第9話 縹の半分
灯都が、見えてきた頃から、縹は、立てなくなった。
聖山の白い影が、地平に、にじむ。半年前、鈴が、大灯を変えた、あの都。その聖山の麓に、傷痕はある。縹が自分の色を注いで封じた、結界の裂け目。
近づくほど、縹は、衰えた。
「半分が」
縹は、荷車の上で——紬の隣に、寝かされて、言った。
「引かれてる。裂け目に。……一年、ずっと、半分は、あそこにいた。離れてたから、引きも、弱かった。近づくと、強くなる。私の半分が、裂け目に、帰ろうとしてる」
「帰っちゃ、駄目」
鈴は言った。
「帰りたくて、帰るんじゃ、ない」
縹は、薄く、笑った。
「向こうが、呼ぶんだ。お前の右手の糸が、座に引かれるのと、同じだ。系が、ばらばらになったものを、もとの場所へ、戻そうとしてる。……座は、お前を。裂け目は、私の半分を」
道中ずっと、縹は荷車に揺られながら、自分の体のどこかが少しずつ遠くへ運ばれていくような心地でいたという。灯都が近づくほどその感覚は強くなり、いまでは目を閉じると裂け目の底の冷たい暗がりがすぐそこに見えるのだと、彼は淡々と語った。一年ものあいだ半分だけをあちらに置いて生きてきた男にとって、こうして引き戻されることはむしろ自然なことなのかもしれなかった。
鈴は、縹の手を取った。氷のように、冷たかった。
裂け目に近づくことが、唄を完うするためのただひとつの道だった。本灯は、灯都にある。けれど、その同じ道が、縹を裂け目へ引いていく。世界を救う道が、縹を、奪う道だった。
鈴は、握った手を放さなかった。放せば、そのぶん向こうへ引かれていく気がした。縹の指は、関節のひとつひとつが冷えていた。一年前、結界の亀裂に縹色を注いだあの夜から、この人の半分は裂け目の底にある。残った半分だけで、薪を測り、足音を聞き分け、鈴を見てきた。半分の体で、丸ごとの仕事をしてきた。それがいま、近づくほどに、残りの半分まで持っていかれそうになっている。鈴は、自分の右手が座へ引かれるのと、縹の半分が裂け目へ引かれるのとが、同じひとつの力なのだと思うと、その力を心底、憎らしく思った。
◆
南へ下る十日あまりのあいだに、紬の体は驚くほど軽くなっていた。低い音をひとつ鈴に渡すたび、老婆の中から何かがそっくり抜けていくようで、はじめ百近い体に残っていた重みが、日を追うごとに枯れ枝のそれに変わっていった。それでも紬は、移すのをやめなかった。残された日数と、覚えてもらわねばならぬ音の数とを、その濁った目の奥で天秤にかけながら、一日に一つずつ、確かに渡していった。
その夜、紬が、最後の音を、移した。
荷車の上で、もう起き上がれなかった。声も、糸のように、細かった。それでも紬は、いちばん低い最後のひとつを、鈴の喉に移した。
「……入ったかい」
紬は、訊いた。
鈴は、その音を出してみた。腹の底の、もっと下から。言霊を乗せて。北の節のいちばん深い、最後の音が出た。母が、出せずに死んだ音の、その先の、最後の音が。
「入った」
鈴は言った。
「ばあさま。北の節、ぜんぶ、入った。あたしと、小夜の、二人の喉に」
紬の、濁った目に、光るものが、にじんだ。
「……これで、唄は、滅びない」
紬は、囁いた。
「三百年、あたしらが、隠して、継いできた唄が。おまえさんと、小夜に、移った。あとは——皆で、歌うだけだ。母さんが、できなかったことを。おまえさんが、やりな」
紬の手が、鈴の手の中で、ゆっくり力を、失った。
「唄は」
紬は、最後に、言った。
「溜めるものじゃ、ない。流すものだ。……あたしは、流しきった。空っぽに、なった。……いい、気分だ」
その夜、紬は、逝った。
最後の唄い手が、唄をぜんぶ流しきって。空っぽになって。鈴と小夜は、紬を北の方角へ頭を向けて葬った。覚えの講の節で。紬の名を、二人の口で、覚えながら。紬。糸を紡ぐ、紬。逝った者の名を、覚える者が、いれば、その名は、消えない。
唄は、完うした。
けれど、それを、運んできた者は、もういなかった。
鈴は、紬の最後の言葉を、何度も口のなかで転がした。流しきった、空っぽになった、いい気分だ。あれは、負け惜しみでも強がりでもなかった。底から、満ち足りた声だった。百年近く、ひとりで唄を抱えてきた者が、その重みをぜんぶ手放して、軽くなって逝った。溜め込んだまま死ぬのではなく、流しきって死ぬ。それが、唄持ちの生き方なのだと、鈴は紬の冷たくなった手から教わった。母も、北の里でこの生き方を見たはずだった。見て、半分しか持ち帰れずに、流しきれずに死んだ。母の流せなかったぶんまで、いま鈴の喉に溜まっている。溜めたままでは、母と同じになる。流さなければならなかった。八州じゅうに。
◆
紬を葬った翌朝も、一行はほとんど口をきかなかった。最後の唄い手を失ったというのに、唄そのものは鈴と小夜の喉のなかで生きていて、その矛盾めいた手応えが、二人の悲しみをいっそう静かなものにしていた。荷車は軽くなっていた。運ぶべき老婆がいなくなったぶんだけ、車輪の音がやけに大きく聞こえた。その音を聞きながら、鈴は紬の言葉を何度も思い返した。唄は溜めるものではなく流すものだ、と。
灯都の麓の、廃村に、一行は、身を、潜めた。
半年前まで、灯都の州のいちばん貧しい郷だった場所。大灯が変わって、人はめいめいの色の灯を灯しはじめた。けれど、この村は、傷痕に近すぎて、潮に、見放されていた。誰も、住まなくなった、廃墟。そこに、鈴たちは、隠れた。本灯への、最後の足場として。
縹は、もうほとんど、動けなかった。
廃屋の囲炉裏の前に、横たわって。傷痕の方角へ顔を向けて。一年、夜ごとそうして眠った、その姿のまま。けれど今度は、眠るためでは、なかった。引かれる半分を、繋ぎ止めるために、全身で、踏ん張っていた。
鈴は、その隣に座った。
「ねえ」
鈴は、言った。
「あんた、あたしのこと、いまも、見える?」
「見える」
縹は、すぐに、答えた。見えない目を、鈴のほうへ、向けて。
「ずっと、見えてる。お前が、唄を運ぶ、足音が、変わったのも。北の節の、最後の音を、出したとき、お前の声が、半分、母御の声に、なったのも。……白が、二すじに、なったのも」
「白、見えるの?」
「見える、というか」
縹は、言葉を、探した。
「読めない目に、なって、分かったことがある。世界じゅうが、お前を白き読み手として見る。称号で。役目で。……私は、それが、読めない。白も、称号も、役目も、読めない。私に見えるのは、ただの、お前だけだ。罠を張って、妹の汁を作る、灰郷の、鈴。……世界で、私だけが、お前を、ただの鈴として、見てる。読まないから」
鈴の、目の奥が、熱く、なった。
世界じゅうが、鈴を白き読み手と呼ぶ。敵も、味方も。称号の檻が両側から閉じていく。その中で、たったひとり縹だけが、鈴をただの鈴として見ていた。読まない目で。役目を、読まない目で。
「……その目を」
鈴は、掠れた声で、言った。
「裂け目に、持っていかれたく、ない」
「私も」
縹は、薄く、笑った。
「お前を、見ていたい。まだ、見ていたいことが、いくつも、ある。お前が、座らずに、世界を皆に返す、その顔を。お前が、力を手放して、ただの鈴に、戻る、その顔を。……それを、見るまでは、裂け目に、帰る気は、ない。忙しいんだ。見たいものが、多すぎて」
忙しい。
半年前にも、聞いた言葉だった。愛してる、と言う代わりに、忙しい、と言う男。読み切れないものを、読み切れないまま、毎日見続ける。それが、この人の愛の言い方だった。
鈴は、縹の冷たい手を、両手で包んだ。引かれる半分を、こちら側に、繋ぎ止めるように。
「縹」
鈴は言った。
「本灯で、唄を完うしたら。傷痕は、塞がる。もともとの、塞ぎ方で。……そしたら、あんたの半分も、戻る。裂け目から。一年ぶりに。丸ごと、こっちに」
「……そうか」
「だから、それまで、いて」
鈴は言った。
「持っていかれないで。唄を完うするまで。あと、すこし。あと、本灯まで」
縹は、しばらく黙っていた。それから、鈴の手を握り返した。冷たい手に、わずかに力が戻った。
「いる」
縹は言った。
「必要なくても。……いや。今度は、必要だな。お前が、唄を完うするのに、私の秤が、要る。傷痕の容態を、最後まで、量れる計器が。……生きた計器は、まだ、壊れるわけには、いかない」
鈴は、その言い方に、すこし笑った。必要だから、いる。この人は、いつもそうやって、感情を仕事の言葉にくるんで差し出す。愛している、とは言わない。秤が要る、計器が壊れるわけにはいかない、と言う。けれど、その不器用さの底にあるものを、鈴はもう読み違えなかった。縹は、鈴に読まれることを望まない。鈴も、縹を読もうとしない。読まずに、ただそばにいる。それが、二人のあいだの、いちばん確かな約束だった。冷たい手のなかに戻った、わずかな力が、その約束の証のように、鈴の手のひらを押していた。
◆
小夜が、戸口から、廃屋の中を、覗いていた。
姉と縹の繋いだ手を見て。それから、そっと戸を閉めた。閉める前に、小さく、言った。
「九十八点。……二点は、もっと早く、手を繋がなかった分」
鈴は笑った。涙の混じった、笑いだった。
◆
夜半、鈴は、廃屋を出て、傷痕の方角を見た。
聖山の麓。半年前、縹が縹色を注いで封じた、結界の裂け目。そこから、潮の匂いが立っていた。前より、ずっと濃い。大潮が、近い。春の、いちばん高い潮が。本灯が、いちばん、弱るとき。
その聖山の頂に、本灯の間が、あった。
空席の白い座が。鈴を月ごとに引いてきた、あの座が。八つの節の、結び目の結び目。座らずに、八州いちどに、要石を解く、ただひとつの場所。鈴が、いちばん近づきたくない場所が、目の前に、あった。
右手の糸が、座へ、引かれていた。
こめかみの、二すじの白が、夜気に、冷たかった。
「待ってて」
鈴は、座のある聖山に、向かって、呟いた。
「座りには、行かない。……座らせないために、行く」
潮の音が、廃村の、下から、聞こえた。前より、ずっと大きく。
大潮まで、あと、十日。
唄は、完うした。網は、八州に撒いた。縹は、まだこちら側にいる。燼は、殿で賞金稼ぎを止めている。琥珀は、節を見張っている。揃うものは、揃いつつ、あった。
あとは、いちばん高い潮が来る前に、聖山を登り、本灯で、座らずに、八州の網に、合図を送り、いちどに歌う。
そのひとつが、いちばん、難しかった。
座のある場所で、座らない。それを、世界が、いちばん、座れと言う、その瞬間に、やりきる。
聖山の頂の本灯は、夜のなかでも白く見えた。火柱が、細く、明滅している。主を欠いた火だった。あの火の根元に、空席の座がある。鈴を月ごとに引いてきた座。母が逃げ、灰が果てた座。世界じゅうの落ちかけた節が、いちばん強い糸を求めて、あの座へ鈴を引いている。座れば、世界は止まる。座らなければ、ひとつずつ節が落ちる。その二つしかない、と三百年、人は信じてきた。鈴は、三つ目の道を、自分の喉のなかに抱えていた。完うした唄を。あとは、それを、いちばん座れと言われる場所で、座らずに流すだけだった。
鈴は、廃屋に戻った。縹の冷たい手の隣に、また座った。眠らずに。引かれる半分を、繋ぎ止める、見張りとして。
夜が明けるまで、二人は、同じ闇の中にいた。読まない目と、座らない手とが、互いを手放さずに。




