表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
最下層の「鈍色」と蔑まれた少女、たったひとつの『言葉』で理不尽な帝国システムをぶっ壊す  作者: 星村 流星
第二部

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
15/19

第2話 札

罠に、この冬初めての獲物がかかった日、それは兎ではなかった。


人だった。


枯れ野(かれの)の北の縁、毒の虹のにじみのきわで、少年がひとり、銅線の輪に足を取られて、雪に倒れていた。十二か、十三か。見ない顔だ。着物は潮で固まり、唇は紫で、それでも、目だけが開いていた。(すず)の顔を見て、その目が、動いた。


「……名灯(なとも)し、さま」


こんな北の果ての子まで、その名を知っている。


(すず)は問いを呑んで、輪を外し、少年を背負った。軽かった。骨と、濡れた着物の重さしか、なかった。背中で少年が、うわごとのように、繰り返した。すみません、すみません、と。誰に向けてかも、分からない謝り方だった。


雪を渡って戻る道々、(すず)は気づいた。


少年の首に、札が、掛かっている。


番号の札ではなかった。青白い冷光も、ない。薄い(すず)の板に、墨色の文字が、沈むように刻まれている。冷たい光の代わりに、ただ、冷たい字。(すず)は歩きながら、それを読まないように、した。読まないようにして、結局、目の端で、読んでしまった。


いちばん下に、印がひとつ。


「数」の、一字だった。



囲炉裏の火で、少年は、ようやく人の色に戻った。


小夜(さよ)が、薄い粥を匙で運んでやっている。少年は、椀に頭を下げ、小夜(さよ)に頭を下げ、土間の隅の(はなだ)にまで頭を下げた。下げ慣れた頭だった。


少年は、囲炉裏の火に、手を、かざしていた。


凍えた手が、赤い(おき)に、ゆっくり、ほどけていく。半年前、(すず)も、こうやって、灯都(ひのみやこ)の地の底で、見知らぬ者の火に、手を、かざした。逃げてきた者は、皆、まず、火を、欲しがる。腹より先に、火を。寒さは、腹より、早く、人を、殺すからだ。(すず)は、少年の椀に、もう一杓、粥を、足した。薄い粥だった。それでも、温かかった。温かいものを、見知らぬ者に、差し出す。それだけのことが、半年前の灰郷(はいごう)には、なかった。皆、自分の椀を、抱えて、隠した。いまは、足せる。薄くても、足せる。その変化が、(すず)の、半年の、いちばん確かな手応えだった。


(なぎ)です」少年は名のった。「北の、海ぞいの州から」


「ひとりで?」


「船で。……流されて。三日……四日かも」


北の州。海峡の向こう。半年前まで、(すず)にとって他の州は、地平の向こうの噂でしかなかった。同じ八洲(やしま)の、同じ結界(けっかい)の内側。それだけ知っていれば、足りた。


「あっちは、どうなってるの」(すず)は訊いた。「灯改(ひあらた)めは」


「あります」(なぎ)は、即座に言った。あるのが当たり前のことを訊かれた、という即座さだった。「全部、あります。鏡も、(より)も、(たきぎ)も。……こっちは、ほんとに、ないんですか」


「ない。半年前から」


「じゃあ、ほんとなんだ」(なぎ)の目が、囲炉裏の火を見た。「名灯(なとも)し様が、大灯(おおび)を、名前を喰わない火に変えたって。北じゃ、子どもらが寝物語にしてます。海の向こうに、名前を取られない州があるって。……おれ、それで」


それで、冬の海峡を、流れてきた。十二の体ひとつで。


(すず)は、少年の首の札を、見た。


「それ、外していい?」


(なぎ)の手が、札を、押さえた。とっさの、体の動きだった。庇ったのだ。札を。自分を縛るものを。


「……外すと、罰が」言いかけて、(なぎ)は、自分の言葉に気づいた。ここには、罰する者がいない。それでも手は、札から、離れなかった。「癖で。すみません」


「見せてもらっても?」


(なぎ)は、札を紐ごと外して、両手で、差し出した。神棚の札でも扱うような手つきだった。


(すず)の板に、細かい字が、列になっていた。


(なぎ)

母に、なぎ。

姉に、なあ坊。

網元に、おい。

手間賃、月に塩二升。

——数え手の蔵、第七列。


札を外した(なぎ)の首には、紐の痕が、薄く残っていた。日に灼けていない、白い線。生まれてからずっと、そこに札があった印だった。


(すず)は、二度、読んだ。


番号ではなかった。名前だった。名前と、その名を呼ぶ者と、呼び方と。この子が、誰に、何と呼ばれて生きているか。それが全部、書き上げられて、最後に、持ち主の蔵の棚番号で、締められていた。


「これ、誰が書くの」


「お役所です。書院(しょいん)の。……書くと、米がもらえるんです。名前と、呼び名を、届け出ると。うちは姉ちゃんが病気で、米が要って、母ちゃんが、おれの分も届けて」(なぎ)は、そこで、少し、笑おうとした。「変でしょう。名前を書くだけで、米がもらえるなんて。皆、列を作って書きに行くんです」


囲炉裏の火が、()ぜた。


「書く日のこと、覚えてます」(なぎ)は、椀の底を見ながら言った。「役所の前に、列ができて。母ちゃんが、おれの手を引いて、並んで。書き役の人が、優しいんです。すごく。坊の名は、と訊いて、家で何と呼ばれてる、と訊いて。母ちゃんが、なぎ、って呼んでます、って言ったら、いい呼び名だ、って笑って。それを、そのまま、書くんです。母ちゃんの言った通りの、声の形のまま」


少年は、そこで、椀を置いた。


「書き終わったら、米を二升くれました。母ちゃん、帰り道で、泣いてました。米が嬉しくて泣いてるんだと、おれ、思ってました。……たぶん、違った」


少年は、しばらく、黙った。それから、思い出したことを、ひとつずつ、置くように、続けた。


「冬になると、列が、長くなるんです。海が荒れて、漁に出られない日が、増えるから。書く人が、増える。春の名簿は、冬の名簿より、いつも、厚いって、村の衆が言ってました。……氷見(ひみ)の岩ってのが、あって。湾の口の。あの岩の肩が、雪の下から出てくると、春が近い。腰まで出たら、海が、また使える。みんな、毎朝、あの岩を、見るんです。早く、肩を出せって。……岩が、いちばん、正直な暦でした」


氷見(ひみ)の岩。少年の声に、初めて、懐かしむ色が、混じった。憎む村ではないのだった。書いてしまう村だが、岩を見上げて春を待つ、ただの漁師の村でも、あった。


半年前までの札は、名前を消して、番号を灯した。これは、消さない。名前も、呼び名も、母の声の形まで、丁寧に、書き取ってある。大事に、大事に、記録してある。家畜の帳面が、毛並みの色まで書き留めるのと、同じ丁寧さで。


「数え手って、誰」


(すず)の声が、低くなったのが、自分でも分かった。


(なぎ)の肩が、跳ねた。少年は、囲炉裏の火を見て、戸口を見て、それから、声を落とした。その名を口にするとき、人がする、あの声の落とし方で。


「……北の、お斎主(さいしゅ)さまの、あだ名です。なんでも、数えるから。米も、人も、名前も。……おれの村じゃ、夜泣きする子に、言うんです。泣くと、数えに来るよって」



灰郷(はいごう)の朝は、(なぎ)には、珍しいことばかりだったらしい。


配給の列で、誰も札を下げていないこと。子らが、地面に、自分の名を、棒で書いて遊んでいること。井戸端で、年寄りが、名灯(なとも)し様、と(すず)を呼ぶこと。少年は、そのひとつひとつに、目を丸くした。「名前を、書いて、遊ぶ……」棒きれの字を、長いこと、見ていた。北では、名前は、役所が書くものだった。子どもが、土に、ただで書いていいものだとは、思っていなかったのだ。


その晩、(なぎ)は、熱を出した。


三日の海と雪が、いまごろ、追いついてきたのだ。小夜(さよ)が、額の手拭いを替え、白湯を含ませた。何年も、替えてもらう側だった手つきで、今度は、替える側に回って。(すず)は、その手際を、(かまち)から、黙って見ていた。


熱に浮かされる少年に、小夜(さよ)が、低く、歌った。


ねむれ、ねむれ、夜の子。

おまえの名は……


例の、途中で止まる唄だった。それでも、(なぎ)の息が、少しずつ、深くなっていく。眠りに落ちる間際、少年の唇が、動いた。


「……それ、知ってる」


「え?」


「ばあちゃんが……うちの。歌ってた。……つづき、あるんですよ、それ……」


そこで、寝息になった。小夜(さよ)が、(すず)を、振り向いた。姉妹は、何も言わなかった。北の果ての少年が、母の唄の続きを、知っている。その意味を測るには、夜が、遅すぎた。



(すず)


夜更け、土間の隅で、(はなだ)が、低く呼んだ。


(なぎ)は、小夜(さよ)の古い夜着にくるまって、眠っている。三日ぶりの屋根の下で、泥のように。その寝息を確かめてから、(はなだ)は言った。


「あの子の話、嘘はない。……ただ」


「ただ?」


「声が、変だ」(はなだ)の見えない目が、眠る少年のほうを、向いた。「嘘の変じゃない。怯えの変でもない。なんと言えばいいか——あの子の声は、自分の名前を言うとき、いちばん、薄くなる。(なぎ)です、と名のったとき。あそこだけ、声から、色が抜ける」


「色って」


「分からない」(はなだ)は、自分の言葉に、自分で、眉を寄せた。「読めない目に、なってから、ときどき、ある。声に、何かが、乗って聞こえる。気のせいだと、思ってきたが」


読めなくなった人が、聞こえはじめている。


(すず)は、その言葉を、胸の隅に、置いた。置いただけで、その夜は、それ以上、考えなかった。考える時間が、このあと、来なかったからだ。



異変は、翌々日の夜に、来た。


最初に気づいたのは、(すず)ではなかった。(はなだ)だった。夕餉(ゆうげ)の途中で、ふいに箸を置き、首を、戸口へ向けた。


「……静かすぎる」


雪の夜は、静かなものだ。けれど、言われてみれば、静かさの質が、違った。犬が、鳴いていない。郷じゅうの犬が、一匹も。


(すず)は、土間に降りて、戸の隙間から、外を見た。


雪の上に、足跡があった。人のものではない。猫より大きく、犬より低い。点々と、家々の軒下を縫って、続いている。足跡の主は、見えない。見えないが、(すず)は、その形を、知識として知っていた。読まれる世界の、住人として。


耳獏(みみばく)


盗み聞きの、霊獣。この州から、式神(しきがみ)と一緒に、消えたはずのもの。


小夜(さよ)(すず)は、振り向かずに言った。「火、落として」


「え?」


「囲炉裏。いますぐ。——(なぎ)、起きて。着物を着て」


声が、家の中の空気を、変えた。小夜(さよ)が灰をかけ、火が落ちる。その薄闇の中で、(すず)は、考えた。狩りの頭で。耳獏(みみばく)は、聞きに来る。何を。この家の、何を。(すず)の声か。違う。(すず)の居場所など、八洲(やしま)じゅうが知っている。名灯(なとも)し様は、隠れていない。聞く価値があるのは——この家でいちばん新しい、秘密。


七日に一度、囲炉裏の火に、藍がよぎること。


「……あたしだ」


小夜(さよ)が、言った。薄闇の中で。誰よりも先に、自分で、答えに着いていた。


「あたしの火を、聞きに来たんだ」



禍狩(まががり)は、夜明け前に、郷へ入った。


六人。(くろ)の装束。腰の棒に、青白い灯はない。代わりに、それぞれの胸に、(すず)の札が下がっていた。彼ら自身も、書き上げられた者たちだった。


郷境の道で、(すず)は、ひとりで、彼らの前に立った。


名灯(なとも)し様と、お見受けする」先頭の男は、丁寧だった。慇懃(いんぎん)といってもよかった。「われらは北の州の者。貴殿に用は、ない。引き渡されたい者が、ひとつ」


ひとつ。者が、ひとつ。


「妹御は、まだ灯改(ひあらた)め前の身。いずれの州の神名簿(しんみょうぼ)にも、属しておらん。なれば先に届け出た州に、記す権利がござる。当州は、三日前に、届け出を済ませた」


懐から、書付が出た。整った、美しい字だった。小夜(さよ)の名と、生年と、移ろい火(うつろいび)の兆候の記録。七日に一度、囲炉裏に藍がよぎることまで、書いてあった。耳獏(みみばく)は、聞いていたのではない。とうに、聞き終わっていたのだ。


読みながら、(すず)の指が、書付の縁を、握り潰しそうになった。生まれた年。育った家。病んだ冬の数。快復した月。火の兆しの回数と、間隔と、色。十五年の小夜(さよ)が、紙一枚に、要領よく、収まっていた。書いた者は、小夜(さよ)に、一度も会っていない。会わずに、これだけ書けるのが、彼らの仕事だった。


書類が、刃より先に、来た。


それが、新しい敵の、戦い方だった。


背後の坂の上に、郷の者たちが、集まりはじめていた。


伊代(いよ)が、太市(たいち)が、巳助(みすけ)が。(みの)をひっかけ、手に手に、(すき)だの天秤棒だのを持って。誰も振るったことのない得物を、誰も振るい方を知らないまま、握って。彼らの目は、禍狩(まががり)と、(すず)とを、行き来していた。怯えと、信頼と。名灯(なとも)し様が、何とかしてくださる。その視線の重さが、雪より、冷たく積もった。


「帰って」(すず)は言った。「ここは、読まない州だ。記しもしない。あんたたちの帳面は、ここでは、ただの紙だ」


「では、紙のままに」男は、引かなかった。慇懃(いんぎん)なままだった。「七日、待ち申す。七日ののち、紙が、紙でなくなる。われらは六人だが、北の州は、六人では、ない」


六つの影が、雪の向こうへ、消えた。


刃も抜かず、声も荒らげず、ただ、期限だけを置いていった。半年前の守人(もりびと)は、棒の灯で人を引き立てた。この者たちは、書付で、郷ごと縛りに来た。(すず)は、自分の手が、震えているのに、気づいた。怒りなのか、怖さなのか、見分けが、つかなかった。



「逃げよう」


家に戻って、(すず)は、それだけ言った。


戦う、という道は、考えるだけ考えて、捨てた。ここで六人を退けても、次は六十人が来る。郷が、戦場になる。伊代(いよ)や、太市(たいち)や、巳助(みすけ)の郷が。それに、戦えば、(すず)言霊(ことだま)を使うことになる。使えば、右手の糸が、増える。増やして勝って、その先に何が残るのか、(すず)には、まだ、読めなかった。読めない賭けはしない。狩りの理屈だ。獲物は、巣で、戦わない。巣を、移す。


「どこへ」小夜(さよ)が訊いた。


枯れ野(かれの)の底。無名衆(むみょうしゅう)の本拠。あそこなら、書付も、耳獏(みみばく)も、届かない」


(じん)の、ところ」


小夜(さよ)の言い方に、小さな棘があった。半年、郷に寄りつかなかった男の名を呼ぶときの、妹なりの採点だった。(すず)は、答えなかった。代わりに、土間の(はなだ)を見た。


(はなだ)。あんたは——」


「行く」(はなだ)は、立ち上がっていた。もう、旅支度の薪を、手探りで、束ね始めていた。「読めない目は、足手まといだ。分かっている。だが、おいていけば、あの帳面書きどもは、私から、お前たちの行き先を、引き出そうとする。……それに」


(はなだ)は、少しだけ、笑った。


「あの子の声の、色の抜け方が、気になる。連れて行け。役に、立つかもしれん」


(なぎ)が、土間の隅で、首の札を、握りしめていた。


「おれも。おれも、行きます。枯れ野(かれの)の底に、北から逃げた人が、いるって聞いた。おれみたいなのが、ほかにも」


それから少年は、握っていた札を、(すず)へ、差し出した。


「これ……名灯(なとも)し様が、持っててください。おれが持ってると、たぶん、捨てられない。でも、捨てちゃいけない気もするんです。北で、いま、何が起きてるか。これが、いちばん、よく喋るから」


(すず)は、受け取った。(すず)の札は、少年の体温で、まだ、ぬるかった。袋の底に、沈めた。空だった狩りの袋に入った、最初の獲物が、それだった。


獲物、と思って、すぐ、打ち消した。これは、獲物ではない。逃げてきた者が、命の次に大事に握っていたものだ。狩人は、獲物を、こんなふうに、ぬるいまま、預かったりしない。半年で、袋の使い方まで、変わってしまった。兎を運ぶ袋が、名前を運ぶ袋に、なっていた。



出立は、その夜のうちだった。


灰郷(はいごう)の家を、(すず)は、もう一度、見回した。十六年、暮らした家だった。母が死に、妹が病み、(すず)が、罠の獲物で、ふたりを、食わせてきた家。板壁の、隙間風。囲炉裏の、(すす)。妹の寝床のあった、隅。半年前、(すず)は、この家へ、帰りたい一心で、生きていた。家に帰りたいだけ。それが、(すず)の、十六年の、口癖だった。いま、その家を、自分の足で、捨てる。帰りたかった家を、出ていく。皮肉だった。けれど、と(すず)は思う。家は、戻る場所だと、思っていた。違ったのかもしれない。家は、たぶん、人だ。妹がいて、(はなだ)がいて、火がある。その三つが、揃っていれば、土の砦も、家に、なる。板壁の家に、未練は、思ったより、なかった。


持てるものは、知れていた。罠の銅線。塩。小夜(さよ)の薬草。(はなだ)は、薪を三本だけ、束ねて背負った。どこでも火を焚けるように、いちばん乾いた三本を、指で選んで。(すず)は、土間の隅の、空の袋を見た。兎の入らなくなった、狩りの袋。それも、持った。空のままで。いつか、また、ただの狩人に戻る日のために。


戸口で、小夜(さよ)が一度だけ、振り返った。何年も寝た藁の寝床と、毛布と、湯気の消えた鍋とを、目に焼きつける順番で。それから、戸を、静かに閉めた。


ばあさまが、郷境まで、見送りに来た。背負い袋に、干し芋と、薬草の束を、押し込んでくる。断る間も、なかった。


「行っといで」ばあさまは言った。「郷は、平気だ。あいつらの用は、お前たちで、郷じゃない。……それよりね、(すず)


ばあさまの声が、低くなった。


「あんたの母さんも、一度、夜逃げみたいに、この郷を出たことがある。あんたが生まれる、ずっと前さ。北へね。帰ってきたときにゃ、身重で、唄を覚えてた」


ばあさまは、雪を踏んで、もう一歩、近づいた。


「北の少年が、唄の続きを知ってる、ってね。さっき、寝言で聞いた。……偶然じゃ、ないかもしれないよ。あんたの母さんが、北で何を見て、何を持って帰ってきたか。あたしも、半分しか、知らない。けど、あの唄だけは、母さんが、北から、背負ってきた荷物だ。それだけは、確かだ」


「……唄?」


「いま、それだけ」ばあさまは、それきり、口を結んだ。「続きは、生きて帰った者に話す決まりだ。あたしの中ではね。さ、お行き」


「行くのが、上へじゃなくて、下へってのが」ばあさまは、最後に、そう言った。「いいね。半年前、あんたは、縛られて、上へ連れていかれた。今度は、自分の足で、下へ行く。同じ郷を出るんでも、ぜんぜん、違う出方だ。……母さんも、そうやって、自分の足で、北へ行ったんだよ」


自分の足で。その一言を、(すず)は、坂の途中で、何度か、思い返した。


雪の坂を、四人で、下った。


半年前、(すず)は、この坂を、荷車で運ばれて、上った。手首を縛られ、空へ、吊り上げられて。今夜は、誰にも縛られていない。自分の足で、歩いている。自分の足で、家を、捨てている。


縛られた連行と、自由な逃避行と、どちらが重いか。


足は、知っていた。一歩ごとに、雪が、重かった。


振り返ると、灰郷(はいごう)の灯が、窪地の底で、小さく、瞬いていた。囲炉裏の火を、誰も落とさずに出てきた。空の家で、火だけが、燃えている。帰りたかった家の、まんなかで。


(すず)姉」小夜(さよ)が、隣に並んだ。「あたしのせいで、ごめん」


「違う」


「違わない」


「違う」(すず)は、妹の手を、引いた。「あんたのせいじゃなく、あんたの“ため”。ぜんぜん、違う。間違えないで」


小夜(さよ)は、それきり、黙った。黙って、雪を踏んだ。その横顔が、何か、言いたいことを、呑んだ形をしていた。(すず)は、気づいた。気づいて、夜道の急ぎに、紛れさせた。


夜の枯れ野(かれの)は、足元から、人を試す。


(すず)が先に立ち、(はなだ)の手を引いた。読めない目は、夜道では、誰の目とも、同じだった。むしろ確かだった。(はなだ)は、(すず)の手の引きの強さだけで、足の置き場を、過たなかった。半年、薪を測ってきた指は、人の手の言葉も、覚えていた。


「毒の虹、踏まないで」(すず)は、後ろの(なぎ)に言った。「黒く光ってるとこ。月の出てる夜は、見える」


「……海みたいだ」(なぎ)が、呟いた。「夜の海も、こんなふうに、黒く光る」


海を知らない(すず)は、答えられなかった。海峡の向こうから来た子と、山の郷の女と、読めない元鏡守(かがみもり)と、火の兆した妹と。ばらばらの四人が、ひとつの闇を、降りていく。


枯れ野(かれの)の、毒の虹が、月の下で、黒く光っていた。


その底へ、四人の足跡が、降りていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ