第6話 同根
汐音が戻った夜、凪は、声を上げて泣いた。
格子の中の五人に、自分の村の者は、いなかったはずだ。それでも少年は、戻ったひとりに取りすがって、残った四人の名を、何度も訊いた。知らない名だと分かっても、訊いた。誰かが、帳面の向こうから、戻ってくる。それを、その目で、見たかったのだと、あとで鈴は思った。北では、戻った者を、見たことがなかったのだろう。
その晩の評議で、汐音は、残った四人の名を、ひとつずつ、読み上げた。
機織りの、佐和。塩焚きの、岩次。粥番の、ちか。漁師の、与一。広間の百人が、声に出さず、唇で、その四つを、なぞった。ここの流儀だった。帳面に書かない代わりに、皆の口で、覚える。書かれた名は、奪える。覚えられた名は、奪いに行く場所が、ない。
砦は、その夜だけ、すこし、あたたかかった。
縹が倒れたのは、船から戻って、三日目の夜だった。
物音は、小さかった。土壁の向こうで、薪の束が、崩れる音。それだけだった。鈴が行くと、縹は、薪置きの前に、膝をついていた。倒れたというより、立っていられなくなって、ゆっくり、畳んだ形だった。
「平気だ」
「その言葉、もう、信じてない」
鈴は、肩を貸した。縹の体は、燃えるようでも、冷えてもいなかった。ただ、軽かった。中身が、どこかへ、流れ出しているような、軽さだった。額に脂汗が、浮いていた。見えない目が、壁の一点を、向いていた。
壁ではなかった。壁の、ずっと向こう。
「……傷痕か」
縹は、答える代わりに、長い息を、吐いた。
「夜が、続いてた。船の前から。痛みじゃない。引かれる感じだ。糸を、向こうから、手繰られるような。今夜のは、強かった」
「あんた、ここから傷痕まで、何里あると思ってるの」
「分かってる」
縹は、薄く笑った。
「分かっていて、感じるんだ。傷痕は、遠くにいても、感じる。同根だから。あれを封じているのは、私の火だ。私の半分は、まだ、あの裂け目の中にいる。半分が軋めば、もう半分も、軋む。理屈は、それだけだ」
それだけ、と言うには、重すぎる理屈だった。
鈴は、縹の手を、取った。薪の棘の痕の残る、ささくれた手を。この手は、半年前、亀裂に、自分の色をぜんぶ、注いだ。注いだ先と、いまも、繋がっている。切れない。切れば、傷痕が、開く。つまり、この人は、半年前のあの夜から、一度も、亀裂の前から、帰ってきていないのだった。隣で飯を食い、薪を測り、笑いさえするのに。半分は、ずっと、あそこに、立ったままで。
「平気だ、は、禁止」
鈴は言った。
「今夜から。うちの決まり」
「……善処する」
「善処も、禁止」
◆
翌日、鈴は、汐音と、配給の帳場で、数字を突き合わせた。
沿岸の村々から、人が減っている。死んだのではない。北の帳面に、移っているのだ。買い取りは、止まっていなかった。船は、浜を変え、日を変え、米を積んで、来続けている。書いた者の数は、灯し派の見立てで、もう、千を超えた。
「千人」
汐音は、自分で言って、自分で、首を振った。
「千人ぶんの名前が、写されて、海を渡った」
千人の中には、顔の浮かぶ名前も、あった。佐吉。さき、と呼ばれる女房。とうちゃん、と呼ぶ子。浜で米俵を背負った、あの一家の名は、もう、北の蔵の、どこかの列に、納まっている。誰も、悪くなかった。誰も悪くないまま、帳面だけが、太っていく。凪の言ったとおりの冬だった。
その夜も、縹は、眠れなかった。
鈴は、その隣で、薪を、火に、くべた。縹がいちばん太いと選んだ薪を、手探りで確かめた、あの指の仕事を、思い出しながら。読めない目の男は、薪の太さを、指で量る。傷痕の容態を、体で量る。世界を、ぜんぶ、指と、体で、量っている。目が見えていた頃、この人は、世界を、目で、読んでいた。鏡守として。読む、というのは、距離を、置くことだった。いまは、違う。指で量るのは、触れることだった。世界に、触れて、生きている。皮肉なことに、目を失って、この人は、初めて、世界に、触れた。鈴は、その横顔を、見た。見て、触れたかった。けれど、触れれば、また、この人は、自分の軋みを、隠す。だから、鈴も、薪を、くべるだけにした。同じ火を、挟んで、ふたりで、起きていた。
壁にもたれ、傷痕の方角へ、顔を向けたまま、浅い息をしていた。鈴は、その隣に、座った。座って、ふたつの数字を、頭の中で、並べた。千人。縹の、悪くなり方。
「……ねえ。あんたの軋み、ひどくなったの、いつから」
「買い取りの浜を、見た頃からだ」
繋がった。
頭の中で、線が、一本、引けた。
買い取りで、誰かが、名前を、書く。写しが、北の台帳に、入る。台帳の名は、北の灯の、薪になる。この州の灯る火は、名を呼び合う者たちの火だ。呼ぶ者の名が、北へ移れば、こちらの灯は、その分、呼ばれなくなる。呼ばれない火は、痩せる。痩せた灯は、結界を、支えきれない。支えきれない分の重みが、八洲の、いちばん細い継ぎ目へ、寄る。継ぎ目は、傷痕だ。傷痕を、内側から、繋いでいるのは、縹の火だ。だから、買い取りが進むと、縹が、軋む。
一枚の名前が、海を渡るたびに、この人の、命が、削れる。
書かれた名は、写しが、北の台帳に入る。台帳に入った名は——凪の札が、そうだったように、持ち主が、変わる。この州の、灯る火は、名を呼び合う者たちの火だ。呼ぶ者の名が、一枚、また一枚、北の帳面に移るたび、灯る火は、ほんのわずかずつ、痩せる。痩せた灯は、結界を支える力が、細る。細った分の重みは、どこへ行く。
傷痕へ、行く。
傷痕を、内側から繋いでいる、縹の火へ。
鈴は、しばらく、言葉を、探した。探して、見つからなくて、それでも、言った。
「あんたの体は」
鈴は、ゆっくり、言った。
「この州の、秤なんだ。買い取りが進むと、あんたが、軋む。……累は、矢を一本も射ずに、あんたを、削ってる」
「悪くない言い方だ」
縹は、目を閉じた。
「秤か。読めなくなった鏡守の、再就職先としては、上等だ」
「笑いごとじゃない」
「笑いごとにしておけ」
縹の声は、静かだった。
「これは、使える。私の体が秤なら、北の手の進み方が、矢の届かぬ遠くからでも、分かる。砦のどの斥候より、早く。……鈴。私を、評議に出せ。秤として」
読めない目の男は、自分の痛みを、道具に変える話を、淡々と、していた。鈴は、その横顔に、半年前の、亀裂の前に立った背中を、見た。この人は、いつも、こうだ。自分を、勘定に入れない。勘定に入れない者から、世界は、削っていく。
「ねえ」
鈴は言った。
「秤が、壊れたら、どうなるの」
縹は、すぐには、答えなかった。
「壊れる、とは」
「あんたが、限界まで、軋んで。……それ以上、量れなくなったら」
「ああ」
縹は、なんでもないことのように、言った。
「そのときは、傷痕が、開く。私の火が、保てなくなれば。灯都の節が、ふたつ目に、落ちる。……だが、そこまでは、まだ、間がある。安心しろ。秤は、まだ、目盛りの、半分も、来ていない」
安心しろ、と言われて、鈴は、ちっとも、安心できなかった。半分。この人は、もう、半分まで、軋んでいる。それを、安心しろ、の材料に、使う。自分の残り半分を、世界の物差しとして、差し出している。鈴は、縹の手を、また、握った。今度は、強く。離さないように。離せば、この人が、勘定の中へ、すうと、歩いて行ってしまいそうで。
◆
縹の秤の読みは、朝晩、二度、取られるようになった。
朝は、夜のあいだの北の動きを。晩は、昼の買い取りの進みを。縹は、自分の体の軋みを、痛みの濃さで、言い分けた。「今朝は、ゆうべより、糸が三筋ぶん、北へ寄った」「昼は、止まっていた。買い取りの船が、浜を休んだらしい」。砦の物見より、正確だった。物見は、海を、目で見る。縹は、海を、傷で、感じる。見える物見が見落とすものを、見えない秤が、拾った。
弦次の組の若い衆が、その読みを、紙に、書き取ろうとしたことがあった。縹は、止めた。「書くな。書けば、それも、向こうの帳面と、同じになる。覚えろ。覚えて、明日、また訊きに来い」。書かずに覚える。この砦の、いちばん古い決まりを、元・神籍の男が、いちばん、厳しく守った。
評議で、縹は、自分から、立った。
名のってから、喋る。掟のとおりに。「元・鏡守の、久遠縹」と名のったとき、広間の幾人かが、息を呑んだ。神籍の姓を、ここで名のった者は、初めてだった。縹は、構わず、自分の体の話をした。傷痕と同根であること。買い取りが進むと、軋むこと。秤として、使えること。
「敵の進み具合が、あんたの加減で分かるってか」
弦次が、腕を組んだ。
「便利な体温計だな、元・神籍さまは」
「そうだ」
縹は、皮肉を、皮肉のまま、受け取らなかった。
「便利に、使え」
弦次は、鼻を鳴らした。鳴らしたが、それきり、何も言わなかった。翌日から、見張りの組に、縹の容態を朝晩聞きに来る係が、ひとり、ついた。弦次の組の、若い衆だった。
衝突は、その翌日に、来た。
小夜が、北の区画から、戻らなかった。夕餉の刻限を過ぎ、灯がひと回り暗くなっても。鈴は、隧道を、早足で歩いた。早足が、駆け足になった。北の区画の、いちばん奥、機織りの音のする小部屋で、妹は、見つかった。
老婆と、向かい合って、座っていた。
北の訛りの老婆だった。逃亡者の区画の。膝の上で、皺だらけの手が、調子を取るように、揺れている。歌っているのだった。低く。小夜は、その口元を、食い入るように、見つめて、唇の動きを、追っていた。聞き取った言葉を、膝の板きれに、木炭で、書き取っている。一句、聞いては、書き、また一句、聞いては、書く。蔵書を写す者の、真剣さで。
膝に、帳面がわりの板きれ。木炭で、何かを、書き取っている。唄の文句だった。
「小夜」
鈴の声で、部屋の空気が、固まった。
「戻るよ。いますぐ」
「あと少しで——」
「いますぐ」
自分の声が、思ったより、硬かった。小夜は、板きれを抱えて、立った。老婆に、深く頭を下げて、廊下に出た。廊下を、黙って、半分ほど歩いて、それから、立ち止まった。
「……累って人、あたしの名前、知ってたんでしょ」
鈴は、足を、止めた。船のことは、妹には、半分しか、話していなかった。砦に、隠し事は、もたない。
「汐音さんから、聞いた。月のうち四度、火の色は藍より入って、移ろう——耳獏は、そこまで、聞いてた。あたしが、家で、火を出すとこを。……鈴姉。あたし、もう、知られてるんだよ。隠れても、隠れてなくても、同じなんだよ」
「同じじゃない。奥にいれば——」
「奥にいれば、安全?汐音さんは、大人で、強くて、五人でいて、攫われた」
小夜の声は、震えていなかった。それが、いちばん、応えた。
「あたしが唄を集めるのはね、遊びじゃないの。あの唄、北の古い唄なんだよ。母さんは、北で、覚えてきた。北の人たちなら、続きを知ってる。続きが分かれば、母さんが、何の唄をあたしたちに——」
「分かってる。分かってるけど、いまは——」
「いまは、駄目。次も、駄目。鈴姉は、いつも、そう」
小夜は、振り向いた。
「鈴姉はすぐ、あたしの代わりに、決める」
廊下の灯が、ふたりの間で、揺れた。
「熱のあるときは、それで、よかった。あたし、寝てるだけだったから。でも、いまは、立ってるんだよ。立って、自分の足で、ここまで歩いてきた。なのに鈴姉は、あたしが訊く前に答えて、選ぶ前に選んで、転ぶ前に、抱き上げる。……それ、優しさだって、分かってる。分かってるから、よけい、言えなかった」
「……小夜」
「あたしの名前はね」
妹は、板きれを、胸に抱え直した。
「鈴姉に守られてるだけの名前じゃ、なくなりたいの」
そのまま、小夜は、寝床の区画へ、歩いていった。鈴は、廊下に、立ち尽くした。追いかける足が、出なかった。追いかけて、何と言う。ごめん、と言って、明日からまた、同じことをする。それが、自分だと、鈴は、知っていた。妹の歩幅より、半歩先に、立ってしまう。それが、十六年の、癖だった。
癖と、愛の、区別が、つかなかった。
妹が、戻った区画の方角を、鈴は、しばらく、見ていた。守られてるだけの名前じゃ、なくなりたい。妹の言葉は、正しかった。正しさが、こんなに、痛いとは。鈴は、十六年、妹のために生きてきた。妹のためなら、何でもできると思っていた。できないことが、ひとつ、あった。妹を、ひとりにすること。妹の手の中の選択を、妹に、返すこと。それが、いちばん、できなかった。
◆
眠れないまま、鈴は、見張りの火に、上がった。
地上の見張り台は、枯れ野の岩陰にある。夜番は、燼だった。鈴が上がっても、男は、驚かなかった。場所を、半分、空けただけだった。昔、枯れ野で、罠を見回ったときの、あの間合いで。
しばらく、ふたりとも、黙っていた。
雪のやんだ夜で、星が、出ていた。遠くに、灯都の灯る火が、滲んでいる。前より、また少し、細く見えるのは、気のせいではないのだろう。
枯れ野の岩陰から見る八洲の夜は、灯が、まばらだった。半年前、灯都の大灯は、夜の空に、白い柱を、一本、立てていた。あの柱は、もう、ない。代わりに、地平のあちこちに、めいめいの色の灯が、小さく、散っている。喰う火が、消えて、灯す火が、増えた。きれいな夜だった。きれいで、心細い夜だった。柱のあった頃は、少なくとも、どこに何があるかは、はっきりしていた。
「妹と、やったか」
燼が言った。
「……聞いてたの」
「砦は、土の中だ。声は、根を伝う」
燼は、火に、枝を足した。
「あいつの言い分が、正しい」
「分かってる」
「分かってて、できんのも、分かってる」
燼の声に、棘はなかった。
「お前は、昔からそうだ。獲物の大きいほうを、おれが寄越すと、怒った。施しは要らんと。そのくせ、自分は、妹に、施し続ける。世界で一人だけ、施していい相手だと、思ってる」
図星は、黙って、聞くしかなかった。
火が、爆ぜた。
「……ねえ。枯れ野の罠、なんで、結び直さないの」
ずっと、訊けなかったことを、夜と火が、訊かせた。
燼は、すぐには、答えなかった。枝の先で、熾を、ゆっくり、ならした。
「資格の話だ」
やがて、言った。
「あの罠は、灰郷の燼の罠だ。鈴と獲物を分けてた男の。……おれは、半年前、お前を売った。半分戻ったが、半分だ。獲物を分け合う資格から、戻るには、半分じゃ、足りん。だから、結ばん。結べる男に戻ったら、結ぶ」
「戻る気は、あるんだ」
「さあな」
燼は、火を見たままだった。
「戻りたい夜と、灯を折りたい夜が、交互に来る。今夜は——」
言いかけて、やめた。やめて、立ち上がった。交代の刻限には、まだ早かった。
「冷える。降りろ。……縹が、案じる」
その名の出し方に、何かが、畳んであった。畳んだまま、燼は、夜番の岩へ、戻っていった。鈴は、梯子を降りながら、頬が、火の熱の残りで、まだ、温かいことに、気づいた。気づいて、夜気で、冷ました。
◆
寝床の区画に戻ると、小夜が、起きて、待っていた。
板きれを、膝に置いて。鈴が座るのを待って、妹は、それを、黙って、差し出した。
木炭の字で、唄の文句が、一行。
おまえの名は、おまえの胸に。
「……北の、ばば様が、覚えてた」
小夜は、言った。まだ少し、硬い声で。
「ねむれ、ねむれ、の次。母さんの唄の、続き。夜の子、って覚えてたのは、あたしの覚え違いだった。ほんとは、火の子、なんだって。……でも、ばば様も、そこまでしか知らない。そこから先は、もっと、北の唄なんだって」
おまえの名は、おまえの胸に。
鈴は、その一行を、声に出さずに、読んだ。読んで、妹の顔を見た。叱られた目のまま、それでも、引かない目が、そこにあった。自分の足で、唄の続きを、一句、取り戻してきた目が。
「……あんたが、見つけたんだ」
「あたしが、見つけた」
「次の続きも」
鈴は、言葉を、ひとつずつ、選んだ。選ぶのに、力が、要った。
「……あんたが、見つけて。あたしは、訊かれたら、答える。それだけにする。できるだけ」
「できるだけ?」
「できるだけ」
小夜は、ふ、と息を漏らした。笑ったのだった。
「鈴姉の、できるだけって、あてにならないんだよね」
「うん」
「でも、いい。今日は、それで、いい」
妹は、板きれを、宝物の箱(といっても、欠けた木箱だが)に、しまった。しまってから、囲炉裏の熾に、手をかざした。熾の赤の中に、ほんの一瞬、藍が、よぎった。小夜は、もう、隠さなかった。鈴も、もう、見ないふりを、しなかった。
姉妹は、同じ火を、黙って、見ていた。
同じ根から、分かれた火を。
姉と、妹。同じ母から、生まれた、ふたつの移ろい火。鈴の火は、人を名づける力に、なった。小夜の火は、まだ、囲炉裏の熾に、藍を、よぎらせるだけ。けれど、いつか、この子の火も、何かに、なるのだろう。鈴が、半年前、自分の火を、武器に変えたように。それが、いつで、どんな形か、鈴には、分からなかった。分からないまま、姉妹は、同じ火を、見ていた。守りたい、と思った。この子の火が、何になるとしても、この子が、自分で、選べるように。鈴の代わりではなく。鈴の妹としてでもなく。小夜という、ひとりの火として。それが、できるだろうか。十六年、できなかったことが。
土の天井の向こうは、もう、春に向かう空のはずだった。春になれば、海峡の氷が解け、北の船は、米だけでなく、別のものを、積んでくる。誰もが、それを知っていて、誰も、今夜は、口にしなかった。唄の一句と、藍のひと揺らぎだけが、今夜の、収穫だった。それで、足りた。




