第8話 夜の子
最初に気づいたのは、また、縹だった。
夜明け前、彼は、壁を背に、起き上がれなくなっていた。額の汗が、筋になって、顎まで落ちていた。呼ばれた鈴が、肩を支えると、縹は、笑おうとして、しくじった。
「……秤の、報せだ」声が、薄かった。「北が、動いた。買い取りの比じゃない。名が、まとめて、動いてる。何百と。軍だ。軍は、名簿で、動く」
評議は、夜明けを待たずに、開かれた。
斥候の報せが、昼に、追いついた。海峡の北岸に、船。三十を超える数。氷の解けるのを、待っている。帆に、算木の紋。
「氷見の岩が、肩を出した、と」凪が、青い顔で、言った。「北の浜の、暦の岩です。肩が出たら、春が近い。……腰まで出たら、海が、使える。船が、動く。あの岩が、いま、肩を、出しはじめてます」
岩の肩が出る。それだけのことが、戦の刻限を、刻んでいた。誰の手も借りない、ただの岩が。鈴は、会ったこともない北の浜の、雪の中の岩を、思い浮かべた。村の子らが、早く肩を出せと、毎朝、見上げた岩。同じ岩が、いまは、軍の刻限を、数えていた。暦の岩が、誰の味方も、しないことだけが、せめてもの、公平さだった。
「届け出の、執行だ」燼が、地図の前で、言った。「冬のはじめ、禍狩どもが、置いてった書付。先に届け出た州に、記す権利がある。あれの、取り立てに来る。表向きの旗印は、それだ。移ろい火一名の、引き渡し」
百の目が、また、鈴のほうを、向きかけて。
今度は、その隣の、何もない場所を、向いた。小夜は、評議に、出ていなかった。熱だと、言っていた。何年ぶりかの、熱だと。
「渡しゃしねえよ」弦次が、唸った。「だが、奴らの言い分は、立ってやがる。書付は、本物だ。こっちが拒めば、向こうにゃ、攻める口実が立つ。……戦だ。今度こそ、ほんものの」
「先に、灯を折る」誰かが、言った。弦次の組の、若い声だった。「軍が出る前に、北の州灯を——」
「まだだ」燼が、言った。
まだ。また、その二文字だった。広間の空気が、その二文字の上で、軋んだ。折る策は、もう、若い衆の口から、出るようになっていた。燼が言わなくても。乾いた薪は、頭目の納屋から、皆の手元へ、配られはじめていた。
◆
その晩、小夜の熱は、下がっていた。
「嘘の熱だったの」鈴が、椀を持っていくと、妹は、あっさり、白状した。「評議、出たくなかった。あたしの引き渡しの話を、あたしの前で、皆がしないように。皆、あたしがいると、言葉を、選ぶから」
「……気づいてたんだ」
「気づくよ。十五だもん」
小夜は、椀を、両手で、包んだ。
「ねえ、鈴姉。あたしの名前で、軍が来るって、ほんと?」
鈴は、答えに、詰まった。隠しても、妹は、もう、聞いている。砦の声は、根を伝う。
「……書付には、移ろい火一名の引き渡し、ってある。名前は、書いてない。でも、誰のことかは、皆、分かってる」
「あたしのこと、だ」
「あんたのこと、じゃない」鈴は、強く、言った。「移ろい火、ってだけ。あんたの名前は、まだ、向こうの帳面には、ない。書かれてない。あたしが、書かせない」
小夜は、しばらく、黙っていた。それから、椀の汁を、ひとくち、飲んで、ふしぎな顔で、笑った。
「鈴姉は、すごいね。あたしの名前を、守るために、戦おうとしてる。……でも、あたしの名前を、いちばん、軽くしてるのも、鈴姉なんだよ。あたしの代わりに、ぜんぶ、決めるから。守られてる名前って、自分のものに、ならないんだ」
妹の言葉は、椀の湯気のように、つかみどころなく、けれど、芯まで、温かく、鈴の中に、降りてきた。
小夜は、椀の汁を、ゆっくり、飲んだ。飲み終えて、囲炉裏の熾を、見た。
「ね、鈴姉。唄、合わせてみない?」
「……唄?」
「母さんの。全部、揃ったんでしょ。あたしの一句と、鈴姉のもらってきた写しと」妹は、宝物の木箱から、板きれを出した。「あたし、まだ、最初から最後まで、通して歌ったこと、ないの。母さんの唄なのに。途中までしか、知らなかったから」
鈴は、胸元から、写しを、出した。
几帳面な字の、五行。妹の板きれの、木炭の一行。ふたつを、囲炉裏の灯りの下に、並べた。摘む者の写しと、継ぐ者の覚え書きが、並んで、ひとつの唄になった。
「鈴姉から」
「……あんたからでしょ。見つけたのは」
「じゃあ、いっしょ」
姉妹は、声を、合わせた。
ねむれ、ねむれ、火の子。
おまえの名は、おまえの胸に。
小夜の声は、思ったより、低くて、あたたかかった。熱にうなされていた頃の、細い声では、もう、なかった。鈴は、歌いながら、母の声を、思い出そうとした。思い出せなかった。母の声は、もう、輪郭がない。けれど、節は、体が覚えていた。声より、深いところに、唄は、棲んでいた。
夜が来ても、消えぬように。
夜明けが、唇に、見つけるように。
囲炉裏の熾が、ふたりの声に、応えるように、揺れた。赤の中に、藍が、よぎった。小夜の火だった。隠さない火。唄の中で、火は、おびえていなかった。
——灯は、名を呼ぶ者のもとへ、帰る。
歌い終えて、小夜は、囲炉裏の火を、見ていた。
「ね、鈴姉」妹は、火を見たまま、言った。「母さんって、どんな声だった?」
「……低かった。あんたと、似てる」
「あたし、覚えてないんだ。顔も、声も」小夜は、膝を抱えた。「熱ばっかり出してたから。寝てる間に、母さん、死んじゃった。だから、あたしの中の母さんは、鈴姉が話してくれた母さんなの。鈴姉の声で、できてる母さん」
鈴は、菜を刻む手を、止めた。妹の中の母は、鈴の声で、できている。そう言われて、初めて、気づいた。鈴は、十六年、妹に、母の代わりを、配ってきた。母の唄も、母の思い出も、母の声色まで。妹を、ひとりにしないために。妹の世界を、鈴の声で、満たしてきた。それは、優しさだった。同時に、それは——妹が、自分の母を、自分で持てない、ということでもあった。
「もう一回」小夜が、言った。
もう一回、歌った。二度目は、小夜が、節の上がり下がりを、少し、変えた。母さんは、ここ、こう歌ってた気がする、と言って。鈴には、分からなかった。分からないが、妹の節のほうが、唄が、よく、息をした。覚えているのは、いつも、妹のほうだった。熱の床から、世界を、耳だけで覚えてきた子の、覚え方で。
最後の行を、歌い終えて、しばらく、ふたりとも、黙っていた。
土の天井の、根の軋む音だけが、していた。
「……いい唄だね」小夜が、言った。
「うん」
「母さん、これ、あたしたちに、お守りのつもりで、歌ってたのかな」
「だろうね」
「ん」小夜は、頷いた。頷いて、板きれを、木箱に、しまわなかった。胸元に、入れた。「今夜は、これ、抱いて寝る」
おやすみ、と言って、妹は、筵にもぐった。鈴は、囲炉裏の火を、灰で、半分だけ、覆った。覆いながら、今夜の妹は、よく笑ったな、と思った。思って、その考えを、いい兆しの箱に、しまった。
しまった箱が、間違っていたと知るのは、翌朝だった。
◆
小夜は、いなかった。
寝床に、ぬくもりは、もう、なかった。とうに、出ていったのだ。夜のうちに。鈴が、いい兆しの箱に、妹の笑顔を、しまって、眠っている間に。妹は、起きて、支度をして、出ていった。物音ひとつ、立てずに。狩りの教えのとおりに。気配を、殺して。鈴が、教えたことだった。獲物に、気づかれるな。息を、浅く。足音を、土に、沈めろ。妹は、それを、姉から逃げるために、使った。いちばん、よく、覚えていた。十六年、寝床で、鈴の狩りの話を、聞いて育った子は、誰より、上手に、気配を、消した。
筵は、畳んであった。几帳面に。木箱の上に、板きれが、一枚、載っていた。表は、唄の一句。裏に、木炭の字が、詰めて、書いてあった。妹の字は、ひと冬で、ずいぶん、うまくなっていた。
鈴姉へ。
北の軍は、あたしの名前で、来る。なら、あたしの名前が、行けば、来ない。
あたしは、人質になるんじゃない。あたしが、決めて、行くの。そこが、ぜんぜん、違うから、まちがえないで。
探さないで。呼ばないで。あたしの名前は、あたしが、持っていく。
鈴姉は、灯すのを、やめないで。あたしのためにじゃなく。
唄、おぼえたから、だいじょうぶ。おまえの名は、おまえの胸に、って、母さんも言ってる。
——小夜
鈴は、板きれを、二度、読んだ。
二度目の途中で、手が、震えはじめて、字が、読めなくなった。
走った。
板きれを、握ったまま、走った。隧道を、駆け上がった。誰かが、何かを、叫んだ。構わなかった。狩りで鍛えた足が、こんなときに、役に立った。獲物を追う足で、妹を、追った。けれど、獲物と、違った。獲物は、逃げる。妹は、逃げていない。妹は、向かっている。自分から。いちばん危ない場所へ。追う足の速さと、向かう足の覚悟と、どちらが、速いか。
地上の雪は、ゆるんで、ぬかるんでいた。春が、来ていた。春は、北の味方だった。氷見の岩の、肩が出た春が。妹は、その春を、待っていたのかもしれない。海が、使えるようになる日を。船が、出る日を。浜まで、一里。鈴は、生涯で、いちばん速く、走った。走りながら、書き置きの一行が、足の音に、混じった。探さないで。呼ばないで。あたしの名前は、あたしが、持っていく。
浜には、買い取りの卓が、出ていた。
書き役が、ひとり、立っていた。米の列は、もう、なかった。卓の上に、帳面が、開いたまま、残されていた。風が、頁を、めくっていた。
「……朝いちばんに、おいででした」
書き役は、鈴を見て、深々と、頭を下げた。礼儀正しく。憎らしいほど。
「お若いのに、見事な、書きっぷりで。ご自分の手で、お書きになりました。一字も、震えずに」
帳面の、今日の頁に、その字は、あった。
小夜。
姉に、さよ。
呼び名の欄は、それだけだった。母の欄は、空白。父の欄も、空白。姉に、さよ。十五年の呼ばれ方の、ぜんぶが、その四文字だった。その下に、引き取りの印と、船の名が、押されていた。
書き役は、その頁を、丁寧に、切り取った。
「写しは、規則ゆえ、当方に。原本は——」男は、切り取った頁を、鈴に、差し出した。「妹御が、これを、姉君に、と。書き賃の、米は、お断りになりました。代わりに、と」
頁の裏に、木炭の小さな字が、あった。船を待つあいだに、書いたのだろう。
ね、これで、あたしも、唄持ち。
鈴は、その紙を、握り潰さないために、力の入れ方を、初めて、習った気がした。
沖を、見た。
霧の晴れた海峡の、ずっと先に、帆が、ひとつ、小さくなっていた。算木の紋は、もう、読めなかった。読めない遠さまで、行ってしまっていた。
「小夜——」
名前が、喉まで、出た。
出かかった名前に、言霊が、乗りかけた。右手が、燃えるように、熱くなった。呼べば、届く気がした。海の上まで。あの帆まで。妹の胸まで。呼べ。呼べば——
「呼ぶな」
腕を、つかまれた。
縹だった。ぬかるみに足を取られながら、追ってきたのだ。見えない目で、一里の道を。彼の手は、氷のように冷たくて、握る力だけが、熱かった。
「いま、呼べば、届くかもしれん。お前の言霊なら。……だが、考えろ。海の上の、あの子の名を、岸からお前が、本気で呼べば、その声を、誰が、いちばん、欲しがってる」
耳獏。蔵の、巻物。いちばんよく聴く、一巻。
妹を呼ぶ、姉の声。海峡を越えるほどの、言霊を乗せた、最上の一声。それを録らせたら、累の蔵に、何が並ぶのか。鈴の、いちばん深い呼び声が、いつか、小夜を焚べる薪に、変わる。
「……っ」
鈴は、声を、呑んだ。
呑んだ声は、行き場をなくして、体の中で、暴れた。膝が、砂に、落ちた。縹が、隣に、膝をついた。盲いた目が、海の方角を、向いていた。ふたりぶんの、届かなさが、浜に、並んだ。
「呼ばないで、と書いたのは」縹が、静かに言った。「あの子が、これを、分かってたからだ。お前の声が、武器にされることまで、勘定に入れて、出て行った。……十五だぞ。十五で、そこまで、読んだ」
「読めてたまるか」鈴の声は、潰れていた。「読めてたまるか、そんなの……っ。あの子は、あたしが、守って——」
守って。
その先が、続かなかった。守って、きた。守って、決めて、代わりに、背負って。その手の中から、妹は、出て行った。守られるだけの名前じゃ、なくなりたいと言って、ほんとうに、なくなった。誰の手も、借りずに。誰にも、相談せずに。いや。
「……凪」
浜の岩陰に、少年が、立っていた。
夜通し、そこにいたのだろう。唇が、紫だった。鈴と目が合うと、少年は、その場に、土下座した。額を、濡れた砂に、つけて。
「おれが……船の刻限、教えました。書く列の、場所も。……断れなかった。小夜さんが、言ったんです。教えてくれないなら、ひとりで、調べて行く。教えてくれたら、ちゃんと、いちばん安全な船で行く、って。だから、おれ、いちばん、ましな船を……」
少年は、しゃくり上げた。
「殴って、ください。おれ、また、あっち側に、名前を、渡しちまった……」
鈴は、立ち上がった。
立ち上がって、濡れた砂の上の少年の前に、膝を、折った。怒りは、あった。腹の底で、火のように。けれど、その火の宛先は、この子ではなかった。教えなければ、妹は、ひとりで、もっと危ない船に乗った。この子は、最後まで、妹の安全な道を、選ぼうとした。妹が、この子に、選ばせたのだ。十五の妹が、十三の少年の、退路を全部ふさいで。
姉そっくりの、やり口で。
「殴らない」鈴は言った。「立って。……あんたのせいじゃない。あの子は、あたしの妹なんだ。決めたら、ああなの。家系なんだよ」
◆
砦への帰り道を、鈴は、覚えていない。
気づくと、評議の間にいて、燼が、目の前にいた。報せは、先に、届いていた。広間は、静まり返っていた。百人が、何かを言いたくて、誰も、何も言えずにいた。
「追うぞ」
燼が、言った。最初の一声が、それだった。
「氷は、ゆるんだ。漁の小船なら、夜、渡れる。おれと、手練れの五人で——」
「駄目」鈴は言った。「それ、戦になる。あの子が、いちばん、避けたかったやつ」
「なら、どうする。待つのか。あの帳面の男の、蔵の中で、あの子の名が、頁を、繰られていくのを」
「待たない」
鈴は、評議の真ん中に、立った。立って、生まれて初めて、自分から、名のった。砦の掟の、とおりに。
「灰郷の、鈴。……皆に、頼みがある」
百の顔が、鈴を見た。旗を見る目で。神様を見る目で。鈴は、その目を、ひとつずつ、見返した。
「あたしは、妹を、取り戻しに行く。けど、矢では行かない。米でも行かない。……三つ目の手で、行く。まだ、形になってない。だから、貸してほしいのは、兵じゃない。皆の、覚えてる名前と、皆の、声」
広間が、ざわめいた。
ざわめきの中で、鈴は、右手の布を、ほどいた。隠してきた糸を、初めて、皆の前に、晒した。五本と、二十一本。銀の束が、灯りの下で、はっきりと、光った。見える者には、見えたはずだ。見えない者にも、鈴が、何かを、晒したことだけは、伝わった。
「あたしは、灯すたびに、これが、殖える体になってる。北の男は、これが太るのを、待ってる。あたしが、勝手に、錨に育つのを。……それでも、あたしは、灯すのを、やめない。妹に、やめるなって、言われたから。だから——」
声が、一度、揺れた。揺れて、立て直した。
「だから、あたしひとりで、灯すのを、やめる。皆で、灯す形を、探したい。あたしが倒れても、誰かが倒れても、消えない形を。名前を、ひとりの神様に預けるんじゃなくて、互いの口で、覚え合う形を。……あんたたちが、佐和たちの名前で、もう、やってたことを。あれを、州じゅうに、広げたい」
それが、三つ目の手の、最初の形だった。
まだ、言葉にしただけだった。けれど、広間のどこかで、誰かが、隣の者の名を、ぽつりと、呼んだ。呼ばれた者が、呼び返した。火が、また、ひとつ、爆ぜた。
「旗には、ならんと言ったな」弦次が、腕を組んで、立った。焼き派の頭だった。鈴の天敵に、なってもおかしくない男だった。「そのくせ、いま、お前は、立派に、旗を、立てたぞ。皆で灯す、ってな。……どっちなんだ」
「旗じゃない」鈴は言った。「旗は、見上げるもの。あたしが言ってるのは、見上げるんじゃなくて、隣を、見るやつ。隣の名前を、覚えるやつ。……旗の下に集まるんじゃなくて、輪になって、座るやつ」
弦次は、しばらく、鈴を見ていた。それから、ふん、と、鼻を鳴らした。
「輪、ねえ」鍛冶の男は、つぶやいた。「……灯を折る話より、面倒くさそうだ。だが、まあ、聞いてやる。妹を、取り戻すまではな。それまでは、お前の輪に、付き合ってやる。鍛冶は、輪を打つのも、仕事のうちだ」
焼き派の頭の、その一言で、広間の空気が、ほどけた。完全に賛成したわけではない。ただ、付き合う、と言った。この砦では、それで、十分だった。皆、誰かに、付き合って、生きている。
評議が、引けたあと、汐音が、寄ってきた。
「皆で灯す形、ってのを、手伝うよ。機織りはね、一本の糸じゃ、布にならないの。よく、知ってる」
弦次も、来た。来て、何も言わずに、鈴の肩を、一度、叩いて、行った。鍛冶の手のひらは、岩のようだった。燼だけが、最後まで、地図の前から、動かなかった。その背中が、何を数えているのか、鈴には、見えなかった。
評議が引けて、鈴は、ひとり、寝床の区画へ、戻った。
妹の筵は、几帳面に、畳まれたままだった。畳んだ手の、丁寧さが、そこに、残っていた。妹は、泣きながら畳んだのか。落ち着いて畳んだのか。たぶん、後者だった。妹は、決めてから、畳んだ。決めた者は、取り乱さない。それは、鈴が、妹に、教えたことだった。狩りに出る前は、道具を、きちんと、並べておけ。取り乱した手は、獲物を、逃がす。妹は、それを、覚えていた。覚えて、姉のもとから、逃げるときに、使った。
その夜、鈴は、小夜の板きれを、胸に抱いて、眠った。
妹のいない筵は、広くて、寒かった。十六年で、初めての、広さだった。
十六年、この筵の隣に、妹がいた。熱を出して、うなされる妹。薬湯を飲む前に、鈴の袖を、握る妹。その手の、あった場所が、今夜は、空いていた。鈴は、その空いた場所に、手を、伸ばした。何も、なかった。ただ、冷たい筵だけが、あった。守るべきものが、いなくなった夜は、こんなに、寒いものか。守ることは、重荷だと、思っていた。妹の熱を数え、薬草を探し、自分の眠りを、削る。重荷だった。けれど、その重荷が、なくなった筵は、軽すぎて、かえって、眠れなかった。重荷は、いつのまにか、鈴を、この世に、繋ぎ止める、錨にも、なっていた。
眠りの底で、唄が、聞こえた気がした。海の上から。北の、蔵の中から。おまえの名は、おまえの胸に。あの子は、ちゃんと、持っていった。自分の名前を、自分の胸に。
だから、必ず、迎えに行く。
呼ばずに。奪い返すのでもなく。あの子が、自分の足で、帰ってこられる道を、作りに。




