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名を、灯せ  作者: 甕星 慶(ミカボシケイ)
第三部

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第5話 利息

数え手の隊列は、里の手前で、止まった。


攻めて来る形では、なかった。馬の列を、霧の入口に、行儀よく並べて、(かさね)は、ひとり、徒歩で、進み出た。墨色の衣に、白い襟。半年前の、船の上と、同じ姿で。よく動き、よく喋り、よく頭を下げる男が、北の霧の中で、(すず)を、待っていた。


半年前、(かさね)は南の海の上にいた。船べりに算木を並べ、買い取りの帳面を膝に、こちらの一挙手一投足を勘定していた。あのときと、何ひとつ変わっていなかった。衣の墨色も、襟の白も、頭の下げ方の角度まで。変わったのは、背景だけだった。海が霧になり、船板が谷の土になった。男はどこへ行っても、同じ姿で、同じように勘定をする。場所を選ばないということが、この男の底知れなさだった。(すず)は、霧の入口に並んだ馬の列を見た。攻める構えではない。けれど、退く構えでもなかった。ただ、待つ構えだった。


「ようこそ、ようこそ。北は、お寒いでしょう」(かさね)は、両手を、広げた。「お会いしたかった、(すず)どの。半年ぶりに。——いや、こうしてお会いするのは、運命というものでしょうな」


「……運命は、嫌いだ」(すず)は言った。「あんたは、どうやって、ここを」


「母御の頁が、教えてくれました」(かさね)は、懐から、煤けた一枚を、出した。母の頁。(すず)の手元にあるのは、その写し。原本を、(かさね)は、握っていた。「三百年の血脈簿(けつみゃくぼ)は、よくできた地図でしてね。摘み手は、唄持ちの里へ逃げた者を、ぜんぶ、書き留めた。逃げ先まで。……あなたの母御の逃げ込んだ里が、ここだ。私は、字を、辿っただけです」


(すず)の背を、冷たいものが、降りた。


母の頁が、(かさね)を、唄の源まで、導いた。三百年、隠れ続けた里が、母の逃げた記録のせいで、見つかった。



「何しに、来たの」


「学びに」(かさね)は、霧の里を、見渡した。滅びかけた、十あまりの家を。「数えられないもの、を、見に来た。半年前、あなたは、私に、数えられないものを、見せてくれた。結びを。私の帳面には、結びを記す欄が、なかった。……あれから、半年、考えましたよ。眠れぬ夜を、いくつも。数えられないものが、ある。それが、どうにも、悔しくてね」


「悔しい?」


「数え手ですから」(かさね)は、微笑んだ。「数えられないものが、この世にあると、私は、夜、眠れない。だから、考えた。結びを、どう数えるか。覚えの講(おぼえのこう)を、どう数えるか。……やがて、気づいた。唄も、おそらく、その仲間だと」


(かさね)の目が、里の、低く流れる節を、聴いた。


「歌も、数えられる、はずなのです」(かさね)は言った。「誰が、何度、歌ったか。どの節を、誰が継いだか。書き留めれば、台帳になる。……あなたの網も、結局、私の帳面の、書き方違いに、すぎない。呼び合う者を、書けば、戸籍だ。歌う者を、書けば、楽譜だ。書けば、所有できる。所有できれば、配れる。配れれば——商売に、なる」


(すず)は、(つむぎ)の言葉を、思い出した。


唄を、焼くやり方に、すり替えたのも、数える者たちだった。三百年前、唄を商売に変えた者たちの、いちばん新しい末裔が、いま、霧の里の入口に、立っていた。同じことを、もう一度、やろうとして。



「やってみせて」(すず)は言った。「唄を、数えてみせて」


(かさね)の眉が、ほんのわずか、動いた。


「……ほう」


「できないと、思う」(すず)は言った。「あんたには、できない。やってみれば、分かる」


(かさね)は、しばらく、(すず)を見ていた。それから、供の者に、合図した。耳獏(みみばく)の籠が、運ばれてきた。半年前、(すず)の家の呼び声を録った、あの灰色の獣。(かさね)は、それを、里の唄に、向けた。


里は、低く、歌っていた。糸を紡ぐ唄。粥を炊く唄。誰のものでもない節が、巡っている。


耳獏(みみばく)が、それを、録った。


(かさね)は、帳面を、開いた。録られた唄を、聴きながら、筆を、走らせる。誰が、歌い出したか。誰が、受けたか。書き留めようと、した。


筆が、止まった。


「……始まりが、ない」(かさね)が、呟いた。「終わりも、ない。誰が、歌い出したか、書けない。皆が、同時に、少しずつ、歌っている。受けた者が、すぐ、渡す者になる。歌う者と、聴く者が、入れ替わり続ける。……どこから、どこまでが、一節か。区切れない。区切れなければ、数えられない」


(かさね)は、もう一度、耳獏(みみばく)の録った唄を、聴いた。


「それに——」(かさね)の声が、初めて、掠れた。「この唄には、報せが、ない。買い取りの呼び声には、報せがあった。米と、引き換えの。録られた愛の声にも、見返りがあった。妹を、案じる、という。だが、この唄は——何の、見返りも、求めていない。歌って、何も、得ない。得ないものを、人が、歌い続ける。……なぜだ。帳面の、どの欄に、書けばいい。見返りの、ない行いを」


帳面が、(かさね)の手の中で、開いたまま、白かった。


数えられないものが、また、ひとつ、(かさね)の前に、あった。


(すず)は、その白い頁を、遠くから見ていた。半年前、(かさね)の帳面に結びを記す欄がなかったときも、同じ白さだった。あのときから、この男のなかで、何かが軋み続けているのだろう。世界のすべてを数えで掴めると信じてきた男が、数えで掴めないものに、二度、出会った。一度目は結び、二度目は唄。普通の者なら、掴めないものは掴めないままにしておく。(かさね)はそうしない。掴めないことが、この男には、傷のように疼くらしかった。その疼きが、男を北まで歩かせた。(すず)は、(かさね)の執着の正体を、初めて、すこし哀れに思った。


「南で」(かさね)は、帳面を閉じる前に、ぽつりと、言った。「(かじ)という男が、死者の名を、覚える講を、始めたと聞きました。覚えの講(おぼえのこう)、と。……あれも、いずれ、見に行きます。逝った者の名は、もう、見返りを返せない。返せぬ名を、なぜ、覚えるのか。……生きた網より、死んだ網のほうが、私には、謎でしてね。数えられぬものの、いちばん奥に、あるのが、死者の名だ」


(すず)は、ぞっとした。(かさね)は、もう、覚えの講(おぼえのこう)にまで、手を伸ばそうとしていた。生者の呼び講(よびこう)も、死者の覚えの講(おぼえのこう)も、護りの唄も。数えられぬものを、ひとつずつ、数え方を探して、巡っている。果樹園の主が、実るのを待つように。



耳獏(みみばく)の録った里の唄が、霧のなかで途切れることなく流れていた。誰かが歌いだし、隣がそれを受け、受けた者がすぐに渡す者になる。始まりも終わりもなく、ただ巡りつづける声の環を、(かさね)はもう一度、最初から数えようとした。一、二、と数えかけては、どこからが二節目なのか分からなくなり、また一に戻った。数えるという行いそのものが、この唄の前では足場を失っていた。


(かさね)は、長いこと、白い頁を、見ていた。


それから、帳面を、閉じた。閉じる音が、霧の中で、小さく、響いた。負けを、認める音では、なかった。勘定を、保留する音だった。


「……いまは、数えられない」(かさね)は言った。「いまは。だが、私は、諦めない。数えられないものは、まだ、数え方を、見つけていない、というだけだ。三百年前、誰かが、唄の数え方を、見つけた。()べる、という数え方を。……私も、いつか、見つける。あなたの網の、数え方を」


(かさね)は、母の頁を、撫でた。


「ところで、(すず)どの。母御の頁には、唄の逃げ先のほかにも、書いてあることが、あってね」(かさね)の声が、柔らかくなった。いちばん危ない、柔らかさで。「あなたの母御は、ただ、摘まれる前に逃げたのでは、ない。……母御は、選ばれていた。次の、要石(かなめいし)にね。唄持ちの中でも、いちばん、よく唄える血。書院は、母御を、灯都(ひのみやこ)の座の、候補として、記録していた。母御は、その座から、逃げたのです。北へ」


(すず)の足元が、揺れた。


母は、ただ追われて逃げた女ではなかった。逃げる前に、選ばれていた。八洲(やしま)じゅうの唄持ちの血のなかで、いちばんよく唄える血として。その血が座へ運ばれる前に、母は北へ走った。身ひとつで、霧の谷へ。(すず)がいま立っている、この里へ。逃げた母と、追ってきた娘が、同じ霧のなかにいる。母が断ち切ったはずの座への糸が、二十年近い時を越えて、娘の右手に、また結び直されていた。血というのは、断ち切っても、次の代でまた繋がろうとする。(かさね)は、その繋がり目を、的確に指で押さえてきた。


「母さんが……要石(かなめいし)の、候補?」


「左様。いま、ご覧なさい」(かさね)は、霧の向こうの、北東を、指した。灯都(ひのみやこ)の、空席の座のある方角を。「その座は、空いている。(はい)どのが、果てて。主を、欠いて。結界(けっかい)は、壊れかけ、潮は、上がる。座は、新しい主を、求めている。……母御が、逃げた座が。母御の、血を引く、あなたを」


(かさね)は、深々と、頭を下げた。


「あなたは、生まれる前から、あの座に、座る血だった。母御が、果たさなかった役目を、娘が、果たす。……美しい話では、ありませんか。座れば、世界は、保つ。潮は、引く。あの街道で(たきぎ)にされた子も、次は、救われる。あなたが、白く、なるだけで」


街道の、抗わない少年の顔が、(すず)の中に、よみがえった。(かさね)は、それを、知らないはずだった。知らずに、いちばん効く一矢を、放っていた。座れば、あの子が、救われる。



「断る」(すず)は言った。


声が、震えなかったことに、自分で、驚いた。


「即答」(かさね)は、嬉しそうに、頷いた。半年前と、同じ褒め方で。「実に、よい。迷えば、軽い。即答は、重い。……ですが、(すず)どの。私は、あなたを、力で座らせる気は、ありません。(はい)どのは、それで、しくじった。私は、待つ。果樹園の主のように」


(かさね)は、里を、もう一度、見渡した。


「あなたの、こめかみの白は、もう、止まらない。唄を完うしようと、しなかろうと、座の引きは、月ごとに、強くなる。いつか、あなたは、座らずには、いられなくなる。目の前で、人が死ぬのを、見ていられなくて。……あなたは、優しすぎる。優しさが、あなたを、座らせる。私は、それを、待てばいい。算盤(そろばん)は、優しさが、いちばん、狂わぬと、申しております」


(かさね)は、踵を、返した。


「唄を、完うなさい。どうぞ。お急ぎなさい。……完うすれば、するほど、あなたは、深い唄持ちに、なる。深い唄持ちは、いちばん、よい要石(かなめいし)に、なる。母御が、そうだったように。あなたが、唄を完うするのを、私は、楽しみに、しております。完うした果実が、座に、落ちる日を」


霧の中へ、(かさね)の隊列が、引いていった。


里の唄が、止まっていた。皆が、息を、殺して、数え手の去るのを、見送っていた。三百年、自分たちを狩ってきた、数える者の、いちばん新しい顔を。


唄の止まった里は、急に、寒くなった気がした。(はなだ)が小さく胸を押さえた。里に入ってから止まっていた傷痕の軋みが、唄の途切れたぶんだけ、また戻ってきたのだ。歌うのをやめれば死ぬ、と(つむぎ)は言った。その言葉の意味が、霧の冷えのなかで、肌に染みた。(かさね)は刃ひとつ抜かなかった。それでいて、ただ立ち去るだけで、里の唄を止めた。数える者は、焼かずに殺す術を知っている。(すず)は、(かさね)の去った霧の奥を、長いこと睨んでいた。



「……行こう」その夜、(すず)は、(はなだ)に、言った。「ここは、もう、危ない。(かさね)に、知られた。あいつが、賞金稼ぎや、禍狩(まががり)を、ここへ差し向けたら。滅びかけた里に、それを防ぐ力は、ない」


「だが、唄は、まだ、半分だ」(はなだ)が言った。「お前は、北の節の、いちばん低い半分を、出せた。だが、覚えきっては、いない。覚えるには、まだ、日が、要る」


「分かってる」(すず)は、唇を、噛んだ。「覚える時間が、要る。でも、ここにいたら、里が、狙われる。……二つを、同時に、満たす方法を、探さなきゃ」


(つむぎ)が、火のそばから、言った。


「里を、出るんだね」枯れ枝のような声だった。「いいんだ。里は、もう、長くない。あたしが逝けば、北の節は、おまえさんと、小夜(さよ)の、二人の喉に、移る。……唄を、里に、留めておくから、滅びるんだ。唄は、運ぶものだ。母さんが、運ぼうとしたように。おまえさんが、運びな。南へ。八洲(やしま)じゅうへ」


「でも、ばあさまの、いちばん低い半分は——」


「来な」(つむぎ)は、(すず)の手を、取った。「残りの日で、ぜんぶ、移す。おまえさんの喉に。歩きながらでも、舟の上でも、教える。唄は、座って習うものじゃ、ない。運びながら、継ぐものだ。……母さんが、できなかったのは、それだ。あの子は、里に、覚えに来た。覚えてから運ぼうと、した。間に合わなかった。おまえさんは、運びながら、覚えな。それなら、間に合う」


(すず)は、母の頁を、見た。


母は、覚えてから、運ぼうとして、間に合わなかった。(すず)は、運びながら、覚える。母の、やり残しの、その先を。座が、追ってくる前に。(かさね)が、唄の数え方を、見つける前に。大潮(おおしお)が、来る前に。


時計が、いくつも、同時に、鳴っていた。


小夜(さよ)が、戸口に、立っていた。旅支度を、もう、整えていた。


「あたしも、行く」妹は、言った。「北の節の、上半分は、あたしが覚えてる。(すず)姉は、下半分。二人で、ひとつの唄なの。離れてたら、完うしない。……母さんが、一人で、できなかったことを、二人で、やるんでしょ。なら、二人で、行く」


(すず)は、妹を、見た。半年、北で唄を教え、里の窮状を背負ってきた娘。もう、待つ稽古は、要らなかった。妹は、自分で、決めて、支度まで、終えていた。


「……うん」(すず)は言った。


「九十五点」小夜(さよ)が、ふと、生意気な顔を作った。「迷わなかったから。五点は、心配そうな顔の分」


姉妹は、すこし、笑った。


「明日、発つ」(すず)は言った。「南へ。唄を、運びながら、覚える。……呼び講(よびこう)のある州へ。歌う口の、待つ場所へ。三人と、(つむぎ)ばあさまと」


里の灯が、霧の中で、低く、歌っていた。


その唄を、(すず)は、初めて、自分も、運ぶ者として、聴いた。聴く者から、運ぶ者へ。母が、なろうとして、なれなかったものに、(すず)は、なろうとしていた。


(つむぎ)は、もう、立って歩ける体ではなかった。里を出るなら、荷車に乗せて運ぶしかない。その荷車の上で、残りの低い半分を、(すず)の喉へ移していく。命を、唄に両替するように。(すず)は、それがどういうことか、まだ半分しか分かっていなかった。分かりたくなかった、というほうが、近かった。ただ、(つむぎ)の手を握ると、その手が前より軽くなっているのが分かった。歌うたびに、この人のなかから、何かがそっくり抜けていく。抜けたぶんが、(すず)の喉に溜まっていく。唄は運ぶもの、という言葉の重さが、握った手の軽さのなかに、あった。

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