第4話 選(えらび)の庭
斎庭の朝は、鐘で始まった。
低い、長い音だった。鈴は、宛われた部屋の窓から、その音の出どころを探した。大灯の足もとに、白い段が幾重にも積まれていて、いちばん下の広い庭に、人が集められていく。選の、候補者たちだ。
鈴も、白い衣を着せられていた。
下から運ばれてきたときの、血と土の匂いのする野良着は、もうない。代わりに洗い晒したような、薄い生成の衣。神籍の紫でも縹でもない。けれど、灰郷の鈍色でも、ない。どの色にも属さない、宙ぶらりんの白だった。禍の色は、ないのだ。だから、何も着せられないのと、同じ色を着せられる。
庭に降りると、縹が、もう傍にいた。
「遅い」
「鐘で起きた。ここには鐘でしか、時がない」
「下では、何で時を計っていた」
「腹の減りぐあい」
縹はわずかに、口の端を動かした。笑ったのか、どうか。すぐに、それは消えた。
この男は、毎朝、鈴の部屋の前に、立っている。毎晩、鈴が眠るまで、どこかから、見ている。担当の鏡守というのは、そういう役目らしかった。きれいな檻に、見張りが、ついている。けれど、その見張りは、ときどき、鈴に毒の足場を、目で教える。なぜ、見張りが囚人を、生かそうとするのか。この都の、いちばん分からないことの一つが、すぐ隣に立っていた。
◆
庭の中央に、白い布をかぶった卓があり、その前に、年老いた斎主が立っていた。白き読み手ではない。もっと下の位の、けれど、灰郷のどんな役人より、ずっと位の高い人。その人が、選の理を、読み上げた。
候補者は鈴を入れて、二十人ほどだった。
神籍の子も、官の子もいた。下から運ばれてきた、鈴のような顔も、混じっている。漁師の子。畑の子。みな、白い生成の衣を着せられて、どの色にも属さない者に、揃えられていた。けれど、立ち姿は隠せなかった。神籍の子は、背がまっすぐだった。生まれてから一度も、頭を低くしたことのない背だ。下の子らは、みな、肩をすぼめ、目を伏せていた。鈴と、同じだった。見られないように、生きてきた者の、背の丸めかた。
その丸めた背の上を、紙の鳥が群れて渡っていく。
「儀礼の暦が、一巡りする」
声は、淡々としていた。
「そのあいだに、斎庭の課す関門を、越えよ。越えた者は、上の栄誉へ召される。越えられぬ者は——下がる」
下がる。落ちる、とは言わなかった。第三話で縹も言わなかった、あの言いかえ。鈴は、それを聞き逃さなかった。下がった者が、どこへ行くのか。ここでは、誰も言葉にしない。言葉にしないものほど、いちばん、おそろしい。
「暦は、待たぬ」斎主は、大灯を仰いだ。「大灯の火が、衰える前に、選を了えねばならぬ。遅れは、許されぬ」
斎主の脇に、銅の盤が立てられていた。
人の背丈ほどの、円い盤。縁に沿って、小さな灯が、ぐるりと並んでいる。数えると、三十あまり。そのうちの端の二つが、もう、消えていた。儀礼の暦盤だという。大灯の火と、結ばれているらしい。火が一夜ぶん衰えるごとに、灯がひとつ消える。すべて消える前に、選は終わらねばならない。
つまり、あれは砂時計だ。砂の代わりに、灯が落ちていく。
候補者たちは、めいめいに、その盤を見上げた。目を輝かせた子も、青ざめた子も、見上げる顔だけは、同じだった。これから毎朝、ここの全員が、まずあの盤を見るようになる。鈴には、それが分かった。残りの灯の数で、その日の自分の値打ちを量るようになる。量らされて、急かされて、磨り減っていく。下の急かされる仕事と、同じ仕組みだった。ただ、ここの棒は、目に見えないだけだ。
鈴はその言葉に、引っかかった。
衰える。八洲を守るあの白い火が、衰える。子どもの頃から、あれは永遠の火だと聞かされてきた。永遠の火に、暦の急かしが要るのか。なぜ、こんなに急いでいるのか。
候補者の何人かは、暦の話に目を輝かせた。栄誉へ召される、という言葉のほうを、信じたいのだ。早く越えれば、早く、上の暮らしが手に入る、と。けれど、鈴は急かされる儀式を、信じたことがなかった。下では急かされる仕事に、ろくなものはなかった。早くしろ、と棒で追われる仕事は、決まって、誰かが死ぬ仕事だった。この暦の急かしも、同じ匂いがした。
問いは、胸にしまった。問うても、答えはない。この都では、答えは、いつも布の下にある。
「第一の関門」斎主が告げた。「験の野を、渡れ」
庭の北の門が、開いた。
門の向こうは、白い都に似合わなかった。
灰色の、荒れた野。土のところどころに、油を流したような薄い虹が、にじんでいる。
鈴は、息を呑んだ。
枯れだ。
枯れ野と、同じ匂いがした。錆びた水。崩れた花。立入禁止の、あの侵食地。それが斎庭の中に、囲い込まれている。験のために、わざわざ、毒の土を飼っている。
「向こう岸の、白い石を、ひとつ持って戻れ」斎主が言った。「枯れに触れた足は、腐る。触れた肺は、灼ける。心せよ」
候補者たちが、ざわめいた。神籍の子も、官の子も、いた。みな、枯れた野など、見たことのない顔だった。立入禁止の地に、生まれて初めて、足を踏み入れる顔。
鈴は、違った。
毎朝、そこで罠を見回っていた。立入禁止の、毒の土。誰もが死ぬと言って近寄らない場所が、鈴にとっては、台所だった。皮肉なものだ、と思った。この都が、最下層の郷に押しつけた毒の土が、鈴に、生き延びる術を、仕込んだ。いまその術が、ここでものを言おうとしている。鈍色の郷で覚えたことが、白い都の関門を、越えさせる。
すぐ横で神籍の子が、青ざめて、足を震わせていた。
斎庭の門の前で輿から降りた、あの背のまっすぐな娘だった。白い候補者の衣を着ても、立ち姿だけは、隠れない。その娘がいま、生まれて初めて見る毒の土の前で、指の先まで白くして、立っている。
視線に気づいたのか、娘がこちらを向いた。
「……何を見ている」
声は、低く、硬かった。震えを、声で塗り潰そうとしている、硬さだった。
「土」鈴は、正直に答えた。「あんたじゃない」
娘の眉が、わずかに動いた。何か言いかけて、やめて、前へ向き直る。その横顔が、息を一つ、深く吸った。吸って、止めて、吐く。誰かに教わった、震えの殺しかただった。郷の子なら、体で覚える。この娘は、頭で覚えたのだ。
その子は毒の土を、知らない。生まれて初めて、見る。鈴は、知っている。どちらが、生き延びるか。色で決まっているはずの優劣が、この門の向こうでは、ひっくり返る。
◆
門の内で候補者たちは、ばらばらに、散った。
誰も、組まなかった。組めば、片方が、もう片方の沈むのを、待つことになる。それを、みな、本能で分かっていた。この選は最初から、そういうふうに、組んである。二十人をひとつの野に放ち、二十人のままでは、帰さない。競わせるのではない。ただ、数を減らす。減りかたは、各自に任せる。仕組みの、いちばん安上がりな形だった。
門をくぐると、まず、足の置き場を見た。
油の虹がにじむ場所を避ける。そこが、枯れのいちばん濃いところだ。草の銀色に錆びた具合で、毒の深さが読める。葉先だけ錆びた草は、まだ浅い。根元まで白いのは、深い。鈴は浅いところだけを、縫うように歩いた。息を、浅くする。長くいると舌の付け根がしびれる、あの感じが、すぐに来た。
ほかの候補者は、まっすぐ進もうとして、すぐにつまずいた。
油の虹を踏んだ子が、悲鳴をあげた。革の沓ごしに、毒が上ってくる。膝をついた子の手のひらが、触れた土の色に、染まりはじめる。神籍の白い手が、灰へ。
鈴は、足を止めなかった。止めれば、自分も沈む。
下では、いつもそうしてきた。罠にかかった獣を見ても、毒の沼にはまった鳥を見ても、助けない。世界は、腰の袋に入るぶんだけ。それが生き延びる、ということだ。
うしろで悲鳴が、いくつも上がっていた。毒に、足を取られた子らの声。けれど、鈴は振り向かなかった。狩りでは音に振り向いた者から、罠にかかる。前だけを見て、浅いところを読み、一歩ずつ、運ぶ。背中で誰かが沈んでいく気配を、感じながら。それを、感じないようにしながら。
ふと、すぐ後ろに、足音がついてきているのに気づいた。
あの、神籍の娘だった。鈴の踏んだ跡を、二歩遅れで、正確になぞっている。震えは、もう、声にも足にも出ていなかった。代わりに、唇がかすかに動いていた。数えている。鈴の歩幅を、足の置き場を、ひとつずつ。誇りで死ぬより、観察で生きるほうを選んだ目だった。
利口だ、と鈴は思った。腹は立たなかった。狩りでは賢い獣ほど、人の道を使う。
灰郷の十六年が、鈴に教えたのは、結局、これだった。聞こえないふりが、いちばん、上手くなること。
向こう岸が、近づいた。白い石が、いくつも転がっている。ひとつ拾えば、終わりだ。戻れば、第一の関門を、越えたことになる。手を伸ばした。
うしろで子どもの、細い声がした。
「……っ、あ……」
振り向いてはいけない。鈴は、自分に言った。振り向くな。拾え。戻れ。
振り向いた。
鈴より、いくつか年下の子が、油の虹のまんなかで、動けなくなっていた。両足が深い枯れに、捕らわれている。抜こうとして、もがくほど、沈む。沼と、同じだ。藻掻けば、深みへ引かれる。その子の顔が、恐怖で白かった。番号の冷光ではない。まだ、名のある子の、生きた恐怖。
鈴の体が、勝手に動いた。
第二話で戸口へ走ったときと、同じだった。慎重さが、どこかへ飛ぶ。残るのは、ただ一つ。目の前の、その一人。
「動くな!」
鈴は、戻った。浅いところを伝って、その子の手前まで。沈んだ足は、引いても抜けない。鈴は衣の帯を解いて、片端をその子へ投げた。
「藻掻くな。力を、抜け。——あたしが引いたら、足を横にずらせ。まっすぐ上げるな。横だ」
枯れの沼から足を抜く理屈を、鈴は体で知っていた。誰に習ったでもない。燼と、枯れ野で何度も、はまって、覚えた。
帯が、ぴんと張った。子どもが、横へずるりと足を抜いた。
抜けた。
二人で浅いところまで、転がるように戻る。子どもは、泣いていた。鈴の腕を痩せた指で、握って離さない。蕗が、怖いときに、両手で息を吹いたのを、鈴は思い出した。
顔を上げると、門のほうから、縹がこちらを見ていた。
遠かった。表情までは、読めない。ただ、彼は動いていなかった。助けに入るでも、止めるでもなく、ただ立って、見ていた。両の袖の中で、手が何かを、堪えるように、握られているのだけが、分かった。あの立ちかたの意味を、鈴が知るのは、ずっとあとのことだ。
時を、使いすぎた。
向こう岸の白い石へ、もう一度、行って、戻る。
戻りの道の半ば、岩の陰で、足が勝手に止まった。
白い、小さな花穂。枯れにやられて半分銀色に錆びてはいたが、間違いない。小夜の熱に効く、あの草だ。こんな空の上の毒の庭に、同じ草が生えている。指が考えるより先に、摘んでいた。三本。乾かせば、五日ぶん。
摘んでから、気づいた。
煎じる鍋も、飲ませる相手も、ここには、ない。
それでも、捨てられなかった。鈴は花穂を、衣の内に押し込んだ。胸のところが、少しだけ、嵩張った。その嵩のぶんだけ、歩くたびに、灰郷が胸に当たった。
最後にくぐった候補者の、すぐうしろ。鈴はぎりぎりで、門をくぐった。
くぐった先に、縹が立っていた。
◆
「なぜ、戻った」
縹の声は、低かった。咎めているのか、確かめているのか、読めない。
「足が、抜けなくなってた」鈴は、息を整えながら言った。「放っておけば、沈んだ」
「お前が沈むところだった」
「沈まなかった」
「次は、沈むかもしれん」縹は、鈴の、毒で赤く腫れた足首を、見ていた。「ここでは、誰も誰かのために戻らない。戻る者は、まず、落ちる」
「下では」鈴は言った。「戻らない者から、先に、人でなくなる」
縹が、口をつぐんだ。
何かを言いかけて、やめた、という間だった。彼の、何の色もない目の奥で、ほんの一瞬、何かが動いた気がした。けれど、鈴がそれを見極める前に、彼は視線を逸らし、いつもの、平らな声に戻った。
「火が、出かけていた」縹は、声を落とした。式神が、近くを飛んでいる。「あの子を引いたとき。手のひらが、光った。見られていれば、終わりだった」
鈴は、自分の手のひらを見た。帯を握った跡が、赤い。その下で、まだかすかに、熱い。
見られていると思うと、見られたいように燃える。ばあさまの言葉が、また、よみがえった。誰かを助けようとした、その瞬間に、火はいちばん、出たがる。鈴の、いちばん隠したいものが、鈴の、いちばん人間らしい瞬間に、漏れる。
縹はそれから、黙って、膝をついた。
袖から、小さな貝の容れ物を出して、蓋を開ける。軟膏の、薄荷に似た匂いがした。鈴の、毒に腫れた足首に、彼はそれを、塗った。手つきに、ためらいがなかった。慣れている手つきでも、なかった。ただ塗るべきものを、塗るべき場所に、塗る。それだけの手つきだった。誰かの手当てを、することに、理由を求めていない手。
鈴は足首を、引っ込めそこねた。下では手当ては、貸し借りだった。借りたぶんは、返す。返せないなら、借りない。この男の手当ては、どちらでもなかった。だから、受け取りかたが、分からなかった。
「……握る、すべを」縹は、塗り終えてから、言った。「教える。火をひとつの色に、握りつぶすすべを」
「なぜ」
「お前に、まだ、落ちてほしくないからだ」
それは答えに、なっていなかった。落ちてほしくない、の主語が鈴のためなのか、別の何かのためなのか。鈴には、分からなかった。
縹はそれ以上、何も言わなかった。鈴の腫れた足首を、もう一度だけ見て、背を向けた。去りぎわ、彼の足が験の野の門のほうを、ちらりと向いた。下がった候補者が運ばれていった、あの門。縹の横顔に、一瞬、影が差した。憐れみ、とは違った。もっと、入り組んだ何か。自分もその仕組みの中にいる、と知っている者の、顔だった。
鈴はその横顔を、覚えておくことにした。いつか、意味が分かる日が、来る気がした。
夕刻、候補者は、また庭に集められた。
数を、数えられた。役人が木の板を手に、立っている者の頭を、ひとつずつ。名は、呼ばれなかった。二十人ほどだった列が、十七になっていた。減った三人ぶんの空きは、詰めるように言われた。列が詰まると、減ったことが、見えなくなった。それが詰めさせる理由なのだと、鈴は気づいた。
列の端に験の野で足を抜いた、あの子がいた。
毒に触れた足を、白い布で巻かれて、それでも立っていた。鈴と目が合うと、その子は何か言いたそうに、口を開きかけた。鈴は小さく、首を振った。ここで口をきけば、互いに目立つ。子は、口を閉じた。閉じて、その代わりのように、布の巻かれた足で、半歩だけ、まっすぐ立ち直った。
それで、充分だった。
あの神籍の娘も、列にいた。誰より、背がまっすぐだった。数えられているあいだ、娘は正面の宙だけを見ていた。数えられ慣れている、と鈴は思った。生まれてからずっと、何かに数えられて、それに、勝ち続けてきた立ちかただった。
その夜、宛われた部屋の窓から、鈴は験の野のほうを見た。
暗い庭に白い火の灯が、いくつか、点っては消えた。下がった候補者を、どこかへ運ぶ、棒の灯だろうか。今日、何人が下がったのか。あの、足を抜いた子は、無事だろうか。名を、聞かなかった。聞けば、世界が、またひとり分、重くなる。
けれど、もう、重くなっていた。
験の野で引き上げた、あの軽い手応え。それを、ただ見ていられなかった自分。縹の、読めない横顔。下がった候補者を運ぶ、夜の灯。ひとつ、またひとつ、鈴の世界に、勝手に入り込んでくる。腰の袋はとうに、いっぱいだった。それでも、入ってくる。締め出そうとするほど、火が出たがった。鈴の、いちばん人間らしいところが、鈴をいちばん、危うくする。
それでも、鈴はその子の、痩せた指の感触を、手首に覚えていた。
聞こえないふりが、いちばん上手いはずだった。前だけを見て、浅いところを読んで、生き延びるはずだった。それなのに、あの細い声を、一度だけ、聞いてしまった。聞いてしまったら、もう聞こえないふりが、できなかった。体が勝手に、戻った。戻る者はまず落ちる、と縹は言った。それでも、戻ってしまった。
なぜ、と鈴は自分に問うた。答えは、出なかった。ただあの子の足が抜けた瞬間の、軽さだけが、手に残っていた。一人を毒から引き上げた、その軽さ。腰の袋には、決して入らない重さなのに、引き上げた手は、なぜか、軽かった。
腰の袋に入るぶんだけ、と思ってきた世界が、今日、少しだけ、はみ出した。はみ出したぶんだけ、鈴は危うくなった。火が、出かけた。
握るすべを、覚えなければ。
明日もここで、生き延びるために。下へ、帰るために。
鈴は赤く腫れた足首を、井戸水で冷やした水布で、そっと包んだ。
それから、衣の内から、昼の花穂を取り出した。三本。少し、潰れていた。窓の桟の、式神から見えない側に、並べて干す。乾かしたところで、届ける手はない。分かっていた。分かっていて、並べる手は、止まらなかった。灰郷の土間で、何百回もした手つきだった。手だけが、まだ、帰る支度をしている。
干し終えて、鈴は自分の手のひらを見た。
世界は、腰の袋に入るぶんだけ。そのはずだった。けれど袋の外から、今日もいろんなものが、勝手に入ってきた。足を抜いた子の指。歩幅を数える娘の唇。暦盤の、消えた二つの灯。胸に当たる、灰郷の嵩。
大灯の唸りが、夜じゅう、止まなかった。衰える、と斎主は言った。あの、永遠のはずの火が。
なぜ、と胸の奥が、また問うた。布の下の答えは、まだ、遠かった。




