第3話 空の檻
索の駅に着いたのは、日の落ちる頃だった。守人に挟まれて、駅の小屋の隅で、一夜を明かした。眠れたかどうかも分からないうちに、朝が来た。
聖山の中腹に、石の台が組まれ、人の背丈の何倍もある鉄の柱から、太い索が、空へ斜めに消えている。索の先は、雲の中だった。雲の向こうに、白い明るみが、にじんでいる。あれが、行き先だった。
籠は思っていたより、大きかった。竹と鉄を編んだ、小屋ほどの箱。床に荷と一緒に、座らされた。守人がふたり、入り口を塞ぐ。誰も、ものを言わなかった。
鉄が、軋んだ。
床が揺れて、それから、ふっと軽くなった。
地面が、離れていく。鈴は籠の編み目から、それを見た。石の台が、駅が、山肌が、ゆっくりと下へ落ちていく。違う。落ちているのは、向こうではない。自分が、引き上げられている。生まれてから十六年、鈴の足は、いつも土の上にあった。枯れ野の毒の土でも、灰郷の埃の道でも、土は土だった。踏めば、応えた。その土が、いま手の届かないところへ、沈んでいく。
胃の腑が、浮いた。鈴は、編み目を握った。握った指が、白くなった。
これが連れていかれる、ということだった。縄も、檻も要らない。地面を、奪えばいい。足の下を空にすれば、人はどこへも、逃げられない。
雲に入ると、何も見えなくなった。白い湿りが、籠を包んで、世界の音が、消えた。土の匂いも、潮の匂いも、しなかった。匂いのない場所を、鈴は生まれて初めて、通った。
籠が雲を抜けると、いきなり、白かった。
鈴は、編んだ籠の縁を握ったまま、目を細めた。下から見上げていたときは、ただの白い火柱だった。近づくと、それは都だった。
灯都。
白い石でできた塔が、空に何本も立っている。石英を削ったような、内側から光る石だ。塔と塔のあいだに、細い橋が幾筋も渡されている。橋は、石ではなかった。光そのものを、布のように張ったような、薄く透ける道。その上を、人が歩いていた。落ちもせずに。
灰郷の鈍色の屋根が、嘘みたいだった。ここには、鈍色がない。
籠が停まった台には、花が咲いていた。鈴の知らない、白と銀の花。香が、むせるほど甘い。枯れ野の錆びた匂いも、灰郷の埃の匂いも、ここにはない。鈴は、自分の体から立つ血と土の匂いが、急に恥ずかしくなった。場違いだ。獲物のはらわたを抜く手で、この花に触れてはいけない気がした。
「降りろ」
守人に促されて、台へ降りる。足が、すくんだ。
台の縁の、すぐ向こうが、空だった。
手すりはある。けれど、その下に地面がない。雲が、足の下を流れている。鈴は生まれてから一度も、地面のない場所に立ったことがなかった。狩りの癖で、目が逃げ場を探す。戸口、窓、人の隙間。けれど、ここには逃げ場がない。逃げれば、落ちる。空へ吊り上げるというのは、こういうことか。下から引き剥がして、足の下を丸ごと奪う。
それでも、鈴は思った。下へ帰る道を、覚えておかなければ。
小夜のところへ、帰るために。
台のまわりには、鈴のほかにも、何人か、降ろされた子がいた。みな、鈴と同じ、下から運ばれてきた顔だ。野良着の子。漁師の子。荒れた手をした、痩せた子ら。誰も、口をきかなかった。みな、足の下の空を見て、青ざめていた。この子らも、改め所で、決まった色を読まれなかったのだろうか。それとも別の理由で、ここへ。聞きたかったが、舌が動かなかった。隣の子と話すことすら、ここでは、許されている気がしなかった。
頭上を紙の鳥が、何十枚も群れて渡っていく。式神だ。灰郷では一枚来るだけで、井戸端の声がやんだ。ここでは、空がそれで埋まっていた。見られない場所など、この都には、ひとつもない。
◆
橋を渡らされた。
光の道は足の裏に、わずかにあたたかかった。下を見ないように、前だけを見て歩く。すれ違う人々の衣が、目を射た。紫。縹。銀。改め所で、若い鏡守が着ていた、あの上の色。それをここでは、誰もが当たり前にまとっている。
橋の途中で、神籍の子らとすれ違った。
鈴と同じ年頃の子が三人、銀の細工を髪に挿して、笑いながら歩いてくる。一人が手の中で、硝子の玉を転がしていた。中で、火を象った細工が、ゆらゆらと色を変える。魂火を模した玩具らしかった。飽きたのか、その子は橋の手すりから、ひょいと玉を落とした。
三人が手すりに身を乗り出して、落ちていく玉を見送った。玉は雲の下へ、いつまでも落ちていった。下には、灰色の都がある。その下には、地上の郷々がある。誰かの屋根に、いつか、あの玉は当たるだろう。三人はそれを見届ける前に、もう別の話をして、歩き去った。
下は、ものを捨てる場所。この都の子は、そう習って育つらしかった。
その人々のあいだを、別の者たちが、音もなく動いていた。
衣は、灰だった。鈍色ですらない、洗い晒した灰の色。盆を運び、花の水を替え、塵を払う。誰も、その者たちを見ない。いるのに、いないように扱われている。
一人が、鈴の前を横切った。
首に、薄い札。札のまんなかで、数字が青白く光っていた。
蕗の首にあったのと、同じ灯。
無名だ。焼かれるのを待つあいだ、ここで使われている。番号のまま、声もなく。この白い都の美しさは、足の下に地面がないのと同じだった。下で誰かが、灯を奪われて支えている。見上げれば宝石のようで、足もとを見れば、灰がいる。
鈴はその灰色の背中から、目を逸らせなかった。逸らしたら、また、昨日の自分になる気がした。
「こちらだ」
声に、振り向いた。
◆
縹が、立っていた。
改め所で、鈴の腕をつかんだ若い鏡守。間違いない。澄んだ縹の袖。何の色もない目。昼の光の下で見ると、思っていたより、ずっと若かった。鈴と、一つか二つしか違わないだろう。けれど、背筋の伸びかたも、声の置きかたも、灰郷の少年たちとは、別の生きものだった。
「久遠縹」彼は、名乗った。「お前の、担当の鏡守だ。選のあいだ、私がお前を見る」
見る。
その言いかたに、鈴の背がこわばった。見られないように生きてきた。読まれないように。それがこれから、ずっと傍で見られる。
「……あんた」鈴は、抑えた声で言った。「改め所で、何をした」
縹は、表情を変えなかった。
「読みなおした」
「あたしを、ここへ寄越した。あの場で殺されるか、もっと悪いところへ送られるはずだったのを、あんたが」
「読みなおしただけだ」彼は、同じ調子で繰り返した。「お前の火は、生だった。それだけのことだ」
「選って、なに」鈴は訊いた。「あたしは、ここで、何をさせられる」
「斎庭で、試練を受ける」縹は、前を向いたまま答えた。「儀礼の暦が一巡りするあいだに、課された関門を越える。越えられた者が、選ばれる」
「選ばれたら」
「その先は、お前が知ることではない」
「落ちたら」
縹の歩みが、ほんの一拍、遅れた。
「落ちる、という言葉は」彼は、静かに言った。「ここでは、使わないほうがいい」
それきり、答えなかった。鈴はその沈黙の形を、覚えた。狩りで獣の通り道に、不自然に踏み荒らされた場所があると、そこに罠がある。いまの沈黙は、それと同じ手触りがした。落ちた者が、どうなるか。縹は、知っている。知っていて、言わない。
嘘だ、と鈴は思った。
なぜそう思うのか、分からない。彼の声には、揺らぎがない。言葉に、隙がない。それなのに、隙がなさすぎることが、嘘くさかった。狩りで罠を隠しすぎた跡は、かえって目につく。それと、同じだった。
縹は鈴の足もとへ、視線を落とした。
「血が、出ている」
見ると籠の縁を握りすぎて、爪が割れ、指先がにじんでいた。気づいていなかった。
縹は袖から、白い布をひとつ取り出した。それを、鈴の手に握らせる。触れたのは、ほんの一瞬。改め所で腕をつかんだ、あの指だった。
「斎庭で血を流すな。穢れとみなされる。お前は、ただでさえ目立つ」
それだけ言って、彼は背を向け、歩きだした。ついて来い、ということらしい。
歩きながら、縹は一度だけ、道の脇へすっと寄った。鈴の肩を袖で押すようにして、一緒に寄せる。何かと思えば、道の縁の白い台座に、獣の像が据えられていた。象牙色の、貘に似た、耳の大きい獣。置物だと思った。置物の耳が、ひくり、と動いた。
「耳獏だ」縹は、すれ違ってから、声を落として言った。「あれの耳の届くところで、ものを言うな。あれは、声を夢のように食って、覚えている。夜になると、聞いた声を、主のところへ運ぶ」
「……式神だけじゃ、ないんだ」
「目と、耳と、鏡。この都は、三つで編んである」縹は、前を向いたまま言った。「覚えておけ。黙ることは、ここでは罪にならない。口を開くことだけが、罪になる」
それは担当の鏡守の、職務の言葉だったのだろう。けれど、鈴には別のものにも聞こえた。生き延びる者が、生き延びる者へ、手渡す言葉。灰郷の、ばあさまの言葉と、同じ側の。
鈴は、握らされた布を見た。
優しさ、と呼ぶには、冷たすぎた。けれど、冷たさ、と呼ぶには、その布は白すぎた。手に余る何かだった。鈴は、それをどう受け取っていいか分からないまま、指に巻いた。布は花と同じ、甘い香がした。
斎庭の門の手前で、輿が一つ、停まっていた。
降りてきたのは、鈴と同じ年頃の娘だった。神籍の、紫がかった衣。供の者が二人、荷を抱えて続く。娘は門をくぐる前に、一度だけ、振り返った。橋のほうから歩いてくる、鈴たち——下から運ばれてきた、薄汚れた候補者の列を、見た。
値踏みする目でも、蔑む目でも、なかった。数える目だった。あれが幾つ、これが幾つ。狩りの前に、獲物と障りを数える、鈴のよく知っている目。それを、こんなきれいな衣の娘がしている、ということが、鈴にはいちばん奇妙だった。
娘の背は、まっすぐだった。生まれてから一度も、頭を低くしたことのない背。それなのに、その背は、どこか、張りつめてもいた。まっすぐであること自体が、務めであるかのように。
目が合う前に、娘は前へ向き直って、門の中へ消えた。
◆
斎庭の、表の庭に出たとき、人の流れが、止まった。
ざわめきが、引いていく。改め所で鈴の火が燃えたときと、同じ静けさ。けれど、もっと深い。誰もが足を止め、頭を垂れた。縹も、半歩、退いて、目を伏せた。
庭の、いちばん奥。
白い石の段の上に、人が、一人、立っていた。
衣が、白かった。紫でも縹でも、銀でもない。色という色を、洗い流してしまったあとの、白。その人のうしろで、大灯の光が、柱になって立ち上っている。光がその人から出ているのか、その人が光に立っているのか、見分けがつかなかった。
誰も、その人の名を呼ばなかった。
「白き読み手さま」と、傍らで誰かが囁いた。「斎主さまだ」。名ではなかった。役目の名だ。鈴はこの都へ来てから、その人が一度も、名で呼ばれるのを、聞かなかった。
その人は、動かなかった。
風が白い衣を撫でても、揺れたのは布だけだった。中の人は石のように、静かだった。瞬きすら、しないように見えた。怒鳴る支配者なら、鈴は何人も見てきた。守人の隊長も、改め所の役人も、声を張り上げて人を従える。この人は、声を持っていないようだった。持つ必要が、ないのだ。庭じゅうが、勝手に頭を垂れる。静けさだけで、すべてを統べている。
それだけではなかった。鈴は、何百という人のいる庭に立ちながら、その白い人ひとりだけが、生きていない、と感じた。息をしている者には、どこかに揺れがある。瞬き、指先、肩の上下。その人には、それがなかった。とうに燃え尽きたものが、燃え尽きた形のまま、そこに立っているようだった。きれいな庭の、いちばん高いところに、燃え殻が据えられている。
傍らの縹を、鈴は横目で見た。縹は、頭を垂れていた。けれど、ただ畏れて伏せているのとは、違った。背の張りつめかたが、師の前に出た弟子の、それに似ていた。畏れの底に、もっと深い何かが、絡んでいる。鈴にはそれが何か、まだ読めなかった。
段の下に斎主たちが並んで、何かを読み上げていた。儀礼の暦の、進みの報せらしかった。大灯の衰え。選の支度。読み上げる声は、伏せられていて、半分も聞き取れない。白い人は、ただ、聞いていた。頷きも、問い返しもしない。
読み上げが終わると、その人は片手を、わずかに上げた。
それだけだった。指の先まで、白い袖に包まれた手が、胸の高さまで、静かに上がって、止まる。途端に、庭の奥の大灯の唸りが、ひと呼吸ぶん、深くなった。火柱の根のあたりが、明るさを増す。庭じゅうの頭が、さらに低くなった。手ひとつで、あの永遠の火が、応える。声も言葉も、要らない。鈴は、ぞっとした。あれは、命じているのではない。あの人とあの火は、繋がっているのだ。どこかが、直接に。
その白い顔が、ゆっくりと、庭を渡った。
鈴を、見た。
遠かった。段の上と、庭の隅。目の色など、見えるはずもない距離だった。それなのに、鈴は見られた、と思った。改め所の聖鏡よりも、深く。鏡は、火の色を読んだ。この人は、火の、もっと奥を見た気がした。
それから、これが、いちばんおかしかったのだが。その白い顔を見た瞬間、鈴の胸の奥で、何かがぐらりと、揺れた。
知っている。
会ったことなど、あるはずがない。空の都の、いちばん高いところにいる人。灰郷の密猟者の鈴とは、地面と空ほど、隔たっている。それなのに、その静けさを、その白さを、鈴はどこかで、知っている気がした。鏡の中で止まらずに回った、あの火を見たときのような。自分の、いちばん奥を、覗いたときのような。
「見るな」
縹の声が、低く、鈴の耳もとで言った。
「頭を下げろ。——あの方と、目を合わせるな」
鈴は、頭を下げた。
下げる間際、白き読み手の口もとが、かすかに動いた気がした。何かを、言ったのか。言いかけて、やめたのか。遠すぎて、分からない。
頭を上げたとき、段の上は、もう空だった。
「……あの人は、いくつなの」
歩きだしてから、鈴は小声で、訊いた。縹は、すぐには答えなかった。
「知る者は、いない」やがて、言った。「私が生まれる前から、あの方はあの座におられた。父も、そう言った。父の父も、そうだったらしい。歳も出自も、誰も知らない。訊く者も、いない」
人より、長く。人の倍より、長く。あの白い段の上に、立ち続けている。鈴は、ぞっとした。さっき感じた、生きていない、という感じ。あれは、当たっていたのかもしれない。生きているものは、あんなに長くは、続かない。
庭が、息を吹き返した。
止まっていた人の流れが、ほどける。ざわめきが、少しずつ、戻る。誰もが、何事もなかったように歩きだしたが、その歩みは、さっきより、わずかに速かった。早く、あの段の前から離れたい、という速さだった。
段の上には、灰色の衣の無名がひとり上がって、白い人の立っていた石を、布で浄めていた。誰も、それを見ていなかった。鈴だけが、見ていた。立っていただけの石を、なぜ、浄めるのか。汚れたからではない。きっと、逆だ。あの白さが移った場所に、人は触れたくないのだ。
◆
夜の灯都は、昼より、なお明るかった。
塔という塔が、内側から白く灯り、橋の光が、闇に何本も浮かんでいる。地上の星座を、ひっくり返して空に置いたようだった。きれいだった。きれいだ、と思うたびに、鈴は足の下の灰色の背中を、思い出した。
宛われた部屋は、狭くなかった。寝台には、白い布。窓は大きく、灯都の夜が、宝石箱のように見える。けれど、戸の外には、式神が一枚、貼りついていた。羽の継ぎ目の目が、ときどき、戸の隙間からこちらを向く。きれいな部屋に、見張りがついている。これを、人は檻と呼ぶのではなかったか。
夕刻、戸が軽く叩かれて、盆が置かれていった。
運んできたのは、灰色の衣の無名だった。痩せた、小さな子。首の札の番号が、薄暗がりに、青白い。子は目を合わせず、盆を置き、下がっていった。膳には白い飯と、魚。灰郷の祝いの日より、いい飯だった。喉を、通らなかった。この膳を番号にされた子が運び、その子はいつか、あの白い火に、焚べられる。きれいなものの足の下が、ここでは、いつも、空だ。鈴は、それでも食べた。残せば、捨てられる。捨てられた飯は、誰の腹にも、入らない。食べることが、この都での、最初の小さな、意地だった。
鈴は、窓の桟に腰かけて、下を見た。
雲の切れ間に、ずっと下のほうで、灰色の都の、その、また下に小さな灯が散っている。地上だ。あのどこかに、灰郷がある。坂を下りきった窪地に、鈍色の屋根が、肩を寄せ合っている。そのひとつで、小夜が毛布の縁を撫でながら、戸口を見ている。きっと、いまも。
熱は、下がっただろうか。
汁は誰かが、温めなおしてくれただろうか。
灰郷では夜になると、小夜は決まって、昼にあった小さなことを話した。井戸で誰が転んだ。鳥が屋根のどこに巣をかけた。鈴は皮を剥ぎながら、ああ、とか、へえ、とか、生返事をするだけだった。あの生返事を、いまひとつ残らず、返してやりたかった。何でもない話を、もう一度、聞きたかった。何でもない夜が、どれだけ得がたいものだったか、足の下の地面を奪われて、初めて分かった。
鈴は指に巻いた白い布を、ほどいた。爪の傷は、もう乾いている。布には、薄く、血の跡。花の香と、血の匂い。上の匂いと、下の匂いが、その一枚で、混ざっていた。
縹の、何の色もない目を、思い出した。読みなおしただけだ、と彼は言った。嘘だ、と鈴は思った。けれど、嘘なら、なぜ、布を寄越した。なぜ、目を合わせるなと、囁いた。
分からない。この都の何もかもが、分からない。きれいなものほど、足の下が、空だ。
鈴は白い布を、握りしめた。
帰る道を、覚えておかなければ。
下へ。鈍色の郷へ。小夜のところへ。それまでは、ここで読まれずに、生き延びる。土の色になる。火を、見せない。
夜半に一度、橋のほうから、車の軋む音がした。窓から覗くと、灰色の衣の列が、荷を引いて、塔の根のほうへ下りていくところだった。白い都の夜の仕事は、ぜんぶ、番号の灯った首がしている。昼の宝石の輝きは、夜のあいだに、ああやって磨き直されているのだ。
どこか遠くで、低い唸りが、絶え間なく続いていた。大灯の音だ。昼も夜も、止まらない。あれは、名前を喰う音だ、と鈴は思った。いまもどこかの暗い溜めで、番号にされた誰かが、順番を待っている。その中に、蕗もいるのかもしれない。同じ都の、同じ空の下に。手を伸ばせば届きそうなほど近くで、それでいて、鈴には、どうすることもできない場所に。
そう、自分に言い聞かせて、目を閉じた。
まぶたの裏で、白き読み手の、白い顔がこちらを見ていた。知っている、と胸の奥が、まだ言っていた。何を知っているのか、鈴にはどうしても、思い出せなかった。




