第12話 結び
州灯の間は、白かった。
高い天井。白壁。壁という壁に、帳面の棚が、床から梁まで、組まれていた。万巻の背表紙が、四方から、間を見下ろしている。中央に、北の州灯——灯都のそれより小ぶりな、けれど目に痛いほど明るい、白い火柱。その根元に、炉が、口を開けていた。
台帳の塔が、間の奥に、立っていた。
塔、としか呼びようのないものだった。州じゅうの神名簿と、買い取りの帳と、血脈簿の写しと。何百冊が、櫓に組んだ棚の上へ、上へ、積まれて、天井の梁に届いていた。北の州の、ぜんぶの名前が、あの塔に、寝かされている。紙の塔は、しん、と静かだった。静かなまま、間のすべてを、見下ろしていた。
炉の傍らの、一段高い白い座に、琥珀が、座っていた。
銀の糸が、座から、火へ。少女は、入ってきた鈴を、見た。船の上と、同じ目で。測る目で。ただ、今朝のその目は、測りながら、何かを、待っているようにも、見えた。
炉の前に、列が、あった。
徴発の列だった。十人ほど。胸に錫の札を下げた、北の民。番付の、上から順の、よく愛された名前たち。
ひとりずつ、顔が、あった。乳飲み子を抱いた母。腰の曲がった漁師。まだ十をいくつも越えていない娘。よく愛された、ということは、よく呼ばれた、ということだった。母に。子に。恋しい者に。この列は、北の州の、いちばん愛された者たちの、列だった。愛されたことが、薪に選ばれる理由になる。累の理屈の、いちばん惨いところが、この列の、穏やかな顔つきに、現れていた。皆、自分が、よく愛された証として、ここに、立たされていた。
列の先頭近くに、青白い顔の娘が、いた。病み上がりの、痩せた肩。汀だろう。その隣に——
凪が、いた。
捕えられたのでは、なかった。少年は、自分の札を、自分で下げ直して、姉の隣に、並んでいた。鈴と目が合うと、凪は、小さく、顎を引いた。覚悟は、できているという、漁師の子の、顎の引き方だった。
「皆さま、お揃いでござる」
累が、間の中央へ、歩いた。
「ようこそ、徴発の朝へ。北の州の、誉れの儀でござる。よく呼ばれた名から、順に、州の灯へ。……ああ、鈴どの。あなたには、特等の席を、ご用意した」
累が、手を、打った。
乾いた、小さな音だった。その音ひとつで、間の空気が、変わった。蔵の者たちが、炉の支度を、始める。火床に、油を、足す。州灯の火柱が、ひとまわり、明るくなった。徴発の、支度だった。よく愛された名を、迎える、支度。鈴は、その明るさを、見上げた。半年前、灰の白い火柱を、同じように、見上げた。あのときも、誰かが、焚べられる前の、明るさだった。火は、いちばん多くを喰う前に、いちばん、美しく燃える。それを、鈴は、もう、知っていた。
奥の戸から、蔵の者に伴われて、小夜が、出てきた。
◆
ふた月ぶりの妹は、痩せても、青ざめてもいなかった。
背筋が、立っていた。蔵の奥で、毎晩、唄を歌っていた者の、背筋だった。小夜は、間を見渡し、列を見、琥珀を見て、それから、鈴を、見つけた。
妹の顔が、泣き笑いの形に、崩れかけて——止まった。
止めたのだ。自分で。いまは、まだ、と。
「妹御は、本日の、結びの一番でござる」累は、嬉しそうに言った。「いちばんよく呼ばれた名を、いちばん最後に。それが、儀の、作法ゆえ。……さ、始めようか」
間の四方の棚から、無数の背表紙が、見下ろしていた。
北の州の、ぜんぶの名前。よく呼ばれた名から、呼ばれなくなった名まで。布の表紙の下で、眠っている。鈴は、その一冊一冊に、人がいることを、知っていた。佐吉のような、さきのような、とうちゃんと呼ばれる子のような。何百、何千の暮らしが、この白い間の壁に、製本されて、立っていた。墓地ではなかった。台所だった。薪を、きちんと、棚に積んだ、台所。
蔵の者が、炉の脇の、棚から、巻物を、出した。
耳獏の巻物。録られた声の、写し。累は、それを、愛おしげに、検めた。
「妹御の火は、よく呼ばれた火だ。母御の声は、残っておらぬが——姉御の声が、ある。たっぷりと、ある」累は、鈴に、軽く、礼をした。「お聞かせしよう。私の蔵の、いちばんの一巻を」
巻物が、解かれた。
声が、間に、流れた。
——小夜。
鈴の声だった。
——小夜、汁、冷めるよ。
囲炉裏の端の声。鍋ごしの声。笑いを含んだ声。それから、低い、夜の声。
——小夜。熱は。……そう。寝てな。
熱の夜の声。何百と録られた中から、選び抜かれた、いちばん柔らかい呼び声たちが、炉の前で、次々と、再生されていく。鈴の愛が、鈴の声のまま、妹の火を、引きはじめた。
小夜の胸の奥で、魂火が、明るんだ。呼ばれて、応えて、明るんで——その明るみが、すう、と、炉のほうへ、引かれた。
姉の声が、妹を、焚べていく。
小夜の頬を、涙が、ひとすじ、伝った。
声のせいだった。ふた月ぶりに聴く、姉の声。録られた声でも、姉の声は、姉の声だった。汁、冷めるよ。その一言の中に、囲炉裏が、湯気が、灰郷の冬のぜんぶが、入っていた。妹は、泣きながら、立っていた。泣くことと、崩れることは、別だと、その立ち方が、言っていた。
鈴の足が、前に、出かけた。喉が、開きかけた。呼べ。呼んで、上書きしろ。録られた声より、いまの声のほうが、強い。呼べ——
「呼ばないで」
小夜が、言った。
炉に引かれながら。魂火を、揺らしながら。妹は、まっすぐ、鈴を見て、首を、横に振った。
「——歌って」
◆
鈴は、息を、吸った。
立ったままだった。膝は、折らなかった。灯都の夜、蕗の前では、膝を折った。あれは、奪われた名を、返すための高さだった。いまは、違う。妹は、奪われていない。妹は、立っている。立っている者の隣に、立つ。それが、今朝の、高さだった。
歌った。
ねむれ、ねむれ、火の子。
おまえの名は、おまえの胸に。
録られた声の上に、生きた唄が、重なった。
録音は、名を呼ぶ。唄は、名を呼ばない。名の、置き場所だけを、歌う。炉へ流れかけていた小夜の魂火が、ふ、と、迷った。呼ばれる先と、帰る場所と。ふたつの引力の間で、火が、揺れた。
夜が来ても、消えぬように。
夜明けが、唇に、見つけるように。
節は、小夜の節だった。妹が直した、よく息をする節。蔵の奥で、毎晩、歌われていた節。その節が、姉の声で、返ってきた。小夜の目が、見開かれた。届いた、と分かる見開き方だった。
——灯は、名を呼ぶ者のもとへ、帰る。
歌い終えた。
間が、静かだった。累さえ、口を、挟まなかった。挟まないことごと、量っている男の沈黙だった。
唄が、間に、満ちていた。録音の声が、まだ、流れている。小夜、汁、冷めるよ。録られた、過去の声。その上に、いま、生きた唄が、重なっていた。過去の呼び声と、いまの唄と。ふたつの声が、炉の前で、せめぎ合った。録音は、名を、呼ぶ。引き寄せ、焚べようとする。唄は、名を、呼ばない。ただ、名の在り場所を、歌う。おまえの名は、おまえの胸に。引き寄せる声と、置き場所を示す声。妹の魂火は、そのふたつの間で、揺れていた。炉へ、引かれかけては、胸へ、戻り。戻りかけては、また、引かれ。生きた唄のほうが、ほんの少しだけ、強かった。録音は、過去だ。唄は、いまだ。いまを生きている声のほうへ、火は、最後の一瞬、傾いた。
小夜の魂火が、炉への流れを、止めた。
止めて、胸の内へ、戻った。妹は、自分の胸に、手を、当てた。板きれを抱いて眠った、あの場所に。それから、口を、開いた。
「あたしの名前は、あたしが、呼ぶ」
声は、震えていなかった。
「——小夜。あたしは、小夜」
あらゆる色が、妹の胸で、咲いた。
藍から、朱へ。朱から、萌黄へ。銀へ。緋へ。移ろい火が、初めて、誰にも隠されず、誰にも読まれず、誰にも捧げられず、本人の名のりだけを器にして、燃え立った。
「うん」
鈴は、それだけ、言った。
呼ばなかった。名を、繰り返さなかった。ただ、受けた。名のりの、もう片方の端を、手のひらで、受けた。
間の空気が、変わったのが、分かった。
列の者たちが、見ていた。炉の前で、焚べられるはずだった娘が、自分の名を、自分で呼ぶのを。呼んで、焚べられずに、立っているのを。三百年、この州の誰も、見たことのない光景だった。名は、与えられるものだった。読まれ、書かれ、呼ばれ、焚べられるものだった。名のる、という動詞を、皆、初めて、目で見た。
その瞬間、見えた。
小夜の胸から、鈴の胸へ。一本の糸が、張った。銀ではなかった。あらゆる色を、移ろう糸だった。傷痕の方角へ垂れる、あの一方通行の糸とは、向きが、違った。向き、というものが、なかった。両端が、同時に、根だった。
◆
炉が、空転した。
巻物の声は、まだ、流れている。——小夜。小夜。録られた愛が、呼び続けている。けれど、火は、もう、引かれなかった。引こうとした炉の力が、糸を、引けずに、滑った。引けば、ふたりごと引くことになる。ふたりは、互いを、離さない。
「……ほう」
累の声から、初めて、艶が、抜けた。
男は、卓の帳面を、繰った。繰って、何かを、書き込もうとして、筆が、止まった。書く欄が、ないのだ。呼んだ数の欄に、この糸は、書けない。呼ばれた数の欄にも。行き来を、数える桁が、あの帳面には、ない。
「数えられない……」
累が、呟いた。
呟いて、男は、もう一度、筆を、取り直した。取り直して、帳面の余白に、何かを、書こうとした。新しい欄を、その場で、作ろうとしたのだ。行き来の桁を。結びの欄を。書きかけて、筆が、また、止まった。書けないのではない。書いても、意味がないと、気づいたのだ。結びは、両端が生きて、呼び合い続ける限りの、現在だった。帳面は、過去しか、書けない。写した瞬間に、写しは、結びでは、なくなる。
三百年の書院が、初めて、書けないものに、出会っていた。生まれて初めて、算盤の珠が、指から、こぼれた男の声だった。
列の中で、凪が、動いた。
少年は、姉の手を、取った。病み上がりの、冷たい手を。それから、自分の札を、引きちぎって、言った。
「汀姉。おれ、凪。……なあ坊じゃなくて、もう、凪。あんたの弟の、凪」
汀の目から、涙が、こぼれた。こぼれながら、姉は、名のり返した。
「……汀。あんたの姉ちゃんの、汀」
ふた組目の糸が、張った。
それを見た列が、揺れた。炉を待つだけだった者たちが、隣を、見た。隣の者の、札ではなく、顔を。誰かが、誰かの名を、呼んだ。呼ばれた者が、名のり返した。三組目。四組目。徴発の列が、端から、結びの列に、変わっていく。講で、何百度も見た光景だった。照れくさくて、あたたかい、あの車座が、炉の前で、立ち上がっていく。
五組目は、老いた夫婦だった。互いの名を、五十年ぶりに、呼び合ったという顔で。六組目は、隣り合っただけの、他人同士だった。名のり合って、初めて、互いの村が隣だと知って、泣き笑いになった。結びは、血を、選ばなかった。呼んで、応える。それだけが、条件だった。講の車座が、炉の前で、立ち上がっていく。汐音が見たら、言っただろう。ほら、布になった、と。
蔵の壁の棚から、無数の名前が、それを見下ろしていた。書かれた名が、書かれぬ結びを、見ていた。製本された過去が、製本できない現在を、見ていた。三百年、この州の名前は、棚の上で、眠っていた。眠ったまま、薪を待っていた。いま、その棚の下で、生きた名前が、声を上げて、呼び合っていた。書かれた名は、動かない。呼ばれた名は、動く。同じ名前なのに、紙の上の名と、口の中の名は、まるで、別のものだった。
「お控えなされ」累の声が、列に、飛んだ。「捧げよ。愛は、よく燃える」
「捧げない」
鈴が、言った。
「——結ぶ」
炉の白い火が、揺らいだ。燃料の流れを、断たれて。州灯の火柱が、ひと回り、細くなった。細くなって、けれど、消えなかった。結ばれた糸たちが、炉を通さずに、直接、互いを、灯し合いはじめていた。喰う火が、痩せて。灯し合う火が、間に、満ちて。
あの、灯都の夜と、同じ画だった。
ただ一点だけ、違った。あの夜、灯したのは、鈴だった。今朝、灯し合っているのは、名のった者たち、自身だった。
半年前、灯都の地の底で、鈴は、名を奪われた者たちに、名を、返した。返された者は、満ちて、けれど、鈴に、ぶら下がった。鈴が灯した火は、鈴に、繋がった。糸が、鈴の手に、集まった。あれは、神様の、やり方だった。ひとりが、皆を、灯す。ひとりが倒れれば、皆、消える。今朝は、違った。鈴は、誰も、灯していない。ただ、歌った。待った。受けた。灯し合っているのは、汀と、凪。老夫婦。隣り合った他人同士。皆、互いを、灯していた。鈴の手に、新しい糸は、一本も、増えていない。半年かかって、鈴は、神様を、やめる方法を、見つけた。名を、与えるのではなく、名のりを、受ける。その違いひとつで、糸の向きが、変わった。集める手から、受ける手へ。
◆
「見事だった」
累が、言った。
怒声では、なかった。男は、ほんとうに、感心していた。感心しながら、卓を離れ、台帳の塔へ、歩いていた。
「実に、よく結んだ。……私は、三百年の帳面を、読んできた。書かれた名は、ぜんぶ、読んだ。だが、これは、書かれておらなんだ。どの頁にも。——学びましたぞ、鈴どの。学びは、高くつく。あなたにも、私にも」
男の指が、台帳の塔を、撫でた。
何百冊の背表紙を。州じゅうの名前を。撫でる手つきは、いとおしむようでも、あった。この男にとって、帳面は、ほんとうに、いとおしいものなのだった。数の合うもの。裏切らないもの。撫でながら、累は、塔を、見上げた。三百年の書院が、積み上げてきた、紙の塔。その塔が、今朝、たった一組の姉妹に、覆された。書けない名前に、初めて、出会った。男の笑みは、まだ、崩れていなかった。崩れていないことが、かえって、底の知れなさを、際立たせた。負けを認めた者の顔で、男は、次の一手を、すでに、握っていた。
塔の最下段から、累は、一冊を、抜いた。
ほかのどれより、厚い帳面。州の神名簿。男はそれを、開いて、最初の頁に、指を、かけた。
琥珀が、座の上で、初めて、動いた。
「私の負けは、認めよう。本日の、この間における勝負は」累の声は、もう、いつもの艶に、戻っていた。「だが、戦は、勝負では、ない。帳尻でござる。——だから、利息を、いただいていく」
頁が、破られた。
乾いた、小さな音だった。たったそれだけの音で、世界の底が、抜けた。
琥珀の銀の糸が、いっせいに、たわんだ。座から、火から、糸が、ほどけて、落ちる。少女の体が、傾いだ。白い火柱が、明滅した。間の床に、亀裂が、走った。亀裂の底から、覚えのある匂いが、噴き上げた。潮と、枯れの匂い。東の沿岸を、音もなく呑んだ、あの匂い。
「縹——っ」
振り向いた先で、縹が、崩れ落ちていた。
両手で、自分の胸を、掴んでいた。北の節が落ちれば、負荷は、隣へ。隣の隣へ。傷痕へ。「開く——」縹の声は、悲鳴の形をしていなかった。秤の声だった。「灯都の傷痕が、開きはじめて——」
考えるより、先に、体が、動いた。
鈴は、落ちていく糸の束へ、走った。走って、右手で、掴んだ。
掴めた。
掴めてしまった。同根の手だから。五本と二十二本の糸を持つ手だから。落ちる節の糸の束は、鈴の右手の中で、暴れた。州ひとつ分の重さが、腕に、肩に、背骨に、流れ込んだ。世界を、素手で、持つ重さだった。一瞬でいい。一瞬、保てば——
重さには、声があった。
掴んだ糸の束から、州ひとつ分の声が、流れ込んできた。北の浜の、夜泣きの子。塩屋の夫婦。山の炭焼き。眠っている者、起きている者、名を書いた者、書かなかった者。節は、それを、ぜんぶ、束ねて、持っていた。これを、琥珀は、ひとりで。何年も。灰は、何十年も。腕が、軋んだ。骨が、鳴った。それでも、手は、離せなかった。離せば、この声がぜんぶ、潮の下に沈む。
こめかみの奥で、何かが、白く、灼けた。
琥珀が、床を、這っていた。
半ば解かれた体で。死にかけの蝶のような動きで。少女は、落ちた自分の糸を、一本ずつ、拾っていた。拾って、自分の胸に、当てて、結んだ。頁は、もう、ない。記名は、もう、ない。結ぶ根拠は、何も、残っていない。残っていないところで、少女は、結び続けた。
「逃げて……解けたんだよ、あなたは、もう……!」
鈴は、叫んだ。糸の重さに、軋みながら。
琥珀は、手を、止めなかった。止めずに、初めて、長く、喋った。
「あなたは、名のりで、立った。私は、名のりで、座る。——私の名のりは、これだ」
最後の一本が、結ばれた。
州ひとつ分の重さが、鈴の右手から、すう、と、引いていった。少女の細い体が、それを、引き受けた。頁のない、記名のない、ただの名のりだけで座る、最初の要石が、白い座の上に、戻った。背筋を、立てて。
亀裂が、止まった。
縹の息が、戻った。
累は、もう、間の出口の、闇の中にいた。破った頁を、懐に、納めて。
「数えられないものは、無いのと同じだ」
闇の中から、声だけが、降ってきた。最後まで、艶やかなままの声が。
「——お前たちの結びも、いずれ、数えてみせる」
足音は、しなかった。帳面の男は、頁が閉じるように、消えた。
◆
静かだった。
州灯は、細く、けれど、灯っていた。炉は、冷えはじめていた。結ばれた者たちが、互いの手を、握ったまま、立っていた。汀と、凪。名のり合った、北の民たち。誰も、もう、列の形を、していなかった。
外で、夜が明けていた。
蔵の、破れた天井の亀裂から、朝の光が、一筋、差していた。徴発の朝だった。よく愛された名を、灯に焚べる、はずの朝だった。その朝に、誰ひとり、焚べられなかった。炉は、空っぽのまま、冷えていく。北の州の灯は、細くなった。細くなって、消えなかった。喰う火を失った灯が、結び合う火で、辛うじて、保たれていた。世界の保ち方が、その朝、ひとつ、変わった。誰も、まだ、それに、名前を、つけられずにいた。
小夜が、駆けてきた。
ふた月ぶりに、妹の体温が、腕の中に、戻った。何か言おうとして、ふたりとも、言葉にならず、ただ、額を、合わせた。それで、足りた。糸は、張ったままだった。あらゆる色の糸が、ふたりの間で、静かに、脈打っていた。
「鈴姉」
小夜が、体を、離した。離して、鈴の顔を、見上げて——その目が、止まった。
「鈴姉、髪……」
「……なに」
「白いの。ここ、ひとすじ……」
妹の指が、鈴のこめかみに、触れた。鈴には、見えなかった。見えないが、分かった。節を、素手で保った、あの一瞬の、灼けた場所。世界を持った手の、お代。
縹が、壁際から、身を、起こしかけた。
秤の体は、まだ、嵐の後だった。それでも、彼は、立とうとしていた。鈴のこめかみの白を、見えない目は、見ていない。見ていないのに、分かったのだろう。同根の糸が、教えたのだろう。何かが、対価として、持っていかれたことを。
それを、見ていた者が、いた。
解放された列の中の、老婆だった。徴発の、番付の上のほうにいた、よく愛された名の、持ち主。老婆は、鈴のこめかみの白と、右手の糸と、白い座の琥珀とを、順に、見た。見て、何かに、思い当たった顔をした。
老婆が、膝を、ついた。
濡れた床に。深く。かつて、灯都の庭で、誰もがそうしたように。
「——白き読み手さま」
鈴の体が、止まった。
老婆の隣の男が、つられて、膝をついた。その隣の女も。汀が、戸惑いながら、腰を落としかけ、凪が、それを、止めようとして、止めきれなかった。膝が、波のように、広がっていく。誰にも、悪意がなかった。あるのは、感謝と、畏れと、見たことのないものに名前をつけたい、人の古い癖だけだった。
名は、名を、呼ぶ。
あの夜、灯都の間で、勝利の法則だったものが、今朝、牙の形で、戻ってきた。称号も、名だ。一人が呼べば、隣が呼ぶ。広がる。止め方を、鈴は、知らない。広げ方しか、知らなかった。
「あたしは……」
否定の言葉を、探した。
あたしは、白き読み手じゃない。あたしは、ただの——ただの、何だ。家に帰りたいだけの鈴は、もう、その台詞を使えない。名灯し様は、自分で壇を降りた。なら、いまの自分は、何と名のれば、この膝の波を、止められる。
名のりが、出てこなかった。
誰よりも、名のりの大切さを、説いてきた口から。
跪く者たちの向こうで、ただひとり、立っている人がいた。
縹だった。
壁にもたれ、まだ青い顔で、けれど、まっすぐに、立っていた。読めない目が、過たず、鈴のほうを、向いていた。跪かなかった。これからも、跪かないだろう。読めない目だけが、白い髪も、糸も、称号も、読まない。ただ、鈴を、見ている。
「あたしは……」
二度目も、続かなかった。
白い座の上で、琥珀が、すべてを、見ていた。その目が、何かを言いたげに、鈴を、見ていた。船の上で、首をかしげた、あの目だった。鈴の名のりを、測っている目。けれど、今朝のその目には、船のときには、なかったものが、あった。羨望でも、諦めでもない、何か。たぶん、それは、希望、という形を、していた。名のりだけで、座る要石。頁を破られても、自分で、自分を、結び直した子。その子が、跪く者たちの向こうで、跪かない縹と、同じものを、見ていた。名のりの、まだない、白いひとすじの娘を。
朝日が、窓のない間の、破れた天井の亀裂から、一筋、差し込んでいた。
その光が、跪く者と、跪かぬ者と、白い座の少女と、鈴の右手の糸とを、分け隔てなく、照らした。徴発の朝が、結びの朝に、変わった朝だった。世界の名前の在り方が、その朝、ひとつ、変わった。誰も、まだ、その朝に、名前を、つけられずにいた。名づけられないものから、新しい時代は、いつも、始まる。




