第二十六話 旅立ちの朝に
きいぃ・・・・・・
ばたんっ ガチャリ
この部屋とも、いよいよお別れ。
玄関のカギを閉めるのも、これで最後。
「・・・・・・。・・・・・・さよなら、雑木ヶ谷。ありがとうね、十年間・・・・・・」
管理会社からは、施錠後のカギは新聞受けの中へそのまま入れてくれという指示だから、これを入れれば、終わり。
何だか、今、あたしはものすごく寂しい。
もう、ここへ戻ってこないのかと思っちゃうと、胸から喉の奥がぎゅっと締め上げられるようになって、勝手に涙が出そうになる。
いい歳して、何言ってんのさ。
北海道や沖縄に行くわけじゃないんだ。
栃木の実家までは、電車で三時間もあれば行き来できちゃう距離なんだ。
別に、この街に二度と踏み入らないわけじゃないんだから、こんな気持ちになることはないのに。
でも、やっぱり、寂しい。
リュックを背負い、中サイズのバッグと実家へのおみやげを持って、あたしは数秒後、カギを新聞受けの中へ入れた。
・・・・・・チャリィン カラリィンッ
何故かわからないけど、あたしはその時、ドアに向かって深々と頭を下げていた。
何に対してなのかはわからない。
十年間ありがとうなのか、お世話になりましたなのか、いつかまた来るからねなのか、シャワーヘッドを三回壊してごめんなさいなのか、どれなのだろう。
またはどれでもないのかもしれないけど、しばらく、そんな感じで頭を下げていた。
「・・・・・・さて、行くか。・・・・・・いろいろあったなぁ、東京の十年間は。・・・・・・じゃ!」
まだ朝の八時半だけど、マチナカからはスパイスの香りが漂ってくるし、ボクシングジムからは縄跳びの音やミットを打つ音が響いてくる。
同じアパートのご近所さんたちは、子供が幼稚園バスに乗るのを見送った後、公園でママ友による井戸端会議。
その公園ではハトにパンくずを与えてるお年寄りがいたり、犬の散歩をする若夫婦がいたり、のんびりゆったり今日も平和な朝だ。
あたしがここからいなくなること以外、何も変わらない朝なんだ。
「・・・・・・い! おーい! ミズキちゃーん!」
何だろう。マチナカから、イノシシ店長が窓から顔を出して、呼んでる。
「栃木に帰る前に、ちょっと、寄れないかー? 時間は、あるかいー?」
「え? ああ、それは大丈夫ですけどー・・・・・・」
「わっはっは! 良かった、良かった。じゃあ、ちょっと店まで来てちょうだい」
カランカラァン リンリリン
マチナカの入口ドアに吊られた、ベルチャイムの音。いつ聞いても、いい音だね。
「あれ? イノシシ店長ー・・・・・・?」
シュッ! パパパパァン! パァン! パパァンッ!
「うあっ! な、な、何? 何ーっ!」
何が起こったの。
あまりにも唐突な出来事に、あたしは身を竦め、何度も瞬きをして固まってしまった。
すると頭や肩に、火薬臭のするカラフルな紙リボンがたくさん絡んで乗っかっている。
なるほど、わかった。今の音は、クラッカーだったのか。
「わっはっは! ミズキちゃんの旅立ちに、みんな、朝から集まってくれたんだよぉ!」
豪快に笑うイノシシ店長は、あたしの背中をばしんと叩いた。
店内を見てみると、そこには、イノシシ店長以外に、笑顔で拍手をしている人物が数名いた。
「ねぇ、栃木に帰るんだってぇ? ねーぇ、東京に残らないのぉ? ま、頑張ってねっ!」
「あ、ありがとう・・・・・・。ゆかり・・・・・・さんも、企画が当たって良かったね」
「おらぁ! 栃木に帰って、もし、姉に会ったらよろしくな。たぶん、すぐわかるぜ!」
「そ、そうなんですか。・・・・・・鬼霧関、三役昇進おめでとうございます!」
「藤咲さん! 俺んとこの磯原鉄鋼も、本社は栃木! 縁があったら、またよろしくな!」
「そうなんですか! 高萩さんも、あちこち現場大変でしょうけど、ファイトですよ!」
「寂しくなるなぁ、ミズキちゃんがいなくなるの。東京来た時には、ジムにも遊びに来てよ?」
「はい。あたしも、川熊さんに元気をもらいに来ますよ! マチナカカレーも食べに、ね!」
「Don’t be lonely. I want to receive your punch again ! Let’s fight again someday !!」
「Thank you very much ! I am honored. Demmy, please take care of your health too.」
「ホッホォホォ! 『明珠在掌』じゃ。大切な宝は、実は自分の中にあることを忘れずにな」
「はい! ・・・・・・住職の言葉、すごく心に染みます。必ず、また座禅やりに行きますからね」
「ワタシ、ミズキさんに会えて良かったデス。また、いつか、卓を囲みましょうネ!」
「チェンさんには、あたしもいい刺激を受けた。・・・・・・またいつか、楽しく麻雀やろうね」
「いいですね、水紀さん。こんなにもいい仲間に恵まれて。素晴らしい壮行会ですよ」
「わっはっは。実は僕、このみなさんとは知り合いだったんだ。びっくりしたかい?」
「びっくりしましたよ! とんでもないサプライズじゃないですかぁ! でも、嬉しい!」
岬副社長までいる。みんな、イノシシ店長の呼びかけで朝早くに集まってたんだって。
もう、すぐにでも泣きそう。本当にありがとう、みなさん。あたし、こういうの、弱いんだよなぁ本当に。
最後に、イノシシ店長はあたしにマチナカカレーの基本レシピを渡してくれた。企業秘密でも何でもないから、試しに作ってみろってさ。
作ってやるとも、マチナカの味を、実家でね。
旅立つ朝に、思わぬサプライズだった。あたし、頑張るね。
みんなもずっと、元気いてね。




