第13話 水鏡
発つ朝、琥珀は、座の上から、鈴を呼び止めた。
蔵の者たちは、もう半分が、逃げていた。残った半分は、名のり合った者たちの世話を、焼いていた。主を失った白い建物の中で、座の少女だけが、変わらず、糸の真ん中に、座っていた。頁のない、名のりだけの錨として。
「ひとつ、伝えておく」
少女の声は、もう、蝶番の音では、なかった。毎日使われはじめた声の、まだ硬い、けれど、生きた音だった。
「糸の上を、いろんなものが、通る。座っていると、聞こえる。……八つの節は、いま互いを、探してる。灯都の節は、形が変わった。東の節は、落ちた。ここの節は、私が変わった結び方で、結んだ。残りの五つが、戸惑ってる。帳が新しい釣り合いを、探してる」
琥珀の目が、鈴の右手を、見た。
「探している帳は、いちばん、強い糸に寄っていく。……あなたの糸は、変わった。昨日から。一方通行の糸の束の、真ん中に両端のある糸が、一本、通った。ああいう糸を、帳は初めて、見た。……気をつけて。帳があなたを、覚えた」
帳が、覚えた。
その言い方の、静かなおそろしさを、鈴は、まだ半分しか、分からなかった。分からないまま、訊いた。
「あんたは、ここで、いいの」
「ここが、いい」少女は、即答した。「初めて、自分で選んだ場所だから。……それに、座ってると、唄が聞こえる。あなたの妹が、蔵で歌ってた唄。あれを、覚えた。座りながら、歌ってる。糸が、すこし、あたたかくなる」
名のりで座った要石は、唄う要石に、なっていた。
三百年の帳面の、どの頁にもない座り方だった。
◆
琥珀の座る白い間は、もう、徴発の場では、なかった。
炉は、冷えていた。州灯は、細く、けれど、灯っていた。喰う火を失った灯が、名のりの座で、辛うじて、保たれていた。蔵の壁の、無数の帳面は、そのままだった。書かれた名前の、墓地のような棚。けれど、その下で、いま、生きた名前が、呼び合いはじめていた。北の岸の、最初の呼び講が、この蔵の、すぐ外で、立ちはじめていた。書かれた名と、呼ばれる名と。同じ蔵の中で、ふたつの名前の在り方が、せめぎ合っていた。どちらが勝つかは、まだ、誰にも、分からなかった。
発つ間際、鈴は座の前で、足を止めた。
「また、来る」
「うん」琥珀は、頷いた。それから、初めて、何かをねだる声を出した。「……次は、唄の、続きがあるなら。あの先の節が、もし、見つかったら。教えて。座って歌うには、五行は、すこし、短い」
五行は、短い。何十年を座る者の、時間の長さが、その一言に、入っていた。鈴は、約束した。約束して、白い建物を、出た。振り返ると、窓のない壁の中から、かすかに、唄が聞こえた気がした。気のせいでも、よかった。気のせいでも、あの唄はあの座を、あたためる。
海峡の帰りの船は、行きより、混んでいた。
行きは、四人だった。鈴と、縹と、凪と、汐音の伝手の漕ぎ手と。帰りは、その倍を、超えた。凪と、汀。北の岸で結ばれて、向こうに居場所をなくした者。東の漂流者、梶。皆、海の南に、名前を取り返せる場所があると、聞いて、乗ってきた。船は、重く、ゆっくり、波を、越えた。北の岸が、遠ざかる。鈴は、その岸を、見ていた。網は、破れた。村々は、怯えて、講をやめかけた。それでも、覚えられた名前は、あの岸に、残った。怯えが終わった日に、芽を出すかもしれない、結び目の種が。
凪と、汀。それから、北の岸で結ばれた者のうち、向こうに居場所をなくした数人。徴発の列にいた者は、村に戻れば、また帳面に載る。載らない暮らしを探して、海を渡ることにした者たちだった。
「講は、続いてます」船の上で、凪が言った。「網元も、こっそり、車座に戻ったって。……怯えは、すぐには消えない。けど、覚えた名前も、消えないから」
汀は船端で、ずっと海を見ていた。
病み上がりの体に、海風は重いはずだった。それでも、姉は弟の隣で、初めて見る南の岸の方角を、見続けていた。札の痕の残る首を、まっすぐ、伸ばして。
灰郷の浜が、見えたとき、誰かが叫んだ。
浜に、人が出ていた。
砦の者だけでは、なかった。灰郷の者も、谷向こうの者も。報せは船より、速かった。人垣の、いちばん前で、小さな影が、跳ねていた。跳ねて、待ちきれずに、波打ち際まで、走り出てきた。
「鈴!」
蕗だった。
様も姉ちゃんも、つかなかった。ただの、名前だった。八つの子が、ありったけの息で、海に向かって、呼んだ名前。
「蕗!」
鈴も、呼び返した。
船端から、ありったけの息で。呼んでその瞬間、胸の奥で、糸が張った。小夜との糸の、隣に。細くて、あたたかい、両端のある糸が、もう一本。灯都の夜、鈴が一方的に灯した火の持ち主が、自分の息で、鈴を呼んだ。呼ばれて、応えた。それだけで、糸は結びに、変わった。
灯は名を呼ぶ者のもとへ、帰る。
唄のとおりだった。帰ってきたのは、船ではなかった。呼び合う声の、ただ中へだった。
◆
浜では、汐音が、待っていた。
無事な姿を見て、機織りの女は、何も言わず、鈴を、一度、強く、抱いた。それから、小夜を見て、目を、丸くした。「……背、伸びた?」「半年だもん」「ふた月だよ」「あ、そっか」。姉妹の、いいかげんな数え方に、汐音が、笑った。砦の者たちが、次々と、浜へ降りてきた。帰ってきた者を、迎えるために。名前を、呼びながら。鈴。小夜。縹。凪。汀。それから、新しい名前も。梶。覚えの講の、東の大工の名も、もう、誰かが、覚えはじめていた。
浜から砦への道々、鈴は何度も、呼び止められた。
名灯し様、ではなかった。鈴さん、と呼ぶ者が、増えていた。講が、変えたのだった。名を呼び合う癖のついた口は、様より先に、名前が出る。呼ばれて、応えて、そのたび、小さな糸が、張ってはほどけた。結びに育つ糸も、その場限りの糸も、あった。どちらでも、よかった。呼び合いは、富くじではない。畑だった。
砦に、梶も、来ていた。
岬から、鈴たちと一緒に、海を渡ってきた。東の村を失った大工は、行く場所が、なかった。無名衆の砦が、当面の、寝床になった。けれど梶は、ただ匿われる客では、いなかった。来て、三日目の夜には、もう、土の広間の隅で、車座を、作っていた。
呼び講では、なかった。
「覚えの講、とでも、呼びますかな」梶は、集まった数人に、言った。北の岸から渡ってきた者。東の漂流者。郷で身内を亡くした者。皆、もう呼べない名前を、抱えた者たちだった。「呼び講は、生きとる者の、名を覚える。こっちは、逝った者の、名を覚える。……潮に呑まれて、呼ぶ口ごと消えた名前を、よそ者のわしらが、覚える。血も、縁も、ない者が。それでも、覚えてりゃ、その名は、まだ、この世に、ある」
梶が、九十三人の名を、唱えはじめた。
太郎兵衛。きく。三造。豆太。すず。……車座の者が、口を、動かして、続いた。梶の村の、知らない者の名を、知らない者たちが、なぞった。覚えるために。誰かの代わりに、覚えておくために。鈴は、その車座を、遠くから、見た。呼ぶ口ごと消えた名前は、どこへ帰るのだろう。東の浜で、抱えた問いに、答えの、いちばん最初の形が、土の広間の隅で、灯りはじめていた。
その晩、砦の土の広間で、汁が煮えた。
芋の汁だった。約束のやつ。鍋の前に、鈴と小夜と、縹と、凪。四人でと言った約束は、汀が加わって、五人になり、蕗が潜り込んで、六人になり、汐音と弦次が、味見と称して、椀を出して、八人になった。約束はそうやって、増える方向に、破られるのが、いちばん、いい。
「……で、これからの話だ」
椀が空いた頃、弦次が言った。広間の空気が、すこし、締まった。
「北の軍は、退いた。頭目の斎主が、消えたんだ。当然だな。……だが、報せは悪いのが、三つ、ある」
ひとつ。東の節が落ちた海は、戻らない。潮はこの春から、毎月、すこしずつ、高い。八洲の残りの結界は、二つの節を欠いたまま、それを支えている。残った要石たちが、限界まで削られながら。
ふたつ。天理院の残存の州々が、初めて、ひとつにまとまった。まとめたのは、恐れだった。触れが、回っている。弦次はその写しを、卓に置いた。
八洲の結界を殺す大禍、灰郷の鈴。
みずから「白き読み手」を僭称する者。
見つけ次第、引き渡すべし。
「……僭称って」鈴は、写しを握り潰しそうになった。「名のってない。一度も」
「向こうが、名のらせたいのさ」汐音が、静かに言った。「あんたを、その名前の檻に、入れたい。敵も味方も、同じ名前で、あんたを呼びはじめてる。……名は、名を呼ぶ。あんたが、教えてくれた理屈だよ。いちばん、嫌な形で、効いてる」
みっつ目の報せは、弦次は報せと呼ばなかった。噂だ、と言った。
東の、潮をかぶった沿岸を、火を配って歩く男がいる、という。流民の野営に、夜、現れて、火種を置いていく。名は、名のらない。ただ、置いていった火は、よく保つという。誰かが男の左の眉の上に、古い傷を見た、という。
「……生きてる」
「噂だ」弦次は、繰り返した。繰り返す声が、噂以上のものを、信じたがっていた。「数千を沈めた男が、火を配って、回ってる。償いのつもりかは、知らん。会ったら、おれは、一発、殴る。殴ってから、椀を出す」
鈴は罠の輪のことを、思った。
新しい銅線で、結び直された輪。結んでから、行った男。その男が、いま焼いた海の縁で、火を配って歩いている。焼く側の手で、灯す側の仕事を。誰にも、名のらずに。
無名衆。
その言葉が、ふいに別の意味で、胸に落ちた。名を消された者たちの軍、ではなく。名のらずに、火を置いていく者。名乗るべき名を、まだ、自分に許せない者。それでも手だけは、動かす者。——燼は、いま八洲でいちばん深い意味で、無名衆だった。
罪を、数えれば、燼は、八洲でいちばんの、大罪人だった。東の州を、沈めた。数千を、潮に、呑ませた。けれど、その同じ手が、いま、潮の縁で、火を、配っている。守る側と、壊す側を、同じ手で、やった男。鈴には、燼を、許す資格も、裁く資格も、なかった。ただ、思った。あの男も、自分の名のりを、探しているのだ、と。燼、という名を、もう一度、自分のものと、呼べる日を。罠の輪を、結び直したのは、その日への、印だった。いつか、資格を取り戻して、帰ってくるための。鈴は、枯れ野の、結び直された輪を、思った。あの輪は、いまも、誰も、結び直さずに、待っている。燼が、自分で、自分を、燼と呼べる日まで。
◆
小夜の旅支度は、はやかった。
決めた者の、支度の早さだった。北へ渡って、唄を教える。名のりの仕方を教える。妹は、もう、行く先を、見ていた。荷物は、少なかった。母の唄の写し。板きれ。着替え。それだけ。「鈴姉の荷物より、少ないよ」と妹は笑った。「鈴姉、まだ、罠の銅線、持ってるでしょ」「持ってる」「狩り、もうしないのに」「お守り」。姉妹は、笑った。狩りをしない狩人と、唄を運ぶ妹。半年前には、想像もしなかった、ふたりの姿だった。
「ねえ、鈴姉」小夜が、支度の手を止めて、言った。「あたしが北に行ったら、鈴姉、ひとりだね」
「ひとりじゃない。縹も、凪も、汐音も、いる」
「そういうことじゃなくて」妹は、まっすぐ、鈴を見た。「鈴姉が、あたしの心配を、できなくなる、ってこと。鈴姉の、いちばん古い仕事が、なくなる。……だいじょうぶ?」
図星だった。鈴は、十六年、妹の心配を、仕事にしてきた。その仕事が、妹の旅立ちで、なくなる。守る相手が、自分の足で、歩いていく。それは、願ったことだった。願って、叶うと、こんなに、寄る辺ないものだとは。
「だいじょうぶ」鈴は言った。「あたしも、新しい仕事を、探す。あんたが、探したみたいに」
数日して、北から、文が来た。
凪の村の網元からだった。講の報せと、米の相場と、それから、最後に短い一文。
北の無名のもんらが、訊いてくる。
灯し手の、妹さまは、いつ、また来なさるか。
灯し手の、妹さま。
小夜はその文を、三度、読んだ。読んで、鈴を、見た。
「……あたしの、こと?」
「あんたのこと」
蔵の奥で、毎晩、唄を歌っていた娘。炉の前で自分の名を、自分で呼んだ娘。その話は北の岸を、講の網に乗って、走っていた。鈴の話より、速く。北の無名たちにとって、海の向こうの名灯し様より、蔵の中で隣にいた「唄の姉さま」のほうが、ずっと近かった。
「行きたい」小夜は、言った。即答だった。「行って、唄を教えたい。名のりの仕方も。……あたし、あっちで覚えたの。怖い場所でも、唄は覚えられるって。覚えた唄は、怖い場所でこそ、効くって」
鈴は、息を、ひとつ、吸った。
駄目、が喉の奥で、生まれかけた。十六年、最初に生まれる言葉は、いつもそれだった。生まれたそれを、鈴は今度は、ゆっくり、見送った。代わりに、言った。
「評議に、かけな。あんたが、自分で」
「うん」
「あたしは、賛成に、手を挙げる」
小夜の顔が、ぱっとほどけた。ほどけてから、妹はわざと、生意気な顔を、作った。
「……九十点」
「十点、どこで引かれたの」
「息を吸ってから言うまで、長かった」
姉妹は、笑った。糸がふたりの間で、あたたかく、揺れた。道は、分かれていく。妹は、北へ。唄を持って。姉は——姉の道は、まだ名前が、なかった。
◆
寝る前に、縹が言った。
「ひとつ、礼を言っておく」
「……なにそれ。改まって」
「炉の前で、お前は呼ばなかった。歌って、待って、受けた。……止め役の、出番がなかった」縹は、見えない目で、すこし、笑った。「あの浜では、腕を掴んだ。今度は、隣に立ってただけだ。次は、たぶん、隣にいる必要も、ない。……それが、寂しくないと言えば、嘘になるがな」
「いてよ」鈴は言った。「必要なくても」
「ああ」縹の返事は、早かった。「いる。必要なくても」
それがふたりの、いまの形だった。読まない。決めない。先回りしない。ただ、いる。
半年前、ふたりは、灯都の地の底で、出会った。鏡守と、移ろい火。読む者と、読まれる者。いちばん、遠い、ふたりだった。縹は、鈴の火を、読んだ。読み切れなくて、惹かれた。鈴は、縹の偽りに、救われた。あれから、長い、道だった。縹は、目を失い、読む力を、なくした。鈴は、声を得て、名づける力を、持った。読む者は、読めなくなり、読まれる者は、名づける者に、なった。立場が、すっかり、入れ替わって、それでも、ふたりは、隣に、いた。読まない目で、見る。名づけない声で、待つ。半年かけて、ふたりは、力を使わずに、人を想う方法を、覚えた。それは、たぶん、この物語が、いちばん、伝えたかったことだった。
その晩、鈴は、なかなか、寝つけなかった。
東の沿岸で、火を配って歩く男。弦次の語った噂が、頭から、離れなかった。燼が、生きている。生きて、自分の焼いた海の縁で、火種を、配っている。罪滅ぼしか。意地か。それとも、ただ、手が、動くからか。鈴には、分からなかった。分からないが、ひとつだけ、確かなことが、あった。あの男は、もう、砦には、帰ってこない。罠の輪を、結び直して、それから、行った。帰る場所の印だけを、残して。獲物を分け合う仲には、二度と、戻らないと、決めて。梶が、火種を貰った、と言っていた。眉に傷のある男から、と。礼を言う暇も、なかった、と。それが、燼の、いまの居場所だった。名を、名のらず。礼も、言わせず。ただ、火だけを、置いていく。
夜、鈴はひとりで、水場に降りた。
砦の地下水を、桶に、汲む。灯りを桶の縁に、置く。水面が静まるのを、待つ。
水鏡に自分の顔が、映った。
こめかみに、白がひとすじ。
初めて、自分の目で、見た。小夜の指が触れた場所。世界を素手で持った、お代。それは思ったより、細くて、思ったより、白かった。灰のような白ではなかった。もっと、冷たい白。雪でもない。——あの白だ。かつて、石の段の上に立っていた人の、衣の白。色という色を、洗い流したあとの。
「あたしは……」
水鏡に向かって、言ってみた。
炉の前で、二度、続かなかった言葉。あたしは、鈴。灰郷の鈴。それは、いまもほんとうだ。ほんとうだが、足りなくなっていた。灰郷の鈴は、罠を見回って、妹の汁を作る。いまの自分は、八つの節の帳に覚えられ、敵と味方の両方から白き読み手と呼ばれ、こめかみに、世界の白を、生やしはじめている。
名は生き方の、器だ。
器のほうが、先に大きくなりはじめていた。中身の名のりが、追いつかない。追いつかないまま、名のらずにいれば——人は、空いた器に、勝手に名前を注ぐ。白き読み手さま、と。僭称者、と。器に注がれた名前が、いつか、中身になってしまう前に。
「あたしは」
三度目も続きは、出なかった。
ただ、今度は怖くなかった。出ないことが、答えだった。いまの自分の名のりは、まだこの世に、ないのだ。灰でも名灯しでも、白き読み手でもない、何か。それを見つけるか、作るか、しなければならない。器が、満ちてしまう前に。
それが次の旅の、名前だった。
水鏡の中で、白いひとすじが、灯りをすいと、撥ねた。
きれいだと、思ってしまった。思ってしまってから、鈴は桶の水を、勢いよく、撒いた。水鏡は砕けて、土に滲みた。きれいだと思ったことは、誰にも言わないことにした。あの白をきれいだと思う心の行き先を、鈴は、もうひとり、知っている。
白い座に、座った人を。
あの人も、最初は、こうだったのかもしれない。守りたいものがあって、器が先に大きくなって、注がれた名前を、いつからか、中身だと思うようになって。……ならなくていい、と言って、果てた人。あの最期の言葉だけが、いまも、道しるべだった。
土の廊下を、戻る。広間の灯が、遠くで揺れている。汁の匂いが、まだ、残っている。呼び合う声が、している。蕗が誰かの名を呼び、汀が覚えたての南の言葉で、呼び返している。あの輪の中に、戻る。戻って、明日も待って、歌って、結ぶ。
名のりが、見つかるまで。
急ぐ旅では、なかった。畑は、富くじではないのだから。呼んで、応えて、覚えて、覚えられて。その繰り返しの先にしか、次の名のりは、生えてこない。鈴は、それを、この一年で、骨まで、覚えた。
器が満ちてしまうのと、どちらが、先か。
それは、まだ、どこの誰の帳面にも、書かれては、いなかった。
鈴の名のりは、まだ、見つかっていなかった。
灰でも、名灯し様でも、白き読み手でもない、何か。器ばかりが、先に、大きくなっていく。八つの節の帳が、覚えた糸。敵と味方が、同じ名で呼ぶ称号。こめかみの、白いひとすじ。鈴を、ただの鈴に、しておいてくれない力が、また、形を変えて、鈴を、待っていた。それでも、半年前とは、違った。半年前、鈴は、ひとりだった。いまは、隣に、読めない目の人がいる。北に、唄を運ぶ妹がいる。砦に、覚えの講の大工がいる。呼び合う声の、輪の中に、いる。名のりが、見つかるまで、鈴は、その輪の中で、待てばよかった。ひとりで、答えを、出さなくて、よかった。それが、半年で、鈴が、手に入れた、いちばん大きなものだった。
書かれていない頁の手前で、物語は、いったん、筆を置く。
囲炉裏の端で、妹が、旅支度の唄を歌う。読めない目の人が、薪を、指で測る。北の蔵で、唄う要石が、五行の唄を、繰り返す。東の焼け跡で、名のらない男が、火種を置いて歩く。どこかの帳面の塔で、艶やかな声が、数えられないものの数え方を、考えている。
八つの節の帳は、新しい中心を、探し続けている。
いちばん強い糸の、持ち主のほうへ。白いひとすじを、こめかみに灯した、名のりのまだない娘のほうへ。ゆっくりと。けれど、確かに。




