第1話 名灯し
雪の朝の枯れ野は、静かというより、音が死んでいる。
鈴は枯れ草の根方に膝をつき、銅線の輪から雪を払った。かかっていない。三日続けて、空だ。罠の張り方が鈍ったのではない。獲物のほうが、近寄らなくなった。
兎は、人の気配を覚える。一度、罠の場所を知った兎は、二度と、そこを通らない。賢いのではない。生きたいだけだ。生きたい、という気持ちが、兎を、賢く見せる。鈴は、その気持ちを、知っていた。誰より、知っていた。
鈴は息を浅くして、振り返らずに言った。
「ついてこないでって、言ったよね」
雪の向こうで、気配がふたつ、跳ねた。若い夫婦だった。灰郷の外れの。雪に膝をついて、両手を合わせて、こちらを拝んでいる。毒の土の上で。
「拝まないで。立って。そこ、土が悪い」
夫婦は立った。立って、なお、頭を下げたままだった。後ずさりで雪を踏み、遠ざかっていく。最後まで、こちらに背を向けなかった。神棚から離れるときの、あの下がり方だった。
鈴は空の罠を見下ろした。
十六年、この手で、罠を張ってきた。兎を獲り、妹を食わせ、自分も生き延びてきた。狩りは、嘘をつかない。罠に獲物がかかるか、かからないか。それだけだ。拝みも、崇拝も、ない。獲物は、名灯し様の都合など、知らない。腹が減れば、罠にかかる。気配を覚えれば、近寄らない。ただ、それだけの世界だった。鈴は、その世界が、好きだった。いまでも、いちばん、心が、休まる。けれど、その世界に、戻れる時間は、日に日に、短くなっていく。朝の罠を見回る、この一刻だけが、ただの鈴で、いられる時間だった。あとは、ずっと、名灯し様だった。
十六年、見られないように生きてきた。息を浅く、視線を低く、土の色になる。それがこの体に染みた狩りの仕方だった。いまは逆だ。どこへ行っても、見られている。拝まれている。狩りにならない。兎より先に、人がいる。
——あんたたちが拝むから、兎が逃げるんだよ。
声には、しなかった。
少し歩くと、茨の根に、古い輪がひとつ、埋もれていた。
錆びた銅線。燼の罠だ。もう二年になる。去年の冬も、その前の冬も、誰も結び直していない。半年前、あの男は半分だけこちらへ戻ってきて、それから北へ行った。無名衆の戦支度があると、人づてに聞いた。郷へは、一度も寄らなかった。
罠は、張った者が結び直すものだ。
鈴は手を伸ばしかけて、やめた。これは自分の輪ではない。雪が、錆びの上に、また薄く積もりはじめていた。
東の地平が、白んできた。
朝日だった。
鈴は一拍おいて、目を細めた。半年前まで、この時刻にあの方角で光るものは、朝日ではなかった。灯都の大灯。夜明けより先に立つ、白い火柱。名前を喰って燃える火。それが、いまは、ない。
代わりに、朝日の足元に、灯がにじんでいる。
白ではなかった。藍、朱、萌黄、銀。無数の小さな色が寄り集まって、ひとつの淡い明るみになっている。名を取り戻した者たちが、めいめいの火を、めいめいで灯している火。喰う火ではなく、灯る火。
きれいだと、思う。いまでも思う。
ただ、遠目に見るそれは、あの白い火柱より、ずっと、細かった。冬の朝日に、半分、呑まれている。喰わない火は、強くない。それを、この半年の寒さが、毎朝、教えてくる。
鈴は袋の口を結んだ。空のままの袋を。
帰り道、傷痕の方角から、風が来た。
潮の匂いがした。
山の上の、海など見えない郷で。鈴は足を止め、風が過ぎるのを待った。枯れ野の縁の草が、去年より深く、銀色に錆びている。毒の虹のにじみが、罠場のほうへ、指の幅ぶんだけ、近づいている。雪の下で、枯れが、広がっている。
誰も焚べていないのに、世界の側が、勘定を取り立てに来ている。そういう匂いだった。
◆
灰郷は、坂を下りきった窪地にある。
それは変わらない。変わったのは、音だ。
「直さん、先どうぞ」
「いや、芙美さんとこは子が熱だろ。先に」
配給の列から、名前が聞こえる。朝の井戸端で、誰も顔を上げなかった郷だ。式神の紙の羽が頭上を過ぎるたび、ざわめきが一拍やんだ郷だ。式神は、もう飛んでいない。人々は顔を上げて、名前で呼び合って、笑いさえする。
そのぶん、椀の中身は、薄くなった。
天理院の配給は、半年前に止まった。いまの配給は、無名衆と郷の寄り合いが、倉の残りを割っているだけだ。列は長く、椀は浅い。名前と引き換えに米をもらっていた頃のほうが、腹は満ちていた——そう口にする者は、まだいない。いないことが、かえって、鈴には聞こえる。
列の横を通った。
ざわめきが、やんだ。
間を置かず、列が割れた。人々が道を空け、頭を下げる。先頭の老人が、椀を胸に当てて、深く腰を折った。
「名灯し様」
「……鈴です」鈴は言った。「灰郷の鈴。あんたの隣の郷の」
「へえ。名灯し様」
老人は、にこにこと、もう一度言った。悪気というものが、どこにもなかった。それが、いちばん、効いた。
歩きながら、鈴は右手の指先を、袖の中で握り込んだ。
布を巻いた右手。指先が、今朝も冷たい。誰にも見えないが、鈴には見える。手のひらの奥から、細い銀色の糸が、三本。雪空の下でも、かすかに光って、傷痕の方角へ、ゆるくたわんで伸びている。
半年前は、一本だった。
井戸の縁で、ばあさまが釣瓶を手繰っていた。郷でただ一人、鈴に頭を下げない年寄りだ。
「精が出るね、名灯し様」
「やめてよ」
「皆が呼ぶんだ。あたしひとりやめたって、呼ぶ口は減らないよ」ばあさまは桶に水を移した。「七日市の壇、今日もお出ましかい」
「……断れなかった」
「だろうね」ばあさまは笑わなかった。「ご利益ってのはね、安売りするほど、値が上がるんだ。妙なもんだろ」
ばあさまは、桶を、井戸端に置いた。置いて、鈴の右手を、ちらと見た。布を巻いた手を。見て、何も訊かなかった。訊かない代わりに、独り言のように、言った。
「火はね。見られてると、見られたいように燃える。……あんた、それは、もう知ってるね。半年前の、あれで」
「……うん」
「でね。覚えときな」ばあさまは、釣瓶の縄を、巻き直した。「呼ばれてると、呼ばれたいように、灯る。見られるのと、呼ばれるのは、別もんだ。読む目の前で燃えるのと、呼ぶ声の前で灯るのは、ぜんぜん、別の火だ。……いまのあんたは、その、ちょうど、境目に立ってる。気の毒にね」
気の毒に。郷でただ一人、鈴を拝まない年寄りだけが、鈴を、気の毒がった。その一言が、その朝、いちばん、あたたかかった。
水面に、鈴の顔が映った。鈍色の空ごと、揺れた。半年前と、同じ井戸。同じ水。映る顔だけが、なんだか、自分のものでないようだった。
桶を返しに、配給の倉のほうへ回ると、列が、できていた。
朝の配給だった。無名衆と郷の寄り合いが、倉の残りを割る。順番を待つ列の中で、人々は、名前で呼び合っていた。直さん、芙美さん、と。半年前なら、誰も顔を上げなかった列だ。番号を呼ばれる前に、息を殺していた列だ。いまは、笑い声さえ、する。笑い声のぶんだけ、椀は、薄い。誰も、それを、口にしない。口にしないことが、この郷の、新しい行儀だった。
◆
七日市は、倉の前の広場に立つ。
市とは言っても、並ぶものは知れている。干した芋茎。繕い物の針と糸。誰かの家の、余った塩。それでも人は集まる。物のためというより、名前を呼び合うために、集まっているような市だった。
広場の奥に、壇がある。
米俵を二段に積んで、筵をかけただけのものだ。半年前まで、灰郷に壇などなかった。下の郷の者が、上がる場所など、なかった。いまは、ある。あって、そこへ上がるのは、いつも、鈴ひとりだった。
「名灯し様、こちらへ」
郷長が、手を差し出す。断る理由を、鈴は今日も、見つけられなかった。
広場には、もう、人が、集まりはじめていた。
七日市の日は、郷じゅうが、出てくる。物を売り買いするためというより、顔を、見せ合うために。半年前まで、この郷の者は、人前に、顔を、晒さなかった。式神の紙の羽が、頭上を過ぎるたび、皆、俯いた。読まれないように。目を、つけられないように。いまは、違う。皆、顔を上げて、名前で、呼び合う。直さん。芙美さん。源爺。呼ばれた者が、振り向いて、笑う。笑い声が、雪の広場に、湯気のように、立つ。鈴は、その湯気を、好きだった。半年前、自分が、灯したものの中で、いちばん、これが、好きだった。壇の上の崇拝より、この、名前の湯気のほうが。
今日の名披露は、三人だという。
この冬、十六になった子らだ。灯改めは、もう、ない。鏡の前に立たされることも、色で振り分けられることも、ない。それは、いいことのはずだった。けれど儀式が消えた後の十六歳には、何も、なくなった。節目というものが。だから誰が決めたでもなく、いつのまにか、これが生まれた。十六の子が、壇の下で名のり、壇の上の鈴が、その名を呼ぶ。名披露。新しい儀式は、古い儀式の形だけを、なぞっていた。
「灰郷の、伊代」
最初の娘が、名のった。広場が、わっと沸く。鈴が「伊代」と呼ぶと、娘は耳まで赤くなって、下がった。
「灰郷の、太市」
二人目も、つつがなく済んだ。
三人目の少年が、壇の下に立って、詰まった。
口が、開いて、閉じた。広場じゅうの目が、少年に集まっている。見られている。読まれてはいない。誰も、もう、この子を読まない。それでも、見られることそのものが、この年頃の喉を、締める。鈴は、それを、誰よりよく知っていた。
沈黙が、三つ数えるほど、続いた。
「——巳助」
鈴が、呼んだ。
少年の顔が、ぱっと、ほどけた。広場が沸いて、名灯し様、名灯し様、と唱和が起きて、名披露は、つつがなく、終わった。誰も、何も、損なわれなかった。
ただ、壇を降りる間際、鈴の中に、小さな棘が、残った。
あの子は、言えたはずだ。あと三つ数えれば。自分の口で、自分の名を。それを、鈴が、先に呼んだ。待てばよかったのだ。待てば。けれど広場の沈黙が、皆の目が、それを許す前に、鈴の口が、動いてしまった。呼ぶことは、もう、こんなにも、易い。
壇の上から見る広場は、一段ぶん、皆の頭が、低かった。
半年前、白い石の段の上から、庭を見下ろしていた人がいた。誰にも名を呼ばれず、皆に頭を垂れられて、何十年、あの高さに、立っていた人が。米俵二段の、たかが膝までの高さで、鈴は、その人の目の位置を、ほんの少しだけ、知った。
知りたくは、なかった。
呼ぶだけなら、糸は増えない。本気の言霊を込めなければ。その加減を、鈴はこの半年で、覚えてしまった。覚えたことを、誰にも、言っていない。形だけの祝福を配って壇を降りる名灯し様を、広場じゅうが、拝んでいた。
◆
「おかえり」
戸を引くと、小夜の声が先に来た。
土間に、湯気が立っている。竈の前に妹が立って、菜を刻んでいた。寝床ではなく、立って。頬に、血の色がある。この冬、小夜は一度も熱を出していない。十五年で、初めての冬だ。
「空っぽ」小夜は鈴の袋を見て言った。「三日連続」
「兎が、賢くなった」
「拝む人がついてくるんでしょ。知ってる」小夜は笑って、刻んだ菜を鍋に落とした。「いいよ。芋がある。配給の、減らした分」
「減らしたの」
「うちは三人とも働けるもの。芙美さんとこ、子が熱なんだって」
鈴は、上がり框に腰を下ろした。妹が、台所に立っている。妹が、よその子の熱の心配をしている。何年も、この子の熱だけを数えて生きてきた。願いというものは、叶うと、形が分からなくなる。
奥の部屋から、規則正しい音がしていた。
とん、とん、と、乾いた音。縹が、囲炉裏の薪を、手で測っている音だ。長さを指で確かめ、太いものと細いものを、触っただけで分けていく。読めなくなった目の代わりに、この半年で、指が覚えた仕事だった。
「ただいま」鈴は障子の奥へ言った。
「おかえり」縹の声は、静かだった。「今日は、空だろう」
「……なんで分かるの」
「足音だ。獲物のある日は、土間で一度、袋を下ろす音がする」
灰青になった目が、こちらを向いた。焦点は、合っていない。合っていないのに、まっすぐだった。読めない目で、ただ、見る。この半年、鈴はその視線に、何度も、救われたか分からない。郷じゅうが鈴を「名灯し様」として見る。縹だけが、見えない目で、鈴を見る。
「指は」鈴は訊いた。
「平気だ」
嘘だった。縹の右手の指先には、薪の棘の痕がいくつもある。神籍の、花の匂いのした指だ。それが、いまは灰郷の薪を数えて、ささくれている。縹は、それを隠しもしないが、言いもしない。
汁が、煮えはじめた。
小夜が、鍋をかき混ぜながら、小さく、歌っていた。
ねむれ、ねむれ、夜の子。
おまえの名は……
そこで、止まった。
「……なんだっけ。ここから先、思い出せないの」小夜は杓子を持ったまま、首をかしげた。「母さんの唄。ちっちゃい頃、聞いたやつ。鈴姉、覚えてない?」
「覚えてない」鈴は言った。「あんたが生まれる前から、母さんは唄ってたらしいけど」
「夜の子、までは出るんだけどな」
夜の子。小夜の「夜」。鈴は、ふと思った。妹は、唄の文句に、自分の名前を聞いているのではないか。けれど、それを言うより先に、汁の匂いが立って、その話は、湯気と一緒に流れてしまった。
囲炉裏の火が、爆ぜた。
小夜の手が、一瞬、火のほうへ、止まった。
赤い熾の中に、ひとすじ、藍が、よぎった。よぎって、消えた。小夜は、何事もなかったように、椀を並べはじめた。鈴も、何も言わなかった。半年前から、姉妹のあいだで、それは「何も言わない」ことに決まっている。火の兆しは、月に一度が、いまは七日に一度になっている。それも、数えていることを、互いに言わない。
縹だけが、見えない目を、囲炉裏のほうへ、わずかに、向けていた。
◆
戸が、叩かれたのは、椀を並べ終えた頃だった。
若い母親が、立っていた。ねんねこに、生まれて間もない赤子を、くるんで。頬が、寒さで赤い。どれだけの道を、歩いてきたのか。
「夜分に、すみません。あの……隣の、谷向こうの郷から」
「上がってください。冷える」
「いえ。いえ、あの」母親は、その場で、深く頭を下げた。「この子に。名を、いただきたくて」
鈴の箸が、止まった。
「……名前は、親がつけるものです」
「つけました。冬芽と。でも」母親は、赤子の顔を、覗き込んだ。「あたしらがつけただけじゃ、心配で。名灯し様に、灯していただいたら、この子の名は、もう、誰にも、取られないって。谷向こうじゃ、皆、そう言っていて」
取られない。
その言葉の重さだけは、本物だった。この母親の世代は、名を取られる世界で育った。十六で読まれ、色で振り分けられ、しくじれば番号にされる世界で。その世界は半年前に、この州では、終わった。終わったが、骨身に染みた恐怖は、半年では、終わらない。だから灯してもらいに来る。名づけの神様に。お守りを、もらいに。
「冬芽ちゃん、ですね」鈴は言った。「いい名前。もう、灯ってます。あなたがつけた時に。あたしが灯さなくても」
「お願いします」
母親は、頭を下げたままだった。湯気の立つ囲炉裏と、戸口の寒さの間で、長いこと、下げたままだった。赤子が、小さく、ぐずった。
鈴は、框を降りた。
膝を折って、赤子と目の高さを合わせる。半年前、あの白い間で、蕗にしたように。あの時は、奪われた名を、返した。いまは、奪われてもいない名を、灯せと言われている。違う。ぜんぜん、違う。違うのに、断る言葉が、この母親の下げた頭の前では、ひとつも、立たなかった。
「冬芽」
鈴は、その名を、呼んだ。
赤子の胸の奥で、生まれたての魂火が、ぽ、と明るんだ。母親が、ああ、と声を漏らした。ありがたい、ありがたいと、何度も言った。何度も言いながら、雪の道を、帰っていった。
戸を閉めて、鈴は、右手の布を、見た。
布の下で、糸が、四本になっていた。
新しい一本は、まだ細くて、頼りなくて、生まれたての魂火と、同じ色をしていた。それが、手のひらから、傷痕の方角へ、すう、と伸びて、夜の中で、かすかに、光った。
「鈴」
縹の声がした。見えない目が、鈴の右手の、あたりを向いていた。読めないはずだ。見えないはずだ。それでも、この人には、何かが、伝わる。同じ夜に、同じ傷を、分け合った者の、勘のようなものが。
「平気」鈴は言った。
嘘だった。嘘だと、二人とも、知っていた。縹は、それ以上、訊かなかった。訊かない代わりに、囲炉裏の薪を、一本、火に足した。手探りで、いちばん太いのを、正確に。
◆
夜半、鈴は寝床で、目を開けていた。
隣で小夜が、規則正しく、息をしている。あたたかい。この半年、妹の背中は、ずっと、あたたかい。それだけで、すべてに、釣りが来るはずだった。
土間の向こうで、縹が、寝返りを打った。
あの人は、夜、いつも、同じ向きで眠る。傷痕の方角へ、顔を向けて。寒い晩には、眠りながら、古傷の疼くような息をする。訊いても、覚えていないと言う。
燼は、北の海峡にいるという。
それも、人づての噂だ。無名衆の使いが、月に一度、郷に物資の割り当てを伝えに来る。燼の名は、その口から、一度も出ない。出ないことが、あの男の、いまの居場所だった。枯れ野の錆びた輪は、今年の冬も、結び直されない。
風が、戸を、鳴らした。
潮の匂いが、した気がした。気のせいかもしれない。気のせいでないかもしれない。傷痕は、封じられている。縹の、残り火で。けれど封じた当人が、夜ごと、その方角へ顔を向けて眠る。封じるというのは、終わらせることでは、ないのだった。
鈴は、右手を、夜の中に、かざした。
四本の糸が、見えた。鈴にだけ。細く、銀色に、傷痕のほうへ。
私はただ、家に帰りたいだけ。
十六年、そう言って生きてきた。いまは、家にいる。妹は健やかで、隣の部屋にはあの人がいて、囲炉裏には火がある。帰りたかった家の、まんなかに、いる。
それなのに、その台詞の、続きが、出ない。
帰ったはずの家で、鈴は、まだ、どこかへ、帰りたかった。どこへだか、分からなかった。名灯し様ではない、ただの鈴で、いられる場所。そんな場所は、この州のどこにも、もう、なかった。鈴がこの州を、そういう場所に、変えたのだ。自分の手で。自分の声で。
右手の、四本の糸が、暗がりで、かすかに、光った。傷痕の方角へ、ゆるく、垂れて。半年前は、一本だった。いまは、四本。名づけるたびに、増えていく。守りたいものが、増えるたびに。この糸が、いつか、どこへ繋がるのか、鈴は、まだ、知らなかった。知らないまま、明日も、壇に上がるのだろう。断れないから。乞われれば、灯すのだろう。それが、自分だと、知っていた。狩人が、罠を、見回らずにいられないように。鈴は、目の前の一人を、見捨てては、いられなかった。それが、力で、それが、枷だった。
雪が、屋根で、かすかに、鳴った。
ねむれ、ねむれ、夜の子。昼間の小夜の唄が、ふいに、耳の奥で鳴った。おまえの名は——その先を、母は、何と唄ったのだろう。思い出そうとすると、代わりに、今日呼んだ名前ばかりが、浮かんだ。伊代。太市。巳助。冬芽。呼んだ名は、こんなに覚えているのに、唄の続きだけが、出てこない。
明日も、誰かが、名を灯しに来る。断れないことを、鈴はもう、知っている。
右手の糸が、夜の中で、ほそく、光り続けていた。




