第4話 北の節
三日のうち、鈴は、ただ聴いた。
紬は、唄を、教えなかった。教える、という形を、取らなかった。代わりに、糸車を回しながら、低く、歌った。鈴は、その傍らに、座って、聴いた。朝、糸を紡ぐ唄。昼、粥を炊く唄。夕、子をあやす唄。里の暮らしの、ひとつひとつに、節が、乗っていた。
唄は、行事ではなかった。暮らしそのものが、唄だった。
鈴は、聴きながら、その違いを少しずつ呑み込んでいった。南の郷で唄といえば、年に幾度かの祭りか弔いに、わざわざ声を張り上げて歌うものだった。ここでは誰も声を張らない。糸を繰る手の調子に合わせて、息が低く流れていくだけだ。隣の老婆が紡ぎ、その向かいの女が継ぎ、土間で芋を洗う娘がまた継ぐ。誰が始めたとも知れない節が、家から家へ、いつまでも途切れずに渡っていく。鈴は三日のあいだ、その途切れなさに身を浸していた。途切れないということが、護るということなのだと、頭ではなく体で分かりはじめていた。
「南じゃ、唄は、特別なものかい」二日目の夜、紬が、訊いた。
「……特別、っていうか」鈴は、考えた。「祭りとか、弔いとか。そういうときに、歌うもの」
「ここは、違う」紬は、糸車を、回した。「息をするように、歌う。歌うのを、やめたら、死ぬからね。唄を、やめた里は、もう、ない。潰されたか、唄を忘れて、ただの里に、なったか。……唄を忘れた里は、灯改めの州に、なる。色で、人を読む州に」
鈴の背を、何かが、走った。
唄を忘れること。それが、灯改めの始まりだと、紬は、言っていた。
鈴は聴きながら、気づいたことがあった。里の唄に、号令を、出す者が、いない。誰かが、先導して、皆が、従う、という形では、なかった。誰かが糸を紡ぎながら、低く、歌い出す。隣の者が、それを受けて、すこし節を変える。その隣が、また受ける。誰のものでもない唄が、里の中を、ゆっくり巡っていた。呼び講の、車座と、同じだった。先生が、いない。皆が、先生で、皆が、習う者。
縹は、その唄の只中で、よく、眠った。
一年、夜ごと傷痕の方角へ顔を向けて浅い息で眠っていた男が、里では深く眠った。「軋みが、ないと、こんなに、眠れるものか」と、縹は、驚いていた。唄が、傷を、なだめる。もともとの、塞ぎ方で。その事実ひとつが、紬の長い説明より、雄弁に、唄の正体を、語っていた。
◆
三日目の朝、鈴は、初めて口を、開いた。
紬の北の節に、合わせて。最初は、小さく。間違えながら。北の節は、低かった。母の五行より、ずっと低く、長い。小夜の言ったとおり、声では、追えない音が、あった。腹の底の、もっと下から、出さなければ、届かない音が。
鈴は、息を、深く、吸った。
歌うのではなく、名づけるように、声を、出した。
言霊が、乗った。
その瞬間、北の節の、いちばん低い音が、出た。鈴の喉から。腹の底からでも、ない。もっと奥の、言霊の宿る場所から。母の五行を、十六年、体に染ませてきた、その血の、いちばん深いところから。
紬の、糸車を回す手が、止まった。
里の唄い手たちが、戸口に、集まってきた。鈴の声を、聴くために。白き読み手の白を持つ娘が、北の節の、出せないはずの音を、出している。その声を。
「……出た」紬が、呟いた。濁った目に、光るものが、にじんだ。「五十年、誰も出せなかった音が。あたしも、もう、出せなくなった、いちばん下の音が。……南の子が、出した」
唄が、止まった。
里じゅうが、静かになった。霧の中で、鈴の出した、最後の低い音が、谷に、長く、尾を引いて、消えた。
その音は、鈴自身の耳にも、自分の声とは思えなかった。腹の底よりもっと深い、いつも布で巻いて隠している右手の、そのまた奥から、何かが引き出されてきたような音だった。出したあとで、喉が痺れていた。痛みではなく、長く眠っていたものを久しぶりに使った、あの鈍い感覚だった。鈴は、自分の体のなかに、こんな音が眠っていたことを知らなかった。十六年、密猟の息を殺すことにばかり使ってきた喉の、ずっと奥に、母から受け継いだ音が、ずっと待っていた。
紬が、鈴の手を、取った。布の上から。糸の、感じられる手を。
「唄が、おまえさんを、選んだ」紬は言った。「白を持つ者を、唄が、選ぶことは、ない。白くなる者を、唄は、嫌うからね。……だが、おまえさんの白は、唄に、拒まれなかった。むしろ、唄が、おまえさんの奥の音を、引き出した。……おまえさんは、白を持っていて、白を、拒む者だ。そういう者は、三百年で、おまえさんが、初めてだ」
里の唄い手たちが、いっせいに膝を、折った。
鈴に、ではなかった。唄に、だった。唄が、選んだ者を、迎える、礼の膝だった。跪きではない。迎えだった。
鈴は、初めて頭を垂れられて、こわく、なかった。
◆
その夜、紬は、語った。
火のそばで。糸車を、止めて。三百年、隠してきたものを、初めてよそ者に、明け渡す顔で。
「むかし」紬は言った。「世界は、唄で、護られていた」
火が、爆ぜた。
「結界はね。一枚の、帳だ。八つの結び目で、繋いである。その結び目を、誰が、握ってたと思う。……要石じゃ、ない。皆だ。里じゅうが、州じゅうが、唄を歌って、その声で、結び目を、握ってた。ひとりが、握るんじゃない。皆で、少しずつ、握る。だから、誰も、潰れなかった。重みが、皆に、分かれてたから」
鈴は、息を、忘れた。
皆で、少しずつ、握る。重みが、皆に、分かれる。
呼び講だった。結びだった。覚えの講だった。鈴が、南で、半年かけて、作ったもの。その、もともとの姿が、ここに、あった。三百年前から。
「移ろい火はね」紬は、続けた。「いちばん、よく、唄えた者の、火だ。あらゆる色を、握る火。……色を、ひとつしか握れない者は、結び目を、ひとつしか、握れない。移ろい火は、あらゆる色を握るから、結び目を、いくつも、いちどに、握れた。だから、唄の、真ん中にいた。皆を、束ねる、糸巻きの、芯みたいに。……要石に、なれる火、じゃ、ないんだよ。網ぜんぶを、唄で、保てる火、なんだ」
「じゃあ、なんで」鈴の声が、掠れた。「なんで、犠牲に。要石に。一人を、薪にする、やり方に」
紬は、長いこと、火を、見ていた。
「唄は、皆のものだからさ」やがて、言った。「皆で歌う唄は、誰のものでも、ない。誰も、威張れない。誰も、支配できない。……ある者たちが、それを、嫌った。世界を護る力が、皆のものだと、自分たちが、偉くなれない。だから、すり替えた。皆で歌う唄を、一人が握る要石に。誰のものでもない護りを、自分たちが配る護りに。……唄を、焼くやり方に」
「ある者たち、って」
「神名簿を、作った者たちさ」紬の声に、三百年の、苦さがあった。「天理院の、はじまりだ。あいつらは、護りを、商売に、した。名を、焚べれば、結界が保つ、と言って。本当は、唄えば、保つのに。……唄を知る者がいると、商売が、ばれる。だから、唄持ちを、狩った。脅威だから、じゃ、ない。生き証人だから、だ。犠牲が、要らないと、知ってる者を、消したかった」
鈴の中で、三百年の、絵が、繋がった。
灯改め。薪。要石。白き読み手。血脈簿。ぜんぶひとつの、すり替えの、上に、建っていた。世界を護るのに、犠牲は、要らない。唄えば、いい。皆で。その、たったひとつの真実を、隠すために、三百年、人が、焼かれ、間引かれ、読まれてきた。
鈴は、しばらく口がきけなかった。怒りでも、悲しみでもなかった。あまりに巨大なすり替えを前にして、感情がどこに着けばいいのか分からなかった。半年前、灰の座を倒したとき、鈴は世界の頂を変えたつもりでいた。けれど頂を変えたところで、その下に三百年積み上げられた嘘は、まるごと残っていた。北の州の改め所で、いまも子が薪にされている。あれは、唄えば要らなかった犠牲だ。要らなかった、という一語の重さが、火を見つめる鈴の膝の上に、静かに乗っていた。
◆
「母さんも」鈴は、訊いた。「これを、知ってたの」
鈴は、袋から、母の頁の写しを、出した。累の船で、累が、惜しげもなく寄越した、血脈簿の、母の頁。紬は、その写しを、受け取った。盲いた指で、字を、なぞれないはずなのに、長いこと、撫でていた。
「……この字は、知っとる」紬は言った。「書院の、摘み手の字だ。だが、この頁の、母御の名の横には、朱の線が、ない。摘まれて、いない。北へ、逃げた、と書いてある。……ここへ、来たんだよ。あんたの、母さんは」
「覚えてるの?母さんを」
「覚えとる」紬は、頷いた。「十六、七の年に、なるか。南から、身ひとつで、来た娘がいた。南の節を、五行、持ってた。北の節と、落ち合わせたい、と言った。……教えたよ。半分まで。だが、その娘は、半分しか、覚えられなかった」
「なんで」
「身重に、なったからさ」紬は、静かに言った。「北の男と、情を交わして。子を、宿した。あんたの、妹だ。……唄持ちの掟でね。身重の女は、いちばん低い音を、出しちゃ、いけない。腹の子に、障るから。北の節の、いちばん深い半分は、低い音でしか、継げない。だから、その娘は、半分で、南へ、帰った。子を、産むために。残りは、子が乳離れしたら、また来て、覚える、と言って」
紬の、濁った目が、火を、向いた。
「来なかった。二度と。……病で、死んだと、後で、聞いた。やり残して。低い音を、半分、覚えられずに」
鈴は、母の頁を、見た。
母は、ここに、来た。唄を、完うしようとして。半分まで、覚えて、小夜を宿して、南へ帰って、死んだ。やり残して。その、いちばん低い半分の音を——いま、鈴が、出した。母が、腹の子のために、出せなかった音を。鈴の喉が、十六年かけて、母から継いだ血で、出した。
母の、やり残しの、ちょうど、欠けた半分の、その音を。
鈴は、母の声を思い出そうとした。思い出せなかった。母の声は、もう輪郭がない。小夜が言ったとおり、鈴の中の母は、鈴自身の声で、できていた。けれど、いま北の節の、いちばん低い音を出したとき、鈴の喉の奥で、別の声が、重なった気がした。輪郭のない、母の声。腹の子のために出すのをやめた、その音を、十六年後、娘が代わりに出した。母が、出せずに死んだ音を。
血ってのは、妙なもんだね。ばあさまの言葉が、霧の中で、また鳴った。やり残しを、子が、二人がかりで、拾いに行く。小夜が、北の節の上半分を。鈴が、いちばん低い、下半分を。母の、欠けた唄が、二人の娘の喉で、ひとつに、なりかけていた。
◆
「縹」鈴は、空き家へ戻って、言った。「あんた、灰の、弟子だった」
縹は、囲炉裏の前で、しばらく黙っていた。
「灰どのは」やがて、言った。「知ってたのかな。これを。唄のことを。……いや。知ってたんだろう。白き読み手は、いちばん奥まで、読む者だ。血脈簿も、握ってた。知らないはずが、ない」
「知ってて、要石に、なった」
「知ってて、犠牲が、唯一だと、信じた」縹の声が、低くなった。「あるいは——唄が、もう、滅びかけてると、思ったか。北の里が、いまにも、消える。唄を知る者が、いなくなる。なら、間に合わない。間に合わないなら、犠牲しか、ない。……そう、自分を、納得させて、座ったのかもしれん」
火が、爆ぜた。
「灰どのは、私に、言った」縹は、続けた。「『土地が死ぬよりは、百の名を焚べるほうが、慈悲だ』と。……あれは、嘘の上の、正しさだったんだ。百の名を焚べなくても、唄えば、よかった。灰どのは、嘘を、信じてた。いちばん深く読む者が、いちばん大きな嘘を、信じてた。……皮肉だ」
鈴は、自分のこめかみの白に、触れた。
灰の、白。色を洗い流した、いちばん上の色。あの人も、最初は、こうだったのだろう。唄を、知って、けれど、間に合わないと信じて、座って、白くなって、削られて、消えた。鈴が、いま立っている岐れ道に、灰も、かつて、立っていた。立って、座る側を、選んだ。
鈴は、こめかみの白を、長いこと、指で、なぞった。
こわかった。灰への共感が。あの人を、許せるわけでは、なかった。あの人は、小夜を人質に取り、鈴を座に縛ろうとし、要石を、何人も、薪にした。許せない。けれど、唄の真実を知ったいま、灰の選んだ道の、入口だけは、分かってしまった。間に合わない、という恐怖。目の前で、人が死ぬ。座れば、止まる。その重さの前で、唄という遠い望みを信じきれなかった男の、入口だけは。
鈴も、いま同じ入口に立っていた。違うのは、鈴には、唄が、まだ、生きて見えていることだった。滅びかけて、けれど、紬の喉に、小夜の覚えに、鈴自身の血に、まだ残っている。灰の頃には、もう見えなかったのかもしれない。唄が。
「あたしは、座らない」鈴は言った。
「ああ」
「唄が、滅びる前に、完うする。南の節と、北の節を、繋いで。……でも、それだけじゃ、足りないんだよね」鈴は、考えながら、言った。「紬ばあさまが、言った。唄は、皆で歌うものだって。一人が握ったら、それは、要石と、同じ。あたし一人が、唄を覚えても、駄目なんだ。皆で、歌わなきゃ。南の、呼び講みたいに。州じゅうで。八洲じゅうで」
縹の、見えない目が、ゆっくり見開かれた。
「……繋がったな」縹は言った。「南で、お前が作った呼び講。あれが、唄を歌う口だ。北の里が、唄を持ってる。南の州が、歌う口を持ってる。両方、揃って、初めて、護りの唄が、満ちる。……お前は、知らずに、半分を、もう、作ってたんだ。南で」
鈴は、自分の右手を、見た。
布の下で、銀の糸が、北東へ——灯都の、空席の座へ、引かれている。その引きが、今日は、強かった。里に来てから、座の引きは、日ごとに、強くなっていた。唄に近づくほど、座が、鈴を、急かす。系が、抗っているようだった。
「縹。座の引き、強くなってる?」
「強くなってる」縹は、自分の胸に、手を当てた。「お前が、唄を覚えるほど。……系は、知ってるんだ。お前が、唄を完うしたら、要石が、要らなくなる。座が、空のままに、なる。だから、急いで、お前を、座らせようとしてる。唄が完う前に」
時計が、鳴っていた。
唄を完うするのが、先か。座らされるのが、先か。母が、間に合わなかった唄を、鈴は、間に合わせなければ、ならなかった。
その夜、霧の谷に、馬の蹄の音が、遠く、聞こえた。
里の見張りが、走ってきた。南から、隊列が、来る、と。白い帆の紋ではない。陸の、馬の列。算木を組んだ、見覚えのある紋を、掲げて。
鈴は、霧の谷の口へ目を向けた。蹄の音は、まだ遠い。けれど、確かに近づいていた。母の頁を握る男が、母の通った道を、いま、たどってきている。鈴が三日かけて唄に選ばれたちょうどそのときに。系が座へ急かすのと、数え手が北へ上ってくるのとが、同じひとつの時計の針のように、揃って動いていた。唄を完うするのが先か、座らされるのが先か、数え手に唄を奪われるのが先か。三つの針が、いっせいに、鈴の背を押していた。
数え手が、北へ、来ていた。




