第76章 最後の許し
古いチーク材のテーブルの上に置かれた、ジャスミン茶のカップ。そこから立ち上る白い湯気が、次第に薄くなっていく。居間に漂う静寂は、時を追うごとに重さを増し、トリアの胸を容赦なく圧迫していた。
アルウィンは上座にどっしりと腰を下ろし、両手をテーブルの上で固く組んでいた。その鋭い眼差しは、隣に座るユダを真っ直ぐに射抜いている。何を考えているのか、その表情からは一切読み取ることができない。
隣では、母のレトノが落ち着かない様子でハンカチを握りしめていた。母親特有の直感が、これから語られる物語が単なる思い出話ではないことを告げているようだった。
トリアは深く息を吸い込んだ。幼い頃から慣れ親しんだ、古い木の家の匂いが肺を満たす。彼女はその香りに勇気をもらうようにして、震える唇を開いた。
「お父さん……お母さん……」
静かだが、一点の曇りもない声が部屋に響いた。
「今まで嘘をついていて、ごめんなさい」
トリアは語り始めた。最初は言葉が詰まり、途切れ途切れだったが、一度溢れ出した真実は濁流となって流れ出した。
あの日、ジャカルタで起きたこと。一年間信じ続けてきたハルランの裏切りが、いかに無残に彼女の夢を打ち砕いたか。バリへ行ったのは栄転などではなく、ただ壊れた心を引きずり、逃げ場所を求めた結果だったこと。
レトノの顔から血の気が引いていった。声を上げることも忘れ、ただ震える手で口を覆っている。アルウィンは微動だにしなかったが、その顎のラインが次第に険しく強張っていくのがわかった。
「バリへ逃げれば、すべて終わると思ってた。お父さんたちに心配をかけたくなくて、一人で治せると思ってたの」
トリアの声が、微かに震え始める。
「でも、ハルランは私を放してくれなかった」
彼女は、自分を襲った恐怖の数々を打ち明けた。デスクに届いた不気味な黒い薔薇。執拗な脅迫メッセージ。そして、シャニアの家で起きた、あの地獄のような夜のこと。狂気に駆られた男が窓を割り、ドアを蹴破って自分を連れ戻そうとした、あの瞬間の恐怖を。
「ああ、なんてこと……」
レトノの瞳から涙が溢れ出した。愛娘が遠い異国の地で、これほどまでの危険にたった一人で晒されていた。その事実が、母親の心を激しく切り裂いた。
アルウィンは固く目を閉じた。荒い鼻息が静かな部屋に響く。テーブルの上で組まれた右手に力がこもり、浮き出た血管が怒りの深さを物語っていた。娘を守れなかった父親としての無念と、かつて結婚の許しを乞いに来た男への激しい憎悪が、彼の中で渦巻いていた。
「……どうして、電話をくれなかったんだ、トリア」
アルウィンの声は、感情を押し殺すあまり、ひどく掠れていた。
「俺がすぐに飛んでいって、その外道を叩きのめしてやったのに」
「怖かったの、お父さん……恥ずかしくて……合わせる顔がなかったの……」
トリアは深く俯いた。膝の上に落ちた涙の雫が、ズボンの生地に暗いシミを作っていく。
それまで黙って耳を傾けていたユダが、静かに背筋を伸ばした。今こそ、自分が口を開くべき時だと確信した。それは自己弁護のためではなく、トリアが背負い続けてきた荷物を、共に分かち合うためだった。
「お父様、彼女は一人ではありませんでした」
ユダの声は、驚くほど冷静で、それでいて揺るぎない力強さに満ちていた。
トリアは顔を上げ、隣に座るユダを見つめた。それから、父へと視線を移す。
「そうなの、お父さん。ユダが助けてくれたのよ」
トリアは、ユダの口角に微かに残る、あの時の傷跡を指差した。
「ハルランが会社に乗り込んできて、私を無理やり連れ去ろうとした時……ユダが盾になってくれたの。自分も怪我を負いながら、最後まで私を守り抜いてくれた」
アルウィンとレトノの視線が、同時にユダの顔へと注がれた。二人の目は、その小さな傷跡を、男の勇気の証として捉えていた。
トリアはユダの手を、さらに強く握りしめた。
「もしユダがいなかったら……私は今、どうなっていたか分かりません。彼は自分のキャリアも、自分自身の安全もすべて投げ打って、私を守ってくれたんです。彼がいたから、私は今、ここにいられるの」
再び、沈黙が部屋を包み込んだ。しかし、その質は先ほどとは明らかに違っていた。そこには、深い内省と、ある決意が漂っていた。
アルウィンはユダをじっと見つめた。盆栽の苗木を見極める時の、あの鋭い眼差し。彼はユダの瞳の奥に、打算も偽りもない、真っ直ぐな誠実さを見出した。
ゆっくりと、アルウィンは重い溜息を吐き出した。まるで、肩に乗っていた数十年分の重荷を下ろしたかのような、そんな溜息だった。
アルウィンは椅子から立ち上がった。トリアは父が怒り出すのではないかと身を強張らせたが、アルウィンはテーブルを回り込み、ユダのすぐ隣で足を止めた。
「立ちなさい、ユダ君」
控えめな、しかし威厳のある声だった。ユダは即座に立ち上がり、アルウィンと正面から向き合った。
不意に、アルウィンの大きく節くれだった手が、ユダの肩に置かれた。二度、その重みを確かめるように叩く。
「……ありがとう」
アルウィンの声が、感極まったように震えた。老いた瞳には、微かな光が宿っている。
「父親として……娘が危険に晒されている時に、側にいてやれなかったことが、何よりも辛い。だが、君がそこにいてくれた。俺に代わって、体を張って守ってくれた……」
アルウィンはユダの瞳を深く覗き込んだ。
「君は、本物の男だ。ユダ君」
ユダは喉の奥が熱くなるのを感じた。この言葉は、これまでのキャリアで得たどんな賞賛よりも、彼の心に深く響いた。
「当然のことをしたまでです。トリアは、私にとって何よりも大切な存在ですから」
ユダは誠実に応えた。
アルウィンは力強く頷いた。彼はまだ泣きじゃくっているトリアに一度視線を送り、再びユダを見据えた。
「すべて聞いた。君が娘をどう扱ってくれているか、この目で確かめさせてもらった。今日から……トリアを君に託そう。二人の仲を、心から祝福する」
その言葉は、二人にとって天国の扉を開く鍵のような響きを持っていた。
ユダは深く頭を下げ、アルウィンの手に敬意を込めて唇を寄せた。
「ありがとうございます、お父様。信頼していただき、感謝いたします。命に代えても、トリアを幸せにします。二度と彼女を悲しませるようなことはさせません。一生、守り抜くと誓います」
それは二人の男の間で交わされた、神聖な約束だった。過去を守ってきた父から、未来を守る男へと、バトンが渡された瞬間だった。
こらえきれなくなったレトノが立ち上がり、トリアのもとへ駆け寄った。彼女を力一杯抱きしめ、心の中に溜まっていた不安をすべて吐き出すように背中を撫でる。
「よかった……本当によかった。トリア、あなたの選択は間違っていなかったわ。この人は、本当に誠実な人ね」
トリアは母の腕の中で、安堵の涙を流した。数ヶ月間、背負い続けてきた山のような重荷が、一瞬にして崩れ去っていくのを感じた。嘘も、罪悪感も、もうどこにもない。両親はすべてを知り、受け入れ、そして許してくれたのだ。
「お母さん、ごめんね……大好きよ……」
「いいのよ、もう終わったこと。過去を振り返るのはやめましょう。これからは、前だけを見ていくのよ」
レトノは優しくトリアの涙を拭った。
アルウィンは席に戻り、穏やかな表情で冷めきった茶を啜った。それは、今夜彼が口にした中で、最も甘く、深い味わいのするお茶だった。
居間には、ようやく穏やかな時間が戻ってきた。泣き声は止み、代わりに小さな、けれど確かな安堵の笑みがこぼれ始める。ユダは再びトリアの隣に座り、膝の上にあるトリアの手を握り、励ますようにそっと力を込めた。
トリアは深く息を吸い込み、両親の穏やかな顔を見つめた。
一つの大きな山を越えた。許しは得られた。しかし、今夜彼女が伝えなければならないことは、まだ終わっていなかった。それは暗い過去の話ではなく、遥か遠い未来の話。
トリアは背筋を伸ばし、隣のユダに一度だけ視線を送って勇気をもらった。そして、再び両親を真っ直ぐに見つめる。
「お母さん、お父さん。実は……もう一つ、伝えたいことがあるの」
アルウィンとレトノが、不思議そうに娘を見つめた。
「なんだい? 来月すぐにでも結婚式を挙げるっていうのか?」
アルウィンが場を和ませようと冗談を言った。
トリアは薄く微笑み、静かに首を振った。
「いいえ、お父さん。これからの、私たちの生活のこと。結婚した後、どこで暮らすかについてなの」
トリアは一呼吸置き、心の準備を整えた。
「私とユダは……引っ越すことに決めたわ。ジャカルタでもなく、バリに留まるのでもなく」
レトノが小首を傾げた。「じゃあ、どこへ?」
トリアはユダを見つめ、それから凛とした、けれど柔らかな声で、今夜最後の衝撃を告げた。
「私たち、ニュージーランドへ行くわ」
第76章、お読みいただきありがとうございます。
トリアの真実への告白、そしてご両親からの温かい許し。
ユダとお父様の男同士の約束、感動的でしたね。
次章では、いよいよニュージーランド移住の発表です。
ご両親の反応や、その後の準備はどうなるのか……?
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