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最下層の「鈍色」と蔑まれた少女、たったひとつの『言葉』で理不尽な帝国システムをぶっ壊す  作者: 星村 流星
第一部

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13/25

第13話 残り火

夜が、明けた。


要石(かなめいし)()に、初めて、外の光が差した。崩れた天井の、その裂け目から。白くない、ふつうの、朝の光だった。何十年も、この間を照らしてきたのは、名前を喰う、白い火だけだった。その火は、もう、喰っていなかった。


大灯(おおび)は、まだ、燃えていた。けれど、色が変わっていた。


ひとつの白ではなく、無数の色が、寄り集まって、燃えていた。(あい)も、(あけ)も、萌黄(もえぎ)も。名前を取り戻した者たちが、めいめいの火を、みずから、灯している。喰う火が灯る火に、変わっていた。奪う火が、灯される火に。(すず)は、その火を見上げた。きれいだった。子どもの頃、灰郷(はいごう)から見上げた、あの白い火とは、別のきれいさだった。あれは見惚れさせて、足の下を、(から)にする美しさだった。これは足もとに、ひとつずつ、灯のある、美しさだった。


間のあちこちに、白い灰が散っていた。果てた、白き読み手の、なれの果て。誰も、その灰を踏まなかった。名づける側に回った無名衆(むみょうしゅう)も、半ば寝返った守人(もりびと)も、その白い灰の前を、ただ静かに、通り過ぎた。憎しみよりも、近いものを、皆、感じていた。あれはかつて、自分たちと同じ、下層の移ろい火(うつろいび)だった。腐った世を正そうとして、全てを失い、最後に、己ひとりを()べた男。彼の選んだ慈悲が、何十年、八洲(やしま)を支えてきたことも、また嘘ではなかった。鈴はその灰に、手を合わせたい気持ちと、二度とこんな灰を生むまいという気持ちを、同時に抱いた。


鈴の腕の中で、(はなだ)が、目を開けた。



「……見えない」


縹は最初に、そう言った。


色の褪せた、灰青の瞳が、朝の光の中で、頼りなく、揺れていた。鈴の顔を、探すように。けれど、その目は、もう鈴の輪郭を、ぼんやりとしか、捉えていなかった。


魂火(こんか)が、読めない」縹は、自分の手のひらを、見た。そこに消えかけの、縹色の残り火が、かすかに灯っている。「お前の火の色も、見えない。あれだけ、覗き込んできた、お前の火が」


鈴はその手を、握った。あたたかい手だった。色は褪せても、温度だけは、あの夜の籠り堂(こもりどう)と、同じだった。


「読めなくて、いいよ」鈴は言った。「あんた、もう、読み手じゃない。あたしを読まなくて、いい。あたしも、もう、読まれたくない」


縹の、見えない目から、ひとすじ、こぼれた。それが悲しみなのか、安堵なのか、鈴には分からなかった。たぶん、両方だった。生まれて初めて、誰の手のひらの上でもなく、自分で選んだ一手。その代償が、これだった。色を読む目と、神籍(しんせき)鏡守(かがみもり)であった、すべて。けれど、縹は生きていた。崩れかけた結界を、自分の火で、傷痕に封じて、なお、生きて、ここに、いた。


あの夜、籠り堂で、縹は別の道を探す、と誓った。その誓いは、白き読み手の、設計の内だった。けれど、いまこうして、結界を繋いだ一手だけは、誰の設計でも、なかった。縹は誓いを、果たせなかった。鈴を座から逃がす道は、見つからなかった。代わりに世界そのものを、座の要らない形へ、ほんの少しだけ、ずらした。それが、縹にできた、精一杯の、別の道だった。


鈴は、縹の、色の褪せた手を、自分の頬に、当てた。第九話の夜、彼がそうしたように。今度は、鈴のほうから。読めない目の縹は、それでもその温度で、鈴が笑っているのか、泣いているのかを、感じ取ろうと、していた。


(おきな)の術で」縹は、(かす)れた声で、笑った。「結界を、繋いだ。隠すための握る術で、世界を繋いだ。あの老いぼれ、種をよく蒔いていった」


その傷痕から、まだかすかに、潮の匂いがしていた。完全には、塞がっていない。封じただけだ。滲み続ける、ひびのまま。勝利の足もとに、すでに次の滅びの、にじみがあった。



「縹を、頼む」


声に振り向くと、(じん)が、立っていた。


無名衆を率いて、夜を戦い抜いた男。鈴に名を呼ばれて、半ば、寝返った男。襤褸(ぼろ)は、血と(すす)に、汚れていた。けれど、その目から、第十話の、あの暗さは、少しだけ、抜けていた。


「半分だけ、戻ってきたよ」鈴は言った。


「半分だ」燼は、頷いた。「残りの半分は、戻らない。——おれは、お前を売った。その事実は、消えない。名前を呼ばれたくらいで、なかったことには、ならない」


「うん」


「無名衆は、これで終わりじゃない。むしろ、ここからだ」燼は、崩れた間の、外を、見た。「天理院(てんりいん)の残党が、退いた。今だけだ。要石を失った結界が、ほころんでるのを見て、ほかの(くに)の連中が、本気で攻めてくる。本物の戦は、これからだ。——おれは、行く。皆を、まとめなきゃならない」


燼は間の灯のほうへ、目をやった。名前を取り戻した者たちが、互いの火を、囲っている。守り合うように。その光景を、燼は長いあいだ、見ていた。


「名を灯した連中は」やがて、言った。「もう、戦には向かん。守るものが、できちまったからな。死ねなくなった人間は、いい兵隊には、ならない」


褒めているのか、惜しんでいるのか、分からない言いかただった。本人にも、分かっていないのだろう。燼の率いる側と、灯った火を守る側と。同じ無名衆が、これから、二つに割れていく。その割れ目を、燼は、もう見ていた。大局の男の目は、そういうものを、誰より早く、見つけてしまう。


「焼く側に、戻るの」鈴は、訊いた。


燼は、答えなかった。代わりに、鈴の手の中の縹を見て、それから、鈴を見た。


「お前は」燼は言った。「目の前の一人を、名前で呼んで、世界を変えた。おれには、できなかったやり方だ。おれにはいつまでも、一人の顔が、見えなかった。大義しか、見えなかった。——だが、鈴。一人ずつ名前を呼んでるうちに、潮は、来る。枯れ(かれ)は、来る。間に合うのか。お前のやり方で」


「分からない」鈴は、正直に言った。


間に合うのかは、分からなかった。一人ずつ名を呼ぶ速さより、潮の満ちる速さのほうが、速いかもしれなかった。燼の言うことは、いつも半分は、正しかった。それが、燼の、こわいところだった。大義は、間違っていない。ただその大義のために、目の前の一人を焚べるところだけが、間違っていた。鈴は、その逆をやる。目の前の一人を、守るために、大義を後回しにする。どちらが八洲を、救うのか。あるいはどちらも、救えないのか。答えは、まだどこにも、なかった。


「だろうな」燼は、薄く、笑った。狩りで笑っていた、あの少年の、面影が一瞬だけ、戻った。「また、会う。敵か味方かは、その時のお前次第だ」


それだけ言って、燼は背を向けた。大義と私情の、埋まらない溝を、抱えたまま。第二の道は、宙吊りのまま、闇へ消えていった。


間の入り口のほうで、若い守人がひとり、名を取り戻した者たちのあいだを、歩き回っていた。


手に、神名簿のほどけた紙を、一枚、持っている。昨夜(ゆうべ)、棒を取り落とした、あの歩幅の揃った男だった。男は、紙の名前を、ひとりずつに、見せて回っていた。これは、あんたか。あんたの郷の者か。読まれて、書かれて、焚べられるはずだった名前を、読む側だった男が、持ち主へ、返して回っている。


誰に、命じられたのでもない。返しかたも、ぎこちない。それでも、紙を覗き込んだ年寄りがひとつ頷くたび、男の肩から、何かが、ひとつずつ、降りていくのが、遠目にも分かった。


ああやって、と鈴は思った。仕組みの側にいた者も、ひとりずつ、降りてくる。名前は、呼ぶ者と、返す者の、両方を、ほどいていく。番号は、そのどちらも、できなかった。それが、昨夜、この間で証されたことの、いちばん静かな形だった。



間の隅で小さな手が、鈴の袖を引いた。


(ふき)だった。


番号の冷光の消えた首。胸の奥の、小さな魂火。あの朝、目を伏せて見送った子が、いま鈴の袖を、握っている。何か言おうとして、言葉が見つからないのか、蕗は両手を口元に当てて、はあ、と息を吹いた。それから、自分でその手を、下ろした。


「もう、こわくない」蕗は言った。「鈴姉(すずねえ)ちゃんが、名前、返してくれたから」


返したのではない、と思った。あなたの名前は、最初から、あなたのものだった。あたしは、呼んだだけ。けれど、それを七つの子に、どう言えばいいのか、分からなかった。代わりに、鈴は膝を折って、目線を合わせた。あの朝、できなかった、それだけのことを。


「春になったら」鈴は言った。「枯れ野の縁の、苦い葉っぱ、また、食べる?」


蕗は顔じゅうを、しわくちゃにして、笑った。


「二枚、食べる」



鈴は、小夜(さよ)を、探した。


間の隅、(わら)の上に、妹は、いた。守人は、もう、いなかった。逃げたか、寝返ったか。小夜はひとり、膝を抱えて、座っていた。鈴を見つけると、その顔がぱっと、灯った。


「鈴姉!」


声が、出ていた。番号を、灯すこともなく。もう声を殺さなくていいことを、まだ知らない顔で、けれど、声を上げていた。鈴は駆け寄って、その薄い体を、抱きしめた。痩せた手首。冷たい指。灰郷の、囲炉裏のそばの匂い。腰の袋に入るぶんの、たった一人。鈴の、世界の、いちばん奥。


「迎えに、来たよ」鈴は言った。「帰ろう。——家に」


額に、手を当てた。熱は、まだ、少しある。頭の中で勝手に、段取りが組み上がっていく。枯れ野の縁の、岩陰の株は、あと三つ。摘んで乾かして、束にして。干した穂は、白い石の上で、粉になった。守人の(くつ)の下で。けれど、草は、また摘める。摘みに行ける手と足が、こうして、残った。妹の額に当てられる手のひらが、残った。それが、今夜、鈴が勝ち取ったものの、いちばん小さくて、いちばん確かな、ひとつだった。


ずっとそれだけを、願ってきた。ただ、家に帰りたいだけ。妹のところへ。鈍色(にびいろ)の郷へ。その願いだけで、ここまで、来た。


小夜が鈴の胸で、頷いた。それから、ふと、顔を上げて、言った。


「鈴姉。あたしね、昨夜、変だったの」


「変?」


「鈴姉が、みんなの名前を、呼んでたとき。あたしの、ここが」小夜は、自分の胸に、手を当てた。「熱く、なって。なんだか、色が見えた気がしたの。あたしの中に。藍とか、朱とか。ぐるぐる、回って。怖くて。でも、きれいで」


鈴の腕が、止まった。


あらゆる色を、移ろう火。誰の手にも、収まらない色。鈴の、いちばん隠したかったもの。その火が、妹の、胸の奥にも。


いつから、だろう、と鈴は思った。小夜は昔から、夜になると、鈴の知らない場所から、言葉を降らせた。名前は火より先にある、と言った。大灯は名前を燃やして燃えてる、と言った。あれは病で寝てばかりの子の、頭の中だけが遠くまで行く、ただの空想だと、鈴は思ってきた。違ったのかもしれない。あの言葉は、移ろい火の血が、まだ灯改め(ひあらため)を受けぬ子の中で、半分、目を覚ましかけていた、その、寝言だったのかもしれない。


第十二話の、あの一瞬。鈴が、蕗の名を呼び、連鎖が間に広がったとき。小夜の胸に、誰も与えていない色が、灯って、消えた。鈴はそれを、見なかった。蕗と連鎖に、目を奪われて。けれど、火は確かに、応えていた。鈴の火に。同じ、移ろい火が、共鳴したのだ。


異変は、血で受け継がれる。


公的には移ろい火は、数代に一度。けれど、ほんとうは。天理院がひそかに把握し、間引いてきた、特定の血脈に、伏在する。鈴の血。母の血。小夜の、血にも。


「鈴姉?」小夜が、不安そうに、鈴を見上げた。「あたし、変なの?怒ってる?」


「ううん」鈴は、必死で笑った。「変じゃない。——きれいだよ。あんたの色は、きっとすごく、きれいだ」


そう言いながら、鈴の胸の奥は、凍えていた。小夜も、移ろい火だ。いつか、灯改めが来れば、この子も読まれる。(まが)と。次の、要石候補と。鈴が命を賭けて壊した仕組みは、一州で、崩れただけだった。八洲には、まだほかの大灯が、ほかの結界が、ある。ほかの、要石も。


要石は、他にもある。


果てる間際、白き読み手が、本当の名をかたどる前に、言いかけた言葉。あのとき、鈴の耳の底に、確かに落ちた、ひとふし。要石は他にも、ある。私が、果てても。仕組みは八洲じゅうに、ある。お前がひとつ壊しても、終わらない。



小夜を抱いたまま、鈴は自分の右手を、見た。


手のひらに、移ろい火が、回っている。隠さずに。けれど。


その火から、細い、銀色の糸が、一本。


崩れ、変質した結界の、ほどけた繋ぎ目の、その一本へ。ふっと引かれるように、伸びていた。鈴の魂が、名づけによって解き放った、その同じ結界に、今度は鈴自身が、繋がれ、はじめていた。


要石を失った結界は、新しい錨を、求めていた。


結界をいちばん深く、揺るがした火が。いちばん強く、それに繋がろうとしていた。名づけて、自由になった、その手が。読まれることを拒んだ、その火が。今度は誰の宣告でもなく、ただ、自然の(ことわり)のように、新しい鎖に、繋がれていく。


自由を、勝ち取った。その勝利が、新しい鎖の、始まりだった。


鈴はその銀の糸を、見つめた。怖く、なかった、と言えば、嘘になる。けれど、もう隠れる女では、なかった。読まれる女でも、なかった。鈴は、名づける女だった。だったら、この鎖にも、いつか、名前をつけてやる。要石、ではない、別の名前を。


けれど、それは今日では、なかった。今日、鈴にできることは、ひとつだけだった。妹を抱いて、傷ついた恋人を、支えて、この、崩れた間を、出ること。一歩ずつ。目の前の、一歩ずつ。世界は、いつも目の前の一人ぶんしか、なかった。それは、変わらなかった。変わったのは、その一人の輪の中に、入れる者の、数だった。妹だけだった輪が、いまは、蕗を、縹を名もない無名たちを、抱えるほどに、広がっていた。広がったぶんだけ、鈴は重くなり、同時に強くなっていた。


「鈴姉」小夜が、言った。「帰ろう。家に」


「うん」鈴は、頷いた。「帰ろう」


帰り着く家が、まだあるのかは、分からなかった。傷痕からは、潮が滲み、残党は戦の支度をしている。妹の胸には、移ろい火。自分の手には、銀の糸。何ひとつ、終わってなど、いなかった。


それでも、鈴は立ち上がった。片腕に、妹を。もう片方の手で、見えない目の縹を、支えて。


崩れた間の、裂け目の向こうで、無数の色の灯が、夜明けの空に、瞬いていた。番号を捨てた者たちの、名前の灯が。名を、灯せ、という声は、もう止んでいた。代わりに、ひとつ、ひとつの灯が、静かに燃えていた。


翁が蒔いた種は、咲いた。種を蒔いた本人は、それを見られなかったけれど。


胸の奥には、咲かなかった名前も、ある。


(すみれ)。呼んでも、もう灯らない名前。翁。名前ですらなかった名前。果てた白き読み手の、誰のものでもなくなった、最後の名前。鈴はそれらを、捨てないことにした。呼べる名前を呼ぶのと、同じ重さで、呼べない名前を、覚えておく。名簿には、載らない。鏡にも、読めない。鈴の中の、誰にも奪えない帳面に、それらは載った。覚えると重いから、と菫は言った。そのとおりだった。重い。重いまま、持っていく。


鈴はその灯の中を、歩きだした。


崩れた間を出ると、灯都の朝が、広がっていた。


白い塔は変わらず、立っていた。光の橋も。けれど、橋の上を灰色の衣の者たちが、堂々と歩いていた。番号の消えた首で。誰も彼らを、見ないふりを、しなかった。できなかった。神籍の者たちは、扉を閉ざした塔の窓から、その行列を、見下ろしていた。見下ろす、という言葉の意味が、昨日までと、変わってしまったことに、まだ気づかない顔で。


(つな)の駅で、籠が待っていた。


来たときは、吊り上げられた。手首を縛られて、足の下を丸ごと奪われて。帰りは自分の足で、籠に乗る。妹の手を引いて、縹を支えて。籠が雲へ向かって、下りはじめる。下りる、ということが、こんなにまっとうな動きだとは、知らなかった。上るばかりの都で、下りることは、ずっと落ちることと、同じ意味だった。もう、違う。鈴は、下りていく。帰るために。


籠の中で、縹が編み目の外の白い湿りに、見えない顔を、向けていた。


「初めてだ」ぽつりと、言った。「下りるのは」


神籍に生まれ、灯都で育ち、鏡守として、上から下を、読み続けてきた男。その男が生まれて初めて、自分の足で乗った籠で、雲の下へ下りていく。読む力を失った目で。鈴はその横顔を、見た。こわがっているのかと、思った。違った。耳を、澄ませていた。


「音が、増える」縹は言った。「下りるほど。風と、水と、鳥と。……上は、静かすぎた。ずっと」


雲を抜けると、地上が見えた。


下りながら、北の空に、それが見えた。


結界の、傷痕。晴れた空の一部が、そこだけ、古い硝子(がらす)(ひび)のように、薄く濁って、光をわずかに、ねじ曲げている。地上からは、たぶん、まだ誰も気づかない。けれど、あれは、消えない。縹の縹色が、内側から繋ぎ留めている、世界の縫い目。潮と枯れが、あの細い濁りから、これから先、ずっと、滲み続ける。


鈴は、隣の縹を見た。見えない目の男は、それでも、正確に、北を向いていた。


「感じるの」


「……ああ」縹は、短く言った。「糸の先が、軋む音がする」


灰色の都。その向こうの、地の郷々。どこかに、灰郷の窪地がある。鈍色の屋根が、肩を寄せ合って、朝の埃をかぶっている。あの屋根の下へ、帰る。帰って、それからのことは、それから、考える。


片腕に、軽い妹を。もう片方の手に、軽くなった恋人を。どちらも、もう、手放さなかった。背には果てた要石の、白い灰。足もとには、滲みはじめた、潮。胸には、まだ咲かせ方の分からない、翁の種。手には新しい、銀の糸。何ひとつ、片付いては、いなかった。それでも、鈴は自分の名前を、自分で灯したまま、歩いていた。読まれる女ではなく、名づける女として。


籠が地面に、着いた。


足の裏に、土が応えた。十六年ぶん、踏んできた、あの応えかたで。鈴は妹の手を、握り直した。


ここから先は、まだ、誰も知らない物語だった。

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