第2話 札
罠に、この冬初めての獲物がかかった日、それは兎ではなかった。
人だった。
枯れ野の北の縁、毒の虹のにじみのきわで、少年がひとり、銅線の輪に足を取られて、雪に倒れていた。十二か、十三か。見ない顔だ。着物は潮で固まり、唇は紫で、それでも、目だけが開いていた。鈴の顔を見て、その目が、動いた。
「……名灯し、さま」
こんな北の果ての子まで、その名を知っている。
鈴は問いを呑んで、輪を外し、少年を背負った。軽かった。骨と、濡れた着物の重さしか、なかった。背中で少年が、うわごとのように、繰り返した。すみません、すみません、と。誰に向けてかも、分からない謝り方だった。
雪を渡って戻る道々、鈴は気づいた。
少年の首に、札が、掛かっている。
番号の札ではなかった。青白い冷光も、ない。薄い錫の板に、墨色の文字が、沈むように刻まれている。冷たい光の代わりに、ただ、冷たい字。鈴は歩きながら、それを読まないように、した。読まないようにして、結局、目の端で、読んでしまった。
いちばん下に、印がひとつ。
「数」の、一字だった。
◆
囲炉裏の火で、少年は、ようやく人の色に戻った。
小夜が、薄い粥を匙で運んでやっている。少年は、椀に頭を下げ、小夜に頭を下げ、土間の隅の縹にまで頭を下げた。下げ慣れた頭だった。
少年は、囲炉裏の火に、手を、かざしていた。
凍えた手が、赤い熾に、ゆっくり、ほどけていく。半年前、鈴も、こうやって、灯都の地の底で、見知らぬ者の火に、手を、かざした。逃げてきた者は、皆、まず、火を、欲しがる。腹より先に、火を。寒さは、腹より、早く、人を、殺すからだ。鈴は、少年の椀に、もう一杓、粥を、足した。薄い粥だった。それでも、温かかった。温かいものを、見知らぬ者に、差し出す。それだけのことが、半年前の灰郷には、なかった。皆、自分の椀を、抱えて、隠した。いまは、足せる。薄くても、足せる。その変化が、鈴の、半年の、いちばん確かな手応えだった。
「凪です」少年は名のった。「北の、海ぞいの州から」
「ひとりで?」
「船で。……流されて。三日……四日かも」
北の州。海峡の向こう。半年前まで、鈴にとって他の州は、地平の向こうの噂でしかなかった。同じ八洲の、同じ結界の内側。それだけ知っていれば、足りた。
「あっちは、どうなってるの」鈴は訊いた。「灯改めは」
「あります」凪は、即座に言った。あるのが当たり前のことを訊かれた、という即座さだった。「全部、あります。鏡も、選も、薪も。……こっちは、ほんとに、ないんですか」
「ない。半年前から」
「じゃあ、ほんとなんだ」凪の目が、囲炉裏の火を見た。「名灯し様が、大灯を、名前を喰わない火に変えたって。北じゃ、子どもらが寝物語にしてます。海の向こうに、名前を取られない州があるって。……おれ、それで」
それで、冬の海峡を、流れてきた。十二の体ひとつで。
鈴は、少年の首の札を、見た。
「それ、外していい?」
凪の手が、札を、押さえた。とっさの、体の動きだった。庇ったのだ。札を。自分を縛るものを。
「……外すと、罰が」言いかけて、凪は、自分の言葉に気づいた。ここには、罰する者がいない。それでも手は、札から、離れなかった。「癖で。すみません」
「見せてもらっても?」
凪は、札を紐ごと外して、両手で、差し出した。神棚の札でも扱うような手つきだった。
錫の板に、細かい字が、列になっていた。
凪。
母に、なぎ。
姉に、なあ坊。
網元に、おい。
手間賃、月に塩二升。
——数え手の蔵、第七列。
札を外した凪の首には、紐の痕が、薄く残っていた。日に灼けていない、白い線。生まれてからずっと、そこに札があった印だった。
鈴は、二度、読んだ。
番号ではなかった。名前だった。名前と、その名を呼ぶ者と、呼び方と。この子が、誰に、何と呼ばれて生きているか。それが全部、書き上げられて、最後に、持ち主の蔵の棚番号で、締められていた。
「これ、誰が書くの」
「お役所です。書院の。……書くと、米がもらえるんです。名前と、呼び名を、届け出ると。うちは姉ちゃんが病気で、米が要って、母ちゃんが、おれの分も届けて」凪は、そこで、少し、笑おうとした。「変でしょう。名前を書くだけで、米がもらえるなんて。皆、列を作って書きに行くんです」
囲炉裏の火が、爆ぜた。
「書く日のこと、覚えてます」凪は、椀の底を見ながら言った。「役所の前に、列ができて。母ちゃんが、おれの手を引いて、並んで。書き役の人が、優しいんです。すごく。坊の名は、と訊いて、家で何と呼ばれてる、と訊いて。母ちゃんが、なぎ、って呼んでます、って言ったら、いい呼び名だ、って笑って。それを、そのまま、書くんです。母ちゃんの言った通りの、声の形のまま」
少年は、そこで、椀を置いた。
「書き終わったら、米を二升くれました。母ちゃん、帰り道で、泣いてました。米が嬉しくて泣いてるんだと、おれ、思ってました。……たぶん、違った」
少年は、しばらく、黙った。それから、思い出したことを、ひとつずつ、置くように、続けた。
「冬になると、列が、長くなるんです。海が荒れて、漁に出られない日が、増えるから。書く人が、増える。春の名簿は、冬の名簿より、いつも、厚いって、村の衆が言ってました。……氷見の岩ってのが、あって。湾の口の。あの岩の肩が、雪の下から出てくると、春が近い。腰まで出たら、海が、また使える。みんな、毎朝、あの岩を、見るんです。早く、肩を出せって。……岩が、いちばん、正直な暦でした」
氷見の岩。少年の声に、初めて、懐かしむ色が、混じった。憎む村ではないのだった。書いてしまう村だが、岩を見上げて春を待つ、ただの漁師の村でも、あった。
半年前までの札は、名前を消して、番号を灯した。これは、消さない。名前も、呼び名も、母の声の形まで、丁寧に、書き取ってある。大事に、大事に、記録してある。家畜の帳面が、毛並みの色まで書き留めるのと、同じ丁寧さで。
「数え手って、誰」
鈴の声が、低くなったのが、自分でも分かった。
凪の肩が、跳ねた。少年は、囲炉裏の火を見て、戸口を見て、それから、声を落とした。その名を口にするとき、人がする、あの声の落とし方で。
「……北の、お斎主さまの、あだ名です。なんでも、数えるから。米も、人も、名前も。……おれの村じゃ、夜泣きする子に、言うんです。泣くと、数えに来るよって」
◆
灰郷の朝は、凪には、珍しいことばかりだったらしい。
配給の列で、誰も札を下げていないこと。子らが、地面に、自分の名を、棒で書いて遊んでいること。井戸端で、年寄りが、名灯し様、と鈴を呼ぶこと。少年は、そのひとつひとつに、目を丸くした。「名前を、書いて、遊ぶ……」棒きれの字を、長いこと、見ていた。北では、名前は、役所が書くものだった。子どもが、土に、ただで書いていいものだとは、思っていなかったのだ。
その晩、凪は、熱を出した。
三日の海と雪が、いまごろ、追いついてきたのだ。小夜が、額の手拭いを替え、白湯を含ませた。何年も、替えてもらう側だった手つきで、今度は、替える側に回って。鈴は、その手際を、框から、黙って見ていた。
熱に浮かされる少年に、小夜が、低く、歌った。
ねむれ、ねむれ、夜の子。
おまえの名は……
例の、途中で止まる唄だった。それでも、凪の息が、少しずつ、深くなっていく。眠りに落ちる間際、少年の唇が、動いた。
「……それ、知ってる」
「え?」
「ばあちゃんが……うちの。歌ってた。……つづき、あるんですよ、それ……」
そこで、寝息になった。小夜が、鈴を、振り向いた。姉妹は、何も言わなかった。北の果ての少年が、母の唄の続きを、知っている。その意味を測るには、夜が、遅すぎた。
◆
「鈴」
夜更け、土間の隅で、縹が、低く呼んだ。
凪は、小夜の古い夜着にくるまって、眠っている。三日ぶりの屋根の下で、泥のように。その寝息を確かめてから、縹は言った。
「あの子の話、嘘はない。……ただ」
「ただ?」
「声が、変だ」縹の見えない目が、眠る少年のほうを、向いた。「嘘の変じゃない。怯えの変でもない。なんと言えばいいか——あの子の声は、自分の名前を言うとき、いちばん、薄くなる。凪です、と名のったとき。あそこだけ、声から、色が抜ける」
「色って」
「分からない」縹は、自分の言葉に、自分で、眉を寄せた。「読めない目に、なってから、ときどき、ある。声に、何かが、乗って聞こえる。気のせいだと、思ってきたが」
読めなくなった人が、聞こえはじめている。
鈴は、その言葉を、胸の隅に、置いた。置いただけで、その夜は、それ以上、考えなかった。考える時間が、このあと、来なかったからだ。
◆
異変は、翌々日の夜に、来た。
最初に気づいたのは、鈴ではなかった。縹だった。夕餉の途中で、ふいに箸を置き、首を、戸口へ向けた。
「……静かすぎる」
雪の夜は、静かなものだ。けれど、言われてみれば、静かさの質が、違った。犬が、鳴いていない。郷じゅうの犬が、一匹も。
鈴は、土間に降りて、戸の隙間から、外を見た。
雪の上に、足跡があった。人のものではない。猫より大きく、犬より低い。点々と、家々の軒下を縫って、続いている。足跡の主は、見えない。見えないが、鈴は、その形を、知識として知っていた。読まれる世界の、住人として。
耳獏。
盗み聞きの、霊獣。この州から、式神と一緒に、消えたはずのもの。
「小夜」鈴は、振り向かずに言った。「火、落として」
「え?」
「囲炉裏。いますぐ。——凪、起きて。着物を着て」
声が、家の中の空気を、変えた。小夜が灰をかけ、火が落ちる。その薄闇の中で、鈴は、考えた。狩りの頭で。耳獏は、聞きに来る。何を。この家の、何を。鈴の声か。違う。鈴の居場所など、八洲じゅうが知っている。名灯し様は、隠れていない。聞く価値があるのは——この家でいちばん新しい、秘密。
七日に一度、囲炉裏の火に、藍がよぎること。
「……あたしだ」
小夜が、言った。薄闇の中で。誰よりも先に、自分で、答えに着いていた。
「あたしの火を、聞きに来たんだ」
◆
禍狩は、夜明け前に、郷へ入った。
六人。玄の装束。腰の棒に、青白い灯はない。代わりに、それぞれの胸に、錫の札が下がっていた。彼ら自身も、書き上げられた者たちだった。
郷境の道で、鈴は、ひとりで、彼らの前に立った。
「名灯し様と、お見受けする」先頭の男は、丁寧だった。慇懃といってもよかった。「われらは北の州の者。貴殿に用は、ない。引き渡されたい者が、ひとつ」
ひとつ。者が、ひとつ。
「妹御は、まだ灯改め前の身。いずれの州の神名簿にも、属しておらん。なれば先に届け出た州に、記す権利がござる。当州は、三日前に、届け出を済ませた」
懐から、書付が出た。整った、美しい字だった。小夜の名と、生年と、移ろい火の兆候の記録。七日に一度、囲炉裏に藍がよぎることまで、書いてあった。耳獏は、聞いていたのではない。とうに、聞き終わっていたのだ。
読みながら、鈴の指が、書付の縁を、握り潰しそうになった。生まれた年。育った家。病んだ冬の数。快復した月。火の兆しの回数と、間隔と、色。十五年の小夜が、紙一枚に、要領よく、収まっていた。書いた者は、小夜に、一度も会っていない。会わずに、これだけ書けるのが、彼らの仕事だった。
書類が、刃より先に、来た。
それが、新しい敵の、戦い方だった。
背後の坂の上に、郷の者たちが、集まりはじめていた。
伊代が、太市が、巳助が。蓑をひっかけ、手に手に、鋤だの天秤棒だのを持って。誰も振るったことのない得物を、誰も振るい方を知らないまま、握って。彼らの目は、禍狩と、鈴とを、行き来していた。怯えと、信頼と。名灯し様が、何とかしてくださる。その視線の重さが、雪より、冷たく積もった。
「帰って」鈴は言った。「ここは、読まない州だ。記しもしない。あんたたちの帳面は、ここでは、ただの紙だ」
「では、紙のままに」男は、引かなかった。慇懃なままだった。「七日、待ち申す。七日ののち、紙が、紙でなくなる。われらは六人だが、北の州は、六人では、ない」
六つの影が、雪の向こうへ、消えた。
刃も抜かず、声も荒らげず、ただ、期限だけを置いていった。半年前の守人は、棒の灯で人を引き立てた。この者たちは、書付で、郷ごと縛りに来た。鈴は、自分の手が、震えているのに、気づいた。怒りなのか、怖さなのか、見分けが、つかなかった。
◆
「逃げよう」
家に戻って、鈴は、それだけ言った。
戦う、という道は、考えるだけ考えて、捨てた。ここで六人を退けても、次は六十人が来る。郷が、戦場になる。伊代や、太市や、巳助の郷が。それに、戦えば、鈴は言霊を使うことになる。使えば、右手の糸が、増える。増やして勝って、その先に何が残るのか、鈴には、まだ、読めなかった。読めない賭けはしない。狩りの理屈だ。獲物は、巣で、戦わない。巣を、移す。
「どこへ」小夜が訊いた。
「枯れ野の底。無名衆の本拠。あそこなら、書付も、耳獏も、届かない」
「燼の、ところ」
小夜の言い方に、小さな棘があった。半年、郷に寄りつかなかった男の名を呼ぶときの、妹なりの採点だった。鈴は、答えなかった。代わりに、土間の縹を見た。
「縹。あんたは——」
「行く」縹は、立ち上がっていた。もう、旅支度の薪を、手探りで、束ね始めていた。「読めない目は、足手まといだ。分かっている。だが、おいていけば、あの帳面書きどもは、私から、お前たちの行き先を、引き出そうとする。……それに」
縹は、少しだけ、笑った。
「あの子の声の、色の抜け方が、気になる。連れて行け。役に、立つかもしれん」
凪が、土間の隅で、首の札を、握りしめていた。
「おれも。おれも、行きます。枯れ野の底に、北から逃げた人が、いるって聞いた。おれみたいなのが、ほかにも」
それから少年は、握っていた札を、鈴へ、差し出した。
「これ……名灯し様が、持っててください。おれが持ってると、たぶん、捨てられない。でも、捨てちゃいけない気もするんです。北で、いま、何が起きてるか。これが、いちばん、よく喋るから」
鈴は、受け取った。錫の札は、少年の体温で、まだ、ぬるかった。袋の底に、沈めた。空だった狩りの袋に入った、最初の獲物が、それだった。
獲物、と思って、すぐ、打ち消した。これは、獲物ではない。逃げてきた者が、命の次に大事に握っていたものだ。狩人は、獲物を、こんなふうに、ぬるいまま、預かったりしない。半年で、袋の使い方まで、変わってしまった。兎を運ぶ袋が、名前を運ぶ袋に、なっていた。
◆
出立は、その夜のうちだった。
灰郷の家を、鈴は、もう一度、見回した。十六年、暮らした家だった。母が死に、妹が病み、鈴が、罠の獲物で、ふたりを、食わせてきた家。板壁の、隙間風。囲炉裏の、煤。妹の寝床のあった、隅。半年前、鈴は、この家へ、帰りたい一心で、生きていた。家に帰りたいだけ。それが、鈴の、十六年の、口癖だった。いま、その家を、自分の足で、捨てる。帰りたかった家を、出ていく。皮肉だった。けれど、と鈴は思う。家は、戻る場所だと、思っていた。違ったのかもしれない。家は、たぶん、人だ。妹がいて、縹がいて、火がある。その三つが、揃っていれば、土の砦も、家に、なる。板壁の家に、未練は、思ったより、なかった。
持てるものは、知れていた。罠の銅線。塩。小夜の薬草。縹は、薪を三本だけ、束ねて背負った。どこでも火を焚けるように、いちばん乾いた三本を、指で選んで。鈴は、土間の隅の、空の袋を見た。兎の入らなくなった、狩りの袋。それも、持った。空のままで。いつか、また、ただの狩人に戻る日のために。
戸口で、小夜が一度だけ、振り返った。何年も寝た藁の寝床と、毛布と、湯気の消えた鍋とを、目に焼きつける順番で。それから、戸を、静かに閉めた。
ばあさまが、郷境まで、見送りに来た。背負い袋に、干し芋と、薬草の束を、押し込んでくる。断る間も、なかった。
「行っといで」ばあさまは言った。「郷は、平気だ。あいつらの用は、お前たちで、郷じゃない。……それよりね、鈴」
ばあさまの声が、低くなった。
「あんたの母さんも、一度、夜逃げみたいに、この郷を出たことがある。あんたが生まれる、ずっと前さ。北へね。帰ってきたときにゃ、身重で、唄を覚えてた」
ばあさまは、雪を踏んで、もう一歩、近づいた。
「北の少年が、唄の続きを知ってる、ってね。さっき、寝言で聞いた。……偶然じゃ、ないかもしれないよ。あんたの母さんが、北で何を見て、何を持って帰ってきたか。あたしも、半分しか、知らない。けど、あの唄だけは、母さんが、北から、背負ってきた荷物だ。それだけは、確かだ」
「……唄?」
「いま、それだけ」ばあさまは、それきり、口を結んだ。「続きは、生きて帰った者に話す決まりだ。あたしの中ではね。さ、お行き」
「行くのが、上へじゃなくて、下へってのが」ばあさまは、最後に、そう言った。「いいね。半年前、あんたは、縛られて、上へ連れていかれた。今度は、自分の足で、下へ行く。同じ郷を出るんでも、ぜんぜん、違う出方だ。……母さんも、そうやって、自分の足で、北へ行ったんだよ」
自分の足で。その一言を、鈴は、坂の途中で、何度か、思い返した。
雪の坂を、四人で、下った。
半年前、鈴は、この坂を、荷車で運ばれて、上った。手首を縛られ、空へ、吊り上げられて。今夜は、誰にも縛られていない。自分の足で、歩いている。自分の足で、家を、捨てている。
縛られた連行と、自由な逃避行と、どちらが重いか。
足は、知っていた。一歩ごとに、雪が、重かった。
振り返ると、灰郷の灯が、窪地の底で、小さく、瞬いていた。囲炉裏の火を、誰も落とさずに出てきた。空の家で、火だけが、燃えている。帰りたかった家の、まんなかで。
「鈴姉」小夜が、隣に並んだ。「あたしのせいで、ごめん」
「違う」
「違わない」
「違う」鈴は、妹の手を、引いた。「あんたのせいじゃなく、あんたの“ため”。ぜんぜん、違う。間違えないで」
小夜は、それきり、黙った。黙って、雪を踏んだ。その横顔が、何か、言いたいことを、呑んだ形をしていた。鈴は、気づいた。気づいて、夜道の急ぎに、紛れさせた。
夜の枯れ野は、足元から、人を試す。
鈴が先に立ち、縹の手を引いた。読めない目は、夜道では、誰の目とも、同じだった。むしろ確かだった。縹は、鈴の手の引きの強さだけで、足の置き場を、過たなかった。半年、薪を測ってきた指は、人の手の言葉も、覚えていた。
「毒の虹、踏まないで」鈴は、後ろの凪に言った。「黒く光ってるとこ。月の出てる夜は、見える」
「……海みたいだ」凪が、呟いた。「夜の海も、こんなふうに、黒く光る」
海を知らない鈴は、答えられなかった。海峡の向こうから来た子と、山の郷の女と、読めない元鏡守と、火の兆した妹と。ばらばらの四人が、ひとつの闇を、降りていく。
枯れ野の、毒の虹が、月の下で、黒く光っていた。
その底へ、四人の足跡が、降りていった。




