第5話 数え手
汐音が、攫われた。
報せは、買い取りの浜から、五日後に来た。灯し派の救援所が、夜のうちに、空になった。書く列に並ぶ村人へ、粥を配っていた小屋だ。争った跡は、ほとんど、なかった。雪の上に、引きずった筋が、浜まで、一本。汐音と、若い衆が、四人。粥の鍋だけが、火にかかったまま、煮詰まっていた。
「殺しに来たんじゃない」燼が、雪の筋を見て、言った。「殺すなら、小屋でやってる。連れてったってことは——」
「数えに、連れてった」
鈴の口から、その言い方が、勝手に、出た。
翌朝、入り江に、一艘だけ、船が戻ってきた。白旗を掲げ、浜に小さな箱を置いて、何も言わずに、引いていった。
箱の中身は、書状が、一通。
雪のように白い紙に、墨の字が、整っていた。整いすぎて、彫り物のようだった。
灯都の州、灰郷の、鈴どの。
明朝、入り江の沖にて、お目にかかりたい。
機織りの汐音どのほか四名、当方にて、健やかにお預かりしている。
数えるものが、ござる。
——数え手
鈴は、その宛名を、二度、読んだ。
名灯し様、と書かれていなかった。鈴どの、と書かれていた。郷の誰もが様をつけて呼ぶ名を、敵だけが、ただの名で、呼んできた。それが、招待状のどの文句より、長く、胸に、残った。
◆
「行くな」燼は言った。「人質ごと、お前を獲る気だ」
「獲る気なら、書状は要らない」鈴は言った。「あっちは、書くのが、礼儀の国なんだよ。……それに、汐音たちを、置いておけない」
「なら、おれが行く」
「宛名が、違う」
燼は、舌打ちをした。半年前なら、力ずくでも止めた男が、舌打ちで、止まった。それが、半年の変化なのか、別の何かなのか、考える余裕は、なかった。
縹は、止めなかった。
「私も行く」それだけ、言った。「目は、見えん。だが、耳は、ある。あの船の上で、お前が聞き落とすものを、私が、聞く」
凪は、連れて行かないことにした。少年は、食い下がった。札の読み方なら、誰より分かると。鈴は、首を、横に振った。数え手の前に、逃げた蔵書を、戻すわけにはいかなかった。
出がけに、小夜が、見送りに出た。
「鈴姉」妹は、努めて、軽い声を作った。「あたしの名前、売らないでね」
「売らない」
「冗談だよ」
「あたしは、冗談で言ってない」
小夜は、笑った。笑って、鈴の袖を、一度だけ、握って、放した。熱のあった頃、薬湯を飲む前に、いつもそうしたように。
明け方の海は、鉛の色をしていた。
迎えの小舟が、浜に着いた。漕ぎ手は、ふたり。どちらも、胸に錫の札を下げ、丁寧に、頭を下げた。鈴と縹は、舟に乗った。陸では、燼が、浜の岩場に、弓衆を伏せている。届かない距離だと、双方が知っていて、双方が、知らないふりをする。それが、談判の作法らしかった。
沖へ漕ぎ出すほどに、本船は、大きくなった。
近づくと、それは、戦の船には、見えなかった。舳先に、矢狭間はなく、代わりに、丸い窓が、いくつも、並んでいた。書院の窓だ、と縹が、櫓の軋みを聞きながら、言った。「あの船は、戦をしに来てるんじゃない。記録をしに来てる。……いちばん、性質の悪い軍だ」。波が、舟の縁を、叩いた。鈴は、空の狩り袋を、膝の上で、握り直した。談判に、武器は、持っていけない。持っていけるのは、空の袋と、読めない目の男と、自分の声だけだった。
沖の本船は、米船というより、御殿だった。
黒く塗られた船体に、白い帆。帆に、紋がひとつ。算木を組んだ形の、見たことのない紋だった。
◆
「ようこそ、ようこそ。ようこそ」
甲板に上がるなり、声が、降ってきた。
三度、言った。よく通る、艶のある声だった。船楼の前に、卓が出され、その向こうに、男が、立っていた。
細身で、背が高い。年の頃は、四十か、五十か。墨色の衣に、白い襟。顔立ちは、整っているというより、削ぎ落とされていた。余分な線が、一本もない。なのに、笑っていた。目元も、口元も、惜しみなく。
「灰郷の鈴どの。お会いしたかった。実に、実に、お会いしたかった。私は、北の州の斎主を務める者。人は、数え手と呼ぶ。累と、お呼びくだされ」
累は、深々と、頭を下げた。
下げられて、鈴は、面食らった。半年前の白い人は、頭を下げる必要のない静けさで、立っていた。この男は、よく動き、よく喋り、よく、頭を下げた。敵の形を、していなかった。それが、たぶん、いちばん、敵だった。
「汐音たちは」
「健やかに。約束ゆえ」累は、手を、軽く叩いた。船楼の格子の奥に、人影が、見えた。汐音だった。猿轡も、縄もない。ただ、格子の中にいた。目が合うと、汐音は、首を、小さく横に振った。取引するな、という首だった。
「さて。お掛けくだされ。……おお、その前に」
累の目が、鈴の隣の、縹で、止まった。
「久遠の縹どの。灰どのの、一の弟子。お噂は、かねがね。目を、結界に。なんと、美しい使い方をなさる。私なら、決して、そうは使わん。だからこそ、美しい」
縹は、答えなかった。累は、答えを、待ってもいなかった。
甲板は、軍船と思えないほど、清潔だった。
板の継ぎ目に、汚れひとつ、なかった。毎朝、磨いているのだろう。蔵書を、湿気から、守るために。人を斬る船ではなく、紙を守る船だった。鈴は、灰の白い間を、思い出した。あそこも、清潔だった。塵ひとつ、なかった。支配の場所は、いつも、清潔だ。汚れは、生活の証だ。汗や、煤や、こぼした汁。生きている場所には、汚れがある。支配する者は、その汚れを、嫌う。数えられないものを、嫌うように。累の船の、磨かれた甲板は、この男が、生活というものを、どれだけ、遠ざけて生きてきたかを、語っていた。
血の匂いも、汗の匂いもない。墨と、紙と、上等の茶の匂い。船倉に続く格子戸の奥に、棚が、見えた。帳面が、何百冊と、背を揃えて並んでいる。船ごと、蔵だった。動く書院だった。この男は、戦に、書庫を持ってくる。
棚の帳面は、背の高さで、揃えてあった。一冊ずつ、布の表紙がかけられ、背に、小さな札が、貼られている。州の名。村の名。年の数。何百という名前が、あの布の下で、眠っている。整然と。静かに。墓地のようだ、と鈴は思った。よく手入れされた、文字の墓地。けれど、墓地と違うのは、ここの死者は、まだ、生きていることだった。生きていて、海の向こうで、自分の名が、この棚に納まっていることを、知らない。
卓の上に、帳面が、一冊、置かれていた。
その傍らに、もうひとり、いた。
鈴は、最初、置物かと思った。それほど、静かだった。卓の脇の床几に、少女が、ひとり、座っている。十五か、十六か。琥珀色の小袖。結い上げない髪。膝の上に、揃えた手。その手首から、肘へ、肩へ。細い、銀色の糸が、何本も、絡んで、甲板を這い、海へ、沈んでいた。
糸は、海の底を、北へ、伸びている。
鈴の右手の布の下で、五本の糸が、ひそかに、共鳴るように、疼いた。
要石だ。
この子は、北の州の、要石だ。船で、海を渡って、連れて来られて、それでも糸は、故郷の灯に、繋がったまま。
「ああ、これは」累が、鈴の視線に気づいて、嬉しそうに言った。「私の、いちばん静かな蔵書。連れ歩くのは、酔狂と思われましょうが、この子の傍では、火が、正直になる。あなたのような方と会うときは、特に、ね」
少女は、何も言わなかった。
まばたきだけが、生きていた。その目が、一度だけ、鈴を見た。見て、ほんのわずかに、首が、かしいだ。それだけだった。それだけの動きが、鈴の中の、いちばん深いところを、測った気がした。
累は、ふと、思い出したように、傍らの少女へ、湯呑みを、差し出した。
「冷える。お飲みなさい」
少女は、両手で、受け取った。飲んだ。その仕草を、累は、目を細めて、見ていた。慈しみに、見えなくもなかった。書見台の上の頁を、破れないように、めくる手つきと、同じでなければ。
累の指が、懐から、小さな紙片を出した。折りたたんだ、一枚の写し。男はそれを、話しながら、無意識のように、指の腹で、撫でた。可愛がるように。頁を、撫でるように。
◆
「単刀直入に、参ろう」
累は、卓の帳面を、開いた。
「私は、あなたの仕事の、敬慕者でござる。鈴どの。あなたは、たいへんなことを、なさった。大灯が、名を喰わずに灯る。あれを見た夜、私は、生まれて初めて、徹夜で、算盤を弾いた」
「……算盤」
「左様。皆が、奇跡と言った。私は、数えた」累の目が、細くなった。笑みの形のまま。「灯る火は、なぜ灯るか。名を、呼ぶ者がいるからだ。呼ばれた名は、火を、保つ。では、よく呼ばれた名と、呼ばれぬ名と、火の太さは、同じか?」
答えを、待たなかった。
「同じでは、なかった。数えたのだ、私は。呼ばれた回数と、火の出力を。一年、かけて。……灰どのは、偉大なお方だった。だが、ひとつだけ、読み違えた。あの方は、火の価値を、色で計った。移ろい火だの、鈍色だの。——違うのだ。火の価値は、色ではない。誰に、何度、呼ばれたかだ」
甲板の風が、止まった気がした。
「母に呼ばれた名は、よく燃える。子に呼ばれた名は、もっと燃える。恋しい者に、夜ごと呼ばれた名は——」累は、うっとりと、目を閉じた。「最上でござるよ。よく愛された名は、よく燃える。私の州の灯は、いま、八洲でいちばん、明るい。なぜか。私が、よく呼ばれた名から、順に、焚べているからだ」
「……呼ばれなくなった名は」鈴は、訊いた。訊かずに、いられなかった。「どうなるの。あんたの帳面で」
「よくぞ、訊いてくだされた」累は、ほんとうに、嬉しそうだった。「呼ばれなくなった名は、火が、細る。細った名は、帳面の、後ろの頁へ、繰っていく。いちばん後ろまで行った名は——」男は、指先で、帳面の角を、軽く、払った。埃を払う手つきだった。「掃除を、いたす」
「掃除……」
「呼ぶ者の、いなくなった名でござる。誰も呼ばぬ名は、もう、火を、保たぬ。保たぬ名を、帳面に残すのは、棚の、無駄。……いずれ、消える名だ。私が、少し、早めて、差し上げるだけ。一寸の、慈悲でござるよ」累は、湯呑みを、傾けた。「人は、二度、死ぬ。一度は、息が止まったとき。二度目は、最後に名を呼んだ者が、その名を、忘れたとき。……私は、二度目の死を、帳面で、見届けておるだけ。看取り、と言うてもよい」
看取り。鈴は、その言葉の、ぞっとする正しさに、声を、失くした。この男は、嘘を、ついていない。呼ぶ者のいなくなった名は、確かに、いつか、消える。それを、早めて、薪にする。慈悲だ、看取りだ、と言いながら。正しさの皮を被った刃ほど、抜き身の刃より、ずっと、深く、刺さった。
掃除。
人ひとりの名の終わりが、その二文字で、済まされた。声を荒らげもせず、隠しもせず、帳面の手入れの話として。
鈴の喉の奥が、冷えた。
買い取りの帳面。名前と、呼び名と、誰に何と呼ばれているか。あれは、戸籍ではなかった。火の太さの、番付だった。よく愛された者から、順に、選び出すための。
「あなたたちの帳面は」声が、掠れた。「燃やす順番を、決めるための——」
「人聞きの悪い」累は、心外そうに、眉を上げた。「順番を、正しくするための、でござるよ。薪は、要る。結界は、火を欲しがる。それは、あなたの州とて、同じはず。……ならば、せめて、いちばんよく燃える名を、少なく焚べるのが、慈悲というもの。灰どのの言い草を、借りるならば、ね。百の薄い名より、一の濃い名。数は、減る。減るのですよ、鈴どの。私のやり方なら、焚べる数そのものは、灰どのの頃より——減る」
「では、訊くが」鈴は、声を、絞り出した。「あんたの州で、いちばんよく呼ばれてた名前は、もう、燃やしたの」
累の笑みが、ほんの少し、深くなった。褒められた子どものような、深まり方だった。
「賢い問いだ。……燃やした。三年前に。私の、母の名でござる」
風が、止まった。
「母は、村じゅうに、好かれておった。世話焼きでね。誰の子の名も、覚えておった。よく呼ばれる名だった。いちばん、よく燃えた。……三日、州じゅうの灯が、明るかったですよ。三日ぶんの結界が、あの一名で、保たれた」累は、誇らしげですらあった。「私が、薪に、私情を挟まぬ証でござる。母を焚べられる者が、他人を惜しむと思われますか。——思われては、困る」
鈴は、言葉を、失くした。灰は、移ろい火を、要石にした。けれど、灰は、人を、惜しんではいた。惜しんで、必要だから、使った。この男は、惜しむ、という心の部品を、どこかで、外していた。外して、その空いた場所に、母の名前を、いちばん上等の薪として、焚べていた。
理屈が、立っていた。
立っていることが、おそろしかった。
◆
「ときに」
累は、話を、畳むように、手を、ひとつ打った。
「妹御は、息災かな」
鈴の背筋が、立った。
「小夜どの。十五。移ろい火の兆し、月のうちに、四度。火の色は、藍より入って、移ろう。……ああ、警戒なさるな。耳獏は、よい仕事をする。それだけのこと」
累は、懐の、あの紙片を、撫でた。
「よい声で、ござったよ」
「……何が」
「あなたの声だ。鈴どの」累は、目を細めた。「妹御を、呼ぶ声。小夜、と。囲炉裏の端で。汁の鍋ごしに。熱の夜に。耳獏が持ち帰った巻物の中で、あれが、私は、いちばん好きでね。私の蔵で、いちばん、よく聴く一巻でござる」
縹が、半歩、前に出た。見えない目が、正確に、累の声の出どころを、向いていた。
「録ったのか」縹の声は、低かった。「人の家の、呼び声を」
「録らせて、いただいた」累は、悪びれなかった。「美しいものは、写しを取る。書も、画も、声も。それが、文明というものでござろう?……さて、鈴どの。取引を、申し上げる」
帳面が、鈴のほうへ、回された。
開かれた頁は、白紙だった。いちばん上に、一行だけ、書く場所が、空けてある。
「妹御の名を、ここへ。あなたの手で。さすれば、汐音どのら五名、お返しする。米も、つける。この冬、あなたの州が飢えぬだけ。私は、約束は、違えぬ。帳面の男ゆえ」
「断る」
「即答」累は、嬉しそうに、頷いた。「実に、よい。迷えば、軽い。即答は、重い。……重い名は、よく燃える」
ぞ、と来た。
この男との問答は、ぜんぶ、計られている。怒りも、拒絶も、即答も。天秤の上で、重さを、量られている。鈴は、初めて、灰の沈黙が、懐かしいとさえ、思った。あの白い人は、せめて、人を、量らなかった。必要だけを、量っていた。
「汐音たちを、返して」鈴は言った。「取引じゃなく」
「取引でなくば、何で?」
「あんたが、いま言った。美しいものは、写しを取るって。……なら、覚えておいて。あたしの州では、人を、預からない。あんたの州の子が流れてきたら、うちは、粥を出して、名のりを聞くだけ。写しも、取らずに。——それが、こっちの、文明だから」
累は、しばらく、鈴を見ていた。
笑みの形は、変わらなかった。ただ、その奥で、算盤が、いくつも、弾かれた気配だけが、した。
「……ますます、欲しくなる」
男は、ひとりごとのように言って、立ち上がった。談判は、終わりだった。
「汐音どのらは、預かったまま、と申し上げたいが、一名だけ、お返ししよう。誠意の、頭金でござる。残る四名の値は、また、改めて。……鈴どの。これは、戦でござるよ。私は、矢を使わぬだけで」
格子が開いて、汐音が、甲板に出された。よろめく彼女を、鈴が、受け止めた。汐音の首には、新しい錫の札が、下がっていた。汐音は、それを、自分で、引きちぎった。ちぎって、海へ、投げた。累は、それを、にこやかに、見ていた。
「では、ご機嫌よう。鈴どの」
小舟へ降りる鈴の背に、声が、降ってきた。
「——また、数えに参ります」
◆
帰りの舟で、汐音は、ずっと、自分の首を、擦っていた。
札のあった場所を。ちぎって捨てても、紐の感触が、消えないらしかった。
「あの娘」ぽつりと、汐音が言った。「糸の娘。……あたしらが格子に入れられてる間、一度だけ、こっちを見た。見て、何にも、しなかった。できないんだろうね。でも、あの目は——」
汐音は、言葉を、探した。
「謝ってた。ずっと。目だけで」
鈴は、鉛色の海を、見た。海の底を、北へ伸びていく、銀の糸の束を、思った。あの子の糸と、自分の右手の糸と、何が、違うのか。本数か。年数か。それとも、もう、何も。
「ひとつ、分かったことがある」鈴は、汐音に、言った。「あの男は、あたしを、灰と同じだと思ってる。座に縛れる女だと。……でも、違う。灰は、あたしを、奪おうとした。あの男は、あたしを、育てようとしてる。灯せ灯せって、応援してくる。そっちのほうが、ずっと、こわい」
「育てる?」汐音が、眉を寄せた。
「果樹園の、木みたいに」鈴は、自分の右手を、見た。「実るのを、待ってる。あたしが、あたしらしく在るほど、向こうの収穫が、太る。……あたしが、いちばん、あたしでいたいときに、いちばん、向こうの思う壺になる。そういう罠なんだ。たぶん」
汐音は、答えなかった。鉛色の海を、ふたりで、見た。海の底で、糸が、北へ、伸びていた。
縹が、隣で、静かに言った。
「あの男の声は、嘘をついていなかった」
「……うん」
「一度もだ。最初から、最後まで。あれだけ喋って、一度も」縹の見えない目が、波を向いていた。「灰どのも、嘘は、つかなかった。だが、あの方の正直は、刃だった。あの男の正直は、帳簿だ。刃なら、避けようがある。帳簿は、ただ、合っていく」
浜が、近づいてきた。
岩場の燼の姿が、見えた。弓を下ろし、こちらを数えている。戻る頭数を。鈴は、ふと、思った。敵も、味方も、みんな、何かを数えている。米を。矢を。頭数を。呼ばれた回数を。
数えないものだけが、まだ、鈴の手の中に、残っている。
それが、何なのか、まだ、名前は、つかなかった。数えられないもの。帳面に、載らないもの。秤に、乗らないもの。累の、いちばん、苦手なもの。累は、母の名すら、薪にできる男だった。惜しむ、という心の部品を、外した男。その男に、唯一、数えられないものが、あるとすれば。鈴は、鉛色の海を、見ながら、考えた。考えても、輪郭は、見えなかった。けれど、それが、勝ち筋だという予感だけは、あった。あの男が、数えられないもの。それを、見つけて、育てれば。米でも、矢でもない、三つ目の手は、たぶん、その先に、ある。
それが何なのか、名前は、まだ、つかなかった。




