第10話 大潮
大潮は、計算より、五日、早く、来た。
本灯の失調が、潮を、急かしたのだ。主を欠いた結界が、いちばん高い潮を、暦より早く、呼び込んだ。鈴たちが、廃村で、聖山を登る支度をしている、その朝に。
地が、鳴った。
廃村の土が、足の裏で震えていた。地鳴りは遠く、けれど確かに腹に響いた。鈴は、登る支度の途中だった。狩りの袋に、罠の銅線でなく、唄を運ぶための水と乾飯を詰めていた。その手が止まった。五日も早い。暦のとおりなら、大潮の頂は、まだ先のはずだった。本灯が弱るほど、潮はせっかちになる。主を欠いた結界は、暦さえ守らなくなっていた。
聖山の麓の、傷痕から、潮の匂いが、いっせいに、立った。縹が、廃屋の中で、悲鳴のような、息を、吐いた。
「来る」縹は、胸を、掻きむしった。「節が、落ちる。……北の、四つめの州。あそこは——唄が、まだ、届いてない」
鈴の血が、凍った。
四つめの州。北へ唄を撒いた、その帰り道に、通り過ぎた州。呼び講が、まだ、根づいていなかった。唄を、教える時間が、なかった。後回しに、した州。本灯で、いちどに、と思って。間に合う、と思って。
間に合わなかった。
「琥珀!」鈴は、叫んだ。「四つめの州、保てる?網は」
琥珀は、北を、向いて、青ざめていた。
「無理」琥珀の声が、震えた。「あの州には、唄が、ない。歌う口が、ない。節が、落ちたら——受ける網が、ない。……沈む。州ごと」
◆
鈴は、走った。
廃村の、高台へ。北が、見える場所へ。聖山の中腹から、北の地平が、見渡せた。四つめの州の、方角。その空が——黒く、なっていた。潮が、立ち上がっていた。州の沿岸を、呑む、毒の壁が。
鈴の右手が、熱く、なった。
糸が、いっせいに、引かれた。四つめの州の、落ちかけた節が、いちばん強い糸を、求めて。鈴を。座れ。いま。お前が、荷を、引き受けろ。座れば、あの州は、沈まない。座れば。お前が、白く、なるだけで。
鈴の右手が、北へ、上がった。
握る形に。引き受ける形に。座る形に。
ここから、四つめの州まで、何十里。けれど、糸は、繋がっていた。鈴が、座る覚悟さえ、すれば。言霊を、注ぎさえ、すれば。離れていても、節を、引き受けられる。あの州を、保てる。一握りで。
それは、半年前に灰が立っていた場所だった。座れば救える、座らなければ死ぬ。その二つを天秤にかけて、灰は座る側を選んだ。いま、鈴の右手が、同じ天秤の上にあった。北の黒い壁の下で、何百、何千の人が、何も知らずに暮らしている。井戸端の女が、戸口の子が。鈴の指がひとつ動けば、その全部が助かる。動かさなければ、全部が沈む。座への引きは、こういうときに、いちばん強くなる。優しさが餌になる、と縹は言った。いま、その餌が、目の前にぶら下がっていた。
「鈴姉!」
小夜が、後ろから、鈴の右手に、すがった。
「駄目!座っちゃ、駄目!」
「でも、沈むんだよ!」鈴は、叫んだ。初めて、小夜に、叫んだ。「あの州、沈むんだよ!人が、死ぬ!あたしが、座れば、止まる!あたしが、白くなるだけで、止まるんだよ!なのに、座るなって——」
「座ったら、終わりなの!」小夜も、叫んだ。涙で、顔を、ぐしゃぐしゃに、して。「鈴姉が座ったら、八州、ぜんぶ、鈴姉に、繋がる!累の、思う壺!鈴姉が、灰になって、それで、終わり!一州、救って、八州、永遠に、座り続ける!それ、救いじゃ、ない!」
鈴の右手が、北へ、上がったまま、震えた。
座れば、一州、救える。座らなければ、一州、沈む。けれど、座れば、八州が、永遠に、一人の犠牲の上に、戻る。三百年の、すり替えが、また、始まる。鈴という、新しい白き読み手の上に。
縹が、廃屋から、這い出てきた。
「鈴」縹の声は、掠れて、いた。けれど、はっきり、していた。「座るな。……これは、紬ばあさまが、命と引き換えに、お前に、託した唄の、試されどきだ。座れば、唄は、要らなくなる。紬の死が、無駄になる。……座るな。歌え。間に合わなくても、歌え」
間に合わなくても。
鈴は、北の、黒い空を、見た。潮が、四つめの州を、呑んでいく。鈴の手が、届かない。唄が、届いていない。歌っても、あの州には、受ける網が、ない。歌っても、間に合わない。
それでも、鈴は、右手を、下ろした。
座る形から。握る形から。
下ろして、膝を、ついて。北へ向かって、歌った。護りの唄を。完うした、全き唄を。届かないと、知りながら。あの州に、歌う口が、ないと、知りながら。
唄は、北へ、流れた。
四つめの州には、届かなかった。
◆
四つめの州が、沈んだ。
北の空の、黒い壁が、ゆっくり、低く、なっていった。潮が、引いたのでは、なかった。呑むものが、なくなったのだ。州が、沈みきって。沿岸の村が、田が、人が、毒の潮の下に。
数は、分からなかった。誰も、数えに、行けなかった。半年前の、東の州と、同じだった。呼ぶ口ごと、消えた名前が、また、海の底に、増えた。
風が、北の海のほうから吹いてきた。潮の匂いと、それから、かすかに焦げたような枯れの匂いがした。四つめの州を呑んだ毒の潮が、いま、そこにあるすべてを底へ沈めていくのを、鈴はただ膝をついて見ているしかなかった。歌った唄は確かに八州のいくつかへ届いたはずだった。けれどその州にだけは、受ける口がひとつもなかった。歌っても歌っても、声の落ちる先がなかった。
鈴は、膝を、ついたまま、動けなかった。
歌い終えた、唄の、最後の音が、北の風に、消えていった。届かなかった唄。間に合わなかった唄。鈴の喉の中の、紬の託した、全き唄。それが、目の前で、一州を、救えなかった。
「……あたしが」鈴の声が、潰れた。「あたしが、座らなかったから」
誰も、答えなかった。
それが、答えだった。鈴が、座っていれば、四つめの州は、沈まなかった。鈴の「座らない」が、あの州の人を、殺した。座る、という道が、あったのに。一握りで、救えたのに。鈴は、座らなかった。八州の未来のために。四つめの州の、いまを、見殺しにして。
第三の道には、代償が、あった。
座らない、という道を、選ぶたびに。誰かが、座れば救えた誰かが、死ぬ。鈴は、その亡骸の数を、これから、ずっと、背負う。座らない、という選択の、重さを。
膝の下の土が、冷たかった。北の空の黒い壁は、もう低くなっていた。呑むものを呑みきった潮は、満足したように引いていく。あとには、何もない海面が残るだけだった。鈴は、その海面を見ていられなかった。あの下に、いま、村があった。田があった。人がいた。鈴が指を一本動かさなかったから、そこへ沈んだ。正しさのために。八州の未来のために。その正しさが、いま、ひとつの州を、丸ごと殺した。正しいことをして、人が死ぬ。そういう道を、鈴は自分で選んだ。選んだ重さが、膝の上に、石のように乗っていた。
◆
誰も、四つめの州の数を口にしなかった。半年前の東の州と同じだった。数えられる者が、現地にいない。呼ぶ口ごと潮に呑まれた名前は、どこへ帰るあてもなく、ただ海の底に積み重なっていった。鈴の喉のなかには、紬が命と引き換えに流しきった全き唄があった。それを抱えていながら、目の前の一州すら救えなかった。その重さが、夜のあいだ、鈴の膝を地に縫いつけていた。
その夜、鈴は、廃屋の隅で、膝を、抱えていた。
縹が、隣に、いた。動けない体を、引きずって。小夜は、泣き疲れて、眠っていた。琥珀は、北を、向いたまま、黙っていた。
「あたし、間違ってるのかな」鈴は、呟いた。「座れば、皆、助かるんだ。いますぐ。一人ずつ、救える。四つめの州も、救えた。次の州も、救える。……あたしが、白くなるだけで。なんで、あたしは、それを、しないんだろう。皆を、見殺しにして、座らない、を、守って。……これ、ただの、頑固なんじゃ、ないの。あたしの、意地で、人が、死んでるんじゃ、ないの」
縹は、しばらく、黙っていた。
それから、言った。
「四つめの州が、沈んだのは」縹は、静かに言った。「お前が、座らなかったからじゃ、ない。あの州に、唄が、届いてなかったからだ。網が、未完成だったからだ。……お前が、座って救えるのは、一度に、一州。座り続けて、永遠に、八州。だが、唄が、八州ぜんぶに、届けば。網が、完成すれば。誰も、座らずに、八州、ぜんぶ、保てる。一州も、沈めずに」
「でも、間に合わなかった」
「四つめの州には、間に合わなかった」縹は、認めた。「その死は、消えない。お前が、背負う。背負って、いい。……だが、その死を、無駄にしないために、できることが、ある。残りの州に、唄を、間に合わせることだ。本灯で、いちどに、八州、解くことだ。四つめの州が、教えてくれた。網が、未完成だと、州が、沈む。……だから、完成させる。次の州が、沈む前に。それが、四つめの州への、たったひとつの、弔いだ」
紬の声が、鈴の中で、鳴った。唄は、溜めるものじゃない。流すものだ。
鈴は、自分の喉の中の、全き唄を、感じた。紬が、命と引き換えに、流しきった唄。母が、運べずに死んだ唄。それを、鈴が、いま、抱えていた。溜めて、いた。流さなければ。八州に。本灯で。
座らずに。
「……立つ」鈴は、言った。膝を、抱えたまま。「立たなきゃ。四つめの州を、無駄にしない。次を、沈めない。……本灯へ、行く。明日。大潮が、いちばん高くなる前に」
「立てるか」縹が、訊いた。
「立つ」鈴は、立ち上がった。膝が、震えた。こめかみの、二すじの白が、夜気に、冷たかった。それでも、立った。「紬ばあさまが、流しきった唄を、あたしが、溜めたまま、座るわけには、いかない。……流す。八州に。皆に。座らずに」
四つめの州の死は、消えなかった。消そうとも思わなかった。けれど、その死を無駄にする道と、弔いに変える道とが、目の前にあった。座れば、唄は要らなくなる。紬の命も、四つめの州の死も、要らなかったことになる。座らずに本灯まで行って、八州を一度に解けば、二度とこの喪失を繰り返さずにすむ。それだけが、沈んだ州への返事だった。鈴は、震える膝に力を入れた。立つことそのものが、いまは弔いだった。座らないために立つ。倒れるために倒れるのではなく。
◆
夜明け前、廃村の下から、燼の声が、聞こえた。
殿の弓を、引きながら、登ってきたのだ。賞金稼ぎを、退けながら。背に、何本も、矢を、受けて。それでも、立っていた。
「四つめの州、聞いた」燼は、肩で、息を、しながら、言った。「……おれの、二つめの、沈めた州だ。一つめは、おれが、焼いた。二つめは、おれが、間に合わなかった。守れなかった。……鈴。おれにも、覚えの講に、足す名が、増えた」
燼の手に、新しい板きれが、あった。四つめの州の、死者の名を、流民から、聞き取った、板きれが。
「弔う」燼は言った。「おれが、覚える。四つめの州も。お前は、本灯へ、行け。残りの州を、沈めるな。……おれは、ここで、覚えながら、殿を、続ける。お前が、聖山を登りきるまで」
鈴は、燼の、矢を受けた背を、見た。
止める弓。生かす側の、足を、止めさせないための、弓。火を配る男は、いま、唄を運ぶ者の、殿として、自分の沈めた州の名を、覚えながら、立っていた。
「……ありがとう」鈴は言った。
「礼は、唄を完うしてから、言え」燼は、薄く、笑った。「五人で、汁を、食うときに。……行け。座らずに。座のある場所へ」
燼の背の矢は、何本も折れていた。賞金稼ぎの刃を、その背で受けてきたのだろう。それでも男は倒れなかった。一つめの州を焼き、二つめの州を守れなかった男が、いま、三つめを沈めさせまいと、自分の体を道に変えていた。死者の名を覚えながら、生者の足を守る。覚える弓と、止める弓。鈴は、その背に、半年前の乾いた目の男を、もう見なかった。いるのは、自分の罪を降ろさずに、それでも前へ進もうとする男だった。名のれる日まで。
聖山が、朝靄の中に、白く、立っていた。
その頂に、本灯の、空席の座が、あった。鈴を、引いてきた、あの座が。大潮の、いちばん高くなる、その日に、鈴は、座のある場所へ、座らないために、登る。
四つめの州の、沈黙を、背負って。紬の、流しきった唄を、抱えて。縹の、引かれる半分を、繋ぎ止めて。燼の、覚える名を、後ろに、置いて。
どん底から、聖山への道が、ただ一本、上へ、続いていた。




