第1話 追われる白
秋の枯れ野は、錆びの匂いがする。
鈴は、茨の根方に膝をつき、銅線の輪から、枯れ葉を払った。かかっていない。獲物の気配は、ある。兎の糞も、新しい。それでも、罠は、空だった。
兎が、近寄らなくなったのではない。鈴が、近寄れなくなったのだ。
茨の向こうで、気配が、ふたつ。鈴は、振り返らずに、息を、浅くした。土の色になる。見られないように。十六年、この体に染みた、狩りの仕方で。けれど、もう、効かなかった。
「名灯し様」
声が、した。若い男と、女。灰郷の外れの者ではない。北からの、流れ者だ。ひと夏で、枯れ野の底の砦には、見ない顔が、増えた。皆、海の南に、名を取り戻せる場所がある、と聞いて、海を渡ってきた者たち。その口が、鈴を、様、と呼ぶ。
「拝まないで。立って」鈴は言った。「そこ、土が、悪い」
夫婦は、立った。立って、なお、頭を、下げたままだった。後ずさりで、枯れ草を踏み、遠ざかっていく。神棚から離れるときの、あの下がり方で。
鈴は、空の罠を、見下ろした。
銅線の輪を指の腹でなぞると、結び目の癖がいまも体に残っているのが分かった。茨の棘を避けて低く張る角度も、風下から忍び寄る足の運びも、十六年かけて手に染みついている。染みついたものは消えない。消えないのに、その手が今年はもう、獲物に届かなくなっていた。罠を仕掛ける技は何ひとつ衰えていないのに、ただ鈴が枯れ野に立っているというだけで、兎は遠い茂みの奥へ退いていく。腕が鈍ったのなら直しようもある。直しようがないのは、鈴という存在そのものが、いつのまにか狩り場で浮いてしまったことだった。
半年前と、同じだった。いや、ひどくなっていた。半年前、鈴を拝んだのは、灰郷の者だけだった。いまは、八洲じゅうから流れてきた者が、拝む。名を取り戻した州の、名づけの神様を。狩りに、ならない。兎より先に、人がいる。
兎は、人の気配を覚える。神様の気配は、もっと、覚える。
◆
帰り道、茨の根に、古い輪が、ひとつ。
錆びた銅線。けれど、その輪だけは、新しい銅線で、結び直してあった。半年前の冬に。出ていく男が、出ていく晩に。
燼の罠だ。
鈴は、手を伸ばしかけて、やめた。これは、自分の輪ではない。結び直した者の、輪だ。結んで、それから、北の焼け跡へ、行った男の。火を配って歩く男がいる、と人は言う。潮をかぶった東の沿岸を、夜、流民の野営に、火種を置いていく男。名は、名のらない。左の眉の上に、古い傷がある、と。
「……ばか」
声に、出た。出してから、誰も聞いていないことに、気づいた。枯れ野に、鈴ひとり。神様ひとり。
風が、傷痕の方角から、来た。
潮の匂いが、した。半年前より、濃い。山の上の、海など見えない郷で、潮の匂いだけが、年々、濃くなる。枯れ野の縁の草が、去年より、深く、銀色に錆びている。毒の虹のにじみが、罠場のほうへ、また、指の幅ぶんだけ、近づいていた。
誰も焚べていないのに、世界の側が、勘定を、取り立てに来ている。
そういう匂いだった。
鈴は、右手を、袖の中で、握り込んだ。布を、巻いた右手。手のひらの奥で、銀色の糸が、何本も、傷痕の方角へ、ゆるく、たわんでいる。灯都を変えた夜は、一本だった。いまは、数えていない。数えれば、明日の自分が、臆病になる。
ただ、その糸が、今日は、いつもと、違った。
引かれていた。
傷痕の方角へ、垂れるのではなく。北東の、灯都のあった方角へ。何かが、糸を、向こうから、手繰っている。弱く。けれど、確かに。落ちかけた歯車が、近くの歯車を、巻き込もうとする、あの引き方で。
鈴は、糸を握る手に、力を込めた。引かれまい、として。
引く先が、何なのか。鈴は、まだ、知らなかった。知らないまま、その引きが、半年前から、月ごとに、強くなっていることだけは、布の下の感触で、知っていた。
◆
枯れ野の底の砦は、秋でも、あたたかい。
土の大広間に、灯が、何十と吊られている。藍、朱、萌黄。番号を捨てた者たちの、めいめいの色。半年前と、変わらない。変わったのは、人の数だった。広間は、ひと夏で、二回り、広げられていた。それでも、足りない。海を渡ってきた者が、毎月、増える。
壁際には荷を解ききれない一家がいくつも身を寄せていた。北の言葉で子をあやす母親がいて、その隣で見知らぬ老人が黙って椀を分けてやっている。番号で呼ばれることに慣れた体が、ここでは名で呼ばれて、はじめは怯えたように顔を上げる。誰も番号を訊かない暮らしに、人はなかなか馴染めない。馴染めないまま、それでも灯の色だけは、めいめいが自分で選んで吊るしていた。藍を選んだ者の隣で、誰かが迷った末に萌黄を灯す。その小さなためらいの跡が、広間じゅうに揺れていた。
「鈴姉ちゃん!」
声と一緒に、小さい影が、駆けてきた。
蕗だった。また、背が伸びた。九つに、なったはずだ。手に、棒きれと、木の板を持っている。
「あのね、字、教えてるの。あたしが!北から来た子に。ふきって書ける子が、もう、五人!」
「……先生だ」
「先生!」蕗は、得意げに、胸を張った。それから、声を、半分、落とした。「でもね。大人たちが、鈴姉ちゃんのこと、白き読み手さまって、呼びはじめたよ。名灯し様じゃなくて。……あれ、なに?あたし、やだ。鈴姉ちゃんは、鈴姉ちゃんなのに」
鈴の足が、止まった。
白き読み手。
半年前、岬の蔵で、解放された老婆が、初めて、その名で、鈴を呼んだ。あのときは、ひとりだった。広間に、戻る道々、それが、ふたりになり、五人になった。いまは——蕗の言うとおりなら、もう、皆が。
「誰が、言いはじめたの」
「知らない。気づいたら、みんな。北から来た人が、多いかな」蕗は、首をかしげた。「灯都の白いお方が、悪い人で、それを倒した鈴姉ちゃんが、新しい白いお方なんだって。……でも、あたし、見たもん。鈴姉ちゃんは、白くないよ。ここ、ちょっとだけ、白いけど」
蕗の小さな指が、鈴の、こめかみを、指した。
ひとすじの、白。
半年前、岬の蔵で、落ちかけた節を、素手で保った、あの数瞬の、代償。鈴には、見えない。見えないが、ある。鏡を、見ないようにしていた。水鏡も、覗かないようにしていた。それでも、蕗の指は、まっすぐ、そこを、指した。
「ちょっとだけ、だよ」蕗は、励ますように、言った。「すぐ、黒くなるよ。きっと」
「……うん」鈴は言った。
嘘だと、二人とも、知らなかった。蕗は、知らない。鈴は、知っていた。あの白は、黒くならない。増えるか、止まるか、どちらかだった。
◆
広間の隅で、車座が、ひとつ、できていた。
呼び講では、なかった。呼び講は、賑やかだ。互いの名を呼び合い、しくじっては、笑う。この車座は、静かだった。膝を抱えた者たちが、低く、何かを、唱えている。経では、ない。名前だった。
「太郎兵衛。きく。三造。豆太。すず……」
梶の声だ。東の州の、大工だった男。燼が砕いた節の崩落で、潮に呑まれた村の、唯一の生き残り。沈んだ村の、九十三人の名を、ひとりで、暗唱し続けてきた男。
その暗唱が、いつのまにか、講に、なっていた。
覚えの講、と梶は呼ぶ。呼び講が、生きている者の名を覚えるなら、覚えの講は、逝った者の名を覚える。潮に呑まれて、呼ぶ口ごと消えた名を、血も縁もない者が、覚える。覚えていれば、その名は、まだ、この世に、ある。
車座の者は、皆、誰かを、亡くしていた。北の岸から渡ってきて、向こうに身内を残した者。郷で、病に、子を奪われた者。梶の九十三人を覚えながら、皆、自分の死者の名も、その列に、足していく。知らない者の名を、知らない者たちが、なぞる。誰かの代わりに、覚えておくために。
ひとりが名を呼び落とすと、隣の者が静かに継いだ。継がれた名は途切れず、また次の口へ渡っていく。覚えていれば消えない、という梶の信じ方が、その低い声の連なりのなかで形になっていた。誰が誰の身内かは、もう問われなかった。名はただ、覚える者の口から口へ移されて、生きている者の体温のなかで温められていく。墓のない者たちの墓が、人の喉のなかにあった。
鈴は、その車座を、遠くから、見た。
呼ぶ口ごと消えた名前は、どこへ、帰るのだろう。半年前、東の浜で、抱えた問い。その答えの、いちばん最初の形が、ここに、灯っていた。鈴が、作ったのではない。梶が、作った。鈴は、ただ、問いを、抱えただけだった。
それで、よかった。鈴がいなくても、回る。回るように、なっていた。呼び講も、覚えの講も。
なのに、皆は、鈴を、白き読み手さま、と呼ぶ。
◆
評議の間に、弦次が、待っていた。
鍛冶の親方。焼き派の頭だった男が、いまは、砦の差配の半分を、担っている。卓に、一枚の、紙。北の州の、書院の紙だ。整いすぎた、彫り物のような字。
「また、来た」弦次は、苦い顔で、言った。「天理院の、残った州の、寄り合いの触れだ。三月で、三枚目だぞ」
鈴は、紙を、手に取った。
八洲の結界を殺す大禍、灰郷の鈴。
みずから「白き読み手」を僭称する者。
これを匿う郷は、結界殺しに与する者とみなす。
見つけ次第、引き渡すべし。賞金、米百俵。
「……僭称」鈴は、紙を、握り潰しそうになった。「名のってない。一度も」
「向こうも、知ってる」弦次は言った。「知ってて、書く。お前を、その名前に、縛りつけたいのさ。名のってなくても、敵が名のらせる。皆が、その名で呼べば、お前は、もう、その名前だ。……ひでえ理屈だが、効く。お前が、いちばん、知ってるだろう。名は、名を、呼ぶ」
知っていた。半年前、鈴が、灯都で、起こした力学だった。一人が呼べば、隣が呼ぶ。広がる。止められない。あのとき、それは、名を取り戻す力だった。いまは、同じ力が、鈴を、白き読み手の檻へ、押し込んでいる。
味方は、感謝で、白き読み手さま、と呼ぶ。敵は、憎しみで、白き読み手の僭称者、と呼ぶ。違う口が、違う心で、同じ名を、鈴に、被せる。両側から。
「賞金、米百俵だってさ」弦次が、鼻を鳴らした。「お前の首は、米百俵らしい。安いか、高いか、分からん値だ」
「……出ていったほうが、いい?」鈴は、訊いた。「あたしが、ここにいると、砦が、狙われる」
「ばかを言うな」弦次は、即答した。「お前が出ていって、誰が、得をする。敵か。お前を、白き読み手にしたい連中か。……ここにいろ。お前は、ここの飯を食う。ここの灯の下で寝る。砦の中に、客はいない。半年前、お前が、おれに言った台詞だ」
鈴は、答えなかった。答えの代わりに、紙を、もう一度、見た。
灰郷の、鈴。その四文字だけが、正しかった。あとは、全部、敵の、付けた名だった。
◆
夜、土の小部屋で、縹が、薪を、測っていた。
とん、とん、と、乾いた音。長さを、指で確かめ、太いものと、細いものを、触っただけで、分けていく。読めなくなった目の代わりに、この一年で、指が、覚えた仕事だった。
「今日は、空だろう」縹は、鈴が入ると、言った。
「……なんで、分かるの」
「足音だ。獲物のある日は、土間で一度、袋を下ろす音がする」
灰青になった目が、こちらを、向いた。焦点は、合っていない。合っていないのに、まっすぐだった。読めない目で、ただ、見る。この一年、鈴は、その視線に、何度、救われたか、分からない。砦じゅうが、鈴を、白き読み手さま、として見る。縹だけが、見えない目で、鈴を、見る。称号を、読まない目で。
「糸が」鈴は、布を解いて、右手を、火にかざした。「今日、引かれたの。北東へ。灯都の、あった方へ」
縹の手が、止まった。
「強かったか」
「弱い。でも、月ごとに、強くなってる」
縹は、しばらく、黙っていた。それから、自分の胸に、手を、当てた。傷痕と、同根の、半分が、いつも、疼く場所に。
「私の秤も、同じことを、言ってる」縹は言った。「八つの節が、互いを、探してる。灯都の節が、主を欠いたまま、負荷を、撒いてる。落ちかけた節が、いちばん強い糸に、寄っていこうとする。……いちばん強い糸が、お前だ。帳が、お前を、座らせたがってる」
座らせたがってる。
その言い方の、静かなおそろしさを、鈴は、半分しか、分からなかった。分からないまま、半年前、岬で、琥珀が言った言葉を、思い出した。帳が、あなたを、覚えた。あの子は、座から、すべてを聴いて、そう、言った。
「座ったら、どうなるの」
「灰に、なる」縹は、静かに言った。「世界を、保つ、一本の柱に。皆に頭を垂れられて、誰にも名を呼ばれず、緩やかに、削られて、白く、なっていく。……お前のこめかみの白は、その、最初の一滴だ」
火が、爆ぜた。
鈴は、右手の糸を、見た。北東へ、ゆるく、引かれる、銀の束。座が、呼んでいる。世界を保つ、白い座が。半年前、灰の座っていた、あの座が。
「あたしは、座らない」鈴は言った。
「だろうな」
「でも、どうやって、断ればいいのか、分からない。世界は、壊れかけてる。節が、落ちていく。潮が、上がる。……断れば、人が、死ぬ。座れば、止まる。あたしが、白くなれば、皆が、助かる。……それ、断れる?」
縹は、答えなかった。答えの代わりに、薪を、一本、火に、足した。手探りで、いちばん太いのを、正確に。
「分からん」やがて、言った。「だが、ひとつ、分かってることがある。お前は、半年前、ひとりで、灯都の大灯を、変えた。あのときは、名づける、という新しい手を、持ってた。今度の問いにも、たぶん、新しい手が、いる。座る、でも、断って人を死なせる、でもない、三つ目の手が。……それが、どこにあるか、私には、読めん」
三つ目の手。
半年前にも、聞いた言葉だった。米でも、矢でもない、三つ目の手。あのときは、呼び講だった。今度の三つ目の手は、どこに。
◆
その夜、北から、文が、来た。
凪の村の、伝手をたどって。砦の、いちばん遅い刻限に。汐音が、それを、鈴の小部屋まで、運んできた。
「小夜ちゃんから」
鈴の指が、文を、開いた。妹の字は、北で、また、うまくなっていた。
鈴姉へ。
北は、寒くなってきた。唄を教えるの、楽しいよ。北の子は、覚えがいい。
でね、見つけたの。氷見の岩の、ずっと北の、唄持ちの里。母さんが、唄を覚えた場所。
子守唄の、続きが、あった。あたしの知ってる五行の、その先が。
でも、続きは、まだ、半分しか、聞けてない。里のいちばん年寄りが、「南の節と、落ち合わなきゃ、唄は、完うしない」って。
南の節って、なに?鈴姉、ばあさまに、訊いてみて。
あと——里の人が、変なことを、言ってた。
唄は、もともと、結界を、守る唄だったって。
犠牲じゃ、なくて。唄で。
ほんとかな。
——小夜
鈴は、その文を、二度、読んだ。
二度目の途中で、指が、文の縁を、握りしめていた。
唄は、もともと、結界を、守る唄だった。犠牲じゃ、なくて。
座る、でも、人を死なせる、でもない、三つ目の手。縹の言った、まだ、どこにあるか分からない手。その尻尾が、妹の、たどたどしい字の、いちばん最後の行に、見えた気がした。
北。母の、行った場所。唄の、続きのある場所。
鈴は、右手を、夜の中に、かざした。
糸は、北東へ、引かれていた。座へ。けれど、いま、鈴の中で、別の北が、灯った。座の北ではない。唄の北だ。母が、唄を、背負って帰ってきた、その源の、北。
引かれるまま、座へ行くか。自分の足で、唄の北へ行くか。
同じ北のようで、まるで、逆の北だった。
座へ引かれる糸は、鈴の意思を待たずに勝手にたわむ。手繰られる魚のように、こちらが力を抜けばそのぶんだけ向こうへ寄っていく。けれど唄の北は、糸では繋がっていなかった。そこへ行くには、鈴が自分の足で歩くしかない。引かれて着く場所と、歩いて着く場所。どちらも北と呼ばれて、片方は鈴を白くし、片方は母の声へ近づける。布の下の糸が、いまも北東へ低く垂れているのを、鈴は手のひらの感触だけで確かめた。
土間の向こうで、縹が、寝返りを打った。傷痕の方角へ、顔を向けて。あの人の半分は、いまも、裂け目の中にいる。一年、ずっと。封じた当人が、夜ごと、その方角へ顔を向けて眠る。
鈴は、文を、胸元に、しまった。空の狩り袋の、隣に。
明日、ばあさまに、訊こう。南の節のことを。母のことを。
枯れ野の底の夜は、雪も降らず、ただ、根の軋む音と、遠い、覚えの講の、低い名の連なりだけが、土の中を、流れていた。
太郎兵衛。きく。三造。豆太。すず——。
呼ぶ口ごと消えた名前が、知らない者の口の中で、まだ、生きていた。鈴は、その響きを、子守唄のように、聞きながら、目を、閉じた。




