第4話 買い取り
砦は、戦支度の音がするようになっていた。
鍛冶場の鎚の数が増え、矢柄を削る者が、廊下にまで座る。鈴はといえば、矢羽を裂く手伝いをしていた。誰にでもできる仕事を、わざわざ選んで。旗にならず、客にもならない置き場所は、いまのところ、そこにしか、見つからなかった。手を動かしていれば、頭を下げられる回数が、減る。それだけのことが、ありがたかった。
報せは、沿岸から、走って来た。
「船です」灯し派の若い衆が、隧道を転がるように降りてきた。「北の船が、入り江に。三艘。けど、兵じゃない。——米です。米を、積んでる」
評議の間が、静まった。
兵なら、分かる。半年、その支度をしてきた。米は、分からなかった。
米という言葉に、広間の何人かの、喉が、鳴った。砦の蔵も、底が見えはじめている。敵の積み荷に、腹が鳴る。それが、この冬の、ほんとうの戦況だった。
「武器より、性質が悪い」燼が、低く言った。「見て来い。いや——」目が、鈴へ動いた。「お前が見ろ。お前の目で。たぶん、これは、お前の戦だ」
◆
お前の戦だ、と燼は言った。
山道を下りながら、鈴は、その言い方を、反芻した。矢の戦なら、燼の戦だ。米の戦なら、誰の戦か。名前の戦なら——考えて、やめた。考えると、戦という言葉が、どんどん、囲炉裏や、井戸端の形に、なっていく。そういう場所で戦をする敵だということが、いちばん、嫌だった。
入り江の村は、薄い雪の下で、煙の数が少なかった。
冬の漁は、潮の悪化で、年々細っている。傷痕から滲むものは、枯れ野だけでなく、海も、ゆっくり、毒していた。浜に引き上げられた舟の半分は、もう何月も、海に出た形跡がなかった。
その浜に、北の船が、白い旗を立てて、停まっていた。
戦旗ではなかった。商いの旗だった。
浜には、長い卓が出され、米俵が、積まれていた。雪の中で、米俵というものが、どれだけ大きく見えるか。鈴は、初めて知った。山と見えた。村人の列が、その山の前に、できていた。
卓の向こうに、書き役が、三人。
筆を持ち、帳面を開き、にこやかに、村人を迎えている。鈴は、灯し派の汐音と、凪を連れて、列の横に立った。誰も、鈴たちを、止めなかった。北の者らは、礼儀正しく、こちらに会釈さえした。
書き役は、三人とも、若かった。
筆を持つ手が、白く、なめらかだった。畑も、櫓も、握ったことのない手だった。北の書院で、字と算盤だけを、習って育った手。その手が、いま、漁師たちの名前を、一人ずつ、写し取っている。優しい声で。丁寧な字で。憎める相手なら、まだ、よかった。三人は、憎めなかった。ただ、親切に、列を、捌いていた。悪人の顔を、していなかった。それが、この買い取りの、いちばん、おそろしいところだった。誰も、悪人ではない。書く者も、書かせる者も、書きに来る者も。皆、それぞれの、まっとうな理由で、ひとつの帳面を、太らせていた。
「次の方。お名前を」
「……佐吉」
「佐吉さん。よいお名前だ。お家で、何と呼ばれます?」
「さあ……さき、と。女房が」
「さき、さん」書き役は、嬉しそうに、筆を動かした。「お子は?お子は、何と?」
「とう、ちゃん……」
「結構」筆が、走る。「佐吉さん。妻に、さき。子に、とうちゃん。——はい、こちら、米一俵と、塩。冬のあいだ、月に一度、同じだけ。ようこそ、数え手さまの帳面へ」
列の途中に、書かない者も、いた。
腕を組んで、列の横に、突っ立っている年寄りがひとり。書きに来た隣人と、目を合わせない。合わせないことが、もう、責めだった。書いた者は、俯いて通り、書かない者は、腹を鳴らして立っている。半年前まで、同じ郷で、同じ椀から分け合った者たちが、米俵の山ひとつで、二つに、割れていた。
幼い子が、列を抜けて、米俵に、ぺた、と手のひらを当てた。母親が、慌てて、引き戻した。引き戻して、それから、自分も、俵に、手を当てた。確かめたのだ。本物かどうか。夢でないかどうか。
米俵が、男の背に、載せられた。
男は、深く、頭を下げた。書き役にではなかった。米にだった。それから、列の横の鈴に気づいて、ぎくりと、足を止めた。
米に、頭を下げる。その姿を、鈴は、責められなかった。半年前まで、灰郷の者も、配給の椀に、頭を下げていた。天理院の、施しの椀に。腹が減っていれば、人は、食わせてくれるものに、頭を下げる。それが、神でも、役所でも、敵でも。空腹は、頭を、低くする。北の累は、その理屈を、誰よりも、よく知っていた。だから、刃ではなく、米を、積んできた。刃を向ければ、人は、頭を上げて、戦う。米を差し出せば、人は、頭を下げて、名を書く。下げた頭は、書く手が、よく見えない。自分が、何に、署名しているのか。
「……名灯し様」
浜の列が、いっせいに、こちらを見た。
「おら、別に、名前を売っちゃいねえ」佐吉は、言い訳のように、早口になった。「書いただけだ。名前は、減ってねえ。ここに、ある」胸を、叩いた。「減ってねえんだ。けど……けど、名灯し様。名前じゃ、腹は、膨れねえんだ」
鈴は、答える言葉を、持っていなかった。
男の言うとおりだった。名前は、減っていない。彼は今夜、子に飯を食わせる。それの、どこを、責められる。
書き役の卓の端に、小さな鳥籠が、置いてあるのが、見えた。
籠の中に、鳥はいない。灰色の、毛の塊のようなものが、うずくまっている。耳獏だった。昼日中、堂々と、卓の上に。何かを録っている様子は、なかった。いる、というだけだった。いるというだけで、列の声が、自然と、行儀よくなる。見張られることに慣れた者たちは、見張りの形をしたものの前で、勝手に、正しくなる。半年前まで、この州の全員が、そうだったように。
凪が、鈴の袖を、引いた。
「あの帳面」少年の声が、震えていた。「同じです。おれの札と、同じ書き方。名前と、呼び名と。……あれ、ぜんぶ、写しが、北へ行きます。蔵に、入るんです。第七列の、隣の列に」
◆
列は、昼を過ぎても、絶えなかった。
書き終えた者が、村へ戻り、村から、まだ書いていない者を、連れてくる。米俵の山は、目に見えて、低くなり、低くなった分だけ、帳面が、厚くなった。取引は、静かで、滞りなく、丁寧だった。それが、見ていて、いちばん、つらかった。
「書かないで」
列の中ほどで、汐音が、声を上げた。
「あんたたち、それが何の帳面か、分かって書いてるの。北じゃ、その帳面で、人が、燃やされてる。この子の州じゃ——」凪を、示した。「灯改めが、まだ、あるんだよ。鏡も、薪も。その帳面は、そこへ、続いてる」
列が、ざわめいた。
ざわめいて、けれど、崩れなかった。
「ここは、灯改めのねえ州だ」誰かが言った。「書いたって、読まれやしねえ」
「米は、今夜の米だ」別の誰かが言った。「あんたの言うのは、いつかの話だろう」
汐音は、なお、言葉を継ごうとした。継ぐ言葉が、米俵の山の前で、ひとつずつ、軽くなっていくのが、鈴には、見えた。言葉は、正しかった。正しくて、軽かった。冬の浜では、正しさは、米より、軽い。
書き役のひとりが、にこやかなまま、言った。
「ご懸念は、ごもっとも。ですが、ご覧のとおり、当方は、何も、奪っておりません。お名前は、皆さまの胸に。私どもは、写しを、頂くだけ。——書くも書かぬも、ご自由に」
ご自由に。
その言葉が、鈴の喉の奥に、刺さった。半年前の天理院は、選ばせなかった。鏡が、色を読み、色が、運命を決めた。生まれた火の色で、人生が、振り分けられた。理不尽だった。理不尽だから、皆、怒れた。憎めた。戦えた。北のやり方は、違う。選ばせる。書くも、書かぬも、ご自由に。そう言って、冬の空腹に、選ばせる。選んだのは、あなた自身でしょう、という顔で。怒る先が、ない。憎む相手が、いない。皆、自分の意志で、自分の名を、差し出していく。理不尽より、たちが悪かった。理不尽は、敵が見える。親切は、敵が、見えない。
その言葉が、いちばん、効いていた。縛らない。奪わない。選ばせる。選ばせて、冬が、選ばせたい方を、選ばせる。半年前の天理院は、棒の灯で、人を引き立てた。北のやり方には、引き立てる手が、どこにも、なかった。差し出す手しか、なかった。
◆
「名灯し様」
浜の列が、いっせいに、こちらを見た。
「うちの孫を、灯してくだせえ。灯していただけりゃ、書かずに、済む。灯った名は、取られねえって、谷向こうの衆が」
来た、と鈴は思った。
ここでも、それが、来た。
列の中ほどに、書くのをやめて、こちらを見ている女がいた。
赤子を、背負っていた。書こうか、書くまいか、迷っている顔だった。鈴と目が合うと、女は、慌てて、列を、一歩、進んだ。書く側へ。書けば、今夜、乳の出が、よくなる。米を食えば。女の足は、そう言っていた。鈴には、その足を、止める権利が、なかった。止めて、代わりに、乳をやれるわけでは、ないのだから。
「名灯し様」
列の後ろから、老婆がひとり、進み出た。
「構わねえ。米より、確かなものが、欲しいんだ」老婆は、孫の手を、引き出した。六つほどの、女の子だった。「こいつの親は、潮で死んだ。あたしが死んだら、この子の名前を、覚えてるもんが、いなくなる。帳面にでも書いてもらうかと、思ってた。けど、あんたが灯してくれるなら——」
書くか、灯すか。
それが、浜の天秤だった。北の帳面か、鈴の言霊か。どちらも、同じ不安から、生えていた。名前が、消えることへの。独りで、忘れられることへの。
鈴は、女の子の前に、膝を折った。
「名前は」
「……汐里」
「汐里」
鈴は、呼んだ。本気で。形だけの加減を、この子の前では、する気になれなかった。祖母の言った「あたしが死んだら」が、加減を、許さなかった。
女の子の胸で、魂火が、ぽ、と明るんだ。浜の列から、ため息が、漏れた。何人かが、列を、離れた。離れて、鈴の後ろに、並び直した。米の列から、灯しの列へ。
右手の奥で、糸が、一本、殖えた。
布の下で、それが、傷痕の方角へ、すうと垂れて、ほかの四本に、寄り添うのが、鈴には、見えた。誰にも見えない。鈴にだけ、見える。灯された娘は、満ちた顔で、祖母の手を引いて、帰っていく。娘の火が明るんだ分だけ、鈴の手の糸が、一本、増えた。誰も、その釣り合いを、知らない。
五本目だった。
老婆は、何度も、頭を下げた。下げて、米俵の山を、一度だけ、振り返って、帰っていった。背中の曲がりが、行きより、深かった。確かなものは、手に入れた。今夜の米は、手に入らなかった。
鈴の後ろの列は、二十人ほどに、なっていた。
二十人を、鈴は、ひとりずつ、灯した。
漁師の老人。乳飲み子を抱いた母。潮で兄を亡くした少年。雪焼けした双子。名を聞き、その名を呼ぶ。ひとりずつ。ひとつずつ。名前には、ひとつずつ、暮らしが、ぶら下がっていた。この名を、北の帳面に渡したくない。その一心で、皆、鈴の前に、並んでいた。気持ちは、分かった。分かりすぎた。だから、断れなかった。
灯すたび、満ちた顔が、頭を下げて、帰っていく。満ちて、帰っていく。鈴だけが、ひとり灯すごとに、指の先から、冷えていった。
誰も、気づかない。
灯された者は、満ちる。灯した者から、何かが、出ていく。出ていったものを、返す者は、いない。返せるとも、思っていない。神棚に、お返しをする者は、いない。灯りは、もらうものだと、皆が、思っている。
途中、灯し終えた老婆が、もじもじと、袂を探った。
「名灯し様。お礼を……お礼を、何も」
「要りません」
「そういうわけには」老婆は、袂から、干した小魚を、二匹、出した。出して、その小ささに、自分で、赤くなった。「……こんなもんしか」
「もらいます」鈴は、受け取った。「上等です」
老婆は、ほっとした顔をして、それから、結局、深々と、拝んだ。返すものが足りないと思った人間は、最後は、拝む。拝みは、釣り銭の出ない、支払いだった。鈴は、小魚を、袋に入れた。空だった狩りの袋に、札と、小魚。今日の獲物は、それだけだった。
二十一人目を灯し終えたとき、米の列は、まだ、五十人、残っていた。
二十一人が、灯しの列。五十人が、米の列。その数の差が、現実だった。鈴の灯しは、確かなものを、くれる。けれど、今夜の腹は、満たさない。北の米は、今夜の腹を、満たす。けれど、いつか、名前を、奪う。確かだが、遠い恵みと、危ういが、近い恵み。冬の浜で、人は、近いほうを、選ぶ。五十対二十一。鈴は、その数を、責められなかった。自分が、もし、明日の食う米のない母親だったら。背中の子に、乳をやれない女だったら。きっと、米の列に、並ぶ。正しさは、腹がくちて、初めて、考えられる。空腹の前で、鈴の灯しは、いつも、半歩、遅れて、届いた。
◆
浜を離れる間際、鈴は、もう一度、米俵の山を、振り返った。
書き役たちは、片付けを始めていた。帳面を、布で包み、文箱に納める。その手つきの、丁寧なこと。名前の写しを、上等の品物のように、扱う。彼らにとっては、ほんとうに、上等の品物なのだった。あの文箱が、船に積まれ、海を渡り、北の蔵の、棚に納まる。佐吉の名も。さきの名も。とうちゃん、と呼ばれる子の名も。
鈴は、自分の右手を、見た。布の下で、新しい糸が、五本目を、巻き始めている。浜に、ふたつの帳面が、できていた。北の文箱と、鈴の右手と。どちらも、名前を、集めていた。集めて、どこかへ、運んでいた。
帰りの山道で、誰も、口をきかなかった。
「……ごめん」汐音が、先に言った。「あたしの言葉、一俵の米にも、勝てなかった」
「あたしの灯しも」鈴は言った。「五十人、並んだまま、帰ってきた」
「それでも、二十人、こっちへ来た」
「二十人、今夜の飯が、ない」
汐音は、しばらく歩いてから、別のことを、言った。
「ね。あんたの後ろに、並んだ列。あれ、米の列と、何が違ったんだろうね」
「……どういう意味」
「並ぶのは、同じだなって。米に並ぶか、あんたに並ぶか。どっちも、何かが、足りなくて並ぶ。足りないものを、誰かに、もらいに」汐音は、自分の言葉に、自分で、顔をしかめた。「ごめん。嫌な言い方だ。でも、浜で、ずっと、考えてた。あたしらの灯しが、もうひとつの帳面に、なってないかって」
汐音は、黙った。雪を踏む音だけが、続いた。凪が、後ろで、小さく言った。
「……北じゃ、もっと、並んでました。書く列。冬が来るたび、長くなった。誰も、悪くないんです。誰も、悪くないのに、帳面だけが、太っていくんです」
砦に戻ると、燼が、評議の間で、待っていた。
報告を、黙って聞いた。聞き終えて、ひとつだけ、訊いた。
「で。お前の灯しは、米に勝てるのか」
「……勝てなかった」
「だろうな」燼は、責めなかった。責めない声で、地図の、海峡の線を、指でなぞった。「言葉も灯しも、米に勝てん。米に勝てるのは、米だけだ。で、おれたちに、米はない。北は、それを、知ってて、米を寄越してる。矢の代わりに」
燼の指が、海峡の、北の岸で、止まった。
「矢で返すしか、ないと思わんか」
「思わない」
「だろうな」燼は、同じ言い方を、繰り返した。「お前はそう言う。なら、米でも矢でもない、三つ目の手を、探せ。早くだ。冬は、北の味方だ」
◆
その夜、鈴は、寝つけなかった。
右手をかざすと、糸は、五本と、二十一本の、細いのが、束になっていた。浜で灯した、ひとりぶんずつの糸。生まれたての、頼りない銀。それが、傷痕の方角へ、ゆるく、流れている。
眠れないまま、鈴は、浜の老婆の、小魚を、思った。
返すものが足りないと、人は、拝む。あの老婆だけではない。灯された者は、皆、鈴に、何かを返したがった。返せるものが、なかった。だから、拝んだ。拝みは、釣り銭の出ない支払いだった。けれど、と鈴は思う。北の買い取りは、釣り銭を、出す。米という、はっきりした釣り銭を。名前を渡せば、米が来る。割り切れる。鈴の灯しは、割り切れない。灯された者は、満ちて、何も返せず、ただ、頭を下げる。下げられるたび、鈴は、ひとつずつ、神様に近づく。なりたくない神様に。
灯した数だけ、糸は殖える。
殖えた糸が、何に、繋がっていくのか。鈴は、まだ、知らない。知らないまま、明日も、誰かを、灯すのだろう。断れないから。目の前の一人が、目の前にいる限り。
筵の向こうで、小夜の寝息が、聞こえた。
その寝息に、紛れるように、小さな、唄の切れ端が、混じった。寝言だった。ねむれ、ねむれ。そこから先は、寝息に、溶けた。
妹は、夢の中でも、唄の続きを、探している。
米でも、矢でもない、三つ目の手。
それが、どんな形をしているのか、まだ、影も、見えなかった。けれど、ひとつだけ、分かっていた。それは、灯すことでは、ない。灯せば、糸が殖える。鈴が、ひとり、神様になっていく。米でも矢でもない手は、きっと、鈴ひとりの手では、ない。たくさんの手が、要る。たくさんの口が、たくさんの名前を、覚え合う、そういう形。浜の灯しの列を、思い返す。あれは、鈴の後ろに、並んだ。鈴のほうを、向いていた。違う。並ぶんじゃない。輪に、ならなきゃ。互いの顔を、見る輪に。考えの尻尾が、そこまで来て、また、闇に、紛れた。
燼の宿題を、闇の中で、転がした。米はない。矢は使いたくない。灯しは、もうひとつの帳面になりかける。なら、何が残る。並ばなくても、いいようにすること。足りないものを、誰かにもらいに行かなくても、いいように。……それは、どうやる。答えは、出なかった。出なかったが、問いの形だけは、覚えておくことにした。狩りでは、獲物の姿より先に、足跡の形を、覚える。
鈴は、目を閉じた。米の山と、灯しの列と、五十人の背中とが、まぶたの裏で、いつまでも、並んでいた。




