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名を、灯せ  作者: 甕星 慶(ミカボシケイ)
第三部

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第9話 縹の半分

灯都(ひのみやこ)が、見えてきた頃から、(はなだ)は、立てなくなった。


聖山の白い影が、地平に、にじむ。半年前、(すず)が、大灯(おおび)を変えた、あの都。その聖山の麓に、傷痕(きずあと)はある。(はなだ)が自分の色を注いで封じた、結界の裂け目。


近づくほど、(はなだ)は、衰えた。


「半分が」

(はなだ)は、荷車の上で——(つむぎ)の隣に、寝かされて、言った。

「引かれてる。裂け目に。……一年、ずっと、半分は、あそこにいた。離れてたから、引きも、弱かった。近づくと、強くなる。私の半分が、裂け目に、帰ろうとしてる」


「帰っちゃ、駄目」

(すず)は言った。


「帰りたくて、帰るんじゃ、ない」

(はなだ)は、薄く、笑った。

「向こうが、呼ぶんだ。お前の右手の糸が、座に引かれるのと、同じだ。系が、ばらばらになったものを、もとの場所へ、戻そうとしてる。……座は、お前を。裂け目は、私の半分を」


道中ずっと、(はなだ)は荷車に揺られながら、自分の体のどこかが少しずつ遠くへ運ばれていくような心地でいたという。灯都(ひのみやこ)が近づくほどその感覚は強くなり、いまでは目を閉じると裂け目の底の冷たい暗がりがすぐそこに見えるのだと、彼は淡々と語った。一年ものあいだ半分だけをあちらに置いて生きてきた男にとって、こうして引き戻されることはむしろ自然なことなのかもしれなかった。


(すず)は、(はなだ)の手を取った。氷のように、冷たかった。


裂け目に近づくことが、唄を完うするためのただひとつの道だった。本灯(もとび)は、灯都(ひのみやこ)にある。けれど、その同じ道が、(はなだ)を裂け目へ引いていく。世界を救う道が、(はなだ)を、奪う道だった。


(すず)は、握った手を放さなかった。放せば、そのぶん向こうへ引かれていく気がした。(はなだ)の指は、関節のひとつひとつが冷えていた。一年前、結界の亀裂に縹色を注いだあの夜から、この人の半分は裂け目の底にある。残った半分だけで、薪を測り、足音を聞き分け、(すず)を見てきた。半分の体で、丸ごとの仕事をしてきた。それがいま、近づくほどに、残りの半分まで持っていかれそうになっている。(すず)は、自分の右手が座へ引かれるのと、(はなだ)の半分が裂け目へ引かれるのとが、同じひとつの力なのだと思うと、その力を心底、憎らしく思った。



南へ下る十日あまりのあいだに、(つむぎ)の体は驚くほど軽くなっていた。低い音をひとつ(すず)に渡すたび、老婆の中から何かがそっくり抜けていくようで、はじめ百近い体に残っていた重みが、日を追うごとに枯れ枝のそれに変わっていった。それでも(つむぎ)は、移すのをやめなかった。残された日数と、覚えてもらわねばならぬ音の数とを、その濁った目の奥で天秤にかけながら、一日に一つずつ、確かに渡していった。


その夜、(つむぎ)が、最後の音を、移した。


荷車の上で、もう起き上がれなかった。声も、糸のように、細かった。それでも(つむぎ)は、いちばん低い最後のひとつを、(すず)の喉に移した。


「……入ったかい」

(つむぎ)は、訊いた。


(すず)は、その音を出してみた。腹の底の、もっと下から。言霊(ことだま)を乗せて。北の節のいちばん深い、最後の音が出た。母が、出せずに死んだ音の、その先の、最後の音が。


「入った」

(すず)は言った。

「ばあさま。北の節、ぜんぶ、入った。あたしと、小夜(さよ)の、二人の喉に」


(つむぎ)の、濁った目に、光るものが、にじんだ。


「……これで、唄は、滅びない」

(つむぎ)は、囁いた。

「三百年、あたしらが、隠して、継いできた唄が。おまえさんと、小夜(さよ)に、移った。あとは——皆で、歌うだけだ。母さんが、できなかったことを。おまえさんが、やりな」


(つむぎ)の手が、(すず)の手の中で、ゆっくり力を、失った。


「唄は」

(つむぎ)は、最後に、言った。

「溜めるものじゃ、ない。流すものだ。……あたしは、流しきった。空っぽに、なった。……いい、気分だ」


その夜、(つむぎ)は、逝った。


最後の唄い手が、唄をぜんぶ流しきって。空っぽになって。(すず)小夜(さよ)は、(つむぎ)を北の方角へ頭を向けて葬った。覚えの講(おぼえのこう)の節で。(つむぎ)の名を、二人の口で、覚えながら。(つむぎ)。糸を紡ぐ、(つむぎ)。逝った者の名を、覚える者が、いれば、その名は、消えない。


唄は、完うした。


けれど、それを、運んできた者は、もういなかった。


(すず)は、(つむぎ)の最後の言葉を、何度も口のなかで転がした。流しきった、空っぽになった、いい気分だ。あれは、負け惜しみでも強がりでもなかった。底から、満ち足りた声だった。百年近く、ひとりで唄を抱えてきた者が、その重みをぜんぶ手放して、軽くなって逝った。溜め込んだまま死ぬのではなく、流しきって死ぬ。それが、唄持ちの生き方なのだと、(すず)(つむぎ)の冷たくなった手から教わった。母も、北の里でこの生き方を見たはずだった。見て、半分しか持ち帰れずに、流しきれずに死んだ。母の流せなかったぶんまで、いま(すず)の喉に溜まっている。溜めたままでは、母と同じになる。流さなければならなかった。八州じゅうに。



(つむぎ)を葬った翌朝も、一行はほとんど口をきかなかった。最後の唄い手を失ったというのに、唄そのものは(すず)小夜(さよ)の喉のなかで生きていて、その矛盾めいた手応えが、二人の悲しみをいっそう静かなものにしていた。荷車は軽くなっていた。運ぶべき老婆がいなくなったぶんだけ、車輪の音がやけに大きく聞こえた。その音を聞きながら、(すず)(つむぎ)の言葉を何度も思い返した。唄は溜めるものではなく流すものだ、と。


灯都(ひのみやこ)の麓の、廃村に、一行は、身を、潜めた。


半年前まで、灯都(ひのみやこ)の州のいちばん貧しい郷だった場所。大灯(おおび)が変わって、人はめいめいの色の灯を灯しはじめた。けれど、この村は、傷痕(きずあと)に近すぎて、潮に、見放されていた。誰も、住まなくなった、廃墟。そこに、(すず)たちは、隠れた。本灯(もとび)への、最後の足場として。


(はなだ)は、もうほとんど、動けなかった。


廃屋の囲炉裏の前に、横たわって。傷痕(きずあと)の方角へ顔を向けて。一年、夜ごとそうして眠った、その姿のまま。けれど今度は、眠るためでは、なかった。引かれる半分を、繋ぎ止めるために、全身で、踏ん張っていた。


(すず)は、その隣に座った。


「ねえ」

(すず)は、言った。

「あんた、あたしのこと、いまも、見える?」


「見える」

(はなだ)は、すぐに、答えた。見えない目を、(すず)のほうへ、向けて。

「ずっと、見えてる。お前が、唄を運ぶ、足音が、変わったのも。北の節の、最後の音を、出したとき、お前の声が、半分、母御の声に、なったのも。……白が、二すじに、なったのも」


「白、見えるの?」


「見える、というか」

(はなだ)は、言葉を、探した。

「読めない目に、なって、分かったことがある。世界じゅうが、お前を白き読み手として見る。称号で。役目で。……私は、それが、読めない。白も、称号も、役目も、読めない。私に見えるのは、ただの、お前だけだ。罠を張って、妹の汁を作る、灰郷(はいごう)の、(すず)。……世界で、私だけが、お前を、ただの(すず)として、見てる。読まないから」


(すず)の、目の奥が、熱く、なった。


世界じゅうが、(すず)を白き読み手と呼ぶ。敵も、味方も。称号の檻が両側から閉じていく。その中で、たったひとり(はなだ)だけが、(すず)をただの(すず)として見ていた。読まない目で。役目を、読まない目で。


「……その目を」

(すず)は、掠れた声で、言った。

「裂け目に、持っていかれたく、ない」


「私も」

(はなだ)は、薄く、笑った。

「お前を、見ていたい。まだ、見ていたいことが、いくつも、ある。お前が、座らずに、世界を皆に返す、その顔を。お前が、力を手放して、ただの(すず)に、戻る、その顔を。……それを、見るまでは、裂け目に、帰る気は、ない。忙しいんだ。見たいものが、多すぎて」


忙しい。


半年前にも、聞いた言葉だった。愛してる、と言う代わりに、忙しい、と言う男。読み切れないものを、読み切れないまま、毎日見続ける。それが、この人の愛の言い方だった。


(すず)は、(はなだ)の冷たい手を、両手で包んだ。引かれる半分を、こちら側に、繋ぎ止めるように。


(はなだ)

(すず)は言った。

本灯(もとび)で、唄を完うしたら。傷痕(きずあと)は、塞がる。もともとの、塞ぎ方で。……そしたら、あんたの半分も、戻る。裂け目から。一年ぶりに。丸ごと、こっちに」


「……そうか」


「だから、それまで、いて」

(すず)は言った。

「持っていかれないで。唄を完うするまで。あと、すこし。あと、本灯(もとび)まで」


(はなだ)は、しばらく黙っていた。それから、(すず)の手を握り返した。冷たい手に、わずかに力が戻った。


「いる」

(はなだ)は言った。

「必要なくても。……いや。今度は、必要だな。お前が、唄を完うするのに、私の秤が、要る。傷痕(きずあと)の容態を、最後まで、量れる計器が。……生きた計器は、まだ、壊れるわけには、いかない」


(すず)は、その言い方に、すこし笑った。必要だから、いる。この人は、いつもそうやって、感情を仕事の言葉にくるんで差し出す。愛している、とは言わない。秤が要る、計器が壊れるわけにはいかない、と言う。けれど、その不器用さの底にあるものを、(すず)はもう読み違えなかった。(はなだ)は、(すず)に読まれることを望まない。(すず)も、(はなだ)を読もうとしない。読まずに、ただそばにいる。それが、二人のあいだの、いちばん確かな約束だった。冷たい手のなかに戻った、わずかな力が、その約束の証のように、(すず)の手のひらを押していた。



小夜(さよ)が、戸口から、廃屋の中を、覗いていた。


姉と(はなだ)の繋いだ手を見て。それから、そっと戸を閉めた。閉める前に、小さく、言った。


「九十八点。……二点は、もっと早く、手を繋がなかった分」


(すず)は笑った。涙の混じった、笑いだった。



夜半、(すず)は、廃屋を出て、傷痕(きずあと)の方角を見た。


聖山の麓。半年前、(はなだ)が縹色を注いで封じた、結界の裂け目。そこから、潮の匂いが立っていた。前より、ずっと濃い。大潮が、近い。春の、いちばん高い潮が。本灯(もとび)が、いちばん、弱るとき。


その聖山の頂に、本灯(もとび)の間が、あった。


空席の白い座が。(すず)を月ごとに引いてきた、あの座が。八つの節の、結び目の結び目。座らずに、八州いちどに、要石(かなめいし)を解く、ただひとつの場所。(すず)が、いちばん近づきたくない場所が、目の前に、あった。


右手の糸が、座へ、引かれていた。


こめかみの、二すじの白が、夜気に、冷たかった。


「待ってて」

(すず)は、座のある聖山に、向かって、呟いた。

「座りには、行かない。……座らせないために、行く」


潮の音が、廃村の、下から、聞こえた。前より、ずっと大きく。


大潮まで、あと、十日。


唄は、完うした。網は、八州に撒いた。(はなだ)は、まだこちら側にいる。(じん)は、殿(しんがり)で賞金稼ぎを止めている。琥珀(こはく)は、節を見張っている。揃うものは、揃いつつ、あった。


あとは、いちばん高い潮が来る前に、聖山を登り、本灯(もとび)で、座らずに、八州の網に、合図を送り、いちどに歌う。


そのひとつが、いちばん、難しかった。


座のある場所で、座らない。それを、世界が、いちばん、座れと言う、その瞬間に、やりきる。


聖山の頂の本灯(もとび)は、夜のなかでも白く見えた。火柱が、細く、明滅している。主を欠いた火だった。あの火の根元に、空席の座がある。(すず)を月ごとに引いてきた座。母が逃げ、(はい)が果てた座。世界じゅうの落ちかけた節が、いちばん強い糸を求めて、あの座へ(すず)を引いている。座れば、世界は止まる。座らなければ、ひとつずつ節が落ちる。その二つしかない、と三百年、人は信じてきた。(すず)は、三つ目の道を、自分の喉のなかに抱えていた。完うした唄を。あとは、それを、いちばん座れと言われる場所で、座らずに流すだけだった。


(すず)は、廃屋に戻った。(はなだ)の冷たい手の隣に、また座った。眠らずに。引かれる半分を、繋ぎ止める、見張りとして。


夜が明けるまで、二人は、同じ闇の中にいた。読まない目と、座らない手とが、互いを手放さずに。

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