第9話 見張りの火
三つ目の手は、汐音の機織りの手から、生まれた。
鈴が、評議で、皆で灯す形を、と言ったとき、いちばん早く、それを、形にしたのが、汐音だった。「機織りはね」と、女は、杼を、手の中で、回した。「縦糸が一本だけじゃ、ただの糸。切れたら、おしまい。けど、縦糸と横糸を、組ませると、布になる。一本が切れても、布は、ほどけない。……あんたの言う、皆で灯すってのは、たぶん、それだ。ひとりの神様に、ぶら下がるんじゃなくて、互いに、組み合うんだ」
汐音は、それを、呼び講と名づけた。
「講ってのはね、昔からあるんだよ。米の講、屋根の講。皆で少しずつ出し合って、誰かが倒れたとき、皆で起こす。……それの、名前版だ」
仕組みは、簡単だった。五人で、ひと組。組の者の名と、呼び名を、互いの口で、覚え合う。書かない。帳面は、作らない。月に一度、車座になって、互いの名を、声に出して、呼び合う。それだけ。それだけのことを、村から村へ、広げていく。
「書かなきゃ、奪えない。ひとりが攫われても、四人が、覚えてる。四人が呼べば、火は、細らない」汐音は、機の杼を、手の中で、回した。「縦糸一本なら、切れる。布になってりゃ、切れない。あたしの商売の、いちばん古い理屈さ」
最初の講は、砦の広間で、立った。
車座の五人。塩焚きの岩次の組だった。岩次が、隣の婆の名を、呼ぶ。婆が、その隣の若い衆の名を、呼ぶ。若い衆が、つかえて、皆が、笑う。やり直す。呼ばれた者は、はい、と返事をして、呼んだ者の名を、呼び返す。それだけのことが、妙に、照れくさくて、妙に、あたたかかった。誰かに名を呼ばれて、返事をする。たったそれだけのことを、儀式にしてみると、皆、自分が、どれだけそれに、飢えていたかを、知った。
「なんだか、正月みてえだな」岩次が、言った。
正月など、灰郷には、なかった。なかったものの名前が、出てくるところが、講だった。
講には、決まり文句も、できた。
呼ばれた者は、はい、と返事をしてから、呼んだ者の名を、返す。返しそびれた者は、汁の番。誰が決めたでもない罰則が、いつのまにか、根づいた。罰則のある決まりは、長持ちする、と弦次が笑った。鍛冶の親方の、経験則だった。
評議は、呼び講を、通した。
灯し派が、村々へ、散った。佐和が、ちかが、与一が、岩次が——蔵から帰った四人が、誰より熱心な、講の先生になった。覚えられた名の力を、あの四人は、体で、知っていた。
鈴の仕事は、変わった。
灯さない。呼ばれても、壇には、上がらない。代わりに、講の車座の、隅に座る。誰かが誰かの名を呼び、呼ばれた者が呼び返すのを、聞いている。最初の頃、人々は、戸惑った。名灯し様に灯してもらえないなら、講になんの意味が、と言う者もいた。
「あたしが灯すとね」鈴は、車座で、何度も、同じ説明をした。「糸は、あたしに、繋がる。あたしが倒れたら、終わり。あんたたちが呼び合うと、糸は、あんたたちの間に、張られる。誰が倒れても、残りが、持ってる。……どっちが、強いと思う?」
「神様じゃ、ないんですね」と、ある晩、若い母親が、言った。灯してもらえると思って、子を連れてきた女だった。鈴が、灯さない、と言うと、女は、最初、がっかりした顔をした。それから、鈴の右手の糸の話を聞いて、車座に座って、隣の者と名を呼び合って、帰る頃には、別の顔になっていた。「神様より、これのほうが、いいかも。神様は、いつか、いなくなるけど。隣の人は、明日も、いるから」。女は、そう言って、笑った。鈴が、半年かけて、言葉にできなかったことを、その母親は、一晩で、言い当てた。
右手の布を、ほどいて、見せることもあった。
神様の手品の種を、明かすようなものだった。種を明かすたび、拝む者が、ひとり、減った。減って、代わりに、呼び合う者が、ふたり、増えた。悪くない両替だと、鈴は思った。
夜、寝る前に、右手を、かざす。
糸は、五本と、二十一本の、まま。あれから、一本も、殖えていない。殖えない、ということが、こんなに、軽いとは、思わなかった。
ただ、その軽さの底に、いつも、同じ重さが、沈んでいた。
海の向こうの、小夜の重さが。
◆
講が広間に立つ夜を、鈴は、隅から、何度も見た。
しくじりが、多かった。名を覚え違える。呼び返すのを忘れる。照れて、下を向く。そのたび、車座が、笑った。叱るのではなく、笑った。笑って、もう一度、やり直す。鈴は、その笑いの中で、ばあさまの言葉を、思い出した。火はね、呼ばれてると、呼ばれたいように、灯る。見られるのと、呼ばれるのは、別もんだ。あの井戸端の言葉が、いま、車座の中で、形を、持ちはじめていた。読まれて燃える火ではなく、呼ばれて灯る火。ばあさまは、半年前から、それを、知っていた。郷の婆が、子守唄の続きを知っていたように、火の本当の燃え方も、婆たちが、いちばん、よく知っていた。
渡海の支度は、ひと月、かかった。
兵は、連れて行かない。それが、鈴の出した、最初の条件だった。連れて行くのは、声だけ。呼び講の形と、覚え合いの理屈と、北の言葉を話せる凪と。北の民は、敵ではない。札を下げさせられた、もうひとつの灰郷だ。米で名を買われた者たちに、買われない形を、置いて回る。網の目が、北の岸に、十分に広がったとき——蔵の前に、立つ。
鈴の荷物は、狩りの袋、ひとつだった。
中身は、知れている。凪の錫の札。干した小魚の、残りひと匹。小夜の板きれ。妹の書いた頁。母の唄の写し。袋の底で、それらは、もう、獲物というより、お守りの束だった。罠の銅線も、一巻き、入れた。使う当てはなかった。ないが、銅線の入っていない袋は、鈴の袋では、なかった。
「正気の沙汰じゃない」と、評議で、何度も言われた。
「正気の沙汰で、勝てる相手じゃない」と、鈴は、答えた。
渡る先の、最初の足場は、もう、あった。
凪の村だ。北の沿岸の、漁師の集落。凪が、文を書いた。文と一緒に、自分の札の拓本を、送った。札を見れば、村は、信じる。蔵の第七列から、逃げて、生きてる者がいると。返事は、ひと月かかって、来た。短い文だった。「網は、夜に繕う。来るなら、夜に来い」。漁師の文は、漁師の言葉で、書いてあった。昼は、書き役の目がある、という意味だった。
兵は、連れて行かない。それが、鈴の、最初の条件だった。
矢を持っていけば、戦になる。戦になれば、累の思う壺だ。累は、無名衆を、結界殺しと呼びたがっている。八洲じゅうに、そう、触れたがっている。なら、こちらは、その逆を、行く。武器を持たず、名前だけを持って、海を渡る。北の民を、敵とは、見なさない。彼らも、札を下げさせられた、もうひとつの灰郷だ。米で名を買われた者たちに、買われない形を、置いて回る。それだけのために、海を、渡る。正気の沙汰では、なかった。正気の沙汰で勝てる相手では、なおさら、なかった。
渡る先は、決めてあった。凪の、村だった。
凪が、文を書いた。たどたどしい字で。自分の村の、網元の名を宛てて。「逃げた凪です。生きてます。名前を、取り返す方法が、あります」。文を、灯し派の伝手で、海峡の向こうへ、流した。返事は、来ないかもしれなかった。来ても、罠かもしれなかった。それでも、凪は、書いた。書いて、待った。半月して、返事が、来た。たった一行。「待っとる。網元」。それだけで、凪は、声を上げて、泣いた。名前を、覚えていてくれた。逃げた子の名を、村が、まだ、覚えていた。
縹は、この計画の、耳になった。秤の体は、渡海に、耐えられるか、誰もが危ぶんだ。縹は、評議で、名のって、言った。秤は、北に近いほど、よく量れる。連れて行かない理由が、医者の理屈しかないなら、却下しろ、と。
出航を前に、縹の秤は、毎晩、読み上げられた。
北の動き。三日前から、変わらず。大きく動く前の、静けさ。縹は、自分の軋みを、痛みの種類で、言い分けられるようになっていた。買い取りの、じわりとした軋み。軍の名簿の、まとまった軋み。どちらでもない、夜半の、細い疼き。最後のそれが、何なのか、縹にも、分からなかった。「遠くで、誰かが、糸を、数えてる感じだ」と、彼は言った。数えてる。その言い方に、皆が、黙った。
その晩、鈴は、見張りの火の番を、代わった。
縹と、ふたりで。岩陰の火は、小さくしてある。春の星が、湿って、大きかった。海峡の方角に、北軍の船灯りが、遠い砂粒のように、並んでいる。あれが動けば、戦だ。動く前に、渡る。
「ひとつ、白状しておく」
縹が、火を見ずに、言った。見えない目は、火を見る必要が、なかった。
「鏡守だった頃、私は、読むことが、愛だと思っていた。誰よりも深く、正確に、相手の火を読む。色も、深さも、揺らぎも。読み切ることが、その人を、いちばん分かってやることだと。……灰どのに、そう、育てられた」
火が、爆ぜた。
「読めなくなって、ひと冬で、分かった。違った。読むのは、愛じゃない。読むのは——把握だ。把握は、相手を、自分の内側に、しまう。しまえば、安心する。安心は、愛に、よく似てる。だが、別物だ」
「……何が、違うの」
「しまった相手は、もう、私を、驚かせない」縹は、ゆっくり、言った。「読み切った火は、変わらない。変わらないものは、安全だ。安全なものを、人は、愛してると、思い込む。……お前を、見ろ。私はお前を、改め所で、読んだ。読み切れなかった。だから、惹かれた。読めない火だから。……それでも、どこかで、ずっと、読もうとしてた。お前の、次の動きを。次の傷を。先回りして、しまおうとしてた」
縹は、見えない目を、鈴のほうへ、向けた。
「私はずっと、読んでいた。いまは、初めて、ただ、見ている」
星が、湿った音もなく、流れた。
「読めない目で、見るとな、鈴。お前は、毎日、違う。昨日のお前と、今日のお前は、足音が違う。汁の啜り方が違う。妹の名を、呑み込む回数が、違う。読んでた頃は、そういうものは、全部、誤差だった。いまは、それしか、ない。それしかないものを、毎日、見てる。……これが、こんなに」
言葉が、そこで、初めて、つかえた。
「こんなに、忙しいとは、思わなかった」
鈴は、笑ってしまった。笑って、それから、目の奥が、熱くなった。忙しい。この人は、愛してると言う代わりに、忙しいと言った。読み切れないものを、読み切れないまま、毎日、見続けることを。それは、鈴がずっと、妹に対して、できなかったことの、名前だった。
しばらく、ふたりとも、黙っていた。
黙っている間、縹の手が、火のそばの、鈴の手の、隣にあった。重ねなかった。隣に、あった。読まない、というのは、たぶん、こういうことだった。手を重ねれば、答えが出る。隣に置けば、問いのままでいられる。問いのままでいられる強さを、ふたりは、ようやく、覚えたところだった。
帰ったら、という言葉を、どちらも、使わなかった。帰ったら、と言った約束は、帰れなかったとき、呪いになる。狩人と、秤は、どちらも、それを知っている。
「……あたしも」鈴は言った。「あんたのこと、読まないで、見る。練習中だけど」
「六十点くらいか」
「なんで、それ知ってるの」
「砦は、土の中だ」縹は、すこし笑った。「声は、根を伝う」
◆
夜半、火の番が、交代した。
上がってきたのは、燼だった。縹は、先に降りた。降り際、燼とすれ違って、何か、短い言葉を、交わした。聞こえなかった。男ふたりの間の、何かの取り決めのような、短さだった。
燼は、火の隣に、座った。昔の間合いで。
「渡海の段取り、聞いた」燼は言った。「呼び講の網と、声と、子ども一人。武器は、なし。……お前らしい。お前らしくて、寒気がする」
「あんたも来る?」
「行かん」燼は、即答した。「おれが行けば、向こうに、攻める口実をやる。無名衆の頭目は、北じゃ、上等の獲物だ。……それにな、鈴。おれは、お前の網が、間に合うとは、思ってない」
「間に合わせる」
「間に合わなかったら?」
燼の声は、責めていなかった。狩りの相談の声だった。雪が深かったら、どうする。罠が空だったら、どうする。枯れ野で、何百回もした、あの声で。
「間に合わなかったら、北軍は、渡ってくる。網は、半端なまま、踏み潰される。お前は、北の岸で、妹ごと、摘まれる。……そうなる前に、おれは、おれの仕事をする」
「あんたの、仕事」
「お前が罠で、おれが弓」燼は、火に、枝を足した。「昔から、そうだろ。お前が、生かす側を全部やれ。おれは、止める側を全部やる。お前の網が間に合うなら、おれの弓は、要らない。間に合わないなら——おれが、焼く。焼いて、時間を作る。お前の網が広がりきるまでの、時間を」
焼く。
その言葉は、火の爆ぜる音に、半分、紛れた。鈴は、疲れていた。出航の前夜だった。妹のことと、網のことと、明日の海のことで、頭は、いっぱいだった。だから、その「焼く」が、どこまでを焼く言葉なのか、訊き返さなかった。昔の役割分担の、懐かしい言い回しだと、思って、しまった。
「……無茶、しないでよ」
「お前にだけは、言われたくない台詞だ」
燼は、笑った。ひさしぶりに、ちゃんと、笑った形だった。
「……なあ。昔、獲物の大きいほうを、お前に渡してたろ」
「うん。施しは要らないって、怒った」
「あれな、施しじゃなかった」燼は、火を見たまま、言った。「お前は、大きいほうを受け取ると、次の日、倍、働いた。罠を増やして、新しい沢を見つけて、結局、おれの取り分まで、増えた。……渡したものが、回って、増えて、戻ってくる。お前と組んでた頃の狩りは、ぜんぶ、そうだった。だから、渡してた。あれは、施しじゃない。元手だ」
渡したものが、回って、戻る。
燼の口から、その理屈を聞くとは、思わなかった。行き来。呼び講の理屈と、同じ形をしていた。この男は、とっくに、知っていたのだ。体で。狩りで。知っていて、いまは、焼く側の納屋に、その知恵ごと、しまい込んでいる。
「その元手の話、評議でしてよ。呼び講の、いい説明になる」
「断る」燼は、にべもなかった。「おれがやると、講が、兵站の話になる」
「妹を、連れて帰れ。それで、貸し借りなしだ。……何の貸し借りか、訊くなよ」
◆
出航の前夜、鈴は、汐音と、講の名簿を、確かめた。
名簿、といっても、紙には、書かない。汐音の頭の中の、覚え書きだった。どの村に、いくつ、講の輪ができたか。誰が、先生役を、覚えたか。「灰郷に、八つ。谷向こうに、五つ。沿岸に、十二」と、汐音は、指を折った。「あんたが北へ行ってる間、こっちは、あたしが、回す。……あんたがいなくても、回るように、作ったんだもんね。寂しいけど、それが、正しい」。寂しいけど、それが、正しい。汐音の言葉は、いつも、機織りの杼のように、まっすぐだった。鈴の灯しは、鈴がいないと、止まる。鈴の講は、鈴がいなくても、回る。後者を、選んだ。選んだことが、正しくて、すこし、寂しかった。
縹の旅支度は、薪を、三本だけ、束ねることから、始まった。
どこででも、火を焚けるように。いちばん乾いた三本を、指で選んで。読めない目の男は、半年前、灰郷を出るときも、同じことをした。あのときから、この人の荷物は、変わらない。薪と、自分の体と、鈴の隣。それだけを、持って、海を渡る。秤の体が、渡海に耐えるか、誰もが危ぶんだ。縹は、取り合わなかった。「秤は、北に近いほど、よく量れる。連れて行かない理由が、医者の理屈しかないなら、却下しろ」。自分を、勘定に入れない。いつもの、この人の、やり方だった。鈴は、その薪の束を、自分の荷に、半分、移した。せめて、運ぶ荷だけでも、分け合おうと思った。
出航は、明けの六つ。
鈴は、岩陰を降りる前に、一度だけ、振り返った。燼は、火のそばで、何かを、手の中で、確かめていた。遠目には、銅線の輪のように、見えた。罠の、輪のように。
気のせいだと、思った。
あの男の罠は、枯れ野の茨の根で、二年、錆びたままだ。結べる男に戻ったら、結ぶ。そう言った声は、まだ、戻る道の、ずっと手前にいる声だった。
降りた先の浜で、汐音が、荷の最後の確かめをしていた。講の先生がふたり、同行する。佐和と、与一。蔵から帰った者が、蔵のある岸へ、自分から渡る。怖くないのかと、誰かが訊いて、佐和は、笑った。「怖いよ。けど、あたしの名前は、もう、百人が覚えてる。攫えるもんなら、攫ってみな、だ」。覚えられた名は、奪いに行く場所がない。あの夜の理屈が、ひとりの女を、これだけ、まっすぐ立たせていた。
「ひとつ、訊いていいか」鈴は、降りる前に、言った。「あんた、ほんとは、灯を折りたいんでしょ。心のどこかで」
燼は、答えなかった。火に、枝を、一本、足した。
「折りたい夜が、ある」やがて、言った。「お前の網が、まだるっこしくて、たまらん夜が。一発、灯を折れば、北の足は、止まる。明日にでも。お前の網は、半年かかる。半年のあいだに、何人、書かれる。何人、焚べられる。……その勘定をすると、折りたくなる」
「折ったら、何が、起きるか、分かってる?」
「分からん」燼は、正直だった。「誰も、見たことがない。州灯を折った先を。……だが、鈴。分からんものは、こわくない。こわいのは、分かってて、間に合わないことだ」
その夜の燼の言葉を、鈴は、後で、何度も、思い返すことになる。分からんものは、こわくない。あのとき、鈴は、それを、強がりだと、思った。違った。あれは、予告だった。鈴が、聞き逃しただけの。
星が、薄れはじめていた。
海峡の向こうで、北の船灯りが、ひとつ、またひとつ、消えていく。夜が、明けるからだ。それだけのはずだった。それだけのはずなのに、消えていく灯りの数を、鈴は、岩を降りながら、数えるのを、やめられなかった。
数えるのは、累のやることだ。
そう思って、やめた。やめて、最後のひとつが消えるのを、見ずに、降りた。




