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最下層の「鈍色」と蔑まれた少女、たったひとつの『言葉』で理不尽な帝国システムをぶっ壊す  作者: 星村 流星
第二部

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第5話 数え手

汐音(しおね)が、(さら)われた。


報せは、買い取りの浜から、五日後に来た。灯し派の救援所が、夜のうちに、空になった。書く列に並ぶ村人へ、粥を配っていた小屋だ。争った跡は、ほとんど、なかった。雪の上に、引きずった筋が、浜まで、一本。汐音(しおね)と、若い衆が、四人。粥の鍋だけが、火にかかったまま、煮詰まっていた。


「殺しに来たんじゃない」(じん)が、雪の筋を見て、言った。「殺すなら、小屋でやってる。連れてったってことは——」


「数えに、連れてった」


(すず)の口から、その言い方が、勝手に、出た。


翌朝、入り江に、一艘(いっそう)だけ、船が戻ってきた。白旗を掲げ、浜に小さな箱を置いて、何も言わずに、引いていった。


箱の中身は、書状が、一通。


雪のように白い紙に、墨の字が、整っていた。整いすぎて、彫り物のようだった。


灯都の州、灰郷(はいごう)の、(すず)どの。

明朝、入り江の沖にて、お目にかかりたい。

機織りの汐音(しおね)どのほか四名、当方にて、健やかにお預かりしている。

数えるものが、ござる。


——数え手


(すず)は、その宛名を、二度、読んだ。


名灯(なとも)し様、と書かれていなかった。(すず)どの、と書かれていた。郷の誰もが様をつけて呼ぶ名を、敵だけが、ただの名で、呼んできた。それが、招待状のどの文句より、長く、胸に、残った。



「行くな」(じん)は言った。「人質ごと、お前を獲る気だ」


「獲る気なら、書状は要らない」(すず)は言った。「あっちは、書くのが、礼儀の国なんだよ。……それに、汐音(しおね)たちを、置いておけない」


「なら、おれが行く」


「宛名が、違う」


(じん)は、舌打ちをした。半年前なら、力ずくでも止めた男が、舌打ちで、止まった。それが、半年の変化なのか、別の何かなのか、考える余裕は、なかった。


(はなだ)は、止めなかった。


「私も行く」それだけ、言った。「目は、見えん。だが、耳は、ある。あの船の上で、お前が聞き落とすものを、私が、聞く」


(なぎ)は、連れて行かないことにした。少年は、食い下がった。札の読み方なら、誰より分かると。(すず)は、首を、横に振った。数え手の前に、逃げた蔵書を、戻すわけにはいかなかった。


出がけに、小夜(さよ)が、見送りに出た。


「鈴姉」妹は、努めて、軽い声を作った。「あたしの名前、売らないでね」


「売らない」


「冗談だよ」


「あたしは、冗談で言ってない」


小夜(さよ)は、笑った。笑って、(すず)の袖を、一度だけ、握って、放した。熱のあった頃、薬湯を飲む前に、いつもそうしたように。


明け方の海は、鉛の色をしていた。


迎えの小舟が、浜に着いた。漕ぎ手は、ふたり。どちらも、胸に(すず)の札を下げ、丁寧に、頭を下げた。(すず)(はなだ)は、舟に乗った。陸では、(じん)が、浜の岩場に、弓衆を伏せている。届かない距離だと、双方が知っていて、双方が、知らないふりをする。それが、談判の作法らしかった。


沖へ漕ぎ出すほどに、本船は、大きくなった。


近づくと、それは、戦の船には、見えなかった。舳先(へさき)に、矢狭間(やざま)はなく、代わりに、丸い窓が、いくつも、並んでいた。書院の窓だ、と(はなだ)が、櫓の軋みを聞きながら、言った。「あの船は、戦をしに来てるんじゃない。記録をしに来てる。……いちばん、性質の悪い軍だ」。波が、舟の縁を、叩いた。(すず)は、空の狩り袋を、膝の上で、握り直した。談判に、武器は、持っていけない。持っていけるのは、空の袋と、読めない目の男と、自分の声だけだった。


沖の本船は、米船というより、御殿だった。


黒く塗られた船体に、白い帆。帆に、紋がひとつ。算木(さんぎ)を組んだ形の、見たことのない紋だった。



「ようこそ、ようこそ。ようこそ」


甲板に上がるなり、声が、降ってきた。


三度、言った。よく通る、艶のある声だった。船楼の前に、卓が出され、その向こうに、男が、立っていた。


細身で、背が高い。年の頃は、四十か、五十か。墨色の衣に、白い襟。顔立ちは、整っているというより、削ぎ落とされていた。余分な線が、一本もない。なのに、笑っていた。目元も、口元も、惜しみなく。


灰郷(はいごう)(すず)どの。お会いしたかった。実に、実に、お会いしたかった。私は、北の州の斎主(さいしゅ)を務める者。人は、数え手と呼ぶ。(かさね)と、お呼びくだされ」


(かさね)は、深々と、頭を下げた。


下げられて、(すず)は、面食らった。半年前の白い人は、頭を下げる必要のない静けさで、立っていた。この男は、よく動き、よく喋り、よく、頭を下げた。敵の形を、していなかった。それが、たぶん、いちばん、敵だった。


汐音(しおね)たちは」


「健やかに。約束ゆえ」(かさね)は、手を、軽く叩いた。船楼の格子の奥に、人影が、見えた。汐音(しおね)だった。猿轡(さるぐつわ)も、縄もない。ただ、格子の中にいた。目が合うと、汐音(しおね)は、首を、小さく横に振った。取引するな、という首だった。


「さて。お掛けくだされ。……おお、その前に」


(かさね)の目が、(すず)の隣の、(はなだ)で、止まった。


久遠(くおん)(はなだ)どの。灰どのの、一の弟子。お噂は、かねがね。目を、結界に。なんと、美しい使い方をなさる。私なら、決して、そうは使わん。だからこそ、美しい」


(はなだ)は、答えなかった。(かさね)は、答えを、待ってもいなかった。


甲板は、軍船と思えないほど、清潔だった。


板の継ぎ目に、汚れひとつ、なかった。毎朝、磨いているのだろう。蔵書を、湿気から、守るために。人を斬る船ではなく、紙を守る船だった。(すず)は、灰の白い間を、思い出した。あそこも、清潔だった。塵ひとつ、なかった。支配の場所は、いつも、清潔だ。汚れは、生活の証だ。汗や、煤や、こぼした汁。生きている場所には、汚れがある。支配する者は、その汚れを、嫌う。数えられないものを、嫌うように。(かさね)の船の、磨かれた甲板は、この男が、生活というものを、どれだけ、遠ざけて生きてきたかを、語っていた。


血の匂いも、汗の匂いもない。墨と、紙と、上等の茶の匂い。船倉に続く格子戸の奥に、棚が、見えた。帳面が、何百冊と、背を揃えて並んでいる。船ごと、蔵だった。動く書院だった。この男は、戦に、書庫を持ってくる。


棚の帳面は、背の高さで、揃えてあった。一冊ずつ、布の表紙がかけられ、背に、小さな札が、貼られている。州の名。村の名。年の数。何百という名前が、あの布の下で、眠っている。整然と。静かに。墓地のようだ、と(すず)は思った。よく手入れされた、文字の墓地。けれど、墓地と違うのは、ここの死者は、まだ、生きていることだった。生きていて、海の向こうで、自分の名が、この棚に納まっていることを、知らない。


卓の上に、帳面が、一冊、置かれていた。


その傍らに、もうひとり、いた。


(すず)は、最初、置物かと思った。それほど、静かだった。卓の脇の床几(しょうぎ)に、少女が、ひとり、座っている。十五か、十六か。琥珀(こはく)色の小袖。結い上げない髪。膝の上に、揃えた手。その手首から、肘へ、肩へ。細い、銀色の糸が、何本も、絡んで、甲板を這い、海へ、沈んでいた。


糸は、海の底を、北へ、伸びている。


(すず)の右手の布の下で、五本の糸が、ひそかに、共鳴るように、疼いた。


要石(かなめいし)だ。


この子は、北の州の、要石(かなめいし)だ。船で、海を渡って、連れて来られて、それでも糸は、故郷の灯に、繋がったまま。


「ああ、これは」(かさね)が、(すず)の視線に気づいて、嬉しそうに言った。「私の、いちばん静かな蔵書。連れ歩くのは、酔狂と思われましょうが、この子の傍では、火が、正直になる。あなたのような方と会うときは、特に、ね」


少女は、何も言わなかった。


まばたきだけが、生きていた。その目が、一度だけ、(すず)を見た。見て、ほんのわずかに、首が、かしいだ。それだけだった。それだけの動きが、(すず)の中の、いちばん深いところを、測った気がした。


(かさね)は、ふと、思い出したように、傍らの少女へ、湯呑みを、差し出した。


「冷える。お飲みなさい」


少女は、両手で、受け取った。飲んだ。その仕草を、(かさね)は、目を細めて、見ていた。慈しみに、見えなくもなかった。書見台の上の頁を、破れないように、めくる手つきと、同じでなければ。


(かさね)の指が、懐から、小さな紙片を出した。折りたたんだ、一枚の写し。男はそれを、話しながら、無意識のように、指の腹で、撫でた。可愛がるように。頁を、撫でるように。



「単刀直入に、参ろう」


(かさね)は、卓の帳面を、開いた。


「私は、あなたの仕事の、敬慕者でござる。(すず)どの。あなたは、たいへんなことを、なさった。大灯(おおび)が、名を喰わずに灯る。あれを見た夜、私は、生まれて初めて、徹夜で、算盤(そろばん)を弾いた」


「……算盤(そろばん)


「左様。皆が、奇跡と言った。私は、数えた」(かさね)の目が、細くなった。笑みの形のまま。「灯る火は、なぜ灯るか。名を、呼ぶ者がいるからだ。呼ばれた名は、火を、保つ。では、よく呼ばれた名と、呼ばれぬ名と、火の太さは、同じか?」


答えを、待たなかった。


「同じでは、なかった。数えたのだ、私は。呼ばれた回数と、火の出力を。一年、かけて。……灰どのは、偉大なお方だった。だが、ひとつだけ、読み違えた。あの方は、火の価値を、色で計った。移ろい火(うつろいび)だの、鈍色(にびいろ)だの。——違うのだ。火の価値は、色ではない。誰に、何度、呼ばれたかだ」


甲板の風が、止まった気がした。


「母に呼ばれた名は、よく燃える。子に呼ばれた名は、もっと燃える。恋しい者に、夜ごと呼ばれた名は——」(かさね)は、うっとりと、目を閉じた。「最上でござるよ。よく愛された名は、よく燃える。私の州の灯は、いま、八洲(やしま)でいちばん、明るい。なぜか。私が、よく呼ばれた名から、順に、()べているからだ」


「……呼ばれなくなった名は」(すず)は、訊いた。訊かずに、いられなかった。「どうなるの。あんたの帳面で」


「よくぞ、訊いてくだされた」(かさね)は、ほんとうに、嬉しそうだった。「呼ばれなくなった名は、火が、細る。細った名は、帳面の、後ろの頁へ、繰っていく。いちばん後ろまで行った名は——」男は、指先で、帳面の角を、軽く、払った。埃を払う手つきだった。「掃除を、いたす」


「掃除……」


「呼ぶ者の、いなくなった名でござる。誰も呼ばぬ名は、もう、火を、保たぬ。保たぬ名を、帳面に残すのは、棚の、無駄。……いずれ、消える名だ。私が、少し、早めて、差し上げるだけ。一寸の、慈悲でござるよ」(かさね)は、湯呑みを、傾けた。「人は、二度、死ぬ。一度は、息が止まったとき。二度目は、最後に名を呼んだ者が、その名を、忘れたとき。……私は、二度目の死を、帳面で、見届けておるだけ。看取り、と言うてもよい」


看取り。(すず)は、その言葉の、ぞっとする正しさに、声を、失くした。この男は、嘘を、ついていない。呼ぶ者のいなくなった名は、確かに、いつか、消える。それを、早めて、(たきぎ)にする。慈悲だ、看取りだ、と言いながら。正しさの皮を被った刃ほど、抜き身の刃より、ずっと、深く、刺さった。


掃除。


人ひとりの名の終わりが、その二文字で、済まされた。声を荒らげもせず、隠しもせず、帳面の手入れの話として。


(すず)の喉の奥が、冷えた。


買い取りの帳面。名前と、呼び名と、誰に何と呼ばれているか。あれは、戸籍ではなかった。火の太さの、番付だった。よく愛された者から、順に、選び出すための。


「あなたたちの帳面は」声が、掠れた。「燃やす順番を、決めるための——」


「人聞きの悪い」(かさね)は、心外そうに、眉を上げた。「順番を、正しくするための、でござるよ。(たきぎ)は、要る。結界は、火を欲しがる。それは、あなたの州とて、同じはず。……ならば、せめて、いちばんよく燃える名を、少なく焚べるのが、慈悲というもの。灰どのの言い草を、借りるならば、ね。百の薄い名より、一の濃い名。数は、減る。減るのですよ、(すず)どの。私のやり方なら、焚べる数そのものは、灰どのの頃より——減る」


「では、訊くが」(すず)は、声を、絞り出した。「あんたの州で、いちばんよく呼ばれてた名前は、もう、燃やしたの」


(かさね)の笑みが、ほんの少し、深くなった。褒められた子どものような、深まり方だった。


「賢い問いだ。……燃やした。三年前に。私の、母の名でござる」


風が、止まった。


「母は、村じゅうに、好かれておった。世話焼きでね。誰の子の名も、覚えておった。よく呼ばれる名だった。いちばん、よく燃えた。……三日、州じゅうの灯が、明るかったですよ。三日ぶんの結界が、あの一名で、保たれた」(かさね)は、誇らしげですらあった。「私が、(たきぎ)に、私情を挟まぬ証でござる。母を焚べられる者が、他人を惜しむと思われますか。——思われては、困る」


(すず)は、言葉を、失くした。灰は、移ろい火(うつろいび)を、要石(かなめいし)にした。けれど、灰は、人を、惜しんではいた。惜しんで、必要だから、使った。この男は、惜しむ、という心の部品を、どこかで、外していた。外して、その空いた場所に、母の名前を、いちばん上等の(たきぎ)として、焚べていた。


理屈が、立っていた。


立っていることが、おそろしかった。



「ときに」


(かさね)は、話を、畳むように、手を、ひとつ打った。


「妹御は、息災かな」


(すず)の背筋が、立った。


小夜(さよ)どの。十五。移ろい火(うつろいび)の兆し、月のうちに、四度。火の色は、藍より入って、移ろう。……ああ、警戒なさるな。耳獏(みみばく)は、よい仕事をする。それだけのこと」


(かさね)は、懐の、あの紙片を、撫でた。


「よい声で、ござったよ」


「……何が」


「あなたの声だ。(すず)どの」(かさね)は、目を細めた。「妹御を、呼ぶ声。小夜(さよ)、と。囲炉裏の端で。汁の鍋ごしに。熱の夜に。耳獏(みみばく)が持ち帰った巻物の中で、あれが、私は、いちばん好きでね。私の蔵で、いちばん、よく聴く一巻でござる」


(はなだ)が、半歩、前に出た。見えない目が、正確に、(かさね)の声の出どころを、向いていた。


「録ったのか」(はなだ)の声は、低かった。「人の家の、呼び声を」


「録らせて、いただいた」(かさね)は、悪びれなかった。「美しいものは、写しを取る。書も、画も、声も。それが、文明というものでござろう?……さて、(すず)どの。取引を、申し上げる」


帳面が、(すず)のほうへ、回された。


開かれた頁は、白紙だった。いちばん上に、一行だけ、書く場所が、空けてある。


「妹御の名を、ここへ。あなたの手で。さすれば、汐音(しおね)どのら五名、お返しする。米も、つける。この冬、あなたの州が飢えぬだけ。私は、約束は、違えぬ。帳面の男ゆえ」


「断る」


「即答」(かさね)は、嬉しそうに、頷いた。「実に、よい。迷えば、軽い。即答は、重い。……重い名は、よく燃える」


ぞ、と来た。


この男との問答は、ぜんぶ、計られている。怒りも、拒絶も、即答も。天秤の上で、重さを、量られている。(すず)は、初めて、灰の沈黙が、懐かしいとさえ、思った。あの白い人は、せめて、人を、量らなかった。必要だけを、量っていた。


汐音(しおね)たちを、返して」(すず)は言った。「取引じゃなく」


「取引でなくば、何で?」


「あんたが、いま言った。美しいものは、写しを取るって。……なら、覚えておいて。あたしの州では、人を、預からない。あんたの州の子が流れてきたら、うちは、粥を出して、名のりを聞くだけ。写しも、取らずに。——それが、こっちの、文明だから」


(かさね)は、しばらく、(すず)を見ていた。


笑みの形は、変わらなかった。ただ、その奥で、算盤(そろばん)が、いくつも、弾かれた気配だけが、した。


「……ますます、欲しくなる」


男は、ひとりごとのように言って、立ち上がった。談判は、終わりだった。


汐音(しおね)どのらは、預かったまま、と申し上げたいが、一名だけ、お返ししよう。誠意の、頭金でござる。残る四名の値は、また、改めて。……(すず)どの。これは、戦でござるよ。私は、矢を使わぬだけで」


格子が開いて、汐音(しおね)が、甲板に出された。よろめく彼女を、(すず)が、受け止めた。汐音(しおね)の首には、新しい(すず)の札が、下がっていた。汐音(しおね)は、それを、自分で、引きちぎった。ちぎって、海へ、投げた。(かさね)は、それを、にこやかに、見ていた。


「では、ご機嫌よう。(すず)どの」


小舟へ降りる(すず)の背に、声が、降ってきた。


「——また、数えに参ります」



帰りの舟で、汐音(しおね)は、ずっと、自分の首を、擦っていた。


札のあった場所を。ちぎって捨てても、紐の感触が、消えないらしかった。


「あの娘」ぽつりと、汐音(しおね)が言った。「糸の娘。……あたしらが格子に入れられてる間、一度だけ、こっちを見た。見て、何にも、しなかった。できないんだろうね。でも、あの目は——」


汐音(しおね)は、言葉を、探した。


「謝ってた。ずっと。目だけで」


(すず)は、鉛色の海を、見た。海の底を、北へ伸びていく、銀の糸の束を、思った。あの子の糸と、自分の右手の糸と、何が、違うのか。本数か。年数か。それとも、もう、何も。


「ひとつ、分かったことがある」(すず)は、汐音(しおね)に、言った。「あの男は、あたしを、灰と同じだと思ってる。座に縛れる女だと。……でも、違う。灰は、あたしを、奪おうとした。あの男は、あたしを、育てようとしてる。灯せ灯せって、応援してくる。そっちのほうが、ずっと、こわい」


「育てる?」汐音(しおね)が、眉を寄せた。


「果樹園の、木みたいに」(すず)は、自分の右手を、見た。「実るのを、待ってる。あたしが、あたしらしく在るほど、向こうの収穫が、太る。……あたしが、いちばん、あたしでいたいときに、いちばん、向こうの思う壺になる。そういう罠なんだ。たぶん」


汐音(しおね)は、答えなかった。鉛色の海を、ふたりで、見た。海の底で、糸が、北へ、伸びていた。


(はなだ)が、隣で、静かに言った。


「あの男の声は、嘘をついていなかった」


「……うん」


「一度もだ。最初から、最後まで。あれだけ喋って、一度も」(はなだ)の見えない目が、波を向いていた。「灰どのも、嘘は、つかなかった。だが、あの方の正直は、刃だった。あの男の正直は、帳簿だ。刃なら、避けようがある。帳簿は、ただ、合っていく」


浜が、近づいてきた。


岩場の(じん)の姿が、見えた。弓を下ろし、こちらを数えている。戻る頭数を。(すず)は、ふと、思った。敵も、味方も、みんな、何かを数えている。米を。矢を。頭数を。呼ばれた回数を。


数えないものだけが、まだ、(すず)の手の中に、残っている。


それが、何なのか、まだ、名前は、つかなかった。数えられないもの。帳面に、載らないもの。秤に、乗らないもの。(かさね)の、いちばん、苦手なもの。(かさね)は、母の名すら、(たきぎ)にできる男だった。惜しむ、という心の部品を、外した男。その男に、唯一、数えられないものが、あるとすれば。(すず)は、鉛色の海を、見ながら、考えた。考えても、輪郭は、見えなかった。けれど、それが、勝ち筋だという予感だけは、あった。あの男が、数えられないもの。それを、見つけて、育てれば。米でも、矢でもない、三つ目の手は、たぶん、その先に、ある。


それが何なのか、名前は、まだ、つかなかった。

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