堂(こもりどう)へ連れていった。


斎庭(ゆにわ)の隅の、古い堂だった。窓がなく、(あか)りは、壁の(しょく)が一本きり。香の煙が、淀んでいる。儀礼の沈黙のための場所、と(はなだ)は言った。祈る者の口を、神が読まぬよう、ここだけは、式神(しきがみ)も鏡も、置かれていない。


「この都で」(はなだ)は、戸を閉めながら言った。「読まれずに、ものを言える場所は、ここだけだ」


闇と、沈黙。(すず)が、灰郷(はいごう)の夜に、いちばん近いと感じた場所が、皮肉にもこの空の都の、いちばん奥にあった。


香の匂いが、灰郷(はいごう)の煙とは、違った。甘く、重い。けれど、目を閉じれば、囲炉裏のそばに、座っているような気もした。小夜(さよ)の寝息が、聞こえそうな気がした。(すず)は、すぐにその想像を、追い払った。ここは、灰郷(はいごう)ではない。すぐ隣に、神籍(しんせき)鏡守(かがみもり)が、いる。気を、許してはいけない相手が。


それでも戸が閉まり、式神(しきがみ)の羽音が、聞こえなくなると、(すず)の肩から、ひとりでに、力が抜けた。読まれていない。この狭い闇の中だけは、誰にも覗かれていない。その安堵が、危なかった。安堵させる相手を、人は信じはじめる。


「火を、出せ」(はなだ)が言った。


「……ここで?」


「ここでしか、稽古できん。手のひらに、小さく」


(すず)はためらってから、右の手のひらを、上に向けた。


火は、すぐに応えた。隠そうとすると暴れるくせに、出していいと言われると、素直に灯る。手のひらの上に、豆粒ほどの炎が、ふっと立った。鈍色(にびいろ)から、(あい)へ。(あい)から、萌黄(もえぎ)へ。止まらずに、色が回りはじめる。移ろい火(うつろいび)(すず)の、いちばん隠したいもの。


(はなだ)の目がその火を、見た。


何の色もない目だった。けれど、その奥が(しょく)の灯を映して、わずかに揺れた。


「美しいな」


ぽつりと、(はなだ)が言った。


(すず)は、顔を上げた。神籍(しんせき)鏡守(かがみもり)が、(まが)の火を、美しいと言った。聞き間違いかと思った。けれど、(はなだ)は、もう、いつもの平らな顔に戻っていた。


「美しいものは、ここでは、殺される」(はなだ)は、(すず)の火から、目を離さなかった。「だから、隠す。握れ」



握る、とはどういうことか。


縹は言葉では、ほとんど教えなかった。


彼は自分の手のひらにも、小さな火を灯した。縹色の、澄んだ一色の炎。神籍の、整った魂火(こんか)。それを、鈴に見せた。回らない火。揺らがない火。ひとつの色を、握りしめた火。


「真似ろ」


鈴は、やってみた。回る色をひとつに、留めようとする。藍で、止めようとする。止まらない。藍が、すぐ、()へ滑る。萌黄が、紫へ。握ろうとするほど、指のあいだから、色がこぼれていく。


「力で、押さえつけるな」縹が、初めて、声に何かを乗せた。「握りつぶすんじゃない。束ねるんだ。散ろうとする火を、一点へ集める。お前がお前の火に、お前は何色だと、言ってやる」


お前は何色だと、言ってやる。


その言葉が、鈴の、どこかに刺さった。


鈴は、目を閉じた。回る色を、追うのをやめた。代わりに、息を深くした。灰郷の井戸の底のように、暗く、静かに。そうして、その暗がりの中で、ひとつの色を、思った。


鈍色。郷の色。小夜と、同じ色。


火が鈍色で、止まった。


ほんの、数を二つ三つ数えるあいだ。けれど、止まった。回り続けた色が、初めて、鈴の言うことを、聞いた。


目を開けると、縹が鈴を見ていた。


「……それだ」


その目がめずらしく、何かをたたえていた。誇り、に近い何か。鈴は自分の頬が、燭の熱とは別に、熱くなるのを感じた。


火は、すぐに、また回りはじめた。一度できても、続かない。縹は根気よく、何度もやり直させた。お前は何色だと、火に言ってやれ。束ねろ、押さえつけるな。同じ言葉を、低い声で繰り返す。鈴はそのたびに、目を閉じ、息を深くし、鈍色を思った。できる回数が、夜ごと少しずつ、増えた。


近い、と鈴は思った。教えるために、縹は、いつも鈴のすぐそばに、膝をついた。手のひらの火を覗き込む、その横顔が、燭の灯に、半分だけ照らされていた。澄んだ縹色の睫毛(まつげ)の影が、頬に落ちている。神籍の子は、こんなに近くで見ても、汗の匂いひとつ、しなかった。花のような、冷たい匂いだけがした。それがかえって、鈴の鼓動を、速くした。


ある夜、火が大きく暴れた。


昼の関門の疲れが残っていたのか、握りかけた鈍色が、手のひらの上で、急に膨れた。朱が噴き、燭の灯がのけぞるほど、炎が立つ。熱が、頬まで来た。


縹の手が、伸びた。


考える間もなかった。彼の両手が、鈴の手を火ごと、包んだ。素手で。燃え盛る移ろい火を、躊躇もなく。改め所の、あの感じが、近くで戻ってきた。押さえつけない。覗かない。ただ、包む。暴れていた火が、その手の中で、ゆっくりと、静かになっていく。


火が鎮まっても、手は、すぐには離れなかった。


燭が一度、()ぜた。それくらいの間。縹の手のひらは、思っていたより、熱かった。冷たい目の人の手が、こんなに熱い。鈴は、顔を上げられなかった。上げれば、何かが決まってしまう気がした。


縹が、先に手を引いた。


「……続けろ」


声は、いつもの平らさに戻っていた。戻すのに、一拍、かかったことだけが、いつもと違った。鈴は何も言わずに、息を深くして、鈍色を思った。手の甲に、まだ彼の手の熱が、残っていた。その熱のせいで、その夜の鈍色は、最後までどこか朱がかっていた。



籠り堂の稽古が幾夜か重なったころ、第二の関門が来た。火の(ぎょ)しだった。


候補者はひとりずつ、庭の中央の白い円座へ呼ばれた。目の前に、聖鏡(せいきょう)が据えられる。斎主(さいしゅ)の言いつけは、簡単だった。火を、灯せ。そして、揺らすな。鏡の前でおのれの魂火を、ひとつの色に、保ってみせよ。


簡単で、残酷な関門だった。隠して生きてきた者に、出せと言い、暴れる火を持つ者に、止めよと言う。円座に座った子が、ひとり、またひとり、ふるい落とされていく。火が、出ない子。出た火が、怯えて掻き消える子。色が、保てずに濁る子。鏡の水面が曇るたび、役人の板に、印がついた。


あの神籍の娘の番が、来た。


娘は円座に座る前に、衣の袖をきっちりと折った。それから、座って、背を伸ばし、目を閉じた。息を、ひとつ。


火が、灯った。


紫だった。


濁りのない、見事な、一色の紫。神籍の頂の色が、娘の手のひらの上で、燭のように、静かに立っていた。揺れなかった。鏡が覗いても、風が渡っても、その紫は糸ほども、ほかの色を見せなかった。


庭が、静まった。斎主が、座から身を乗り出した。


「見事」


その一言に、娘は頭を下げた。下げた顔は、見えなかった。けれど、上げたとき、娘の目は誇らしさに、光ってはいなかった。確かめていた。足りたか、足りなかったか。褒められて、なお、数えている目だった。


鈴の番は、その三人あとだった。


円座に座り、息を深くする。井戸の底。暗く、静かに。お前は何色だ、と火に言ってやる。鈍色。郷の色。


火は鈍色に、灯った。


小さく、鈍く、なんの見栄えもしない色。役人の板に、可、とだけ印がついた。誰も、身を乗り出さなかった。鈴は頭を下げて、円座を降りた。降りながら、手のひらの内で、火がもっと出たがって、押し返してくるのを感じていた。見られている。庭じゅうに。見られたいように、燃えたがっている。それを夜ごとの稽古が、ぎりぎりで、抑えていた。


列へ戻る途中、あの娘とすれ違った。


「……退屈な色」


娘がすれ違いざま、誰にともなく言った。鈴にだけ、聞こえる声で。


足を、止めなかった。止めたら、認めることになる。けれど、背中に娘の視線が、しばらく、貼りついていた。数える目だ。鈴の鈍色の、どこかがあの娘の帳尻に、合わなかったのだ。



稽古は夜ごとに、続いた。


縹は危ない橋を、渡っていた。


鏡守が、禍に鏡を欺くすべを教える。それが知れれば、ただでは済まない。神籍の情けは、二重の禁忌だと、鈴も知っていた。発覚すれば、二人とも、名死(めいし)。名と魂火を焼かれ、存在ごと消される。それでも、縹は、毎夜、籠り堂の戸を、内から閉めた。


言葉は、少なかった。


稽古の終い方には、決まりが、できていた。


縹が、燭の灯を、指で摘んで消す。闇になる。闇の中で、二人は、しばらく、動かない。目が闇に慣れるまで、戸を開けては、いけないからだ。開けた瞬間の目の灯りは、遠くからでも、見える。だからその数十息のあいだ、狭い堂の中には、香の匂いと、互いの呼吸の音だけが、ある。


初めの頃、鈴は、その闇が、苦手だった。気配の読めない相手と、闇にいるのは、狩りの理屈に、反している。いつからか、苦手では、なくなった。縹の呼吸は、いつも、深く、規則正しい。その音を数えているうちに、鈴の呼吸が、勝手に、それに揃う。揃ってしまってから、気づく。狩りでは、ありえないことだった。獣と呼吸を揃える狩人は、いない。


戸を開けるとき、縹は、いつも先に、闇へ出た。確かめてから、振り向く。その振り向きの形だけが、燭の灯の下では、決して見せない、無防備な形をしていた。


昼の斎庭では、二人は、ただの鏡守と、ただの候補者だった。縹は、鈴を、名でなく「禍」と呼び、鈴は、縹を見もしなかった。式神の目の前で、視線を交わすことすら、危うい。だから、二人は目だけで、話すようになった。


関門のあいだ、危ない足場の手前で、縹の視線が、ほんのわずか、横へ動く。そっちは沈む、という合図。鈴は、足を変える。役人が近づくと、縹の指が袖の中で、かすかに、二度、鳴る。火を、握れ、という合図。鈴は、息を深くする。鈍色を、思う。


一度、庭で、耳獏(みみばく)の台座の前を通ったとき、縹が半歩だけ歩を緩めた。それだけで、鈴は口の中の問いを、呑み込んだ。あとで籠り堂で、縹は言った。「呑むのが、半呼吸、遅い」。褒められたのか、叱られたのか、分からなかった。たぶん、両方だった。この男の言葉は、いつも半分が手当てで、半分が調練だった。


一度、鏡守の(おさ)が、鈴の火を、じかに(あらた)めようとしたことがあった。聖鏡を、鈴の胸へ向けて。あのとき、縹は長の前へ、すっと進み出て、「この者は、私が読みました。(なま)の火、深度浅し」と、平らな声で告げた。長は、引き下がった。縹の素性を、疑う者はいなかった。白き読み手の直弟子だ、と誰かが囁くのを、鈴はその日、初めて聞いた。


直弟子。あの、白い、燃え殻のような人の。鈴は、縹が白き読み手の前で見せた、弟子のような背の張りを、思い出した。あたたかい手と、冷たい目を持つこの人は、あの、声を持たぬ白い人の、いちばん近くで育った。そう思うと、握られた手の温度が、急に分からなくなった。


誰も、気づかなかった。式神も、鏡も、二人のあいだに流れるものを、読めなかった。読む技術の只中に、読まれない言葉が、生まれていた。


それは、奇妙な親しさだった。声に出せば、二人とも名を焼かれる。だから、二人は声にしないことだけで、繋がった。鈴はいつのまにか、斎庭のどこにいても、縹の居場所が、分かるようになっていた。背中を向けていても、分かる。狩りで獣の気配を読むのと、同じだった。ただ獣を読むときの、あの冷たい構えと、違っていた。縹の気配を探すとき、鈴の胸は、いつも、少し、あたたかかった。


その温かさが、何なのか、鈴は考えないようにしていた。考えれば、認めることになる。認めれば、危うくなる。発覚は、名死。それでも、籠り堂の戸が閉まる時刻が、鈴は一日のうちで、いちばん、待ち遠しかった。


ある夜、鈴は稽古の手を止めて、言った。


「あんた、改め所(あらためじょ)で、これを、やったね」


縹の指が、止まった。


「あたしの火が、止まらずに回ったとき。あんたが鏡のほうへ、身を傾けた。そしたら、火が嘘みたいに、藍に沈んだ。——あれ、読んだんじゃない。握ったんだ。外から。あたしの火を」


縹はしばらく、答えなかった。


燭の灯が二人の影を、壁に長く伸ばしていた。


「……そうだ」やがて、彼は低く言った。「あのまま読み上げれば、お前はその場で、連れていかれた。だから、握った。お前の火を、ひとつの色に、見せかけて。——浅い、生の火だと」


「なぜ」


「同じことを、何度も訊くな」


「あんたが、同じ答えを、くれないからだ」


縹が、鈴を、見た。


何の色もない目の、その奥を、鈴は覗き込もうとした。鏡の奥に、誰がいるのか。あの夜から、ずっと分からなかった、その奥を。


縹は、目を逸らさなかった。逸らさずに、ただ、静かに言った。


「お前を、見たからだ。あの鏡の前で。——お前の火は、誰の手にも、収まらない色をしていた。私はそれを、消したくなかった」


それはずっと待っていた答えに、いちばん、近かった。鈴の胸の奥で、何かがほどけかけた。


その、ほどけかけた瞬間に、


縹の目の奥が、すっと冷えた。



「だが、握れるようにはなれ」


声が、変わっていた。


ほんの、わずかに。けれど、確かに。今までの、行動で語る縹ではなかった。火を品定めする、別の声。


「お前の火は、まだ、生だ。脆い。このままでは、強い(しば)りに、耐えられない。もっと、深く握れ。痛みに、慣れろ。耐える火に、育てろ。それができて、初めて、お前は、使いものになる」


使いものに。


鈴はその言葉に、引っかかった。狩りで、不自然に踏み荒らされた地面を見つけたときと、同じ。そこに、罠がある。


育てろ、と縹は言った。耐える火に。痛みに慣れろ、と。それは鈴を案じる言葉の、形をしていた。けれど、温度がなかった。火を案じる声ではなく、火を鍛える声だった。鍛冶(かじ)が、刃を打つときの声。何かに使うために、鈴の火をより硬く、より強く、仕立てようとする声。


鈴の火を、と鈴は思った。鈴ではなく、鈴の火を。


「使いものって」鈴は、訊いた。「何の」


縹の目が、(またた)いた。


たった一度。けれど、鈴は、見た。彼が、今、何かを言い過ぎた、と気づいた、その瞬間を。


「……生き延びるのに、だ」縹は、すぐにいつもの声へ、戻した。手を伸ばし、鈴の手のひらの火を、そっと覆うように消す。その手は、あたたかかった。さっきの、冷えた声と、同じ人のものとは、思えないほど。「夜が、更けた。戻れ。明日も、関門がある」


鈴は火を消された手を、握った。


あたたかい手だった。けれど、その手の持ち主は、たった今、一瞬、鈴を、火を品物のように、見た。育てろ、と言った。使いものに、と言った。誰の、何のために。


分からない。


分からないのに、鈴はこの人から、離れたくないと、思っている自分に、気づいていた。


それがいちばん、怖かった。


次の夜、鈴は試した。


稽古の合間に、何気なく、訊いたのだ。(より)を越えたら、あたしはどうなるの、と。縹の答えは、滑らかだった。上の段へ召される。良い衣を着て、良い飯を食う。すこしも、つかえなかった。つかえなさが、昨夜の「使いものになる」と、同じ手触りをしていた。用意してあった答え。何度も誰かに、言ってきた答え。


鈴はそれ以上、訊かなかった。狩りでは、罠の在処(ありか)が分かったら、罠を踏まない。踏まずに、覚えておく。この人の言葉のどこに、罠が埋まっているか。それを覚えながら、それでもこの人の手の温度を、覚えてしまう。両方を同じ夜に、覚えてしまう。それができてしまうことが、鈴は自分で、不思議だった。



部屋に戻って、鈴は寝台に、横になった。


天井の白さを、見つめる。


握るすべを、覚えた。火をひとつの色に、見せかけるすべ。これで、(より)を、生き延びられるかもしれない。下へ、帰れるかもしれない。鈍色を装って。読まれずに。それは、鈴が、ずっとやってきたことだ。土の色になる。目立たない。生き延びる。意識して、望んできた、ただひとつのこと。


それなのに。


籠り堂で、縹に「お前は何色だ」と問われたとき。火が初めて、鈴の言うことを聞いて、鈍色に止まったとき。鈴の胸の奥は、生き延びられる、と喜ぶより先に、別のことを、思っていた。


——あたしは、ほんとうは、何色なんだろう。


鈍色でも、なかった。どの色でも、なかった。あらゆる色を、移ろう火。隠せ、消せ、と言われてきた火。けれど、籠り堂の闇で、縹がそれを「美しい」と言った、あの一瞬。鈴は生まれて初めて、その火を消したくない、と思った。


読まれずに、生きてきた。読まれることは、死だった。


それなのに、たった一人、あの人にだけは。


自分が何色なのかを、見てほしい、と思っている。


意識して望んできたこと(読まれずに、生き延びる)と、胸の奥が望みはじめたこと(あの人に、自分を、見てほしい)が、鈴の中で初めて、正面から、ぶつかった。


握るすべを覚えた夜に、鈴は握りたくないものが、自分の中にあることを、知った。


読まれることは、死だ。それは、変わらない。鏡に覗かれれば、禍と烙印され、連れていかれる。番号の冷光(れいこう)を、首に灯される。けれど、縹に見られることは、それと同じ「見られる」のはずなのに、まるで違った。鏡は、鈴を、色に分類する。鈴をひとつの言葉に、押し込める。縹だけは、鈴の、収まらない色を、収まらないまま、見ていた。分類せずに。押し込めずに。


読まれるのと、見られるのは、違う。鈴はその違いを、まだ言葉にできなかった。けれど、体の奥が、もう知っていた。十六年、読まれまいとして生きてきた女が、生まれて初めて、たった一人に、ほんとうに、見られたいと、願っている。


それがどれほど危ういことか、鈴は知っていた。知っていて、止められなかった。


昼の関門の、あの娘の紫を、ふと思い出した。


濁りのない、見事な一色。庭じゅうが見惚れた色。けれど、あの紫を思い返すと、鈴はなぜか、息が詰まった。きれいすぎたのだ。風が渡っても、糸ほども揺れない火。あれは灯っているというより、立たされている色だった。あの娘も、握っているのかもしれない。鈴が夜ごと籠り堂で覚えていることを、あの娘は生まれてからずっと、誰に教わるでもなく、やり続けているのかもしれない。


退屈な色、と娘は言った。鈴の鈍色へ。


あれは当てこすりではなく、見抜いた者の言葉だった気が、いまさら、してきた。退屈な色を、わざわざ選んで着ている者を、完璧な色を着続けるしかない者が、見れば、分かるのだ。


考えすぎだ。鈴は、寝返りを打った。あの娘のことまで、袋に入れる余裕はない。


大灯(おおび)(うな)りが、今夜も止まなかった。縹の、冷えた目の奥を、鈴は、まだ思い出していた。あたたかい手と、冷たい目。どちらがほんとうの、あの人なのか。


鈴には、まだ、読めなかった。

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