第8話 火を配る男
東の沿岸は、海の、底だった。
鈴たちが、唄を撒きながら、本灯へ向かう道は、いちど、東の焼け跡を、通った。半年前、燼が、州灯を砕いた、その州。節が落ち、毒の潮が、音もなく、村を呑んだ、その沿岸。
水は、引いていなかった。
家の屋根だけが、水面から、出ていた。柱に、家の形のまま、縄の結ばれたものが、いくつも、漂っていた。梶の村だけでは、なかった。沿岸の、いくつもの村が、こうして、潮の下に、沈んでいた。数えられない死が、水の下に、あった。誰も、数えに、来られなかったから。
水の下に沈んだ村々の屋根が、傾いた墓標のように水面から突き出ていた。鈴たちが通った半年前の灰郷でさえ、これほどの静けさではなかった。ここには鳥の声も、虫の音もない。毒の潮が、生きているものすべてを底へ引きずり込んだあとの、息を呑むような無音だけがあった。その無音の重さが、これからこの焼け跡で出会う男の罪の重さを、言葉より先に教えていた。
鈴は、その水際を、歩きながら、言葉を、失くした。
これを、燼が、やった。時間を作る、と言って。鈴の網が、広がりきるまでの、時間を。あの夜、見張りの火で、聞き流した、あの言葉の、果てが、これだった。
鈴は、水面に突き出た屋根のひとつに、目を留めた。柱に縛りつけられた縄が、潮に揺れている。誰かが、家族を大黒柱に結んで、流されまいとしたのだろう。それでも潮は、結んだ縄ごと、村を呑んだ。梶だけが、岩に打ち上げられて生き残った。生き残ったことが、罰のようになる場所が、この世にはある。鈴は、その縄を見ていられなくて、目をそらした。そらした先に、また別の屋根があった。どこを見ても、沈んだ暮らしの跡が、水面から手を伸ばしていた。
「火が」
小夜が、水際の、高台を、指した。
「あそこ。誰か、火を、焚いてる」
高台の、流民の野営に、小さな火が、いくつも、灯っていた。
その火のあいだを、ひとりの男が、歩いていた。火種を、配って。名は、名のらずに。左の眉の上に、古い傷のある、男が。
◆
燼は、鈴を見ても、驚かなかった。
火種を、ひとつ、老婆の手に、渡してから、ゆっくり、振り返った。半年で、痩せていた。頬がこけ、目の下に、影。けれど、その目だけは、乾いた薪のような、あの目では、なくなっていた。乾いて、燃えやすい目では、なく——濡れた、燃えない目に、なっていた。
「……来たか」
燼は言った。
「唄を、運んでるって、噂は、聞いた。北から、南へ。お前らしい」
「燼」
鈴は言った。
男の肩が、その名で、跳ねた。打たれたように。
「……その名で、呼ぶな」
燼は、目を、伏せた。
「おれは、もう、その名じゃ、ない」
「じゃあ、何なの」
「名のれない」
燼は言った。
「数千を、沈めた男に、名前は、要らない。名前は、呼ばれるためのものだ。おれを、呼ぶ資格のある奴は、おれが、沈めた水の、下にいる。……だから、名のらない。火だけ、配る。火は、名前が、要らないから」
鈴は、その言葉の、底を、見た。
燼は、逃げていた。自分の名から。名を、名のれば、その名が、やったことの、ぜんぶを、背負う。燼、という名が、数千の死を、背負う。だから、名を、捨てた。名なしの男に、なって、火を配る。罪を、名前から、切り離して。
火を配るのは、燼なりの償いのつもりなのだろう。けれど鈴には、それが償いには見えなかった。火種を渡して、すぐに次の野営へ歩いていく。礼を言われる前に立ち去る。名を訊かれても答えない。誰とも繋がらないまま、ただ火だけを置いていく。それは、罪を背負う姿ではなかった。罪から、できるだけ身軽になろうとする姿だった。良いことをして歩けば、沈めた村のことを、すこしは忘れていられる。燼は、火の温もりで、自分の凍えをごまかしていた。鈴には、それが分かった。同じ凍えを、鈴も知っていたからだった。
◆
その夜、流民の野営で、火を、囲んだ。
紬が、荷車の上で、低く、歌っていた。残り少ない、低い音を、鈴の喉に、移しながら。その唄を、聞いて、燼が、顔を、上げた。
「……その唄」
「護りの唄」
鈴は言った。
「世界を、犠牲なしで、保つ唄。あんたが砕いた節も、本当は、これで、保ててたんだ。三百年前まで。犠牲なんか、要らなかった。唄えば、よかった」
燼の顔が、歪んだ。
「……要らなかった?」
掠れた声だった。
「犠牲が、要らなかった?じゃあ、おれが、沈めた、あれは——」
「無駄だった」
鈴は、言った。残酷だと、知りながら。けれど、嘘を、つくほうが、もっと、残酷だった。
「時間を作る、なんて、要らなかった。唄を、見つければ、よかった。……でも、あのとき、誰も、唄を、知らなかった。あんたも、あたしも。知らなかったから、あんたは、焼いた。あたしは、止められなかった。……知らなかったことの、罰を、あの村が、受けた」
燼は、長いこと、火を、見ていた。
濡れた、燃えない目で。
◆
「梶さんって、人がいる」
鈴は、言った。
「あんたが沈めた村の、生き残り。覚えの講ってのを、始めた。逝った者の名を、覚える講。……沈んだ村の、九十三人の名を、ひとりで、暗唱してた」
燼の手が、火のそばで、止まった。
「梶さんが、あたしに、頼んだ」
鈴は、続けた。
「北で、潮に呑まれた村に行き当たったら、名を、覚えてきてくれって。覚える者がいれば、その名は、消えないって。……あたし、この沿岸で、覚えてきた。流民から、聞いて。沈んだ村の、名前を。いくつも」
鈴は、袋から、小さな板きれを、出した。小夜の、書く手で、書き留めた、東の死者の名。
「これ」
鈴は、それを、燼の前に、置いた。
「あんたが、沈めた人たちの、名前」
燼は、それを、見なかった。見られなかった。
「……読めない」
燼は言った。
「おれには、読む資格が」
「資格の話じゃ、ない」
鈴は言った。
「これは、罰でも、赦しでも、ない。……覚えるんだよ。あんたが、沈めた人の名を。あんたの口で。一人ずつ。梶さんが、九十三人を覚えたみたいに。……それが、たぶん、あんたの、いちばん、重い名のりだ」
燼の目が、板きれを、見た。見て、震えた。
「覚えたら」
燼の声が、掠れた。
「覚えたら、おれは、もっと、苦しいだけだ。顔も知らない、名前だけが、おれの中に、増えていく。眠れなく、なる。……何のために」
「逃げないために」
鈴は言った。
「いまのあんたは、火を配って、罪を、名前から、切り離してる。名のらなければ、罪は、自分のものじゃ、なくなる気がする。……でも、それ、逃げだ。覚えれば、逃げられない。死者の名を、ぜんぶ、自分の口に、抱えれば。あんたは、二度と、その罪から、逃げられない。……逃げられない者だけが、名のれる。燼、って」
火が、爆ぜた。
◆
燼は、その夜、板きれの、最初の名を、読んだ。
低い声で。つかえながら。
「……とよ。漁師の、とよ」
それから、しばらく、黙って、次の名を、読んだ。一人ずつ。顔も知らない、自分が沈めた者の名を。覚えるために。自分の口の中に、抱えるために。逃げないために。
ひとつ名を読むたびに、燼の肩が小さく震えた。顔も知らぬ者の名を、自分の声で呼ぶということが、これほど重いものだとは思っていなかったのだろう。けれど彼は途中でやめなかった。読み終えた名を、口のなかで何度か繰り返し、それから次の名へ移った。覚えるとは、抱えるということだった。逃げないとは、降ろさないということだった。
鈴は、その横顔を、見ていた。
半年前、灰郷の囲炉裏端で、獲物を分け合った男。州灯を砕き、数千を沈め、名を捨てて、火を配って歩いた男。その男が、いま、自分の沈めた者の名を、一人ずつ、口に、抱えはじめていた。それは、赦しでは、なかった。赦されることを、燼は、求めていなかった。覚えること。逃げないこと。それだけが、燼に、できる、ただひとつのことだった。
「鈴」
燼が、名を読むのを、止めて、言った。
「ひとつ、訊いていいか」
「うん」
「お前と、縹は」
燼は、火を見たまま、言った。
「……もう、決まってるのか」
鈴は、答えなかった。答えの代わりに、土間の隅で、薪を測る、縹のほうを、見た。見えない目が、火のあたりを、向いている。読まない目で、ただ、そこにいる。
「……そうか」
燼は、鈴の沈黙を、答えとして、受け取った。
それから、薄く、笑った。半年ぶりの、笑いだった。乾いてはいなかった。濡れてもいなかった。ただ、やわらかい、諦めの、笑いだった。
「いいんだ」
燼は言った。
「おれは、お前を、呼ぶ資格を、まだ、持ってない。名のれない男が、誰かを、呼べるか。……おれは、まず、自分を、名のれるように、なる。死者の名を、ぜんぶ、覚えて。それから——枯れ野の、罠の輪を、結び直しに、帰る。獲物を、分け合う資格を、取り戻して。お前と縹の、汁の鍋に、おれの分の椀も、混ぜてもらえるように」
「四人が、五人になる」
鈴は言った。
「いつでも」
「五人で」
燼は、頷いた。
「いつか」
鈴の胸の奥が、すこし軋んだ。燼を、嫌いではなかった。半年前、囲炉裏端で獲物を分け合った夜の温かさを、忘れたわけでもなかった。けれど、鈴の心は、もう土間の隅の、薪を測る男のほうへ傾いていた。それを、燼に嘘で隠すことはできなかった。隠さなかったことを、燼は責めなかった。責める代わりに、自分の帰る道を、自分で見つけた。恋ではなく、道を。鈴は、それでいいのだと思った。三人で、無理にひとつの答えに丸め込まずに、それぞれの道で、また五人の鍋に集まればいい。
◆
賞金稼ぎが、来たのは、明け方だった。
東の焼け跡にも、鈴の首の触れは、回っていた。米百俵。野営を、嗅ぎつけた、五人ほどの、ならず者。流民の火を、目印に。
「行け」
燼が、立ち上がった。手に、いつのまにか、弓が、あった。
「お前らは、唄を、運べ。ここは、おれが、止める。……火を配る男には、これくらいの、用しか、ない」
「燼——」
「殿だ」
燼は、言った。昔の、狩りの言葉で。
「お前が罠で、おれが弓。昔から、そうだろ。お前は、生かす側を、ぜんぶ、やれ。おれは、止める側を、やる。……今度は、焼かない。止めるだけだ。それくらいは、名なしの男にも、できる」
鈴は、唇を、噛んだ。それから、頷いた。
「死なないで」
「お前にだけは、言われたくない台詞だ」
燼は、笑った。
「行け。唄を、完うしろ。本灯で、座らずに、世界を、皆に、返せ。……おれの沈めた村も、その唄で、いつか、弔ってくれ。覚えの講で。それが、おれの、頼みだ」
鈴たちは、東の焼け跡を、北東へ、発った。
背後で、燼の弓が、賞金稼ぎを、ひとり、またひとり、退けていく音が、聞こえた。焼く弓では、なかった。止める弓だった。生かす側の、足を、止めさせないための、弓だった。
火を配る男は、いま、唄を運ぶ者の、殿に、なっていた。
弓の音は、規則正しかった。焼く者の弓は、的を貫いて殺す。止める者の弓は、的の足を止めて、それ以上来させない。同じ弓でも、引き方が違う。燼は、半年かけて、その引き方を変えたのだろう。鈴は、背中で、その違いを聞いた。一本ごとに、男が自分を作り直していく音だった。死者の名を口に抱え、賞金稼ぎの足を止め、いつか自分を燼と名のれる日まで。男の弦の音が、夜明けの焼け跡に、長く尾を引いていた。
鈴は、振り返らなかった。振り返れば、足が、止まる。燼の、ひとつずつ覚えはじめた死者の名と、結び直されるのを待つ罠の輪を、北東への道に、置いて。
時計が、鳴っていた。大潮まで、あと、ひと月。




