第3話 唄持ちの里
北は、まだ、半年前の、世界だった。
船で十日。陸を、北へ、四日。鈴と縹は、灯改めの州を、いくつも、抜けた。鈴の故郷で半年前に終わったものが、ここでは、何ひとつ、終わっていなかった。
四日目の朝、街道の脇で、それを、見た。
改め所の前に、十六の子らが、並んでいた。鏡守が、聖鏡で、一人ずつ、魂火の色を、読んでいく。色で、振り分けられる。藍の子は工へ、朱の子は官へ。列の最後の、痩せた少年だけが、鏡の前で、色を、灯せなかった。
無名、と鏡守が、告げた。
少年は、抗わなかった。抗い方を、知らない顔だった。守人が、その腕を取り、空へ続く道のほうへ、引いていく。薪にされる道へ。少年の母らしい女が、声を殺して、地に、伏した。声を上げれば、自分も読まれる。それを、知っている伏し方だった。
鈴は、街道の茨の陰で、その全部を、見ていた。
少年の足取りが、道の砂利を引きずっていた。抗わない者の歩き方だった。生まれたときから、抗っても無駄だと教え込まれた体が、守人の手に引かれるまま、空へ続く坂を上っていく。母らしい女は地に伏したまま、顔も上げなかった。顔を上げて泣けば、その涙の熱が読まれて、自分も列に並ばされる。だから女は、子の去る音だけを背中で聞いていた。砂利の音が遠ざかって、聞こえなくなって、それでも女は、しばらく動かなかった。鈴はその背中を、見ていた。半年前、自分の母が、もし灯改めの朝に同じことをされていたら、ばあさまも、ああして地に伏したのだろうか。
半年前の、灰郷だった。半年前の、自分たちだった。鈴が灯都で大灯を変えても、変わったのは、灯都の州だけ。海を渡れば、世界は、何も、変わっていない。子は、いまも、色で読まれ、薪にされ、母は、声を殺して、伏す。
「行こう」縹が、低く言った。「お前が飛び出せば、二人とも、ここで、捕まる。……あの子を救う手は、ここには、ない。北に、ある。唄に、ある」
鈴は、拳を、握った。握って、北へ、歩いた。
救えなかった少年の、抗わない顔を、袋の底に、しまうように。北で唄を完うすることが、あの顔を、いつか、救う。そう信じなければ、足が、前に出なかった。
◆
道中、二人は、夜だけ、歩いた。
昼は、洞や、岩陰で、眠った。鈴の顔は、北では、知られていない。けれど、こめかみの白は、手拭いで隠しても、風が、めくる。賞金の触れは、北の州にも、回っていた。米百俵。北では、もっと高い値の州も、あった。土の色になる狩りの技が、ここでは、命綱だった。鈴は、十六年の密猟で培った、息の殺し方を、初めて、自分のために、使った。
縹は、目が見えないぶん、夜の歩みに、強かった。足の裏で、道を、読んだ。「この先、人の踏み固めた道だ」「ここから、獣道に変わる」。盲いた鏡守が、闇の中で、二人を、導いた。読めない目は、闇を、こわがらなかった。闇は、もともと、縹のものだった。
二人は、ほとんど喋らずに歩いた。喋れば息が乱れて、足音が大きくなる。鈴は前を行く縹の背を、星明かりだけで追った。縹は時おり立ち止まって、地面に手のひらを当てた。土の硬さで、道がどちらへ折れるかを読んでいた。見える鈴のほうが、見えない縹に道を委ねている。そのことが、はじめは奇妙で、やがて当たり前になった。互いの欠けたところを、互いの残ったところで補って歩く。それが、二人で北へ向かうということの、いちばん素朴な形だった。夜が明ける前に岩陰へ潜り、身を寄せ合って眠った。縹の体温だけが、北の冷えのなかで、確かなものだった。
氷見の岩を、越えた。
凪の村の、暦の岩。雪の下から、肩を出す、あの岩。いまは、秋の終わりで、岩は、全身を、晒していた。黒く、濡れて、海を、見下ろしている。村の子らが、春を待って見上げる岩を、鈴は、初めて、自分の目で、見た。
岩の北は、地図の、いちばん端だった。
道は、細り、人の気配が、消えた。海から立つ霧が、谷を、満たしている。その霧の底に、唄持ちの里は、隠れていた。隠れ里、という言葉が、そのまま、形になったような場所だった。間引きを、三百年、生き延びるには、これだけ、隠れなければ、ならなかった。
霧は、ただの霧ではなかった。海から立つ水気が、谷の口で淀んで、里をすっぽり覆い隠している。空からも、海からも、ここは見えない。三百年のあいだ、唄持ちたちは、この霧を選んで身を寄せたのだろう。隠れるための霧であり、同時に、隠れねば生きられなかったことの証でもあった。鈴は、その白い帳を抜けながら、母もかつてこの道を歩いたのだと思った。身重の体で、南から、唄を一行だけ抱えて。同じ霧が、母の頬も濡らしたはずだった。
里へ続く、細い道の口に、見張りが、ふたり。
槍ではなく、声で、迎えた。
「名のられよ」
砦の門と、同じ掟だった。けれど、声の硬さが、違った。砦の門番は、聞いて、頷いた。ここの見張りは、聞いて、警戒を、解かなかった。よそ者に、慣れていない。よそ者は、三百年、死を、運んできたから。
「灰郷の、鈴」鈴は、名のった。「縹」
「……鈴?」見張りの一人が、目を、見開いた。「南の、灯を変えた?唄の姉さまの、姉?」
「唄の姉さま?」
「小夜さまだ」
◆
小夜は、霧の中から、駆けてきた。
ひと回り、背が伸びていた。北の厚い衣を着て、頬が、寒さで、赤い。半年、唄を教えてきた娘の、しっかりした足取りで。それでも、鈴を見つけた瞬間の、泣き笑いの顔は、灰郷の囲炉裏端の、妹のままだった。
「鈴姉!」
小夜が、抱きついてきた。北の冷たい空気ごと、腕の中に。
「……来てくれた。文、届いたんだね。来てくれた」
「来た」鈴は、妹の背を、抱いた。半年ぶりの、妹の体温。「あんたが、見つけたって、書いたから」
「うん。あたしが、見つけた」小夜は、体を離して、得意げに、けれど、すぐ、顔を曇らせた。「でも、鈴姉。喜んでばかり、いられないの。……里が、大変なの。北の節が、完うしないの。唄い手が、もう、数えるほどしか、いなくて」
鈴は、妹を、見た。
半年で、変わっていた。背だけではない。声に、人を導く者の、落ち着きが、あった。北の里で、唄を教え、里の窮状を、その肩に、半分、背負ってきた娘の顔。灰郷で、熱に臥せっていた子。鈴が、十六年、守ってきた子。その子が、いまは、鈴の半歩、先を、歩いていた。北の節を、先に見つけ、里の事情を、先に知り、鈴を、導く側に、回っていた。
待つ、ということを、鈴は、半年前に、覚えた。妹が、自分の足で歩くのを、待つこと。その稽古の、答え合わせが、いま、目の前に、あった。妹は、ちゃんと、歩いていた。鈴の、待った先で。
小夜の目が、霧の奥の、里を、指した。
茅葺きの家が、十あまり。煙の立つ家は、その半分。里は、滅びかけていた。三百年の間引きが、ほとんど、成功しかけた、その最後の姿が、霧の底に、あった。
「昔は、もっと、大きかったんだって」小夜が、声を落とした。「唄持ちの里が、八洲のあちこちに、あったの。北にも、南にも、東にも。それが、ひとつ、またひとつ、潰されて。いま残ってるのは、ここ、ひとつだけ。……唄を、まるごと覚えてる人も、紬ばあさま、ひとり。ばあさまが、逝ったら、北の節は、消えるの。だから、あたし、急いで、覚えてるんだけど——」
小夜は、自分の喉を、押さえた。
「あたしの声じゃ、半分しか、追えないの。北の節は、低くて、長くて。ばあさまの声でしか、出ない音が、ある。……鈴姉の言霊なら、もしかしたら、と思って。文を、書いたの」
「来て」小夜は、鈴の手を、引いた。「紬ばあさまに、会って。里で、いちばん、唄を覚えてる人。……でも、鈴姉。ひとつ、約束して。ばあさまの前で、その、手拭いは——」
小夜の目が、鈴の、こめかみの手拭いに、止まった。
「……取らないで。まだ」
◆
紬は、里のいちばん奥の、火のそばにいた。
百に近い、年だろう。背は、海老のように曲がり、目は、白く濁っている。縹の盲とは、違う濁り方。年が、ゆっくり、光を、奪った目だった。その膝に、糸車。手は、止まっていたが、口は、低く、動いていた。歌っていた。聞いたことのない、節を。
その節は、糸車の回る音と、ひとつになっていた。車輪がひと回りするたびに、声が低く沈んで、また持ち上がる。糸を紡ぐことと歌うことが、この老婆のなかでは同じひとつの所作だった。紡がれていく糸の先を目で追っていると、どこまでが音で、どこからが繊維なのか、分からなくなった。鈴は、戸口で足を止めたまま、その声に聴き入った。聴いているだけで、胸の奥の、いつも強張っている場所が、ほどけていく気がした。
北の節だ、と鈴は、直感した。
「南の子が、来たか」紬は、顔を上げずに、言った。声は、枯れ枝のようで、それでいて、奥に、芯があった。「小夜の、姉。灯を、変えた子。……近う。手を、見せてごらん」
鈴は、紬の前に、膝を折り、布を巻いた右手を、出した。
紬の、節くれだった指が、その布の上を、撫でた。撫でて——止まった。布の下の、糸を、感じ取ったのだ。盲いた指が、見えない銀の糸を。
「……糸が、ある」紬の声が、低くなった。「何本も。座へ、引かれる糸が。あんた、要石に、なりかけてるね」
里の空気が、固まった。
火のそばにいた数人の唄い手が、いっせいに、鈴を、見た。警戒の目で。恐れの目で。三百年、自分たちを狩ってきた、白い座の、兆候を見る目で。
「ばあさま、違うの」小夜が、慌てて、間に入った。「鈴姉は、座らないために、来たの。唄を、完うするために」
「分かっとる」紬は、静かに言った。けれど、指は、まだ、鈴の手の上に、あった。「だが、おまえさん。その、こめかみの白を、見せてごらん」
鈴は、手拭いを、解いた。
ひとすじの、白。
唄い手たちの間に、ざわめきが、走った。白だ。白き読み手の、白だ。間引く側の、印だ。それが、唄を完うしに来た、と言う。
「……これは」紬の濁った目が、鈴の白を、見えないはずなのに、まっすぐ、見据えた。「灰と、同じ白だ。色を、洗い流した、いちばん上の色。要石になる者の、白。……おまえさんは、もう、半分、座っとる。知っとるかい」
「知ってる」鈴は言った。「だから、止めに来た。半分で、止めたい。座る前に。……そのために、唄が、要る」
紬は、長いこと、鈴を、見ていた。見えない目で。
それから、糸車を、ひと回し、回した。
「唄は、誰にでも、渡すもんじゃない」紬は言った。「三百年、隠して、継いできた。渡せば、また、狩られる。……だが、おまえさんの白は、急いどる。座が、おまえさんを、急かしとる。唄が完う前に、座らされたら、おまえさんは、わしらを狩る側に、なる。白き読み手は、そうやって、何人も、生まれてきた。狩られる側から、狩る側へ。白く、なって」
火が、爆ぜた。
「だから、試す」紬は言った。「おまえさんが、白く、なる者か。白を、拒む者か。……三日、里にいてごらん。唄を、聴いてごらん。唄が、おまえさんを、選ぶ。わしじゃない。唄が、決める」
鈴は頷いた。頷いてから、ひとつ、伝えねばならないことを、思い出した。
「ばあさま。急いだほうが、いいかもしれない」鈴は言った。「南に、数え手の累という男がいる。母の頁を、持ってる。母が、この里で何をしたか、その頁に、書いてあるかもしれない。……あいつも、唄を、欲しがるかもしれない。数えて、所有するために」
紬の、糸車を回す手が、止まった。
「数え手」紬は、その言葉を、噛むように、繰り返した。「……三百年前、唄を焼くやり方に、すり替えたのも、数える者たちだった。唄は、数えられん。誰が、何度、歌ったか。見返りもなく、ただ、護るために歌う唄は、帳面に、載らん。載らんものを、あの者たちは、嫌う。だから、数えられる犠牲に、すり替えた。……また、数える者が、来るのかい。三百年経って、また」
里の唄い手たちの顔が、曇った。古い恐れの、顔だった。
◆
里の暮らしは、貧しく、静かで、それでいてどこか満ち足りていた。鍛冶も市もなく、ただ糸を紡ぎ、粥を炊き、子をあやす日々の手仕事のひとつひとつに、低い節が乗っていた。歌うことと生きることが分かれていない暮らしを、鈴は生まれて初めて見た。灯改めの州では、人は読まれないように息をひそめて生きる。ここでは、人は歌いながら生きていた。同じ地の底でも、灰郷の砦が武具と暮らしの二つの音で鳴っていたなら、この里は、ひとつの唄だけで鳴っていた。
その夜、鈴と縹は、里の隅の、空き家を、借りた。
囲炉裏に、火を入れると、縹が、長い息を、吐いた。安堵の息だった。
「軋みが、止まってる」縹は、自分の胸に、手を当てて、言った。「傷痕の軋みが。北へ来てから、ずっと、和らいでた。けど、この里に入ってから——止まった。痛みが、ない。一年で、初めてだ」
「唄のおかげ?」
「唄だ」縹は、頷いた。「この里じゅうが、低く、歌ってる。気づくか?糸車を回す音も、飯を炊く音も、皆、唄の節に、乗ってる。里全体が、ひとつの、護りの唄なんだ。……その唄が、私の傷痕を、なだめてる。もともとの、塞ぎ方で」
鈴は、戸の隙間から、霧の里を、見た。
滅びかけた、十あまりの家。その半分の、煙。けれど、その煙も、その灯りも、よく聴けば、低い節に、乗っていた。里が、息をするように、歌っていた。三百年、隠れて、歌い続けてきた。狩られながら。間引かれながら。それでも、やめなかった。
唄が、先。焼くのが、後。ばあさまの言葉が、霧の中で、形を、持った。
ここに、世界の、もともとの護り方が、残っていた。滅びかけて。けれど、まだ、消えずに。
「縹」鈴は、言った。「あたし、明日から、唄を、聴く。紬ばあさまの、北の節を。……南の節と、落ち合わせる」
「ああ」
「でも、こわい」鈴は、自分のこめかみの白に、指で、触れた。「紬ばあさまが、言った。唄が完う前に座らされたら、あたしは、狩る側になるって。……あたしの白は、急いでる。糸が、座へ、引かれてる。唄を覚えるのが、先か。座らされるのが、先か。……間に合うのかな」
縹は、薪を、一本、火に足した。手探りで、いちばん太いのを、正確に。
「間に合わせる」縹は言った。「私の秤が、座の引きを、測れる。引きが強くなったら、教える。お前は、唄を、覚えることに、集中しろ。……お前が唄を覚えるあいだ、座の引きは、私が、見張る。それが、生きた計器の、いまの仕事だ」
鈴は頷いた。
霧の向こうで、紬の北の節が、低く、続いていた。聞いたことのない節。けれど、どこかで、母の五行と、同じ血の流れる節だった。南と、北。母が、ひとりで、落ち合わせられなかった、唄の、両端。
その両端が、いま、ひとつの霧の中に、揃っていた。
鈴は、囲炉裏の火を見ながら、口の中で、南の五行を、そっとさらった。声には出さなかった。ばあさまから受け取った半分の唄。北の節と落ち合えば、母が間に合わなかったものが、ようやく形になる。けれど、紬の言ったことが、火の音にまぎれて、耳の奥に残っていた。唄が、おまえさんを選ぶ。わしじゃない、唄が決める。鈴は、自分が選ばれる側に立たされるのを、久しぶりに感じた。半年前、世界を変えたときは、選ぶのは鈴のほうだった。ここでは、唄が鈴を試す。試されることが、なぜか、こわくはなかった。
あとは、繋ぐだけだった。座らされる前に。




