第7話 唄持ち
二通目の書状は、春の最初の雨と、一緒に来た。
灰郷の、鈴どの。
残る四名の値が、定まった。
雨水の朝、同じ沖にて。
こたびは、よい報せである。
——数え手
「よい報せ、だと」燼は、書状を、火にかざすように睨んだ。「敵の、よい報せほど、悪い報せはない」
「強襲なら、間に合う」弦次が、身を乗り出した。「氷の解けきらんうちなら、夜、橇で氷原を渡れる。船倉の四人を——」
「船倉に、四人がいれば、な」燼が言った。「あの男は、帳面の男だ。人質の置き場所くらい、こちらの強襲ごと、勘定に入れてる」
「強襲は、なしだ」燼が、断じた。「あの男は、こちらの手を、ぜんぶ、読んでる。橇で渡れることも、四人を取り返したいことも。読んだ上で、書状を、寄越してきた。……乗るしかない。乗って、向こうの盤の上で、ひっくり返す手を、探す。それしか、ない」
弦次は、不服そうだった。焼き派は、いつも、いちばん速い手を、選びたがる。灯を折る。橇で渡る。先に、動く。けれど、速い手は、たいてい、相手の、読みの中にある。燼は、頭目として、それを、知っていた。知っていて、いちばん遅い手を、選んだ。談判。相手の招いた席に、出向く。鈴は、燼の横顔に、半年前にはなかった、忍耐を、見た。罠を仕掛ける猟師の、忍耐を。獲物が、罠にかかるまで、動かずに、待つ。あの男は、頭目になって、待つことを、覚えていた。
評議は、結局、談判に決まった。
行く、と小夜が言ったのは、その晩だった。
「あたしの名前の話なんだよ。あたしが行くのが、筋でしょ」
鈴は、駄目、と言いかけて、言わなかった。喉まで出た言葉を、飲み込んで、別の言葉を、探した。探すのに、ひと呼吸、かかった。
「……評議に、かけよう。あんたが、自分で、諮って」
小夜は、評議に立った。名のって、理を述べた。立派だった。評議は、否決した。移ろい火の妹を、数え手の船に乗せるのは、肉屋に羊を届けるのと同じだと、汐音が言った。小夜は、唇を結んで、引き下がった。
「……評議が決めたなら、しょうがない」
帰り際、妹は、鈴の袖を、つついた。
「鈴姉。今回は、ちゃんと、あたしに決めさせようとしたね」
「……うん」
「六十点」小夜は言った。「顔に、駄目って書いてあったから、減点」
◆
雨水の沖は、霧だった。
黒い船は、霧の中に、墨で描いたように、浮かんでいた。甲板の卓も、帳面の棚も、前と同じだった。床几の少女も、同じ場所に、座っていた。琥珀色の小袖。海へ沈む、銀の糸。
「ようこそ、ようこそ」
累は、前よりも、機嫌がよく見えた。
「まず、お見せしよう。約束の、四名」
船楼の格子の奥に、四つの顔が、揃っていた。佐和。岩次。ちか。与一。皆の口で覚えた四つの名が、四つとも、生きて、そこにいた。やつれてはいたが、傷は、なかった。
「値を」鈴は言った。「聞かせて」
「値は」累は、卓の上で、指を、組んだ。「要らぬ」
霧の中で、その言葉は、底のない穴のように、聞こえた。
「四名は、お返しする。米も、運賃も、要らぬ。あなたは、何も、書かなくてよい。何も、差し出さなくてよい。……ただ、これまで通りで、いてくだされ。鈴どの。これまで通り、浜で、郷で、乞われるままに、灯し続けてくだされ。それだけが、値でござる」
「……どういう、こと」
「言葉のままよ」
累は、立ち上がった。立って、霧の海を、手で示した。
「灰どのは、あなたを、座に縛ろうとなされた。力ずくで。それで、しくじった。私は、あの方の帳尻から、学んでおる。縛りませぬ。指一本、触れませぬ。あなたは、ご自分で、ご自分を、お縛りなさる。一灯、また一灯、灯すたびに。……ご存じであろう?ご自分の、右手のことは」
鈴の右手が、袖の中で、強張った。
「五本と、二十一本」累は、囁くように言った。「先の浜で、殖えたぶんまで、こちらの蔵書は、数えてくれた。……あなたは、よい錨に、育っておられる。鈴どの。誰に強いられるでもなく。乞われて、断れず、目の前の一人を、灯し続けて。その糸が、いずれ、あなたを、どこへ繋ぐか。もう、お気づきのはずだ」
鈴は、床几の少女を、見た。
少女は、鈴を、見ていた。測ったのは、この子だ。最初の船で、首をかしげた、あの一瞬に。悪意は、どこにもなかった。蔵書は、開かれれば、読まれるだけだ。
「私はね、鈴どの。あなたと、戦をする気が、ないのでござるよ」累の声は、どこまでも、柔らかかった。「あなたの灯しは、止めぬ。むしろ、祈っておる。どうか、たくさん、灯してくだされ、と。あなたが、灯せば灯すほど、熟れる。熟れた錨は、待っていれば、落ちる。私は、果樹園の主のように、待つだけでよい。……これが、よい報せでなくて、何でござろう」
反逆が、そのまま、収穫だった。
灰は、鈴を、折ろうとした。累は、鈴を、実らせる。鈴が、鈴であるほど。断れない性分のままであるほど。目の前の一人を、見捨てられないままであるほど。
「断れば」鈴は、声を、絞った。「灯すのを、やめれば」
「おやめなされ、どうぞ」累は、嬉しそうに、両手を広げた。「浜の老婆に、否と言いなされ。赤子の母に、否と。十六の子らに、否と。……おできになるか?おできになるなら、私の負けだ。私は、人の性分に、賭けておる。算盤は、性分が、いちばん、狂わぬと申しておる」
◆
「さて。本日の、本題は、ここからでござる」
累は、船楼の奥から、一冊の帳面を、自ら、運んできた。
古かった。他のどの帳面とも、装丁が違った。表紙は煤けた革で、角が、何代もの手で、丸くなっていた。男はそれを、卓に置く前に、一度、両手で、押しいただいた。
「血脈簿。天理院の書院が、三百年、続けてきた帳面。灯都が落ちた夜、私が、運び出した。……鈴どの。あなたの火が、どこから来たか、ご覧に入れよう」
頁が、繰られた。
古い墨の字が、何代も、何代も、続いていた。系図だった。名前から名前へ、線が降りて、枝分かれして、ところどころ、名の横に、朱の線が、引かれている。
「朱は?」
「摘み取り、の印」累は、こともなげに言った。「移ろい火は、血に、伏す。数代、潜って、また、出る。書院は、その血筋を、三百年、見張ってきた。出そうな枝は、出る前に——」指が、朱の線を、なぞった。「摘む」
朱の線は、頁を埋めるほど、あった。
名前の横の、朱。名前の横の、朱。墨の名前が、何百と続き、その三つにひとつほどに、朱が、引かれていた。女の名が、多かった。唄を継ぐのは、母から娘へ、だからだろう。三百年の母と娘が、この帳面の中で、朱の線で、次々と、消されていた。生まれる前に。乳を飲む前に。名を呼ばれる前に。
「これは……」鈴の声が、掠れた。「ぜんぶ、移ろい火の」
「左様。あなたの、ご親類でござるよ。遠い」累は、頁を、いとおしむように、撫でた。「書院は、勤勉だった。三百年、一度も、絶やさず、この血を、見張り、摘んできた。……それでも、絶やせなかった。摘んでも摘んでも、どこかの母が、唄を、子に渡した。書かれぬ唄は、燃やせぬのでござる。紙でないものは、火がつかぬ。私が、いちばん、手を焼くのが、それでね」
一本、一本が、生まれる前に、あるいは生まれてすぐに、摘まれた火だった。鈴は、それを、数えられなかった。数えたら、累と同じ側に、立つ気がした。
「ここに」累の指が、止まった。「あなたの、母御」
頁の隅に、女の名が、あった。
その横に、朱の線が、引かれて、いなかった。代わりに、細い字で、註が、ひとつ。
北へ走り、行方知れず。唄持ち。
「唄持ち、というのはね」累は、講釈する者の声になった。「この血筋の、別名でござる。移ろい火の血脈は、古い言霊の唄を、口伝てに、継いできた。書かずに。帳面に、載らぬように。母から子へ、子守唄に、隠して。……書院は、それを、ずいぶん、嫌った。書かれぬものは、見張れぬ。だから、唄ごと、摘もうとした。摘んでも、摘んでも、唄は、どこかで、続いておった」
累は、頁を、もう一枚、繰った。
鈴は、息を、止めて、それを、見た。
そこに、唄が、あった。
書院の手で、写し取られた、唄の全節が。摘んだ家から、押収した、誰かの覚え書きから、書き写したのだろう。几帳面な字で、五行。
ねむれ、ねむれ、火の子。
おまえの名は、おまえの胸に。
夜が来ても、消えぬように。
夜明けが、唇に、見つけるように。
——灯は、名を呼ぶ者のもとへ、帰る。
鈴は、息を、忘れた。
母の唄だった。小夜が、半分しか思い出せなかった唄。北のばば様が、一句だけ覚えていた唄。その全部が、敵の帳面の中に、眠っていた。摘むために写した者の、几帳面な字で。三百年、唄を殺そうとしてきた帳面が、唄の、いちばん完全な写しを、抱えて生きていた。
皮肉だった。これ以上ない、皮肉だった。母から子へ、口から口へ、書かれずに、隠れて、継がれてきた唄。書かれぬことが、唄の、命綱だった。書けば、奪われる。燃やされる。だから、唄持ちの女たちは、頑なに、書かなかった。子守唄に、紛れさせて、声でだけ、渡した。その唄の、いちばん正確な姿が、いま、敵の帳面の中に、あった。殺そうとした者だけが、殺すために、いちばん丁寧に、写し取っていた。愛した者は、書かなかった。憎んだ者が、書いた。母の唄は、母の手にではなく、母を狩る者の手の中で、完全な形を、保っていた。
最後の一行に、目が、釘付けになった。
灯は、名を呼ぶ者のもとへ、帰る。
知っている。この文句を、知っている。地の底の、崩れた水路の縁で、欠けた椀の老人が、口ずさんでいた。翁の唄。失墜した鏡守が、死ぬ前に歌っていた、あの古い節と、同じだ。母の子守唄と、翁の唄は、同じ唄の、別の節だった。血脈の水脈と、抵抗の水脈と。同じ古い唄が、ふたつの川を、流れて、鈴のところで、落ち合っていた。
「お持ちなさい」
累が、言った。
鈴は、顔を、上げた。
「その頁、写しを、差し上げよう。母御の唄でござる。娘が持つのが、筋というもの」累は、ほんとうに、惜しげもなく、写しを取らせた。「私は、原本さえ、あればよい。……それにね、鈴どの。あなたが、その唄を、お持ちになるほど、あなたの灯しは、深くなる。深い灯しは、太い糸を、綯う。私の損には、ならぬのでござるよ」
親切までが、収穫だった。
それでも鈴は、写しを、受け取った。受け取らない理由を、母の唄の前で、見つけられなかった。
◆
帰り際、累が、席を外した。
四名を格子から出す手続きに、自ら、立ったのだ。囚人の縄を、自分の手で、解きたがる男だった。甲板に、鈴と、床几の少女だけが、残された。霧が、ふたりを、薄く、包んでいた。
偶然ではない、と鈴は思った。この船に、偶然は、置いていない。これも、量られている。それでも。
「……名前は」
鈴は、訊いた。
少女は、長いこと、黙っていた。波の音が、いくつか、過ぎた。それから、唇が、ほんのすこし、動いた。
「……あなたが、灯都の」
問いに、問いで返したのでも、なかった。確かめたのだった。半年前、海の向こうで、灯がひとつ、喰うのをやめた。その夜、この子の糸も、何かを感じたのかもしれなかった。八つの灯は、一枚の帳の、八つの結び目だから。
「うん」鈴は言った。「灯都の、鈴」
少女は、頷かなかった。代わりに、膝の上の手が、ほんのわずか、開いた。手のひらに、糸の擦れた痕が、何重にも、走っていた。鈴の右手の、布の下と、同じ痕が。何十倍も、深く。
「あの人は、私を、いちばん古い蔵書だと、言う」少女は、ぽつ、ぽつ、と、言葉を、置いた。長く喋ることに、慣れていない口だった。「触らない。汚さない。日に当てない。……大事に、される。本のように。本は、読まれるけど、呼ばれない。私は、もう、長いこと、誰にも、呼ばれていない」
霧が、ふたりの間を、流れた。
「あなたの妹は」少女は、続けた。「呼ばれてる。あの男が、よく聴く一巻に、なるくらい。……羨ましい、と思ってしまう。呼ばれて、攫われた子を。私は、攫われもしない。盗む価値の、ある者だけが、攫われる。私は、もう、棚の、いちばん奥だから」
鈴は、何か言おうとして、言葉が、出なかった。
「琥珀、というのは」少女は、言った。声は、長く使われていない蝶番の音がした。「あの人が、つけた。背表紙の、題」
本当の名は、言わなかった。
言えないのか、言わないのか、分からなかった。累の足音が、戻ってきた。少女の手は、もう、膝の上で、揃っていた。置物の形に。けれど鈴は、見てしまっていた。置物の手のひらの、糸の痕を。題をつけられた本の、中身が、まだ、生きていることを。
◆
四名と共に、浜へ戻った。
砦は、沸いた。佐和が、ちかが、岩次が、与一が、覚えられた名前のところへ、帰ってきた。凪が、また、泣いていた。喜びの輪の真ん中で、鈴だけが、霧の中の言葉を、抱えて、立っていた。
四名は、口々に、蔵のことを、語った。あそこは牢ではない、と佐和は言った。布団も、飯も、あった。ただ、誰も、名前で呼んでくれなかった、と。「あんた、と呼ばれるんだ。ずうっと。あんた、こっちへ。あんた、飯だ。……名前があるのに、誰も、使わない。あれは、牢より、こたえた」。覚えられた名のところへ帰ってきた女の頬を、涙が、伝った。砦の百人が、その夜、佐和を、佐和、と、何度も呼んだ。呼ばれるたび、女は、笑って、泣いた。
帰ってきた喜びの裏で、鈴は、霧の中の少女のことを、考えていた。あの子は、帰る場所が、ない。呼ぶ者が、ない。攫う価値も、ない、と自分で言った子。佐和たちが帰れたのは、覚えていた者が、いたからだ。琥珀を覚えている者は、どこにも、いない。本の題しか、知らされていない子を、誰が、呼べる。
灯し続けてくだされ。それだけが、値でござる。
夜、縹が、鈴の部屋に、来た。
筵の前に、座って、しばらく、何も言わなかった。それから、手を、出した。
「右手を」
「……なに」
「船で、あの男が言った。五本と、二十一本と。私は、それを、聞いた」縹の声は、静かだった。静かさの底が、震えていた。「数を、知らなかったのは、この場で、私だけだった」
鈴は、右手を、出せなかった。
出せないことが、答えだった。縹は、見えない目を、伏せた。
「いつからだ」
「……名披露の、ころから。増えはじめたのは」
「半年」縹は、その長さを、噛むように、繰り返した。「半年、私は、隣にいた。同じ囲炉裏で、飯を食った。お前の足音で、獲物の有り無しまで、当てられた。……なのに、糸の数は、敵の船で、敵の口から、聞いた」
「言えば、あんたが——」
「背負う、と思ったか」縹は、遮った。遮ってから、自分の声の強さに、自分で、息を整えた。「そうだな。背負っただろう。だから、言うべきだった。私は、傷痕と、同根だ。お前の糸と、私の糸は、同じ場所に、流れ込んでる。お前が隠せば、私は、自分の軋みの分しか、量れない。ふたり分を、片方だけが、背負ってた。——それを、お前は、守ってるつもりでいた」
小夜に、言われた言葉と、同じ形をしていた。
代わりに、決める。代わりに、背負う。代わりに、黙る。鈴の愛しかたは、いつも、相手の手から、何かを、取り上げる形をしていた。妹からも、この人からも。
鈴は、右手の布を、解いた。
灯りのない部屋で、糸が、見えた。五本の、太いの。二十一本の、細いの。傷痕の方角へ、流れる、銀の束。縹には、見えないはずだった。けれど、彼の指が、過たず、その上に、重なった。同根の糸は、互いを、知っていた。
「……累の言うとおりに、なる気は、ない」鈴は言った。
「だろうな」
「でも、灯すのを、やめられる気も、しない」
「だろうな」縹は、二度、同じ言葉で、頷いた。「やめられたら、お前じゃない。やめられないなら、別の形を、探すしかない。米でも、矢でもない、三つ目の手を。……燼の宿題と、同じところへ、出るんだ。結局」
「あの船で」鈴は、言った。「あの子が、言ったの。呼ばれてる妹が、羨ましいって。攫われた子が、羨ましいって。……攫われるのは、呼ぶ者が、いるからだって。誰も呼ばない子は、攫われもしないって」
縹は、しばらく、黙っていた。
「……それは、答えの、半分だ」やがて、言った。「呼ばれる者は、奪われる。だが、呼ばれない者は、消える。奪われるのと、消えるのと、どっちが、ましか。あの少女は、消える側を、ずっと、生きてる。……お前のやろうとしてることは、たぶん、その二択を、壊すことだ。奪われも、消えもしない、三つ目の在り方。それが、できたら」
「できたら?」
「あの子も、救える」縹は、静かに言った。「呼ぶ者のいない子を、呼ぶ。一方通行じゃなく。……まだ、絵空事だがな」
縹の指は、糸の上に、置かれたままだった。
「ひとつだけ、分かったことがある」彼は言った。「あの男の帳面には、呼ばれた数の欄は、あった。船で、頁を繰る音を、ずっと、聞いてた。欄の、桁の話まで、していた。……だが、誰と誰が、呼び合ってるか、を書く欄の話は、一度も、出なかった。あの帳面は、声の、行き先しか、数えてない。行き来、を数える桁が、ない」
行き来を、数える桁が、ない。
それが、何を意味するのか、鈴には、まだ、分からなかった。分からないまま、母の唄の写しを、胸元から、出した。五行の、几帳面な字。声に出さずに、最後の行を、なぞった。
灯は、名を呼ぶ者のもとへ、帰る。
帰る。灯は、帰る。一方通行では、ないということだ。唄は、三百年前から、それを、歌っていた。
母も、これを、歌ったのだろうか。鈴を、寝かしつけるときに。小夜を、身ごもったときに。北から、逃げて帰る、雪の道で。唄持ちの女たちが、三百年、口から口へ、渡してきた一行を。灯は、名を呼ぶ者のもとへ、帰る。それは、祈りだった。摘まれ続けた血脈の、たったひとつの、武器だった。書けば、奪われる。だから、歌った。歌は、燃やせない。歌は、奪えない。母の声は、もう、思い出せない。けれど、母が遺した一行は、いま、鈴の手の中で、勝ち筋の、いちばん最初の糸口に、なろうとしていた。母は、知っていたのだろうか。自分の娘が、いつか、この一行で、世界の名前の在り方を、変えることを。




