第11話 拒む
聖山の、七合目で、夜が、来た。
これ以上は、夜の登りは、危ない。一行は、岩陰に、身を寄せた。下のほうで、燼の弓の音が、まだ、続いていた。賞金稼ぎは、聖山の麓まで、追ってきていた。燼が、ひとり、その道を、塞いでいた。
頂は、もう、近かった。
雲の切れ間に、本灯の間の、白い屋根が、見えた。半年前、鈴が、灰の果てるのを、見た場所。空席の、白い座のある場所。明日、大潮が、いちばん高くなる、その刻に、鈴は、あそこへ、登る。
縹は、岩陰で、横たわっていた。半分を、繋ぎ止めるのに、全身を、使って。それでも、まだ、こちら側に、いた。鈴の、繋いだ手を、離さずに。
「眠れないんだろう」縹が、言った。
「うん」
「考えてることを、言え」縹は言った。「明日、やることを。声に出せば、覚悟になる。胸の中だけだと、迷いに、なる」
岩陰の小さな火を囲んで、四人は身を寄せていた。琥珀は北の空に向かって節の軋みを聴き、小夜は唇の形だけで明日の唄をさらい、縹は引かれる半分を全身で繋ぎ止めながら横たわっていた。誰もが、それぞれのやり方で、明日のための支度をしていた。鈴だけが、まだ何もできずにいた。できることといえば、自分のなかの迷いを、ひとつずつ言葉にして外へ出すことくらいだった。
鈴は、しばらく、頂の、白い屋根を、見ていた。
それから、言った。覚悟を、声に、するために。
◆
「明日、本灯で、唄を、完うする」鈴は、言った。「あたしと、小夜で、護りの唄を。八州の、呼び講の網に、合図を送って、いちどに、歌わせる。八つの節を、いちどに、解く。要石を、八人、いちどに、座から、降ろす。荷は、八州の皆に、分かれる。あたしに、絡む暇も、なく」
「合図は」
「縹の、秤」鈴は言った。「本灯から、八節へ、いちばん速く、届くのは、傷痕の糸だ。あんたの体を、通して、八州に、伝わる。あんたが、合図を、流す。あたしが、歌う。小夜が、合わせる。琥珀が、節の解け具合を、見張る。……揃ってる。あとは、やるだけ」
「揃ってない、ものが、ひとつ、ある」縹が、静かに言った。「保証だ。八州の網が、ぜんぶ、間に合ってる、という保証。四つめの州みたいに、唄の届いてない州が、まだ、あるかもしれない」
鈴は頷いた。
「保証は、ない」鈴は言った。「四つめの州で、思い知った。網は、完璧じゃ、ない。間に合ってない州が、あったら——いちどに解いたとき、その州の荷は、宙に浮く。落ちる。沈む。……やってみるまで、分からない。失敗したら、八州、ぜんぶ、沈むかもしれない」
「それでも、やるのか」
「やる」鈴は言った。迷いは、なかった。「座れば、確実に、八州、保てる。あたしが、白くなって。皆に拝まれて。永遠に。……でも、それは、保つんじゃ、ない。先延ばしだ。三百年の、すり替えを、もう一回、繰り返すだけ。あたしの上に。……一回、賭ける。座らずに、皆で、保てるほうに。間に合ってないかもしれない網に。四つめの州の、弔いに」
火が、岩陰で、爆ぜた。
「それが、覚悟か」縹が、訊いた。
「覚悟」鈴は言った。「間に合わないかもしれないと、知ってて、座らない。これは、知らずに、突っ走るのとは、違う。四つめの州を、見た。座らない、の代償を、見た。それでも、座らない。……知って、選ぶ。それが、覚悟だ」
四つめの州を見る前なら、こんなふうには言えなかった。座らない、という言葉は、あの州が沈むまで、どこか軽かった。座らなければ世界は皆のものになる、という理屈だけが、頭のなかにあった。いまは違う。座らなければ、間に合わない州が沈む。人が死ぬ。それを目で見た。匂いまで嗅いだ。そのうえで、座らない、と言う。理屈ではなく、死者の重みを背負って言う。鈴は、自分の言葉が、前より重くなったのを感じた。重くなったぶんだけ、迷いが減った。覚悟というのは、軽い決意のことではなく、重さに耐える力のことだった。
◆
「もうひとつ、ある」鈴は、続けた。
いちばん、言いにくいことを、声に、するために。
「唄を、完うして、八州いちどに解くとき。あたしは、結界を、名づけ直さなきゃ、ならない。一人の要石が握るものから、皆で歌うものへ。……その名づけは、いままでで、いちばん、深い。大灯を変えたときより。蕗を名づけたときより。世界そのものを、名づけ直すんだから。……たぶん、あたしの言霊、ぜんぶ、使う」
「ぜんぶ?」
「ぜんぶ」鈴は、自分の右手を、見た。布の下の、銀の糸。「注ぎ尽くす。空に、なるまで。……そしたら、あたし、もう、名づけられない。言霊が、なくなる。ただの、鈴に、戻る。罠を張って、兎を獲る、ただの密猟者に」
縹は、しばらく、黙っていた。
その沈黙のあいだに、彼の指がそっと鈴の右手をなぞった。布の下で傷痕の方角へたわむ銀の糸を、見えない指が一本ずつ確かめていくようだった。やがて手放さねばならないものの形を、いまのうちに覚えておこうとするかのように。
「こわいか」やがて、訊いた。
鈴は、考えた。長いこと。
「……こわく、ない」やがて、言った。自分でも、驚きながら。「むしろ、ほっと、する。あのね、縹。半年前から、ずっと、言えない言葉が、あったんだ。あたしの、口癖。ただ、家に帰りたいだけ、って。……名灯し様に、なってから、言えなくなった。白き読み手に、なりかけて、もっと、言えなくなった。家に帰りたい、なんて、神様が、言ったら、おかしいから。神様には、帰る場所が、ない。神様で、いつづけなきゃ、ならない」
鈴は、頂の、白い屋根を、見た。
「でも、言霊を、手放したら」鈴は言った。「あたしは、ただの鈴に、戻る。神様じゃ、なくなる。……そしたら、また、言えるんだ。ただ、家に帰りたいだけ、って。言って、帰れるんだ。罠を、見回る日々に。あんたと、小夜と、燼と、芋の汁を、食う日々に。……力を、手放すことが、あたしには、帰り道なんだ。失うんじゃ、ない。帰るんだ」
縹の、見えない目が、鈴のほうを、向いた。
「……お前らしい」縹は、薄く、笑った。「世界を救う力を、手放すのが、帰り道だなんて。そんなこと、思える奴は、八洲に、お前ひとりだ」
鈴は、その笑いを、闇のなかで感じた。見えなかったが、声の温度で分かった。半年前、名灯し様と呼ばれはじめた頃、鈴は力を手にしたことを誇りに思いかけた。世界を変えられる力を。けれどその力は、鈴から口癖を奪い、家を奪い、ただの鈴であることを奪った。神様には帰る場所がない。力が大きくなるほど、帰り道が遠くなる。だから手放す。失うのではなく、帰るために。この理屈を、縹だけが笑わずに、いや、笑いながら、まっすぐ受け取ってくれた。読まない目の男だけが。
◆
「最後に、ひとつ」鈴は、言った。「いちばん、難しいやつ」
頂の、白い屋根の下に、累が、待っているはずだった。果樹園の主が、熟れた果実の、落ちる日を。
「あたしが、座を拒んで、唄を完うしても」鈴は言った。「それで、終わりじゃ、ない。皆が、あたしを、白き読み手として、拝むのを、やめさせなきゃ、ならない。……四つめの州を救えなかったあたしを、それでも、皆は、拝むかもしれない。感謝で。畏れで。一人が呼べば、隣が呼ぶ。白き読み手さま、って。……その連鎖を、止めなきゃ。名は、名を呼ぶ。あたしが、半年前に、起こした力学を、あたしが、止める」
「どうやって」
「分からない」鈴は、正直に、言った。「でも、たぶん——あたしが、ただの鈴に、戻れば。神様じゃ、なくなれば。拝む相手が、いなくなる。白き読み手が、いなくなる。……役目の名が、宿る体を、失う。誰も、跪かなくなる。崇拝が、終わる。それが、名づけた者を、名づけっぱなしにしない、ってことだ。あたしが、皆を、名づけた。最後に、あたし自身を、名づけ直す。ただの鈴、って。神様の座から、降りる」
縹は、長いこと、黙っていた。
それから、言った。
「灰どのは」縹は、静かに言った。「降りられなかった。座ったら、降りられなくなった。降りる方法を、知らなかった。……お前は、降りる方法を、見つけた。座る前に。力を、手放すことで。……翁が、拒んで、失墜した。灰どのが、成って、縛られた。お前は、拒んで——帰る。三人めの、答えだ」
三人めの答え。鈴は、その言葉を、口のなかで転がした。翁は、座を拒んで、失墜した。力を持たぬまま、世界の外へ弾かれた。灰は、座を成して、縛られた。力を持ったまま、座から降りられなくなった。拒んでも縛られても、どちらも帰れなかった。鈴は、その二つのあいだに、細い道を見つけようとしていた。座らずに世界を保ち、力を手放して帰る道を。誰も歩いたことのない道だった。歩けるかどうかも分からない。けれど、翁と灰の二つの行き止まりを知っているからこそ、その細い道だけが、残された出口に見えた。
夜が、更けていった。
下のほうで、燼の弓の音が、途切れ、また、続いた。賞金稼ぎを、止めながら。生かす側の、足を、止めさせないために。
小夜が、岩陰で、唄を、低く、さらっていた。明日、先導する、護りの唄を。北の節の、上半分を。姉妹で、ひとつの唄を。
琥珀が、北を、向いて、節の、軋みを、聴いていた。あと、いくつ、もつか。大潮が、いちばん高くなるまで、間に合うか。
鈴は、縹の、冷たい手を、握ったまま、頂を、見た。
明日、座のある場所へ、座らないために、登る。言霊を、注ぎ尽くして、手放すために。崇拝を、終わらせるために。ただの鈴に、戻るために。
四つめの州の、沈黙を、背負って。それでも。
「縹」鈴は、言った。「終わったら」
帰ったら、とは、言わなかった。言えば、呪いになる。だから、別の言い方を、探した。半年前と、同じように。
「終わったら、汁、作る。芋の。あんたと、小夜と、燼と、琥珀と。……五人と、一人で、六人だ」
「六人だ」縹は、頷いた。「紬ばあさまの椀も、置くなら、七人だな」
「七人で」鈴は言った。「逝った人の椀も、置く。覚えの講みたいに。……いただきますを、言う前に、紬、って、呼ぶ」
夜明けが、近かった。
大潮の、いちばん高くなる日の、夜明けが。
鈴は、目を、閉じなかった。眠れば、迷う。起きていれば、覚悟で、いられる。縹の手を、握ったまま、夜明けを、待った。
岩陰の火は、小さくなっていた。小夜の低いさらい唄が、絶えず、途切れずに続いていた。琥珀の聴く節の軋みも、燼の弓の音も、その唄に紛れて、ひとつの夜の底を作っていた。鈴は、握った縹の手の冷たさだけを、確かなものとして数えていた。冷たい手のなかに、わずかな脈があった。半分を裂け目に置いた男の、残り半分の脈が。その脈が止まらないように、鈴は手を放さなかった。明日、唄を完うすれば、この手は丸ごと温かくなる。それまで、繋ぎ止める。座らないために登る朝が、ゆっくり近づいていた。
座らない、を、やりきる、その日の、夜明けを。




