第6話 解ける錨
琥珀の州を出てから、一行の足取りはどこか軽くなっていた。三百年で初めて座を降りた要石が、自分の足で歩き、自分の名を探そうとしている。その姿が、これから八州で起ころうとしていることの、小さな先触れのように思えたからだった。荷車には紬が横たわり、その傍らを鈴と小夜が歩き、後ろから琥珀がついてくる。唄を運ぶ者たちの列は、日ごとに、ひとりまたひとりと、解かれた者を加えていくのかもしれなかった。
南へ下る道は、唄の、稽古場だった。
紬は、馬には乗れなかった。荷車の、筵の上に、寝かされて、運ばれた。百に近い体は、北の里を出てから、目に見えて、細っていった。唄を、ひとつ鈴に移すたびに、自分の中から、何かが、抜けていくようだった。
「これでいい」紬は、低い音を、ひとつ、移し終えるたびに、言った。「移したものは、あたしの中から、消える。それで、いいんだ。唄は、溜めるものじゃ、ない。流すものだ。あたしは、流す途中の、水路でね。詰まっていたら、唄は、滅びる。流れていれば、生きる」
唄を移す刻は、いつも夜明け前と決まっていた。里を出てから紬がそう決めた。一日のうちで人の声がいちばん澄む時刻だという。鈴は荷車の脇に膝をつき、紬の口元へ耳を寄せた。老婆は目を閉じたまま低い音をひとつだけ流す。鈴はそれを腹の底へ落とし込み、自分の喉で同じ音を返す。返せたら、その音は紬のなかから消えて鈴のものになる。返せなければ、もう一度。それだけの稽古だった。覚える、というより受け取る。受け取った音はもう紬には残らない。だから一度で覚えなければならなかった。
鈴は、荷車の脇を、歩きながら、北の節の、いちばん低い半分を、一日ひとつずつ、喉に、移された。
腹の底の、もっと下から、言霊を乗せて出す音。母が、腹の子のために、出せなかった音。鈴は、それを、歩きながら、覚えた。小夜が、上半分を、隣で、合わせた。姉妹の喉が、南北を、繋ぎはじめていた。母が、一人で、できなかったことを。
「あと、いくつ」鈴は、訊いた。
「七つ」紬は、目を閉じたまま、言った。「あと七つ、移せば、北の節は、ぜんぶ、おまえさんと、小夜の喉に、入る。……あたしは、それまで、もてばいい。もてば、唄は、滅びない。もてなくても——おまえさんたちが、七つの、欠けた唄を、いつか、自分で、埋める。母さんが、埋めようとしたように」
◆
十日めの夕、一行は、湾の奥の、岬を見た。
白壁の、長い蔵。半年前、鈴が、小夜を取り戻した、数え手の本山。累が逃げたあと、主を失った白い建物。その岬の上に、いまも、ひとつ灯がある。州灯だ。その根元に、座る者が、いた。
琥珀だった。
半年前と、同じ、白い座。けれど、糸の繋ぎ方が、違った。頁ではなく、自分の名のりだけで、座る要石。三百年の帳面の、どこにもない座り方で、琥珀は、州を、保っていた。
岬を登ると、琥珀は、鈴を見た。
「……来ると、思ってた」琥珀の声は、半年で、すこし、強くなっていた。毎日、使われはじめた声の音だった。「帳が、ざわついてる。北から、唄が、来るって。糸の上を、いろんなものが、通る。座っていると、聞こえる。……あなたが、唄を、運んでくる音も」
「琥珀」鈴は、座の前に、膝を折った。「あんたを、解きに来た」
琥珀の、まばたきが止まった。
「……解く?」
「唄で」鈴は言った。「あんたが座らなくても、この州を保つ方法を、見つけた。皆で、歌う。あんたの握ってる荷を、皆の声に、移す。……三百年で、初めて、要石が、座を降りて、生きる。あんたが、その、最初の一人だ」
◆
その州には、もう網が、あった。
半年前、鈴が解放した者たち。累の去った蔵の周りに、彼らは、呼び講の輪を、作っていた。覚えの講も。鈴が種を蒔いたのではない。蒔かれた種が、ひとりでに、育っていた。州じゅうの村に、名を呼び合う輪が、いくつも、灯っていた。
その輪に、鈴は、護りの唄を、教えた。
完うしていない唄だった。北の節の、まだ半分。それでも、紬の低い音と、小夜の高い音と、鈴の言霊が、揃えば、唄は、結び目を、握る形になった。州の呼び講の衆が、その節を受けた。受けて、すぐ渡す者になった。誰のものでもない唄が、州じゅうの輪を、巡りはじめた。
「いま」紬が、荷車の上から、囁いた。「いま、琥珀の糸を、唄に、移す。ゆっくり。一本ずつ。急ぐと——」
「急ぐと?」
「節が、落ちる」紬の声が、固くなった。「要石の荷は、重い。州ぜんぶの結び目だ。それを、唄に渡すとき、唄の側が、受けきれないと、荷は、宙に浮く。浮いた荷は、落ちる。州が、潮に、沈む。……ゆっくりだ。唄が、受けきれる分だけ、一本ずつ」
鈴は、琥珀の手を取った。
「歌うよ」鈴は言った。「あんたの糸を、皆に、移す。こわかったら、言って。いつでも、止める」
「こわくない」琥珀は、言った。即答だった。「三百年、座っていた。こわいのは、座り続けることの、ほうだ。……歌って」
唄が、満ちはじめた。
◆
琥珀の銀の糸が、一本、座から、ほどけた。
ほどけた荷が、宙に、浮く。州の結び目の、ひとつ分の重み。その重みが、唄に、向かって、流れる。呼び講の輪が、その一本を受けた。何十もの声が、すこしずつ、握った。一本の糸の重みが、何十人に分かれた。誰も、潰れなかった。重みが、皆に分かれたから。
二本目。三本目。
琥珀の座が、軽く、なっていく。糸が、一本ずつ、唄に、移る。州灯の火が、揺れる。けれど、消えない。皆の声が、保っているから。
四本目を、移したとき。
唄が、つかえた。
紬の、低い音が、途切れたのだ。荷車の上で、老婆の息が、浅くなっていた。低い半分を、移しきる前の、衰弱。唄の、いちばん下の支えが、揺らいだ。
その瞬間、宙に浮いた四本目の荷が、行き場を、失った。
落ちかけた。
州灯が、激しく、明滅した。岬の下で、潮が、ひと声、鳴いた。節が、落ちる——。
「鈴姉!」小夜が、叫んだ。
鈴は、考えるより、先に、口を開いた。
腹の底の、もっと下から。母の、出せなかった音を。紬の、途切れた低い半分を、鈴の喉が、引き継いだ。歩きながら、覚えた、その音で。唄の、いちばん下の支えが、鈴の言霊で、繋がった。
落ちかけた荷が止まった。
唄に、受け止められて。
鈴の額に汗が浮いた。冬の岬の風のなかで、汗だった。紬の支えが途切れたあの一瞬、州ひとつぶんの重みが鈴の喉ひとつにかかった。母が出せずに死んだ音が、その重みを受け止めた。出せなければ州が沈んでいた。鈴は、自分の喉から出た音が、こんなにも重いものを支えられることを、初めて知った。狩りの息を殺すだけだった喉が、世界の結び目を支えていた。荷車の上で、紬がかすかに頷くのが見えた。よく繋いだ、と言うように。
◆
鈴は、残りの糸を、ぜんぶ唄に、移した。
紬の低い半分を、鈴の喉が、代わりに、支えた。母から継いだ血の、いちばん深い音で。最後の一本が、ほどけたとき。
琥珀の座が、空になった。
琥珀の体が、座から、傾いだ。三百年——いや、この子にとっては、数年だが、その数年、座りっぱなしだった体が、立ち方を、忘れていた。鈴が、支えた。小夜も、駆け寄った。
琥珀が立った。
座を、降りて。糸を、皆に、預けて。州灯は、細く、けれど、灯っていた。皆の声が、保っていた。要石の、いない州。三百年で、初めて。
「……立てる」琥珀が、呟いた。半年前、頁を破られて結び直したときと、同じ言葉。けれど、今度は、座るためでは、なかった。「立てる。座らずに。……立てる」
琥珀の、琥珀色の小袖の下で、肌の色が、すこし変わった気がした。樹脂に閉じ込められた虫の、あの、囚われの色。それが、ほどけて、ただの少女の、血の色に、戻りかけていた。
「名前」鈴は、訊いた。「あんたの、本当の名前。累が付けた背表紙の題じゃ、ない、あんたの」
琥珀は、しばらく考えた。
「……まだ、思い出せない」琥珀は言った。「座る前のことは、霧の中。でも、これから、探す。立って、歩いて、探す。三百年で、初めて、座を降りた要石が、自分の名前を、探しに行く。……いい話でしょう」
鈴は頷いた。希望、という形を、その横顔は、していた。
琥珀は、立ったまま、しばらく自分の手のひらを見ていた。座っていた頃には、ただ糸を握るためだけにあった手だった。その手で、初めて、何も握らずに立っている。指を、ひらいて、また閉じた。当たり前のことが、当たり前にできる。三百年の座から降りた者には、それが、容易なことではなかった。鈴は、その指の動きから目を離せなかった。これが、解放の形だった。大げさな歓声も涙もない。ただ、手をひらいて、閉じる。それだけのことを、座る者は許されていなかった。
◆
その夜、鈴は、自分の右手を見た。
布の下で、銀の糸が——増えていた。
琥珀を解いた、その荷の、ひとすじが。州の呼び講が、ほとんどを受けた。けれど、いちばん最後に支えた、鈴の言霊に、その一本だけが、絡んでいた。座へ引かれる、北東への糸が、また一本、強くなっていた。
「……増えてる」鈴は、呟いた。
「ああ」縹が、囲炉裏の前で、言った。「私の秤も、感じた。琥珀の州の荷の、いちばん最後の一本が、お前に、絡んだ。網が、ほとんどを受けたが、最後の一本は、いちばん強い糸——お前に、寄った」
鈴の背を、冷たいものが、降りた。
「縹。それって——要石を、一人解くたびに、その荷の、いちばん最後の一本が、あたしに、絡むってこと?」
「そうだ」縹の声が、重かった。「一人ずつ、解いていけば。解くたびに、お前の座への引きが、強くなる。……要石を八人解けば、八本の最後の糸が、お前に絡む。お前は、八州ぶんの荷の、いちばん最後を、引き受ける、いちばん強い糸に、なる。それは——」
「本灯の、主」
鈴は、言葉を、失くした。
要石を一人ずつ解放するほど、鈴は、座へ近づく。良いことをするほど。皆を、自由にするほど。鈴自身は、白い座へ、引かれていく。
累の、言葉が、よみがえった。あなたが、唄を完うするのを、楽しみにしております。完うした果実が、座に、落ちる日を。
累は、知っていた。鈴が、要石を解放するのを、妨げなかった理由。妨げる必要が、なかったのだ。鈴が、要石を解くほど、鈴自身が、座に、熟れる。良い行いが、そのまま、累の、収穫になる。
半年前と、同じ罠だった。反逆が、そのまま、収穫。
鈴は、布の下の右手を、握り込んだ。増えた一本が、北東へ、低く垂れている。琥珀を救ったことを、悔いたくはなかった。あの子は立った。州は沈まなかった。それは確かに正しいことだった。けれど、正しいことをするたびに、鈴自身が座へ近づく。世界の仕組みが、鈴の善意を、燃料に変えていた。良い行いほど、よく燃える。累が妨げなかったのは、妨げる必要がなかったからだ。鈴は、自分の優しさが罠の餌になっていることを、火を見つめながら、ゆっくり呑み込んだ。
◆
「じゃあ、どうすればいいの」鈴は、声を、絞った。「要石を、解かなきゃ、皆、座り続けて、削られる。解けば、あたしが、座に、引かれる。……八人、解いたら、あたしが、本灯の主に、なる。あたしが、灰に、なる。それじゃ——」
「それじゃ、ただの、付け替えだ」縹が、言った。「八人の要石を、一人の白き読み手に、付け替える。それは、解放じゃ、ない」
火が、爆ぜた。
縹が、しばらく黙ってから、言った。
「一人ずつ、解くから、駄目なんだ」
「……え?」
「一人ずつ、解けば、その荷が、お前に、寄る。寄る先が、お前しか、ないからだ。だが——もし、八つの節を、いちどに解いたら。八州ぶんの荷が、いちどに宙に浮いたら。寄る先が、お前一人じゃ、なくなる。八州ぜんぶの網が、いちどに、受ける。……荷は、お前に絡む暇も、なく、八州の皆に、分かれる」
鈴の中で、絵が、繋がりかけた。
「いちどに、解く……どこで」
「八つの節が、繋がってる場所だ」縹は言った。「本灯。灯都の、空席の座。あそこが、八節の、結び目の、結び目だ。あそこで、護りの唄を、完うして、八州の網が、いちどに歌えば。……要石は、八人、いちどに、解ける。荷は、八州の皆に、分かれる。お前に、絡む暇も、なく」
本灯。空席の座。鈴を、月ごとに、引いている、あの座。
鈴が、いちばん、近づきたくない場所が、鈴が、行かねばならない、ただひとつの場所だった。
「……皮肉だね」鈴は、呟いた。「座らないために、座のある場所へ、行かなきゃ、ならない」
「ああ」縹は、薄く笑った。「座のある場所で、座らない、を、やる。それが、たぶん、お前の、三つ目の手だ」
岬の下で、琥珀の州の灯が、皆の声で、低く、歌っていた。
要石の、いない州。三百年で、初めての灯。その灯が、本物だと、鈴は、自分の目で、見た。だから、信じられた。同じことが、八州で、いちどにできると。本灯で。座らずに。
岬の風が、唄を運んできた。完うしていない唄だった。それでも、その半分の唄が、ひとつの州を、要石なしで保っていた。半分でこれなら、完うすれば、八州を保てる。鈴は、その灯の色を、目に焼きつけた。本灯へ行く前に、自分の目で見ておきたかったのだ。座らずに保てるという、たったひとつの証を。証がなければ、本灯の座を前にして、心が折れるかもしれなかった。折れないために、鈴は、この灯を覚えて行く。
座らされる前に。




