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名を、灯せ  作者: 甕星 慶(ミカボシケイ)
第三部

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第11話 拒む

聖山の、七合目で、夜が、来た。


これ以上は、夜の登りは、危ない。一行は、岩陰に、身を寄せた。下のほうで、(じん)の弓の音が、まだ、続いていた。賞金稼ぎは、聖山の麓まで、追ってきていた。(じん)が、ひとり、その道を、塞いでいた。


頂は、もう、近かった。


雲の切れ間に、本灯(もとび)の間の、白い屋根が、見えた。半年前、(すず)が、(はい)の果てるのを、見た場所。空席の、白い座のある場所。明日、大潮(おおしお)が、いちばん高くなる、その刻に、(すず)は、あそこへ、登る。


(はなだ)は、岩陰で、横たわっていた。半分を、繋ぎ止めるのに、全身を、使って。それでも、まだ、こちら側に、いた。(すず)の、繋いだ手を、離さずに。


「眠れないんだろう」(はなだ)が、言った。


「うん」


「考えてることを、言え」(はなだ)は言った。「明日、やることを。声に出せば、覚悟になる。胸の中だけだと、迷いに、なる」


岩陰の小さな火を囲んで、四人は身を寄せていた。琥珀(こはく)は北の空に向かって節の軋みを聴き、小夜(さよ)は唇の形だけで明日の唄をさらい、(はなだ)は引かれる半分を全身で繋ぎ止めながら横たわっていた。誰もが、それぞれのやり方で、明日のための支度をしていた。(すず)だけが、まだ何もできずにいた。できることといえば、自分のなかの迷いを、ひとつずつ言葉にして外へ出すことくらいだった。


(すず)は、しばらく、頂の、白い屋根を、見ていた。


それから、言った。覚悟を、声に、するために。



「明日、本灯(もとび)で、唄を、完うする」(すず)は、言った。「あたしと、小夜(さよ)で、護りの唄を。八州(やしま)の、呼び講の網に、合図を送って、いちどに、歌わせる。八つの節を、いちどに、解く。要石(かなめいし)を、八人、いちどに、座から、降ろす。荷は、八州(やしま)の皆に、分かれる。あたしに、絡む暇も、なく」


「合図は」


(はなだ)の、(はかり)(すず)は言った。「本灯(もとび)から、八節へ、いちばん速く、届くのは、傷痕(きずあと)の糸だ。あんたの体を、通して、八州(やしま)に、伝わる。あんたが、合図を、流す。あたしが、歌う。小夜(さよ)が、合わせる。琥珀(こはく)が、節の解け具合を、見張る。……揃ってる。あとは、やるだけ」


「揃ってない、ものが、ひとつ、ある」(はなだ)が、静かに言った。「保証だ。八州(やしま)の網が、ぜんぶ、間に合ってる、という保証。四つめの州みたいに、唄の届いてない州が、まだ、あるかもしれない」


(すず)は頷いた。


「保証は、ない」(すず)は言った。「四つめの州で、思い知った。網は、完璧じゃ、ない。間に合ってない州が、あったら——いちどに解いたとき、その州の荷は、宙に浮く。落ちる。沈む。……やってみるまで、分からない。失敗したら、八州(やしま)、ぜんぶ、沈むかもしれない」


「それでも、やるのか」


「やる」(すず)は言った。迷いは、なかった。「座れば、確実に、八州(やしま)、保てる。あたしが、白くなって。皆に拝まれて。永遠に。……でも、それは、保つんじゃ、ない。先延ばしだ。三百年の、すり替えを、もう一回、繰り返すだけ。あたしの上に。……一回、賭ける。座らずに、皆で、保てるほうに。間に合ってないかもしれない網に。四つめの州の、弔いに」


火が、岩陰で、()ぜた。


「それが、覚悟か」(はなだ)が、訊いた。


「覚悟」(すず)は言った。「間に合わないかもしれないと、知ってて、座らない。これは、知らずに、突っ走るのとは、違う。四つめの州を、見た。座らない、の代償を、見た。それでも、座らない。……知って、選ぶ。それが、覚悟だ」


四つめの州を見る前なら、こんなふうには言えなかった。座らない、という言葉は、あの州が沈むまで、どこか軽かった。座らなければ世界は皆のものになる、という理屈だけが、頭のなかにあった。いまは違う。座らなければ、間に合わない州が沈む。人が死ぬ。それを目で見た。匂いまで嗅いだ。そのうえで、座らない、と言う。理屈ではなく、死者の重みを背負って言う。(すず)は、自分の言葉が、前より重くなったのを感じた。重くなったぶんだけ、迷いが減った。覚悟というのは、軽い決意のことではなく、重さに耐える力のことだった。



「もうひとつ、ある」(すず)は、続けた。


いちばん、言いにくいことを、声に、するために。


「唄を、完うして、八州(やしま)いちどに解くとき。あたしは、結界(けっかい)を、名づけ直さなきゃ、ならない。一人の要石(かなめいし)が握るものから、皆で歌うものへ。……その名づけは、いままでで、いちばん、深い。大灯(おおび)を変えたときより。(ふき)を名づけたときより。世界そのものを、名づけ直すんだから。……たぶん、あたしの言霊(ことだま)、ぜんぶ、使う」


「ぜんぶ?」


「ぜんぶ」(すず)は、自分の右手を、見た。布の下の、銀の糸。「注ぎ尽くす。空に、なるまで。……そしたら、あたし、もう、名づけられない。言霊(ことだま)が、なくなる。ただの、(すず)に、戻る。罠を張って、兎を獲る、ただの密猟者に」


(はなだ)は、しばらく、黙っていた。


その沈黙のあいだに、彼の指がそっと(すず)の右手をなぞった。布の下で傷痕(きずあと)の方角へたわむ銀の糸を、見えない指が一本ずつ確かめていくようだった。やがて手放さねばならないものの形を、いまのうちに覚えておこうとするかのように。


「こわいか」やがて、訊いた。


(すず)は、考えた。長いこと。


「……こわく、ない」やがて、言った。自分でも、驚きながら。「むしろ、ほっと、する。あのね、(はなだ)。半年前から、ずっと、言えない言葉が、あったんだ。あたしの、口癖。ただ、家に帰りたいだけ、って。……名灯し様に、なってから、言えなくなった。白き読み手に、なりかけて、もっと、言えなくなった。家に帰りたい、なんて、神様が、言ったら、おかしいから。神様には、帰る場所が、ない。神様で、いつづけなきゃ、ならない」


(すず)は、頂の、白い屋根を、見た。


「でも、言霊(ことだま)を、手放したら」(すず)は言った。「あたしは、ただの(すず)に、戻る。神様じゃ、なくなる。……そしたら、また、言えるんだ。ただ、家に帰りたいだけ、って。言って、帰れるんだ。罠を、見回る日々に。あんたと、小夜(さよ)と、(じん)と、芋の汁を、食う日々に。……力を、手放すことが、あたしには、帰り道なんだ。失うんじゃ、ない。帰るんだ」


(はなだ)の、見えない目が、(すず)のほうを、向いた。


「……お前らしい」(はなだ)は、薄く、笑った。「世界を救う力を、手放すのが、帰り道だなんて。そんなこと、思える奴は、八洲(やしま)に、お前ひとりだ」


(すず)は、その笑いを、闇のなかで感じた。見えなかったが、声の温度で分かった。半年前、名灯し様と呼ばれはじめた頃、(すず)は力を手にしたことを誇りに思いかけた。世界を変えられる力を。けれどその力は、(すず)から口癖を奪い、家を奪い、ただの(すず)であることを奪った。神様には帰る場所がない。力が大きくなるほど、帰り道が遠くなる。だから手放す。失うのではなく、帰るために。この理屈を、(はなだ)だけが笑わずに、いや、笑いながら、まっすぐ受け取ってくれた。読まない目の男だけが。



「最後に、ひとつ」(すず)は、言った。「いちばん、難しいやつ」


頂の、白い屋根の下に、(かさね)が、待っているはずだった。果樹園の主が、熟れた果実の、落ちる日を。


「あたしが、座を拒んで、唄を完うしても」(すず)は言った。「それで、終わりじゃ、ない。皆が、あたしを、白き読み手として、拝むのを、やめさせなきゃ、ならない。……四つめの州を救えなかったあたしを、それでも、皆は、拝むかもしれない。感謝で。畏れで。一人が呼べば、隣が呼ぶ。白き読み手さま、って。……その連鎖を、止めなきゃ。名は、名を呼ぶ。あたしが、半年前に、起こした力学を、あたしが、止める」


「どうやって」


「分からない」(すず)は、正直に、言った。「でも、たぶん——あたしが、ただの(すず)に、戻れば。神様じゃ、なくなれば。拝む相手が、いなくなる。白き読み手が、いなくなる。……役目の名が、宿る体を、失う。誰も、跪かなくなる。崇拝が、終わる。それが、名づけた者を、名づけっぱなしにしない、ってことだ。あたしが、皆を、名づけた。最後に、あたし自身を、名づけ直す。ただの(すず)、って。神様の座から、降りる」


(はなだ)は、長いこと、黙っていた。


それから、言った。


(はい)どのは」(はなだ)は、静かに言った。「降りられなかった。座ったら、降りられなくなった。降りる方法を、知らなかった。……お前は、降りる方法を、見つけた。座る前に。力を、手放すことで。……(おきな)が、拒んで、失墜した。(はい)どのが、成って、縛られた。お前は、拒んで——帰る。三人めの、答えだ」


三人めの答え。(すず)は、その言葉を、口のなかで転がした。(おきな)は、座を拒んで、失墜した。力を持たぬまま、世界の外へ弾かれた。(はい)は、座を成して、縛られた。力を持ったまま、座から降りられなくなった。拒んでも縛られても、どちらも帰れなかった。(すず)は、その二つのあいだに、細い道を見つけようとしていた。座らずに世界を保ち、力を手放して帰る道を。誰も歩いたことのない道だった。歩けるかどうかも分からない。けれど、(おきな)(はい)の二つの行き止まりを知っているからこそ、その細い道だけが、残された出口に見えた。


夜が、更けていった。


下のほうで、(じん)の弓の音が、途切れ、また、続いた。賞金稼ぎを、止めながら。生かす側の、足を、止めさせないために。


小夜(さよ)が、岩陰で、唄を、低く、さらっていた。明日、先導する、護りの唄を。北の節の、上半分を。姉妹で、ひとつの唄を。


琥珀(こはく)が、北を、向いて、節の、軋みを、聴いていた。あと、いくつ、もつか。大潮(おおしお)が、いちばん高くなるまで、間に合うか。


(すず)は、(はなだ)の、冷たい手を、握ったまま、頂を、見た。


明日、座のある場所へ、座らないために、登る。言霊(ことだま)を、注ぎ尽くして、手放すために。崇拝を、終わらせるために。ただの(すず)に、戻るために。


四つめの州の、沈黙を、背負って。それでも。


(はなだ)(すず)は、言った。「終わったら」


帰ったら、とは、言わなかった。言えば、呪いになる。だから、別の言い方を、探した。半年前と、同じように。


「終わったら、汁、作る。芋の。あんたと、小夜(さよ)と、(じん)と、琥珀(こはく)と。……五人と、一人で、六人だ」


「六人だ」(はなだ)は、頷いた。「(つむぎ)ばあさまの椀も、置くなら、七人だな」


「七人で」(すず)は言った。「逝った人の椀も、置く。覚えの講みたいに。……いただきますを、言う前に、(つむぎ)、って、呼ぶ」


夜明けが、近かった。


大潮(おおしお)の、いちばん高くなる日の、夜明けが。


(すず)は、目を、閉じなかった。眠れば、迷う。起きていれば、覚悟で、いられる。(はなだ)の手を、握ったまま、夜明けを、待った。


岩陰の火は、小さくなっていた。小夜(さよ)の低いさらい唄が、絶えず、途切れずに続いていた。琥珀(こはく)の聴く節の軋みも、(じん)の弓の音も、その唄に紛れて、ひとつの夜の底を作っていた。(すず)は、握った(はなだ)の手の冷たさだけを、確かなものとして数えていた。冷たい手のなかに、わずかな脈があった。半分を裂け目に置いた男の、残り半分の脈が。その脈が止まらないように、(すず)は手を放さなかった。明日、唄を完うすれば、この手は丸ごと温かくなる。それまで、繋ぎ止める。座らないために登る朝が、ゆっくり近づいていた。


座らない、を、やりきる、その日の、夜明けを。

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