第13話 残り火
夜が、明けた。
要石の間に、初めて、外の光が差した。崩れた天井の、その裂け目から。白くない、ふつうの、朝の光だった。何十年も、この間を照らしてきたのは、名前を喰う、白い火だけだった。その火は、もう、喰っていなかった。
大灯は、まだ、燃えていた。けれど、色が変わっていた。
ひとつの白ではなく、無数の色が、寄り集まって、燃えていた。藍も、朱も、萌黄も。名前を取り戻した者たちが、めいめいの火を、みずから、灯している。喰う火が灯る火に、変わっていた。奪う火が、灯される火に。鈴は、その火を見上げた。きれいだった。子どもの頃、灰郷から見上げた、あの白い火とは、別のきれいさだった。あれは見惚れさせて、足の下を、空にする美しさだった。これは足もとに、ひとつずつ、灯のある、美しさだった。
間のあちこちに、白い灰が散っていた。果てた、白き読み手の、なれの果て。誰も、その灰を踏まなかった。名づける側に回った無名衆も、半ば寝返った守人も、その白い灰の前を、ただ静かに、通り過ぎた。憎しみよりも、近いものを、皆、感じていた。あれはかつて、自分たちと同じ、下層の移ろい火だった。腐った世を正そうとして、全てを失い、最後に、己ひとりを焚べた男。彼の選んだ慈悲が、何十年、八洲を支えてきたことも、また嘘ではなかった。鈴はその灰に、手を合わせたい気持ちと、二度とこんな灰を生むまいという気持ちを、同時に抱いた。
鈴の腕の中で、縹が、目を開けた。
◆
「……見えない」
縹は最初に、そう言った。
色の褪せた、灰青の瞳が、朝の光の中で、頼りなく、揺れていた。鈴の顔を、探すように。けれど、その目は、もう鈴の輪郭を、ぼんやりとしか、捉えていなかった。
「魂火が、読めない」縹は、自分の手のひらを、見た。そこに消えかけの、縹色の残り火が、かすかに灯っている。「お前の火の色も、見えない。あれだけ、覗き込んできた、お前の火が」
鈴はその手を、握った。あたたかい手だった。色は褪せても、温度だけは、あの夜の籠り堂と、同じだった。
「読めなくて、いいよ」鈴は言った。「あんた、もう、読み手じゃない。あたしを読まなくて、いい。あたしも、もう、読まれたくない」
縹の、見えない目から、ひとすじ、こぼれた。それが悲しみなのか、安堵なのか、鈴には分からなかった。たぶん、両方だった。生まれて初めて、誰の手のひらの上でもなく、自分で選んだ一手。その代償が、これだった。色を読む目と、神籍の鏡守であった、すべて。けれど、縹は生きていた。崩れかけた結界を、自分の火で、傷痕に封じて、なお、生きて、ここに、いた。
あの夜、籠り堂で、縹は別の道を探す、と誓った。その誓いは、白き読み手の、設計の内だった。けれど、いまこうして、結界を繋いだ一手だけは、誰の設計でも、なかった。縹は誓いを、果たせなかった。鈴を座から逃がす道は、見つからなかった。代わりに世界そのものを、座の要らない形へ、ほんの少しだけ、ずらした。それが、縹にできた、精一杯の、別の道だった。
鈴は、縹の、色の褪せた手を、自分の頬に、当てた。第九話の夜、彼がそうしたように。今度は、鈴のほうから。読めない目の縹は、それでもその温度で、鈴が笑っているのか、泣いているのかを、感じ取ろうと、していた。
「翁の術で」縹は、掠れた声で、笑った。「結界を、繋いだ。隠すための握る術で、世界を繋いだ。あの老いぼれ、種をよく蒔いていった」
その傷痕から、まだかすかに、潮の匂いがしていた。完全には、塞がっていない。封じただけだ。滲み続ける、ひびのまま。勝利の足もとに、すでに次の滅びの、にじみがあった。
◆
「縹を、頼む」
声に振り向くと、燼が、立っていた。
無名衆を率いて、夜を戦い抜いた男。鈴に名を呼ばれて、半ば、寝返った男。襤褸は、血と煤に、汚れていた。けれど、その目から、第十話の、あの暗さは、少しだけ、抜けていた。
「半分だけ、戻ってきたよ」鈴は言った。
「半分だ」燼は、頷いた。「残りの半分は、戻らない。——おれは、お前を売った。その事実は、消えない。名前を呼ばれたくらいで、なかったことには、ならない」
「うん」
「無名衆は、これで終わりじゃない。むしろ、ここからだ」燼は、崩れた間の、外を、見た。「天理院の残党が、退いた。今だけだ。要石を失った結界が、ほころんでるのを見て、ほかの州の連中が、本気で攻めてくる。本物の戦は、これからだ。——おれは、行く。皆を、まとめなきゃならない」
燼は間の灯のほうへ、目をやった。名前を取り戻した者たちが、互いの火を、囲っている。守り合うように。その光景を、燼は長いあいだ、見ていた。
「名を灯した連中は」やがて、言った。「もう、戦には向かん。守るものが、できちまったからな。死ねなくなった人間は、いい兵隊には、ならない」
褒めているのか、惜しんでいるのか、分からない言いかただった。本人にも、分かっていないのだろう。燼の率いる側と、灯った火を守る側と。同じ無名衆が、これから、二つに割れていく。その割れ目を、燼は、もう見ていた。大局の男の目は、そういうものを、誰より早く、見つけてしまう。
「焼く側に、戻るの」鈴は、訊いた。
燼は、答えなかった。代わりに、鈴の手の中の縹を見て、それから、鈴を見た。
「お前は」燼は言った。「目の前の一人を、名前で呼んで、世界を変えた。おれには、できなかったやり方だ。おれにはいつまでも、一人の顔が、見えなかった。大義しか、見えなかった。——だが、鈴。一人ずつ名前を呼んでるうちに、潮は、来る。枯れは、来る。間に合うのか。お前のやり方で」
「分からない」鈴は、正直に言った。
間に合うのかは、分からなかった。一人ずつ名を呼ぶ速さより、潮の満ちる速さのほうが、速いかもしれなかった。燼の言うことは、いつも半分は、正しかった。それが、燼の、こわいところだった。大義は、間違っていない。ただその大義のために、目の前の一人を焚べるところだけが、間違っていた。鈴は、その逆をやる。目の前の一人を、守るために、大義を後回しにする。どちらが八洲を、救うのか。あるいはどちらも、救えないのか。答えは、まだどこにも、なかった。
「だろうな」燼は、薄く、笑った。狩りで笑っていた、あの少年の、面影が一瞬だけ、戻った。「また、会う。敵か味方かは、その時のお前次第だ」
それだけ言って、燼は背を向けた。大義と私情の、埋まらない溝を、抱えたまま。第二の道は、宙吊りのまま、闇へ消えていった。
間の入り口のほうで、若い守人がひとり、名を取り戻した者たちのあいだを、歩き回っていた。
手に、神名簿のほどけた紙を、一枚、持っている。昨夜、棒を取り落とした、あの歩幅の揃った男だった。男は、紙の名前を、ひとりずつに、見せて回っていた。これは、あんたか。あんたの郷の者か。読まれて、書かれて、焚べられるはずだった名前を、読む側だった男が、持ち主へ、返して回っている。
誰に、命じられたのでもない。返しかたも、ぎこちない。それでも、紙を覗き込んだ年寄りがひとつ頷くたび、男の肩から、何かが、ひとつずつ、降りていくのが、遠目にも分かった。
ああやって、と鈴は思った。仕組みの側にいた者も、ひとりずつ、降りてくる。名前は、呼ぶ者と、返す者の、両方を、ほどいていく。番号は、そのどちらも、できなかった。それが、昨夜、この間で証されたことの、いちばん静かな形だった。
◆
間の隅で小さな手が、鈴の袖を引いた。
蕗だった。
番号の冷光の消えた首。胸の奥の、小さな魂火。あの朝、目を伏せて見送った子が、いま鈴の袖を、握っている。何か言おうとして、言葉が見つからないのか、蕗は両手を口元に当てて、はあ、と息を吹いた。それから、自分でその手を、下ろした。
「もう、こわくない」蕗は言った。「鈴姉ちゃんが、名前、返してくれたから」
返したのではない、と思った。あなたの名前は、最初から、あなたのものだった。あたしは、呼んだだけ。けれど、それを七つの子に、どう言えばいいのか、分からなかった。代わりに、鈴は膝を折って、目線を合わせた。あの朝、できなかった、それだけのことを。
「春になったら」鈴は言った。「枯れ野の縁の、苦い葉っぱ、また、食べる?」
蕗は顔じゅうを、しわくちゃにして、笑った。
「二枚、食べる」
◆
鈴は、小夜を、探した。
間の隅、藁の上に、妹は、いた。守人は、もう、いなかった。逃げたか、寝返ったか。小夜はひとり、膝を抱えて、座っていた。鈴を見つけると、その顔がぱっと、灯った。
「鈴姉!」
声が、出ていた。番号を、灯すこともなく。もう声を殺さなくていいことを、まだ知らない顔で、けれど、声を上げていた。鈴は駆け寄って、その薄い体を、抱きしめた。痩せた手首。冷たい指。灰郷の、囲炉裏のそばの匂い。腰の袋に入るぶんの、たった一人。鈴の、世界の、いちばん奥。
「迎えに、来たよ」鈴は言った。「帰ろう。——家に」
額に、手を当てた。熱は、まだ、少しある。頭の中で勝手に、段取りが組み上がっていく。枯れ野の縁の、岩陰の株は、あと三つ。摘んで乾かして、束にして。干した穂は、白い石の上で、粉になった。守人の沓の下で。けれど、草は、また摘める。摘みに行ける手と足が、こうして、残った。妹の額に当てられる手のひらが、残った。それが、今夜、鈴が勝ち取ったものの、いちばん小さくて、いちばん確かな、ひとつだった。
ずっとそれだけを、願ってきた。ただ、家に帰りたいだけ。妹のところへ。鈍色の郷へ。その願いだけで、ここまで、来た。
小夜が鈴の胸で、頷いた。それから、ふと、顔を上げて、言った。
「鈴姉。あたしね、昨夜、変だったの」
「変?」
「鈴姉が、みんなの名前を、呼んでたとき。あたしの、ここが」小夜は、自分の胸に、手を当てた。「熱く、なって。なんだか、色が見えた気がしたの。あたしの中に。藍とか、朱とか。ぐるぐる、回って。怖くて。でも、きれいで」
鈴の腕が、止まった。
あらゆる色を、移ろう火。誰の手にも、収まらない色。鈴の、いちばん隠したかったもの。その火が、妹の、胸の奥にも。
いつから、だろう、と鈴は思った。小夜は昔から、夜になると、鈴の知らない場所から、言葉を降らせた。名前は火より先にある、と言った。大灯は名前を燃やして燃えてる、と言った。あれは病で寝てばかりの子の、頭の中だけが遠くまで行く、ただの空想だと、鈴は思ってきた。違ったのかもしれない。あの言葉は、移ろい火の血が、まだ灯改めを受けぬ子の中で、半分、目を覚ましかけていた、その、寝言だったのかもしれない。
第十二話の、あの一瞬。鈴が、蕗の名を呼び、連鎖が間に広がったとき。小夜の胸に、誰も与えていない色が、灯って、消えた。鈴はそれを、見なかった。蕗と連鎖に、目を奪われて。けれど、火は確かに、応えていた。鈴の火に。同じ、移ろい火が、共鳴したのだ。
異変は、血で受け継がれる。
公的には移ろい火は、数代に一度。けれど、ほんとうは。天理院がひそかに把握し、間引いてきた、特定の血脈に、伏在する。鈴の血。母の血。小夜の、血にも。
「鈴姉?」小夜が、不安そうに、鈴を見上げた。「あたし、変なの?怒ってる?」
「ううん」鈴は、必死で笑った。「変じゃない。——きれいだよ。あんたの色は、きっとすごく、きれいだ」
そう言いながら、鈴の胸の奥は、凍えていた。小夜も、移ろい火だ。いつか、灯改めが来れば、この子も読まれる。禍と。次の、要石候補と。鈴が命を賭けて壊した仕組みは、一州で、崩れただけだった。八洲には、まだほかの大灯が、ほかの結界が、ある。ほかの、要石も。
要石は、他にもある。
果てる間際、白き読み手が、本当の名をかたどる前に、言いかけた言葉。あのとき、鈴の耳の底に、確かに落ちた、ひとふし。要石は他にも、ある。私が、果てても。仕組みは八洲じゅうに、ある。お前がひとつ壊しても、終わらない。
◆
小夜を抱いたまま、鈴は自分の右手を、見た。
手のひらに、移ろい火が、回っている。隠さずに。けれど。
その火から、細い、銀色の糸が、一本。
崩れ、変質した結界の、ほどけた繋ぎ目の、その一本へ。ふっと引かれるように、伸びていた。鈴の魂が、名づけによって解き放った、その同じ結界に、今度は鈴自身が、繋がれ、はじめていた。
要石を失った結界は、新しい錨を、求めていた。
結界をいちばん深く、揺るがした火が。いちばん強く、それに繋がろうとしていた。名づけて、自由になった、その手が。読まれることを拒んだ、その火が。今度は誰の宣告でもなく、ただ、自然の理のように、新しい鎖に、繋がれていく。
自由を、勝ち取った。その勝利が、新しい鎖の、始まりだった。
鈴はその銀の糸を、見つめた。怖く、なかった、と言えば、嘘になる。けれど、もう隠れる女では、なかった。読まれる女でも、なかった。鈴は、名づける女だった。だったら、この鎖にも、いつか、名前をつけてやる。要石、ではない、別の名前を。
けれど、それは今日では、なかった。今日、鈴にできることは、ひとつだけだった。妹を抱いて、傷ついた恋人を、支えて、この、崩れた間を、出ること。一歩ずつ。目の前の、一歩ずつ。世界は、いつも目の前の一人ぶんしか、なかった。それは、変わらなかった。変わったのは、その一人の輪の中に、入れる者の、数だった。妹だけだった輪が、いまは、蕗を、縹を名もない無名たちを、抱えるほどに、広がっていた。広がったぶんだけ、鈴は重くなり、同時に強くなっていた。
「鈴姉」小夜が、言った。「帰ろう。家に」
「うん」鈴は、頷いた。「帰ろう」
帰り着く家が、まだあるのかは、分からなかった。傷痕からは、潮が滲み、残党は戦の支度をしている。妹の胸には、移ろい火。自分の手には、銀の糸。何ひとつ、終わってなど、いなかった。
それでも、鈴は立ち上がった。片腕に、妹を。もう片方の手で、見えない目の縹を、支えて。
崩れた間の、裂け目の向こうで、無数の色の灯が、夜明けの空に、瞬いていた。番号を捨てた者たちの、名前の灯が。名を、灯せ、という声は、もう止んでいた。代わりに、ひとつ、ひとつの灯が、静かに燃えていた。
翁が蒔いた種は、咲いた。種を蒔いた本人は、それを見られなかったけれど。
胸の奥には、咲かなかった名前も、ある。
菫。呼んでも、もう灯らない名前。翁。名前ですらなかった名前。果てた白き読み手の、誰のものでもなくなった、最後の名前。鈴はそれらを、捨てないことにした。呼べる名前を呼ぶのと、同じ重さで、呼べない名前を、覚えておく。名簿には、載らない。鏡にも、読めない。鈴の中の、誰にも奪えない帳面に、それらは載った。覚えると重いから、と菫は言った。そのとおりだった。重い。重いまま、持っていく。
鈴はその灯の中を、歩きだした。
崩れた間を出ると、灯都の朝が、広がっていた。
白い塔は変わらず、立っていた。光の橋も。けれど、橋の上を灰色の衣の者たちが、堂々と歩いていた。番号の消えた首で。誰も彼らを、見ないふりを、しなかった。できなかった。神籍の者たちは、扉を閉ざした塔の窓から、その行列を、見下ろしていた。見下ろす、という言葉の意味が、昨日までと、変わってしまったことに、まだ気づかない顔で。
索の駅で、籠が待っていた。
来たときは、吊り上げられた。手首を縛られて、足の下を丸ごと奪われて。帰りは自分の足で、籠に乗る。妹の手を引いて、縹を支えて。籠が雲へ向かって、下りはじめる。下りる、ということが、こんなにまっとうな動きだとは、知らなかった。上るばかりの都で、下りることは、ずっと落ちることと、同じ意味だった。もう、違う。鈴は、下りていく。帰るために。
籠の中で、縹が編み目の外の白い湿りに、見えない顔を、向けていた。
「初めてだ」ぽつりと、言った。「下りるのは」
神籍に生まれ、灯都で育ち、鏡守として、上から下を、読み続けてきた男。その男が生まれて初めて、自分の足で乗った籠で、雲の下へ下りていく。読む力を失った目で。鈴はその横顔を、見た。こわがっているのかと、思った。違った。耳を、澄ませていた。
「音が、増える」縹は言った。「下りるほど。風と、水と、鳥と。……上は、静かすぎた。ずっと」
雲を抜けると、地上が見えた。
下りながら、北の空に、それが見えた。
結界の、傷痕。晴れた空の一部が、そこだけ、古い硝子の罅のように、薄く濁って、光をわずかに、ねじ曲げている。地上からは、たぶん、まだ誰も気づかない。けれど、あれは、消えない。縹の縹色が、内側から繋ぎ留めている、世界の縫い目。潮と枯れが、あの細い濁りから、これから先、ずっと、滲み続ける。
鈴は、隣の縹を見た。見えない目の男は、それでも、正確に、北を向いていた。
「感じるの」
「……ああ」縹は、短く言った。「糸の先が、軋む音がする」
灰色の都。その向こうの、地の郷々。どこかに、灰郷の窪地がある。鈍色の屋根が、肩を寄せ合って、朝の埃をかぶっている。あの屋根の下へ、帰る。帰って、それからのことは、それから、考える。
片腕に、軽い妹を。もう片方の手に、軽くなった恋人を。どちらも、もう、手放さなかった。背には果てた要石の、白い灰。足もとには、滲みはじめた、潮。胸には、まだ咲かせ方の分からない、翁の種。手には新しい、銀の糸。何ひとつ、片付いては、いなかった。それでも、鈴は自分の名前を、自分で灯したまま、歩いていた。読まれる女ではなく、名づける女として。
籠が地面に、着いた。
足の裏に、土が応えた。十六年ぶん、踏んできた、あの応えかたで。鈴は妹の手を、握り直した。
ここから先は、まだ、誰も知らない物語だった。




