第7話 本灯の空席
南へ下りながら、鈴は、唄を、撒いた。
要石は、もう解かなかった。一人ずつ解けば、その荷が、鈴に寄る。琥珀の州で、それを、思い知った。代わりに、鈴がしたのは、種を、撒くことだった。通る州ごとに、呼び講の輪を、訪ね、護りの唄を、教える。完うしていない唄を。北の節の、半分を。
「いまは、覚えるだけで、いい」
鈴は、輪の衆に、言った。
「いつか、合図を送る。そのとき、皆で、いちどに、歌って。八洲じゅうで。……そのための、稽古だと、思って」
合図が、何なのか、鈴は、まだ言えなかった。本灯で、八つの節を、いちどに解く。その日のための、八洲ぜんぶの合唱の準備。けれど、それを口にするには、唄が、まだ半分だった。
州ごとに、唄の受け取られ方は、違った。呼び講の根づいた州では、衆は、すぐに節を覚えた。呼び合うことに慣れた口は、歌うことにも、慣れていた。けれど、まだ灯改めの残る州では、人は、怯えた。唄を歌えば、読まれる、と思い込んでいた。鈴は、そういう州では、まず、一人の名を呼ぶことから、始めた。あんたの名は、と訊いて、その名を、呼び返す。呼ばれて、応える。その小さな結びから、唄は、ゆっくり芽を出した。
撒いた種が、いつ、芽吹くかは、分からなかった。けれど、撒かなければ、合唱は、起きない。鈴は、母が唄を運ぼうとした道を、逆向きに、北から南へ、唄を撒きながら、下っていった。
南へ向かう道は、唄を運ぶ道であると同時に、唄を植える道でもあった。鈴は通り過ぎる州ごとに足を止め、村の井戸端や炭焼き小屋に座り込んでは、護りの唄の半分を、覚えてくれそうな者の喉へ移していった。覚えた者がまた隣の村へ運ぶことを願って、種を撒くようにして歩いた。いつ芽吹くかは分からなかったが、撒かなければ何も育たないことだけは、灰郷の半年で骨身に染みていた。
紬は、荷車の上で、日に日に、細っていった。
低い音を、ひとつ移すたびに、紬の中から、それが、消える。あと、四つ。あと、三つ。老婆は、自分の命を、唄に、両替していた。鈴の喉に、母から継いだ血の、いちばん深い音が、ひとつずつ、積もっていった。
荷車の轍が、土の道に細く残った。紬の体は、もう自分では寝返りも打てなかった。小夜が筵を直し、鈴が水を含ませた布を唇に当てる。それでも紬は、移すのをやめなかった。日に一つ、確かに渡す。渡したぶんだけ、老婆は軽くなり、鈴は重くなった。重くなるというのは、責めを引き継ぐということだった。北の節のいちばん低い半分は、八洲を保つ唄の、底の支えだった。その支えが、いま、紬の喉から鈴の喉へ、移されていく。鈴は、自分が一本の水路になっていくのを感じた。紬が言った、流れる途中の水路に。詰まれば唄は滅び、流れていれば唄は生きる。
「あと、三つ」
紬が、目を閉じたまま、囁いた。
「もてば、いい。もてば、唄は、滅びない」
◆
琥珀が、一行に、加わっていた。
座を降りた要石は、歩くのが、おぼつかなかった。けれど、その目は、鈴や縹に、見えないものを、見た。
「節が、軋んでる」
ある朝、琥珀が、北東を、向いて、言った。
「三つめの州の、節。要石が、限界。……あの州の要石は、もう、五十年、座ってる。削られすぎて、糸が、細い。近いうちに、落ちる」
「落ちたら」
鈴は、訊いた。
「州が、沈む」
琥珀は、静かに言った。
「灰どのの死で、灯都の本灯が、主を、欠いた。本灯は、八つの節を、束ねる、結び目の、結び目。その主がいないと、八節の負荷が、釣り合わない。……だから、いちばん弱い節から、順に、落ちていく。本灯の空席が、八洲ぜんぶを、壊してる。いちばん奥の、真因が、それ」
鈴は、自分の右手を、見た。北東へ、引かれる糸。本灯の、空席の座へ。
座が、空いているから、世界が、壊れる。座に、誰かが、座れば、世界は、止まる。その誰かに、いちばん、近いのが、鈴だった。八節の帳が、いちばん強い糸を、求めている。鈴を。
琥珀の言葉は、淡々としていた。三百年座ってきた者の、世界の壊れ方を知り尽くした声だった。本灯の空席が真因だ、と琥珀は言う。灰が果てて、八つの節を束ねる主がいなくなった。束ねる手のない八本の糸が、互いに引き合い、いちばん弱いところから切れていく。それを止めるには、空席に主が座ればいい。座れば、世界は止まる。止まるだけだ。先延ばしだ。鈴は、その理屈の出口のなさに、息が詰まった。座れば止まり、座らなければ落ちる。三百年、誰もその二択を抜けられなかった。抜ける道は、空席を空席のまま、八洲の唄で束ね直すことだけだった。誰も、やったことのない道だった。
◆
三つめの州の節が、落ちかけたのは、その日の、夕だった。
一行が、その州の、沿岸の村に、さしかかったとき。琥珀が、足を、止めた。縹が、胸を、押さえた。生きた計器と、元・要石、二人が、同時に、北東でない方角——足元の、地の底を、向いた。
「落ちる」
琥珀が言った。
「いま。この州の、節が」
地が、鳴った。
遠い州灯の方角で、火柱が、明滅した。沿岸の村の、井戸の水が、ざわめいた。潮の匂いが、立った。村人が、家から、出てきた。何が起きたか、分からない顔で。けれど、鈴には、分かった。彼らの足元の、結界の結び目が、いまほどけかけていた。この村が、この州が、潮に、沈もうとしていた。
村人たちは、まだ何も知らずにいた。井戸端で水を汲もうとした女が、桶の中の水面が小刻みに震えるのを、不思議そうに見ていた。子どもが一人、家の戸口から顔を出して、空を見上げた。地が鳴る音を、雷だと思ったのだろう。誰も、自分たちの足の下で、世界を繋ぐ糸がほどけかけていることを知らない。知らないまま、暮らしを続けている。その無防備さが、鈴の胸を抉った。半年前、灰郷の人々も、こうだった。何も知らずに、ただ生きていて、ある朝、薪にされる側へ振り分けられた。
鈴の右手が、熱く、なった。
糸が、いっせいに引かれた。落ちかけた節の荷が、いちばん強い糸を求めて。鈴を。座れ、と、世界が、言っていた。お前が、荷を、引き受けろ。お前なら、できる。お前は、移ろい火。あらゆる色を握る火。お前が、握れば、この州は、沈まない。村人は、死なない。座れ。いま。ここで。
鈴の右手が、ひとりでに、上がった。
落ちかけた節の、荷のほうへ。引き受ける形に。座る形に。指が開いた。その荷を、握るために。一握りで、村が、救える。一握りで、鈴は、灰に、近づく。半年前、灰が、立っていた、あの岐れ道に、鈴は、立っていた。村人の、何も知らない顔が、目の前に、あった。座れば、この顔が、救われる。
「鈴姉、駄目!」
小夜の声が、飛んだ。
「歌って!」
その一言が、鈴の、上がった手を、止めた。
呼ばないで。歌って。——いつか、小夜が、炉の前で、言った言葉と、同じ形だった。座るな。握るな。歌え。鈴の手が、握る形から、止まった。代わりに、鈴は、息を、吸った。腹の底の、もっと下から。
歌った。
護りの唄を。完うしていない、半分の唄を。紬の低い音を、鈴の喉で。小夜の高い音を、隣で。村の、まだ唄を知らない衆に、急いで、節を、渡した。受けて、と。一緒に、歌って、と。
村人が、戸惑いながら、低い節を、受けた。
落ちかけた節の荷が、宙で、揺れた。鈴の手に、握られかけて——握られずに、村の、いくつもの声に、分かれて、いった。完うしていない唄では、足りなかった。足りない分を、鈴の言霊が、辛うじて、繋いだ。半分の唄と、にわか仕込みの村の声と、鈴の血の、いちばん深い音とで。
節が、落ちなかった。
辛うじて。ぎりぎりで。
村の声は、揃ってなどいなかった。半分は節を間違え、半分は怯えて声が小さかった。それでも、声は声だった。数十のばらばらな声が、鈴の半分の唄の足りないところを、寄ってたかって埋めた。一人ひとりは頼りなくても、束になれば、落ちかけた荷を辛うじて受け止めた。鈴は、その手応えのなかに、本灯でやろうとしていることの縮図を見た。完うした唄と、揃った網があれば、もっと楽に保てる。いまはまだ、何もかもが半分で、にわか仕込みで、ぎりぎりだった。
◆
村は、沈まなかった。
けれど、鈴は、その場に、膝を、ついた。立っていられなかった。半分の唄で、座らずに節を保つ。それは、要石が座ってするより、ずっと無理な、力の使い方だった。鈴の言霊が、根こそぎ、持っていかれた。
縹が、駆け寄った。鈴の、こめかみに、手を、触れた。
「白が」
縹の声が、固かった。
「……伸びてる」
鈴は、自分では、見えなかった。けれど、分かった。ひとすじだった白が、いま二すじに、なっていた。座らずに節を保った、その無理の代償。座らなかったのに、白くなった。座らないことすら、鈴を、削っていた。
縹の指が、その二すじめを、たどった。見えない目で、白の長さを測るように。指の腹は、冷たかった。一年、半分を裂け目に置いている男の手は、いつも体温が足りない。その冷たい指が、鈴のこめかみに触れていると、自分がどれだけ削られたかを、他人の手のひらで知らされる気がした。鈴は、目を閉じた。座っても白くなる。座らなくても白くなる。逃げ道は、どちらにもなかった。あるのは、白くなる速さの違いだけだった。
「これじゃ——」
鈴は、掠れた声で、言った。
「これじゃ、続かない。一州、保つたびに、白が、伸びる。八洲、保ってたら、本灯に着く前に、あたしは、白く、なりきる。灰に、なる。座らなくても」
「分かってる」
縹の声が、低かった。
「座れば、楽だったんだ」
鈴は、村人の、ほっとした顔を、見た。
「いま、座れば。一握りで、この村は、もっと楽に、救えた。あたしが、白くなるだけで。村人は、誰も、死なずに。……灰は、これを、何十年も、見てたんだ。座れば救える顔を。座らなければ、死ぬ顔を。毎日。だから、座ったんだ。優しさで」
鈴は、初めて灰を、半分、許せそうになった。
許せそうになった自分が、こわかった。それが、座への入口だった。
灰の声が、記憶の底から、また、聞こえた。私になりなさい。それが唯一の救い。半年前、鈴は、その言葉を、何も考えずに、嫌だと思った。いまは、嫌だと思う理由が、減っていた。座れば、村が沈まない。座れば、街道の少年が薪にされない。座れば、目の前の顔が、ぜんぶ、救われる。灰の言った「唯一の救い」が、すこしずつ、唯一に、見えてきていた。
それが、いちばん、こわかった。世界が、鈴を、座へ、馴らしていく。優しさを、餌にして。一州、保つたびに。一人、救うたびに。鈴の中の「座らない」という芯が、すこしずつ、削られていく。白が伸びるのと、同じ速さで。
◆
「だから、急ぐんだ」
その夜、鈴は、立ち上がって、言った。
膝が、まだ、震えていた。それでも、立った。
「一州ずつ、保ってたら、間に合わない。あたしの白が、先に、伸びきる。……本灯まで、いっきに、行く。八洲の網に、唄を仕込んで、本灯で、いちどに、解く。一州ずつ救うんじゃなくて、八洲、いちどに。そうすれば、荷は、あたしに寄らない。八洲の皆に、分かれる。あたしは、白く、ならない」
「唄は、まだ、半分だぞ」
縹が、言った。
「紬ばあさまが、残りを、移してくれる」
鈴は、荷車の、紬を、見た。老婆の息は、浅かった。あと、三つ。あと、三つの低い音を、移しきる前に、紬が、逝かなければ。
「間に合わせる。唄を、完うする。本灯に、着くまでに」
「大潮は」
琥珀が、静かに、訊いた。
「春の大潮が、来る。本灯が、いちばん、弱るとき。それまでに、着けるか」
膝の震えはなかなか止まらなかった。半分の唄で節を保つということが、これほど体を削るものだとは思わなかった。要石が座ってする仕事を、座らずにやろうとすれば、その無理はすべて自分の身に返ってくる。一州を保つたびに白が伸びるのなら、八洲を保ちきる前に自分は灰になってしまう。座らないという道は、確かにあった。けれどその道は、まっすぐ歩けば歩くほど、座る道よりも早く自分を白く染めていくのだった。
鈴は、北東の空を、見た。
本灯の、空席の座。鈴を、月ごとに、引いている、あの座。いちばん近づきたくない場所へ、いちばん急いで、向かわなければ、ならなかった。座らないために。座のある場所へ。
「着く」
鈴は言った。
「春までに。唄を、完うして。網を、揃えて。……座らずに、世界を、皆に、返す」
村の灯が、夜の中で、低く、歌っていた。
辛うじて、保った節の下で。にわか仕込みの、半分の唄で。それでも、村は、沈まなかった。皆で、歌ったから。
その灯を、鈴は、二すじになった白の下で、見ていた。
座らなければ、白くなる。座れば、灰になる。その二つの、あいだの、細い道を、唄が、通っていた。半分の唄が。完うすれば、太い道に、なる道が。
鈴は、その細い道を、北東へ、歩き出すしか、なかった。
荷車の上で、紬が低く息をしていた。あと三つ。残りの低い音を移しきる前に、この人が逝けば、唄は永遠に半分のままになる。半分の唄では、八洲を保ちきれない。今夜の村のように、毎回ぎりぎりで、毎回鈴の白が伸びる。鈴は、紬の手をそっと握った。前より、また軽くなっていた。命を唄に両替する作業は、終わりに近づいていた。終われば、この人はいなくなる。残るのは、鈴と小夜の喉のなかの、完うした唄だけだ。それだけを頼りに、本灯へ行く。
座らされる前に。白く、なりきる前に。大潮が、来る前に。
時計が、いくつも、同時に、鳴っていた。前より、ずっと速く。




