第2話 北へ
ばあさまは、砦の、いちばん日の当たる隅にいた。
地の底の砦に、日は差さない。代わりに、藍の灯が、ひとつ、ばあさまの手元を、照らしていた。膝に、繕い物。針を持つ手が、灰郷にいた頃より、ひと回り、細い。
灰郷は、もう、空に近かった。
半年前まで、灰郷は、鈴が、帰りたい一心で生きてきた場所だった。母が死に、妹が病み、罠の獲物で、ふたりを食わせてきた、あの板壁の家。その郷が、いま、鈴の名のせいで、人の住めない場所に、なりかけている。鈴が世界を変えた。変えた世界が、鈴の故郷を、追い詰めていた。皮肉にも、ほどがあった。
天理院の触れが、郷の名を、名指しした。灰郷の鈴を匿う郷は、結界殺しに与する者とみなす——その一文で、郷の半分が、砦へ、下りてきた。残った半分も、いつ、賞金稼ぎが来るか、怯えて暮らす。鈴の故郷は、鈴の名のせいで、住めない場所に、なりかけていた。
「来たね」ばあさまは、顔を上げずに、言った。「訊きたいことが、あるんだろ。その足音だ」
「……分かるの」
「あんたの足音はね。普段は、土を、探るように歩く。狩りの足だ。今日は、違う。何かを、確かめに来る足だ」ばあさまは、針を、置いた。「お座り。長くなる」
鈴は、筵に、膝を折った。
藍の灯の油が、かすかに匂った。ばあさまの繕い物は、子どもの胴着だった。北から来た誰かの子のものだろう。袖口のほつれを、細い指がひと針ずつ拾っている。郷にいた頃から、この人の手は止まったことがなかった。手が動いているあいだは、口が重くても許される。そういう生き方を、鈴は幼い頃からそばで見て育った。だから、今日その手が止まるのを見たとき、鈴は問いの重さを、聞く前に知った。
「南の節って、何」
ばあさまの手が、止まった。
針を持っていない手まで、止まった。
◆
「……どこで、その言葉を」
「小夜から、文が来た」鈴は言った。「北の、唄持ちの里で、子守唄の続きを、見つけたって。でも、続きは、半分しか聞けない。南の節と、落ち合わなきゃ、唄は、完うしない、って。里の年寄りが、そう言ったって」
ばあさまは、長いこと、藍の灯を、見ていた。
「……あの子は」やがて、言った。「あんたより、先に、たどり着いたんだね。母さんが、たどり着けなかった場所に」
鈴の背筋が、立った。
「母さんが、どうしたの」
ばあさまは、繕い物を、傍らに、寄せた。話す姿勢に、なった。郷でただ一人、鈴に頭を下げない年寄りが、初めて、何かを、明け渡す顔をした。
「あんたの母さんはね。唄持ちだった。あたしらの血の、古い古い名でね。移ろい火の血筋を、そう呼ぶ。……天理院は、その血を、間引いてきた。数代に一度、出る、と公には言うが、嘘だ。決まった血に、伏してる。出そうな枝を、出る前に、摘む。三百年、ずっと」
「血脈簿」鈴は、呟いた。累が、持ち去った台帳。母の頁の、ある帳面。
「そう、それだ」ばあさまは、頷いた。「あんたの母さんは、摘まれる前に、逃げた。北へ。あたしらの血の、いちばん濃く残る、唄持ちの里へ。……何のために、行ったと思う」
「……分からない」
「唄を、完うするためさ」
藍の灯が、揺れた。
「あたしら南の唄持ちは、子守唄に、唄を、隠して継いできた。摘まれないように。書かずに。母から子へ、声でだけ。けど、隠すうちに、半分、失くした。残ったのは、五行だけ。あんたも、知ってる、あの五行だ」
ねむれ、ねむれ、火の子。
鈴の中で、母の節が、ひとりでに、鳴った。
「北の里には、もっと、残ってる。北の節が。母さんは、南の五行を持って、北へ行った。落ち合わせれば、唄が、完うすると、信じて。……そうすれば、何かが、変わると」
「変わる、って、何が」
ばあさまは、答えなかった。すぐには。
代わりに、鈴の、こめかみの白を、見た。蕗が指した、ひとすじの白を。
「……それは、北で、聞いておいで。あたしの口からは、半分しか、言えない。あたしも、半分しか、知らないんだ。唄と、おんなじでね」
◆
「母さんは、唄を、完うできたの」
鈴の声が、掠れた。
ばあさまは、首を、横に振った。
「北で、何があったかは、知らない。ただ、帰ってきたときにゃ、身重だった。あんたの、妹を、宿してた。……唄の続きは、持って帰れなかった。代わりに、小夜を、持って帰った。それから、二年。あんたが六つ、小夜が、まだ乳飲み子の冬に、母さんは、死んだ」
「……病で」
「病で。けど、あたしは、思うよ」ばあさまは、藍の灯に、目を細めた。「あの人は、間に合わなかった、と思って、死んだ。唄を、完うできずに。北の半分を、持って帰れずに。……母さんの、やり残しだ。唄を、ひとつにすること。それが」
鈴は、母の死の冬を、おぼろに、覚えていた。
六つだった。母が、咳をしながら、乳飲み子の小夜に、唄を、歌っていた。ねむれ、ねむれ。最後まで、歌いきれずに、咳に、なった。あのとき、鈴は、母が、唄を途中でやめるのは、咳のせいだと、思っていた。違ったのかもしれない。母は、続きを、知らなかったのだ。北の半分を、持って帰れなかったから。歌いたくても、歌えなかった。咳ではなく、欠けた唄が、母の最期の、声を、途切れさせていた。
その冬の匂いまで、鈴の体は覚えていた。板壁の隙間から雪が吹き込んで、囲炉裏の灰が白く乾いていた。母の声は日に日に細くなって、最後には乳飲み子の小夜にも届かないほどになった。それでも母は歌うのをやめなかった。歌えるところまで歌って、咳になって、また初めから歌い直す。鈴はそのたびに、続きはどこへ行ったのだろうと思っていた。六つの子には、唄に続きがあることも、その続きが海の北の果てにあることも、分かるはずがなかった。母は続きを探しに行って、持って帰れずに、半分の唄だけを娘に残した。残された半分を、いま鈴は口の中で温めている。
ばあさまの、皺だらけの手が、鈴の、布を巻いた右手に、触れた。
「いま、あんたと、小夜の、二人がかりで、南北から、近づいてる。母さんが、一人で、できなかったことに。……血ってのは、妙なもんだね。やり残しを、子が、二人がかりで、拾いに行く」
鈴は、自分の右手を、見た。
布の下で、銀の糸が、北東へ——灯都の、空席の座へ、ゆるく、引かれている。けれど、その奥で、もうひとつの北が、灯っていた。座の北ではない。唄の北。母の、行った北。
引かれる北と、向かう北。
母は、向かう北へ、自分の足で、行った。摘まれる前に。鈴も、いま、同じ岐れ道に、立っていた。
◆
その晩、縹が、薪を、置いて、北を、向いた。
土の小部屋に、北を示すものは、何もない。それでも、縹の、見えない目は、迷いなく、ひとつの方角を、向いた。
「……聞こえる」縹は言った。「ずっと、遠くで。何かが、歌ってる」
「歌?」
「秤の、いちばん奥でだ。耳じゃない」縹は、自分の胸に、手を当てた。傷痕と同根の、半分が、疼く場所に。「結界の傷痕は、ずっと、軋んでる。痛い。乾いた、嫌な軋みだ。……だが、北の、ずっと奥から、別の響きが、混じってる。軋みを、なだめるような。湿った、低い、唄みたいな響きが。あれは、何だ」
鈴は、小夜の文の、最後の行を、思い出した。
唄は、もともと、結界を、守る唄だった。犠牲じゃ、なくて。
「……縹。北の響きは、傷痕を、ましにする?」
縹は、しばらく、自分の体に、耳を澄ませた。
「する」やがて、言った。確信のある声だった。「弱いが、する。北へ顔を向けてると、軋みが、半分になる。……不思議だ。灯都の節は、主を欠いて、傷痕を、悪くするばかりなのに。北の響きは、逆だ。傷痕を、なだめる。——」
縹は、言葉を、探した。
「まるで、傷の、もともとの、塞ぎ方を、知ってる響きだ」
もともとの、塞ぎ方。
鈴の中で、ばらばらだったものが、ひとつの線に、繋がりかけた。北の唄。原初の、結界の護り。傷痕を、もともとのやり方で、塞ぐもの。座る、でも、人を死なせる、でもない、三つ目の手。
その尻尾が、北に、あった。
◆
評議は、その夜のうちに、開かれた。
土の大広間に、百を超える車座。弦次が、汐音が、梶が、凪が、座っていた。鈴は、初めて、自分から、皆の前に、立った。
「灰郷の、鈴」名のってから、喋る。砦の掟だ。「……北へ、行こうと思う」
ざわめきが、立った。
「北だと?」弦次が、眉を寄せた。「正気か。お前の首には、米百俵がかかってる。砦を一歩出りゃ、賞金稼ぎの、的だぞ」
「分かってる」鈴は言った。「でも、北に、答えがある。結界を、犠牲なしで、保つ方法が。唄が。……このまま行けば、あたしは、座らされる。灯都の、空席の座に。帳が、あたしを、引いてる。月ごとに、強く。座れば、世界は保つ。でも、あたしは、灰になる。皆に拝まれて、名を呼ばれず、白くなって、削られて、消える」
広間が、静まった。
「座らない方法を、北に、探しに行く」鈴は、続けた。「兵は、連れて行かない。連れて行けば、戦になる。あたしが結界殺しだっていう、敵の触れが、現実になる。連れて行くのは、声と、唄だけ。……縹と、二人で、行く」
「二人?」汐音が、腰を浮かせた。「無茶だよ。北は、まだ、灯改めのある州だ。賞金も、向こうのほうが、高いかもしれない」
「だから、二人なんだ」鈴は言った。「大勢で行けば、目立つ。二人なら、土の色に、なれる。あたしは、それが、いちばん、得意だから」
弦次が、長いこと、鈴を、見ていた。それから、ふん、と、鼻を鳴らした。
「……砦は、どうする。お前が抜けて」
「回るよ」鈴は、迷わずに言った。「あんたがいる。汐音がいる。梶さんの覚えの講も、蕗の手習いも、呼び講も、ぜんぶ、あたしがいなくても、回るように、なってる。……半年前、あんたが、あたしに言ったろう。砦の中に、客はいない、って。あたしは、もう、客じゃない。客じゃないから、抜けても、回るんだ」
汐音が、立ち上がった。
「機織りはね」と、女は言った。「縦糸が北へ行くなら、横糸は、ここで、布を、織って待つ。あんたが唄を持って帰るまで、砦は、あたしが、織り続ける。……だから、ちゃんと、帰っておいで。布は、縦糸が戻らないと、端が、ほつれるんだ」
梶が、何も言わずに、立った。立って、鈴の前まで来て、九十三人の名の、いちばん最初を、低く、唱えた。太郎兵衛。それから、言った。「北で、もし、潮に呑まれた村に、行き当たったら。名を、覚えてきてくだせえ。ひとつでも。覚えの講は、北にも、いるはずだ。覚える者が、いれば、その名は、消えない」
梶の手は、節くれだっていた。大工の手だ。家を建てる手が、いまは死者の名を数える手になっていた。その手が、鈴の肩に、ほんの一瞬だけ置かれた。重くもなく、軽くもなく、ただ置かれて、すぐに離れた。言葉より確かなものが、その重みのなかにあった。鈴は、北で出会うかもしれない見知らぬ死者たちの名を、この手のために覚えて帰ろうと思った。覚える者が増えることだけが、潮に消えた名への、たったひとつの返事だった。
鈴は頷いた。覚えてくる、と約束した。
弦次の、岩のような顔が、ほどけた。
「言うようになった」弦次は、つぶやいた。「……いいだろう。北の段取りは、凪に、組ませる。あいつの村が、北の足場だ。行ってこい。唄を、拾ってこい。——白き読み手に、なる前に」
◆
凪が、地図を、広げた。
北の沿岸の、手描きの地図。氷見の岩の、ずっと北。唄持ちの里は、地図の、いちばん端の、海に近い谷あいにあった。凪も、行ったことはない。文でしか、知らない。
「氷見の岩まで、船で、十日」凪は、地図を、指でなぞった。「そこから、陸を、北へ、五日。雪が、降りはじめる前に、着かないと。……いまの北は、もう、賞金の触れが、回ってます。鈴姉さんの顔は、知られてない。けど、こめかみの白は——」
凪は、言いにくそうに、口ごもった。
「白を、隠していけ、ってことだね」鈴は言った。「分かった。手拭いでも、巻いていく」
「あと、ひとつ」凪は、声を、落とした。「数え手の、累です。あいつ、母さんの頁を、持ってます。……母さんが、唄持ちの里で、何をしたか。あの頁に、書いてあるかもしれない。あいつが、唄のことを、先に、知ってたら」
鈴の背を、冷たいものが、降りた。
累は、結びも、いずれ、数えてみせる、と言って、去った。結びを数えようとする男なら、唄も、数えようとするだろう。母の頁を握る男が、唄の北を、先に、目指していたら。
「急ごう」鈴は言った。「明日、発つ」
◆
発つ朝、鈴は、狩りの袋の中身を、検めた。
罠の銅線。干した小魚。小夜の板きれ。母の唄の写し——いや、いまは、ばあさまから聞いた、南の節の、全部。それから、累の船で、累が惜しげもなく寄越した、血脈簿の、母の頁の写し(原本は、累が持ち去ったが、写しは、鈴の手元にあった)。
お守りの束を、背負って、敵の北へ、行く。武器は、ひとつもない。
「ばあさま」鈴は、見送りに出た老婆に、言った。「南の節、ちゃんと、覚えた。北で、小夜と、落ち合わせてくる」
「お行き」ばあさまは、笑わなかった。「母さんの、やり残しだ。拾っといで。……それとね、鈴」
ばあさまの声が、低くなった。
「唄が、先だよ。焼くのが、後だ。覚えときな。あたしらが、唄で、世界を守ってた頃が、あった。焼いて守るやり方は、ずっと後から、来た。誰かが、唄を、焼くやり方に、すり替えた。……なんで、すり替えたか。それが、北で、分かるはずだ」
唄が、先。焼くのが、後。
鈴は、坂を上る前に、一度、ばあさまから聞いた南の節を、口の中で、さらった。
子守唄の五行に、ばあさまの足した、いくつかの古い文句。声に出さず、唇の形だけで。母が、咳の合間に、歌おうとして、歌えなかった唄。その南の半分が、いま、鈴の口の中に、あった。北の半分と、落ち合わせれば、完うする唄。母が、十六年、間に合わなかった唄。鈴は、それを、自分の足で、北へ、運んでいく。母の運べなかった半分を、母の娘が、二人がかりで。
鈴は、その言葉を、坂を上りながら、何度も、転がした。
地上へ出ると、秋の空が、低く、垂れていた。北の方角に、雲が、厚い。あの雲の下に、母の行った里がある。唄の続きがある。傷痕を、もともとのやり方で塞ぐ、響きがある。
地の底の砦は、あたたかかった。地上は、もう冬の入口の冷たさだった。坂を一段上るごとに、空気が乾いて、頬が張りつめていく。鈴は手拭いを巻き直して、こめかみの白を隠した。隠したところで、北へ行けば顔も知られていく。それでも、行かないという道はなかった。母が間に合わなかったものを、娘が拾いに行く。引かれてではなく、自分の足で。その違いだけが、灰にならずに済むかもしれない、たったひとつの手がかりだった。
縹が、隣に、立った。見えない目を、北へ、向けて。
「歌ってる」縹は、また、言った。「さっきより、すこし、はっきり。……近づいてる、というより、向こうが、こっちに、気づいた、みたいな響きだ」
「気づいた?」
「唄は、聴く者がいると、すこし、大きくなる」縹は、薄く笑った。「呼び講と、同じだ。聴く者がいる唄は、消えない。……北の唄は、いま、聴く者が、二人、増えたのを、知ったのかもしれん」
鈴は、北を、見た。
引かれる北では、なかった。向かう北だった。自分の足で。母が、十六年前、身重の体に、唄を一行だけ持って帰った、その源へ。
枯れ野を、北へ、二人で、歩き出した。
罠の輪は、結び直さずに、置いてきた。あれは、燼の輪だ。結ぶ資格のある者が、いつか、結ぶ。鈴の仕事は、北の唄を、拾うことだった。




