第10話 灯折り
海峡の夜は、長かった。
漁の小船は、灯りを消して、うねりを渡った。鈴は、生まれて初めて、四方を水に囲まれた。足の下に、板一枚。板の下に、底のない黒。灯都へ吊り上げられた、あの夏は、足の下を、空に奪われた。今夜は、海に、奪われていた。上と下と、奪われ方が違うだけで、世界の縁は、いつも、足の下から、抜けていく。
縹は、船底で、ずっと、目を閉じていた。海の上では、傷痕の糸が、深く、沈んで、引かれるという。「海は、糸の通り道だ」と、彼は言った。「琥珀の糸も、この下を、通ってる。……すれ違うのが、分かる」。海の底で、ふたつの州の錨の糸が、すれ違っている。その上を、小さな船が、音を殺して、渡っていく。
北の岸は、思ったより、灰郷に似ていた。
凪の村は、夜、鈴たちを、網小屋に迎えた。火は、小さく。声は、低く。窓のない小屋で、最初の講が、立った。漁師が五人。互いの名と、呼び名を、覚え合う。書かない。ただ、覚える。
「……それだけで、ええんか」網元の老人が、訊いた。
「それだけが、難しいんです」凪が、答えた。少年は、北の言葉に戻ると、声が、ひとまわり、大人になった。「帳面は、書いた紙が、覚えてくれる。講は、人が、覚え続けないといけない。呼び続けないといけない。……でも、だから、奪えない」
「楽なのは、書くほうだ」網元の老人は、正直だった。「書きゃ、忘れていい。役所が、覚えとってくれる。米も、くれる。……お前さんのは、忘れちゃ、いかんのだろ。ずっと、隣の顔を、覚えとかにゃ、いかん。面倒だ」
「面倒です」凪は、頷いた。逃げてきた少年は、その面倒を、引き受けに、戻ってきた。「でも、楽をした村が、いま、どうなってるか。おれ、知ってます。おれの村です。皆、書いて、楽になって、それで……姉ちゃんが、徴発の名簿の、上のほうに、います。よく呼ばれた名前だから。楽は、後で、いちばん高い、付けを払うんです」
網元は、長いこと、少年を、見ていた。それから、ひとつ、頷いて、車座の輪を、ひとり分、広げた。
講は、夜ごと、増えた。
ひと組が、ふた組に。ふた組が、五組に。書き役の目を逃れて、網小屋から、塩屋へ、塩屋から、山の炭焼き小屋へ。買い取りの帳面に名を書いた者ほど、熱心に、講に来た。書いてしまった名を、呼び合いで、取り返せるなら、と。書いた紙は、向こうにある。けれど、呼び合う声は、ここにある。紙と、声と、どちらが名の本体か。講は、毎晩、声のほうへ、賭け続けた。
一度だけ、書き役に、踏み込まれかけた。
塩屋の講の夜だった。戸が叩かれ、帳面を抱えた男が、入ってきた。車座は、咄嗟に、ばらけて、塩の俵を、囲む形になった。商いの相談の顔で。書き役は、疑った。疑って、座の中の凪に、目を留めた。「坊、見ん顔だな。名は」。凪は、立った。立って、懐から、自分の錫の札を、出した。
「凪。数え手さまの蔵、第七列」
書き役は、札を検めて、頭を下げて、帰った。蔵の札は、北では、どんな手形より、強かった。逃げた少年の首輪が、逃げた先で、皆を守る鑑札になった。凪は、戸が閉まってから、長いこと、札を、見ていた。「……こいつが、役に立つ日が、来るなんて」。
縹の秤も、それを、裏づけた。
「軋みが、薄れてる。この村の分だけ、確かに」夜、縹は、壁にもたれて、言った。「呼び合いは、効く。糸が、戻ってる。……ゆっくりだ。ゆっくりだが、戻ってる」
ゆっくり。
それが、唯一の、弱点だった。講は、米より、遅い。船団より、遅い。蔵の頁が繰られる速さより、遅い。
氷見の岩は、もう、腰まで、出ていた。
凪が、毎朝、湾の口へ、見に行った。雪が解け、岩肌が、黒く、せり上がってくる。肩が出て、胸が出て、いまは、腰。腰まで出れば、海が、完全に、使える。北の船団が、氷に阻まれず、海峡を、渡れる。岩は、戦の刻限を、容赦なく、刻んでいた。「あと、何日ですか」と凪が訊いても、岩は、答えない。ただ、黙って、せり上がってくる。村の子だった頃、凪は、早く春が来いと、この岩に、祈った。いまは、もう少し、ゆっくり出てくれと、祈っていた。同じ岩に、逆の祈りを。
小夜の居場所は、漁師の口づてで、知れた。
数え手の蔵。湾の奥の、岬の上。白壁の、長い建物。新しい蔵書は、いちばん奥の列に、納められるという。窓は、ない。けれど、月に一度、蔵の者が、浜へ降りて、塩を買う。その供の中に、見慣れない若い娘がいた、と塩屋の女房が言った。年の頃、十六、七。よく、海を見ていた、と。
海を見ていた。
生きて、海を見ていた。鈴は、その一言を、何日でも、噛んでいられた。
海を見ていた、ということは、海の南を、見ていた、ということだった。岬の蔵から、南。海峡の、向こう。灰郷の、ある方角。妹は、蔵の奥で、毎晩、唄を歌い、昼は、海を、見ていた。誰を、待っていたのか。考えると、胸が、詰まった。待つな、と書き置きには、あった。探さないで。呼ばないで。けれど、妹は、海を、見ていた。言葉と、裏腹に。それとも、待っていたのではなく、ただ、唄の続きの、北の節を、思い、海の向こうの母の故郷を、見ていたのか。どちらでも、よかった。生きて、目を開けて、何かを、見ている。それだけで、鈴には、十分だった。
◆
崩れは、報せから、始まった。
講は、夜ごと、増えていた。村から村へ。網小屋から、塩屋へ、炭焼き小屋へ。けれど、増える速さより、北の手の回る速さのほうが、いつも、半歩、速かった。
ある村では、書き役が、講の夜を、嗅ぎつけた。翌朝、その村の名簿は、ひときわ厚くなっていた。怯えた者が、講をやめて、書く列に、並び直したのだ。覚えるより、書くほうが、楽だった。覚え続けるのは、骨が折れる。書けば、紙が、覚えてくれる。楽なほうへ、楽なほうへ、人は、流れた。
それでも、流れない者も、いた。一度、講の輪に座って、隣の名を覚えた者は、その名を、忘れられなかった。忘れられない名が、ひとつでもあると、人は、書く列に、並びにくくなる。鈴の網は、そういう、忘れられない結び目を、北の岸に、ひとつ、またひとつ、残していった。遅い網だった。けれど、千切れた後も、結び目だけは、残る網だった。
凪の村から、山ふたつ向こうの、漁村。そこの講に通っていた男が、夜明け前に、転がり込んできた。
「徴発だ」男は、土間に、崩れた。「軍が、出る前に、灯に、焚べ増しをする。出兵の祝いだと。……名簿の、上から、順に。呼び数の、多い順に」
呼び数の、多い順に。
よく愛された名から、順に。軍は名簿で動く。動く前に、名簿でいちばん太い薪を、灯にくべて、火を、戦の出力まで、上げておく。理屈は、いつもどおり、立っていた。立っていることが、いつもどおり、おそろしかった。
「うちの村は」凪が、立ち上がった。「うちの村の名簿は」
男は、凪を見た。見て、目を、伏せた。
「……汀って名が、呼ばれた。網元んとこの。病で寝てる娘さんの」
凪の姉だった。
なあ坊、と凪を呼んだ姉。病の床から、弟の分も名を届けさせて、米を受け取った姉。その名は、帳面の中で、太かった。母が呼び、弟が呼び、村じゅうが、案じて呼んだ名前。よく愛された名は、よく燃える。番付の、上のほうに、書かれていた。
「いつ」凪の声は、平らだった。平らさが、悲鳴より、ひどかった。
「五日後の、出兵の朝」
五日。
講を、蔵の門前まで広げるのに、あとひと月は、要る。小夜の列まで、頁が繰られるのにも、まだ間があるはずだった。けれど、汀の名は、五日だった。網は、間に合わない。間に合わないと、燼が言ったとおりに、間に合わない。
鈴は、その夜、岬の方角と、海峡の方角とを、交互に見て、立ち尽くした。
灯せば、糸が殖える。灯さなければ、間に合わない。呼び講は、正しくて、遅い。誰かが、時間を、作らなければ——
時間を、作る。
九日前の、見張りの火の言葉が、不意に、戻ってきた。おれが、焼く。焼いて、時間を作る。あのとき、訊き返さなかった言葉が。
「縹」鈴は、振り返った。「秤は。いま、どう」
縹の顔は、もう、答えていた。蒼白だった。壁に手をつき、見えない目を、見開いて、彼は、東を、向いていた。北でも、灯都でもない。東を。
「……大きい」声が、掠れていた。「大きいのが、来る。糸が、束で——」
その赤を、鈴は、生涯、忘れないことになる。
東の水平線が、赤くなった。
夜明けには、早すぎた。方角が、違いすぎた。赤は、点だった。点が、線になり、線が、空を、舐めた。海峡を越えて、音は、来なかった。来ないことが、距離の証だった。あれだけ遠くで、あれだけ、燃えている。
「東の州灯だ」縹が、言った。言って、膝から、崩れた。「折られた——」
◆
東の州は、北へ、船を貸した州だった。
三十艘の船団の、半分は、東の船渠で建ったものだ。北の腕と、東の船。ふたつが組んで、春の渡海は、成った。だから、燼は、東を、選んだ。北を折れば、小夜と汀が、潮に沈む。東なら、軍の足だけが、折れる。
そういう、勘定だった。
そこまでは、誰にでも、分かる勘定だった。
分からなかったのは、そこから先だ。州灯が折られ、節が落ちた州の沿岸が、どうなるか。それを、勘定の紙の上でなく、見た者は、八洲に、まだ、いなかった。灯都の節は、変質しただけだった。折られたのは、東が、初めてだった。
報せは、三日かけて、北の岸に、届いた。
潮が、来たという。
結界の薄れた東の沿岸に、夜、毒の潮が、音もなく、上がった。引かなかった。村ごと、田ごと、塩と毒の下に、沈んだ。逃げた者は、山へ。逃げ遅れた者は——数は、まだ、誰にも、分からなかった。千とも、二千とも。数えられる者が、現地に、いなかった。
五日目から、北の岸に、ものが、流れ着きはじめた。
樽。戸板。鶏小屋の屋根。家の柱に、家の形のまま、縄の結ばれたもの。それから、言葉。東の訛りの漂流者が、ふたり、凪の村の沖で、拾われた。
ひとりは、若い女で、三日、口をきかなかった。
もうひとりは、梶と名のった。五十がらみの、大工だった。掌が、鑿と鉋で、固くなっていた。その掌で、自分の村の話を、ぽつり、ぽつりと、語った。潮が来ると分かったとき、梶は、家じゅうの者を、家の大黒柱に、縄で、結んだという。柱は、自分が建てた柱だった。いちばん太い、いちばん丈夫な、檜の柱。流されても、柱ごとなら、ばらばらにならない。そう思った。
「柱は、流れた。家ごと。……わしは、結ぶのが、間に合わなんだ。自分を。最後の縄を、自分に回したとき、もう、柱が、見えんかった」
梶は、岩に、打ち上げられた。ひとりで。柱は、どこにも、なかった。女房も、息子夫婦も、孫も、柱と一緒に、どこかへ、流れていった。
「来るとき、音が、せんかった」梶は、同じことを、何度も、言った。「潮ってのは、寄せて、返すもんだ。音がする。あれは、寄せるだけだった。返さん。音もなく、ただ、上がってきた。……結界が、薄いと、潮は、ああなるのか。静かに、なるのか」
毒の潮は、静かに満ちて、静かに、村を、呑んだという。
葬式は、出せなかった。骸が、ないからだ。東の沿岸の人々は、潮の下で、数えられないまま、誰の帳面にも、誰の講にも、載らずに、消えた。鈴は、思った。あの人たちの名を、覚えていた者ごと、潮は、呑んだのだ。呼ぶ口ごと消えた名前は、どこへ、帰るのだろう。
その夜、梶は、眠らなかった。
網小屋の隅で、膝を抱えて、低く、何かを、唱えていた。鈴は、最初、経かと思った。違った。名前だった。
「太郎兵衛。きく。きくの亭主の、三造。三造の子の、豆太。豆太の妹の、すず……」
村の名簿を、口で、繰っていた。沈んだ村の、ぜんぶの名を。順番に。ひとりも、飛ばさずに。隣の家から、その隣へ。路地を、辿るように。梶の村には、九十と、三人が、住んでいた。梶は、その九十三人の名を、ひとりで、暗唱していた。
「書いといても、よかったんですがな」梶は、鈴の気配に気づいて、手を止めた。「書いたら、楽だ。けど、書いた紙も、潮が来たら、流れる。……口で覚えてりゃ、わしが沈むまでは、残る。九十三人。わしの口の中で、まだ、生きとる。わしが、最後の、呼ぶ口でね」
鈴は、その隣に、座った。座って、聞いた。九十三人の名を、最後まで。梶の村の、すずという子の名のところで、鈴の喉が、詰まった。同じ名前の子が、東の村にも、いた。いて、潮に、呑まれた。その子の名を、いま、梶の口だけが、覚えている。
数えられない死は、噂の中で、際限なく、膨らんだ。
膨らんだ噂は、ひとつの名前を、運んだ。
無名衆。
灯都の州の、結界殺しども。去年、灯都の節を壊し、今度は、東の灯を、折った。次は、どこの灯だ。あいつらは、八洲ぜんぶを、潮に沈める気だ。名灯し。あの女が、頭目だ。名を灯すなどと言って、灯を、折って回っている——
噂に、骨はなかった。
骨がないから、止まらなかった。
◆
四日目の朝、網元の老人が、鈴の前に、立った。
昨夜まで、講の車座で、隣の孫の名を、照れながら呼んでいた老人だった。その目が、変わっていた。
「……出てって、くれ」
「網元さん」
「あんたらが、悪い人らでねえのは、分かってる。分かってるが」老人の声は、震えていた。「東で、村が、沈んだ。あんたの仲間が、折った灯で。……この村にゃ、孫がいる。講だの、名前だの、ありがてえ話より先に、潮が来ねえことだ。それが、先だ」
小屋の外に、村人が、集まっていた。
責める顔は、少なかった。怯える顔が、ほとんどだった。それが、いちばん、応えた。怒りなら、受け止めようがある。怯えは、受け止める場所が、ない。
若い母親が、ひとり、進み出た。腕に、赤子を抱いていた。講の二度目の夜に、鈴が、乞われて、灯した子だった。北の岸で、たった一度だけ、灯した火。
「これ……消して、ください」
母親は、言った。
「灯してもらったとき、ありがたかった。ほんとうに。でも、村の衆が言うんです。灯された火は、結界殺しの、印だって。軍に知れたら、真っ先に、焚べられるって。……お願いします。呪いになる前に、消して」
呪い。
鈴の灯しが、その言葉に、なった。
「……消せません」鈴は、言った。言うのに、力が、要った。「あの火は、あたしの火じゃない。この子の火です。あたしには、消せない。誰にも、消せない。——それが、灯すってことだから」
母親は、泣きそうな顔で、頭を下げて、下がった。下がって、赤子を、庇うように、抱え直した。鈴から、庇うように。
その腕の形を、鈴は、生涯、忘れないだろうと思った。
◆
夜、村を出た。
凪は、残った。姉の村に、できることが、残っていた。少年は、別れ際、深く、頭を下げた。「講は、続けます。隠れてでも。……あれは、ほんものだから」。ほんものだから。十三の子の、その一言だけが、四日ぶりの、火だった。
山道で、砦からの、使いの小船の報せが、追いついた。
燼、行方知れず。手練れ四人と、夜の海に出たきり。東の州灯の社で、焼き派の若い衆がふたり、骸で見つかった。燼は、いない。骸の中にも、捕り手の触れの中にも。海の上にも、岸にも。
報せの最後に、汐音の言伝が、ついていた。
「枯れ野の、あんたの罠場の隣。あの錆びた輪、結び直してあった。新しい銅線で。出てった晩に、やったらしい」
鈴は、夜道の途中で、立ち止まった。
結べる男に戻ったら、結ぶ。あの男は、そう言った。戻ってから、結んだのではなかった。結んでから、行ったのだ。戻れない橋を渡る前に、戻りたかった場所の印だけを、結んで。獲物を分け合う資格を、自分で自分に、一度だけ認めて、それから、その資格ごと、焼き場へ、持って行った。
「……ばか」
声に、出た。
ばか。獲物の大きいほうを、寄越すくせに。元手だなんて、言うくせに。回って戻ってくるのが、狩りだと、知ってるくせに。自分だけ、回らない場所へ、行く。時間を作る、なんて言って。あんたの作った時間の縁は、潮と、骸と、怯えた母親の腕の形をしてるんだよ。
縹が、隣に、立った。
何も、言わなかった。見えない目が、東の、もう赤くない空を、向いていた。彼の秤は、いま、八洲でいちばん正確に、世界の壊れ方を、量っている。量りながら、立っていた。立っているのが、答えだった。
行く前に、鈴は、一度だけ、膝をついた。
夜道の、誰も見ていない場所で。狩りの袋から、小夜の板きれを、出した。表の、唄の一句。おまえの名は、おまえの胸に。声には、出さなかった。出せば、耳獏が、どこで聞いているか、分からない。唇の形だけで、一度、なぞった。胸の中で、節が、鳴った。母の節ではなく、二度目に小夜が直した、あの節で。
立ち上がれた。
唄は、そういうふうに、効いた。灯しのように、糸は殖えない。講のように、網にもならない。ただ、倒れた者が、立つ。三百年、摘まれても摘まれても続いてきた唄の、それが、効能だった。
「……行こう」鈴は言った。「岬へ」
「網は、破れたぞ。村々は、もう、講を——」
「網は、破れた。けど、覚えた名前は、消えない」鈴は、歩き出した。「網元も、あの母親も、あたしたちの名前を、覚えてる。怯えてても、覚えてる。……いつか、怯えが終わった日に、覚えてるものだけが、残る。汐音の言ったとおりだよ。書かなきゃ、奪えない。——怯えにも、奪えない」
岬の方角に、蔵の白壁が、月で、薄く、光っていた。
どん底だった。燼は、消えた。東の州は、沈んだ。網は、破れた。村は、鈴を、追い出した。灯した火は、呪いと、呼ばれた。半年かけて、積み上げてきたものが、ひと晩で、崩れた。それでも、鈴は、岬へ、向かって、歩いていた。崩れたものの中に、ひとつだけ、崩れないものが、あった。覚えられた名前。網元も、あの怯えた母親も、梶の九十三人も、鈴の名を、覚えていた。怯えても、追い出しても、覚えていた。書いた紙は、燃える。流される。けれど、一度、口で覚えた名前は、その人が、生きている限り、残る。崩れない、たったひとつの、それを、頼りに、鈴は、敵の蔵へ、向かった。
あの中に、妹がいる。頁の列の、いちばん奥に。海を見ていた、という妹が。
網も、味方も、時間も、もう、なかった。あるのは、覚え合った名前と、母の唄と、空の狩り袋と、隣の、読めない目の人だけだった。それだけを持って、行くしか、なかった。
どん底の道は、岬へ、続いていた。




