第11話 門前
岬の蔵は、夜、灯りをひとつも、漏らさなかった。
白壁の長い影が、月の下で、眠っている獣のように、横たわっていた。窓のない壁。音のない庭。あの中の、いちばん奥の列に、妹がいる。
鈴と縹は、岬の下の、漁師の番小屋に、潜んだ。凪の村の網元が、追い出した詫びのように、黙って、鍵を寄越した場所だった。怯えと、義理は、人の中に、同居する。同居させたまま、人は、鍵を寄越したり、寄越さなかったりする。
番小屋の戸口に、朝、塩むすびが、ふたつ、置かれていたことがあった。
葉に包んで、石を、重しに。誰が置いたかは、分からない。網元か。講にいた誰かか。怯えて、追い出して、それでも、置く者がいる。鈴は、ふたつのむすびを、縹と分けて、食べた。米の味より、置いた者の、夜道の足音のほうを、長く、味わった。網は破れても、結び目は、ひとつずつ、残っていた。
徴発の朝は、明日だった。
明日の朝、岬の蔵で、汀の名が、呼ばれる。よく愛された名から、順に、北の灯へ。汀は、病の床から、弟のために、名を届けた姉だった。よく呼ばれた名だった。母が呼び、弟が呼び、村じゅうが、案じて呼んだ。愛されたことが、いちばん最初に焚べられる理由になる。累の理屈の、いちばん惨いところを、汀ひとりが、引き受けようとしていた。間に合うか。鈴の網は、まだ、岬の門にすら、届いていない。間に合わない。分かっていた。間に合わないと知りながら、それでも、門の前に立つ。それしか、できることが、なかった。
汀の名が、呼ばれる朝が。
「……考えてたんだけど」
鈴は、囲炉裏とも呼べない、小さな火の前で、言った。
「あたしが、灯しを、ぜんぶ、やめたら。言霊も、二度と、使わなかったら。累の勘定は、狂う。熟れない錨は、収穫できない。あの男の、唯一の負け筋は、あたしが、あたしをやめること、なんだよね」
縹は、見えない目を、火に向けたまま、聞いていた。
「ただの鈴に、戻る。罠を張って、兎を獲って、誰のことも、灯さない。呼ばれても、壇に上がらない。乞われても、断る。……そういう女に、なれたら。糸は、もう、殖えない。あの男は、果樹園で、実らない木を、待ち続けることになる」
「なれるのか」
「なれない」
鈴は、即答した。即答してから、笑った。
「即答は、重いんだって。重い名は、よく燃えるんだって」
「なら、その話は、終わりだな」
「終わりじゃない」
鈴は、火を見た。
「なれないって分かってて、選ぶのと、考えもしないで、流されるのは、違う。……今夜、ちゃんと、考えておきたかったの。あたしには、やめる道も、あった。あったけど、選ばなかった。そう言えるように」
やめた世界を、想像してみる。
壇のない七日市。誰も灯さない名披露。伊代も、太市も、巳助も、冬芽も、自分の名を、自分で言って、それで済む世界。……それは、悪い世界では、なかった。むしろ、呼び講が目指す世界に、似てさえいた。鈴が、灯すのをやめても、講は、回る。回るように、作った。
けれど、累は、止まらない。
鈴が実らなくても、あの男の炉は、燃え続ける。汀の名は、明日、呼ばれる。小夜の頁は、繰られ続ける。買い取りの船は、次の冬も、米を積んでくる。鈴がやめて止まるのは、鈴の糸だけだ。世界のほうは、止まらない。やめる道は、逃げる道としてしか、存在しなかった。逃げた先で、ただの鈴は、毎晩、岬の方角を見て、暮らすのだろう。それは、ただの鈴ではない。空っぽの鈴だ。
灰は、鈴を、折ろうとした。鈴は、折れなかった。
累は、鈴を、実らせようとしている。鈴は——実るのだろう。たぶん。灯し続ける限り、糸は殖え、いつか、どこかの節が、鈴を、錨に欲しがる。それを、知っている。あの頃は、知らずに、名づけた。いまは、知っている。知っていて、同じ道を、選ぶ。
それが、あの夜との、唯一の違いだった。
道は、同じでも、歩き方が、違う。
「あのさ」
鈴は、火を、見ながら言った。
「半年前、灰が、あたしに言ったの。私になりなさいって。座に、座れって。……あのとき、あたしは、嫌だって、思った。何も考えずに、嫌だって。いまは、なんで嫌なのか、言葉で、言える。座ったら、灯すのが、義務になる。義務で灯した火は、呼び声じゃ、なくなる。命令に、なる。……あたしの灯しは、命令に、なっちゃ、いけないんだ」
「灰は、それで、間違えた」
縹が、言った。
「あの人の灯しは、いつからか、命令になってた。州を守れ、という命令に。守るための火は、よく燃えた。だが、誰も、あの人を、呼ばなくなった。命令する者を、人は、呼ばない。畏れるだけだ。……あの人の最期に、名を呼んだのは、お前ひとりだったろう」
火が、爆ぜた。鈴は、半年前の、白い間を、思い出した。灰の本当の名を、一息、返したときのことを。あのとき、灰は、なくて、いい、と言った。名前なんか、なくていい、と。けれど、いちばん最後に、呼ばれて、あの人は、ほどけた。命令する者ではなく、呼ばれる者として、果てた。それが、灰の、たったひとつの、救いだった。
◆
梶も、岬の下まで、ついてきていた。
連れてきたのではない。勝手に、ついてきた。「九十三人を、覚えとる口が、ひとつじゃ、心細い」と、梶は言った。「あんたらが、何をするのか、見届けたい。見届けて、覚えて、東の連中に、語る。……潮に呑まれた村のことを、覚えとる者がいると、知らせたい。それが、いまの、わしの仕事でね」。大工は、もう、鑿を持っていなかった。代わりに、九十三人の名前を、持っていた。それを、彼は、新しい仕事道具のように、握っていた。
「作戦の、話をしよう」
縹が言った。
作戦、という言葉が、この小屋には、大きすぎた。兵はいない。武器もない。あるのは、読めない目の元・鏡守と、狩りの袋ひとつの女と、覚え合った名前と、唄が、ひとつ。
「あの男の帳面に、行き来の桁が、ない話。あれを、詰める」
縹は、火のそばに、指で、見えない図を描いた。
「炉は、捧げられた名を、燃やす。呼び声を、流して、火を、引き出す。引き出せるのは、名の糸が、一方通行だからだ。呼ぶ者から、呼ばれる者へ、流れるだけの糸は、途中で、堰き止めて、奪える。買い取りの帳面も、録られた声も、ぜんぶ、一方通行の写しだ」
「結んだ糸は」
「両端を、ふたりが持ってる。引けば、ふたりごと、引くことになる。ふたりが、互いを離さない限り、抜けない。……理屈の上では、な。誰も、試したことがない。炉の前で、試した者は」
「明日、試すんだ」
「ああ」
縹は、頷いた。頷いてから、いちばん難しいことを、言った。
「だが、鈴。結びは、お前が、作れるものじゃない」
火が、爆ぜた。
「お前が小夜を呼べば、それは、お前から小夜への、一方通行だ。どれだけ深く呼んでも、向きは、ひとつ。録られた声と、同じ向きだ。炉は、それを、奪える。むしろ、上等の薪が、増えるだけだ。……結びになるのは、小夜が、自分で、名のったときだけだ。自分の名を、自分の口で。誰のためでもなく。その名のりを、お前が、受けたとき——初めて、糸は、両端を持つ」
「……つまり、あたしは」
「待つしか、ない」
縹の声は、静かだった。静かに、いちばん重い役を、置いた。
「炉の前で、妹が、自分で立つのを、待つ。呼ばずに。助けずに。先回りせずに。……お前が十六年、できなかったことを、明日、いちばん、できない場所で、やる。それが、作戦の、ぜんぶだ」
鈴は、火を、見つめた。
待つ。あの炉の前で。妹の魂火が、引き出されかけるのを、見ながら。呼びたい名を、呑んで。手を、出さずに。
「それと、汀だ」
縹は、続けた。
「徴発の朝なら、あの娘も、炉の前に、いる。呼び数の順の、列の先頭に」
「凪も、来る」
鈴は言った。確信があった。
「あの子、姉さんの徴発を、黙って見てる子じゃない。村の衆が止めても、来る。……たぶん、もう、岬のどこかにいる」
「なら、結びの種は、ふた組だ」
縹の指が、火のそばで、図を結んだ。
「お前と、小夜。凪と、汀。姉妹と、姉弟。……炉の列の他の者らは、皆、家族の声で、焚べられかけてる者たちだ。一方通行の呼び声で。その目の前で、結びが、ふた組、立ったら——」
「広がる」
「広がるか、どうかは、賭けだ。だが、講で、見ただろう。呼び合いは、照れくさくて、あたたかい。人は、隣がやれば、やる」
「……できると、思う?」
「思わん」
縹は、正直だった。
「だから、私が、隣にいる。お前が呼びそうになったら、止める。浜で、一度、止めた。二度目も、止められる」
それから、縹は、すこし、笑った。
「それに、お前には、呼ぶ代わりに、できることが、ある」
「……唄」
「唄だ。唄は、名を、呼ばない。呼ばずに、名の置き場所だけを、歌う。おまえの名は、おまえの胸に。……あの唄は、たぶん、そのために、作られてる。三百年前から。炉の前に立つ誰かの、母親たちの手で」
灯は、名を呼ぶ者のもとへ、帰る。
最後の一行の意味が、夜の底で、ようやく、形になった。呼び続ける者の所へ、灯は、帰る。だから、姉の仕事は、奪い返すことではない。帰る先で、あり続けることだ。名づけた者を、名づけっぱなしにしない。呼びっぱなしに、しない。帰ってくる場所の灯りを、消さずに、待つ。
翁の種は、冬を越えて、そこまで、育った。
◆
梶が、火のそばで、低く、何か唱えていた。九十三人の名だった。鈴が唄をさらう声と、梶が名を繰る声が、小さな火を挟んで、夜の番小屋に、混じった。唄と、名簿。守るための言葉が、ふたつ、暗がりで、息をしていた。「あんたの唄も」と、梶が、ふと言った。「わしの名簿も、同じだな。書かんで、口で、持っとく。書いたら、奪える。口の中のものは、奪えん。……潮にも、火にも、奪えん。死ぬまではな」。死ぬまでは。大工は、そう言って、また、名を繰りはじめた。太郎兵衛。きく。三造。鈴は、その響きを、子守唄のように、聞きながら、自分の五行を、さらった。
眠る前に、鈴は、唄を、さらった。
声には、出さずに。唇の形と、息だけで。五行を、頭から、何度も。節は、母の節ではなく、小夜が直した節で。あの夜、二度目に歌った、唄がよく息をする節で。妹は、あの節を、胸に抱いて、海を渡った。なら、迎えの唄も、あの節でなければ、届かない。
「音が、ひとつ、ずれてる」
縹が、目を閉じたまま、言った。
「三行目。夜が来ても、の、ても、が高い」
「……聞こえてたの」
「息だけでも、聞こえる。耳は、いいんだ」
見えない目の男は、すこし、得意げだった。
「もう一度」
もう一度、さらった。今度は、何も、言われなかった。
「ひとつ、訊いていい」
夜半、眠れないまま、鈴は、言った。
「あんたは、明日、何が、いちばん、怖い」
縹は、長いこと、答えなかった。番小屋の壁の向こうで、海が、低く、鳴っていた。
「……お前が、うまく、やることだ」
「は?」
「お前が、待ちきれずに、呼ぶのは、怖くない。止めればいい。お前が、捕まるのも、怖くない。奪い返しに行けばいい」
縹の見えない目が、天井を向いていた。
「怖いのは、ぜんぶが、うまくいくことだ。小夜が立ち、結びが成り、炉が止まる。……そのとき、あの男が、何をするか。私には、読めない。読めない目だからじゃない。あの男は、負け筋まで、帳面に書いてある男だ。うまくいった先に、あの男の、最後の頁がある。それが、読めない」
「読めないなら」
鈴は言った。
「読めないままで、いい。あの男の最後の頁が、何だろうと、あたしたちの段取りは、変わらない。待つ。歌う。受ける。……それだけしか、ないんだから、それだけを、やる」
「単純で、いいな」
「狩りは、単純なんだよ。複雑なのは、獲物のほうの都合」
縹は、声を立てずに、笑った。笑ってから、ぽつりと、言った。「灰どのが、いまのお前を見たら、何と言うかな」。鈴は、考えた。白い人の、柔らかい声を。私になりなさい、と言った声を。「……ならなくていい、って言うよ。最後に、そう言った人だから」。縹は、それきり、黙った。黙り方が、頷きだった。
鈴は、暗がりの中で、右手を、にぎった。
五本と、二十二本。北の岸の赤子で、ひとつ、殖えた。明日、この糸が、どうなるのか。殖えるのか。それとも——考えて、やめた。考えても、読めないものは、読めない。読めないまま、見る。読めないまま、行く。ふたりが覚えた、たったひとつの歩き方で。
「……ね。終わったら」
帰ったら、とは、言わなかった。言わない約束だった。だから、別の言い方を、探した。
「終わったら、汁、作る。芋のやつ。小夜と、三人で」
「四人だ」
縹が言った。
「凪が、拗ねる」
「四人で」
それだけの約束を、荷物の、いちばん上に、載せた。
四人で、芋の汁。たったそれだけの約束が、明日の、いちばん強い、お守りだった。帰ったら、とは、言わない。帰ったら、と言った約束は、帰れなかったとき、呪いになる。だから、終わったら、と言う。終わったら、汁を作る。小夜と、縹と、凪と、四人で。その絵を、鈴は、暗い番小屋の天井に、描いた。土の砦の、囲炉裏端。湯気の立つ鍋。妹の、生意気な採点。縹の、見えない目の、笑い。凪の、照れた顔。あの絵のために、明日、敵の蔵の門を、叩く。糸のためでも、州のためでも、なかった。あの、芋の汁の、湯気のために。それが、鈴の、ほんとうの戦いの、理由だった。
◆
出る前に、鈴は、狩りの袋の中身を、検めた。
凪の札。小魚の干物。小夜の板きれ。妹の書いた頁。母の唄の写し。罠の銅線、一巻き。……武器に、なるものは、ひとつもなかった。ぜんぶ、誰かの名前に、まつわるものだった。お守りの束を、背負って、敵の門を、叩きに行く。狩人としては、落第の装備だった。姉としては、たぶん、これで、正しかった。
夜明け前、ふたりは、岬を、登った。
蔵の門は、思ったより、小さかった。白壁の長大さに比べて、人ひとりが、頭を下げて通るほどの、木の門。門番は、いなかった。代わりに、門柱に、耳獏の籠が、ひとつ、掛かっていた。
聞いている。
来ることも、聞かれている。構わなかった。隠れて来たのでは、ないのだから。
鈴は、門の前に、立った。息を、ひとつ、整えた。土の色になる息ではなかった。狩りの息でもなかった。評議で名のる前の、あの息だった。
「灰郷の、鈴」
名のった。
「妹を、迎えに来た」
風が、岬の草を、撫でて、過ぎた。耳獏の籠が、かた、と鳴った。録られた、と思った。この名のりも、いつか、誰かの蔵で、聴かれるのだろう。構わない。録るがいい。名のりは、写しを取られても、減らない。今朝、それだけは、もう、知っていた。
門の向こうで、かんぬきの、外れる音がした。
内側から、外れる音が。待っていた者が、開ける音が。門が、軋みながら、開いていく。その向こうに、白い前庭と、長い回廊と、回廊の奥の、ひときわ高い棟が、見えた。棟の屋根の下から、火の気配が、した。州灯の間。炉のある場所。
回廊の入口に、累が、立っていた。
深々と、頭を下げて。
「ようこそ、ようこそ。——お待ち申し上げておりました。鈴どの」
累は、深々と、頭を下げた。談判の船で見た、あの、よく動く頭だった。敵を、敵として、迎えない。客として、迎える。それが、この男の、いちばんの武器だった。鈴は、門の内側へ、一歩、踏み込んだ。背後で、縹が、続く気配がした。読めない目の男は、岬の風の中で、累の声の出どころを、正確に、向いていた。門の外には、梶と、凪が、残った。見届けるために。覚えるために。何が起きても、誰かが、覚えている。その一事だけが、鈴の、ただひとつの、武器だった。糸も、矢も、米も、持たない。持っているのは、覚えてくれる者と、母の唄と、空の狩り袋だけ。それで、敵の蔵の、いちばん深い場所へ、踏み込んでいく。
東の空が、白みはじめていた。
岬の蔵の、白壁が、夜明けの色に、染まっていく。その白を、鈴は、見上げた。半年前、灯都の大灯も、白かった。白は、支配の色だった。色という色を、洗い流したあとの、いちばん上の色。灰の衣も、白かった。累の襟も、白い。この蔵も、白い。名前を、奪い、数え、焚べる者たちは、皆、白を、まとっていた。鈴の灯した火は、めいめいの色だった。藍、朱、萌黄、銀。色とりどりの、小さな火。白に、立ち向かうのは、いつも、色のついた、小さな火たちだった。鈴は、自分の右手の糸を、思った。銀色の糸。あれも、いつか、白くなるのだろうか。こめかみの、まだ知らない白のように。
門をくぐる前に、鈴は、一度、振り返った。
岬の下に、梶が、立っていた。来るな、と言ってあった。蔵の中は、危ない。梶は、岩のように、動かなかった。動かずに、ただ、見ていた。見届ける、と言った男の、見届け方で。その隣に、いつのまにか、凪が、並んでいた。村に残れと言った少年も、来ていた。ふたりとも、糸も、武器も、持たない。ただ、見て、覚えるために、そこにいた。覚える者がいる。それだけで、鈴の足は、ひとつ、軽くなった。何が起きても、誰かが、覚えている。
累の後ろの回廊に、人影は、なかった。兵も、書き役も。談判の船と、同じだった。この男は、力の要らない場所では、力を、見せない。それが、いちばんの、力の見せ方だと、知っている。
「妹御は、息災。蔵のいちばん奥で、よく、唄を、歌っておられる」
累は、身を起こして、にこやかに言った。
「毎晩でござるよ。蔵じゅうに、聞こえる。……止めなかった。美しいものは、録るのが、私の流儀ゆえ」
録っている。妹の唄も、もう、巻物の中だ。
「さ、どうぞ。朝の支度が、ちょうど、整うところでござる」
朝の支度。徴発の朝の、支度。男は、それを、茶会の言葉のように、言った。鈴は、縹の袖に、一度だけ、触れた。触れて、敷居を、跨いだ。
朝日が、岬の端から、昇りはじめていた。
徴発の朝が、来ていた。




