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自己愛者(ナルシシスト)の婚約者から逃れて:バリ島で私を救ってくれた人  作者: NoxVane


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第75章 根源への帰還

スカルノ・ハッタ国際空港、第2ターミナルの出発ロビー。


数千人の乗客が行き交う喧騒と、絶え間なく流れる出発案内のアナウンスが空気を震わせていた。しかし、国内線出発ゲートの近くに、周囲の騒がしさから切り離されたような、穏やかな一角があった。


ラティはトリアの体を壊れ物でも扱うかのように、力強く抱きしめていた。行き先はジョグジャカルタ、わずか一時間のフライトだというのに、まるで遠い異国へ送り出すかのような名残惜しさが漂っている。


「気をつけてね、トリアちゃん。ジョグジャのご両親によろしく伝えてちょうだい」


ラティはトリアの背中を優しくさすりながら、耳元で囁いた。


「向こうのご両親に伝えてね。私はもう、お会いするのが待ちきれないって」


トリアは腕の中で小さく笑い、目元を潤ませた。


「はい、おば様。必ず伝えます。いろいろと、本当にありがとうございました」


「母さん、そんなに強く抱きしめたらトリアが息苦しくなっちゃうよ」


二枚の搭乗券を手にしたユダが、苦笑しながら横に立っていた。ラティはゆっくりと腕を解くと、今度は息子に向き直り、鋭くも愛情に満ちた視線を向けた。彼女はユダのシャツの襟元を几帳面に整える。


「いい、ユダ。トリアちゃんをしっかり守るのよ。もし指先一つでも怪我をさせたら、あなたの名前を家系図から消してやるからね」


「わかってるよ、女王陛下」


ユダは肩をすくめて答え、トリアと視線を合わせて微笑んだ。


プラモノの隣で、ファラが大きく手を振って騒いでいた。


「トリアお姉ちゃん! お土産のバッピア、忘れないでね! 蒸したやつ、山ほどお願い!」


「ファラ、恥ずかしいぞ」


プラモノが呆れたように首を振ったが、トリアに向き直ると、そこには温かな父の眼差しがあった。


「道中、気をつけて。着いたら連絡しなさい」


トリアはプラモノとラティの手に、敬意を込めて唇を寄せた。この数日間、自分をありのまま受け入れてくれた家族と離れるのは、予想以上に胸に迫るものがあった。しかし、故郷には果たさなければならない大切な務めが待っている。


「それじゃあ、行ってきます」


ユダがトリアの手を握り、二人は保安検査場へと歩き出した。トリアは一度だけ振り返り、ガラス扉の向こうでいつまでも手を振り続ける家族に、手を振り返した。。


◇◇◇


高度三万フィート、飛行機は白い雲の海を突き進んでいた。


窓の外にはどこまでも続く紺碧の空が広がっているが、トリアの視線は虚空を彷徨っていた。座席の肘掛けを握る指先が、落ち着かなく動く。


ジョグジャカルタが近づくにつれ、胸の鼓動は激しさを増していった。


脳裏には、父と母の穏やかな顔が浮かんでいた。二人は今も、トリアが仕事の功績を認められてバリへ「転勤」したのだと信じている。ハルランの裏切りも、惨めな逃走も、自分を襲ったあの恐怖の夜のことも、何一つ知らないのだ。


冷たい感覚が、手のひらに広がっていく。


その時、温かな重みがトリアの手の甲に重なった。


ユダだった。彼はトリアの不安をすべて見透かしたような、凪いだ海のような微笑みを浮かべていた。


「また、手が冷たくなってる」


ユダが低く、柔らかな声で囁いた。


トリアは深く息を吐き出した。「……怖いの、ユダ。ずっと嘘をついてきたことが、自分の中で重荷になってる。お父さんが怒ったらどうしよう。お母さんを失望させたくないの」


ユダは繋いだ手に力を込めた。


「二人は君の両親だ、トリア。君のことを誰よりも理解しているはずだよ。確かに最初は怒るかもしれないけれど、それは君を愛しているからこそだ」


ユダは顔を近づけ、トリアの瞳を真っ直ぐに見つめた。


「忘れないで。今回は一人じゃない。僕が隣にいる。お父さんが怒るなら、僕が盾になる。お母さんが泣くなら、僕がティッシュを差し出すよ」


トリアの唇に、ようやく小さな笑みが戻った。「……盾になってくれるの?」


「君のためなら、なんだってなるよ。良き婿候補でも、盾でも、荷物持ちでもね」


ユダの力強い言葉に、トリアは彼の肩に頭を預けた。視界を遮っていた霧が、少しずつ晴れていくのを感じた。そうだ、もう一人ではないのだ。


◇◇◇


予約していたタクシーは、ゆっくりとカリウランの閑静な住宅街へと入っていった。


ここはジャカルタやデンパサールとは、流れる空気が根本から違う。窓を開けると、木々の緑を通り抜けた涼やかな風が入り込み、濡れた土の匂いを運んできた。


生い茂る木々がアスファルトの道に柔らかな影を落とし、どこか神秘的な静寂が辺りを包んでいる。


やがて車は、広い庭を持つモダン・ジョグロ様式の家の前で停車した。色鮮やかな蘭の花々が咲き乱れ、手入れの行き届いた庭からは、住人の穏やかな人柄が伝わってくる。


トリアは車を降り、カリウランの澄んだ空気を深く吸い込んだ。


キィ……


玄関の扉が開き、一人の女性が姿を現した。白髪が混じり始めた髪を丁寧にまとめ、手には使い古された箒を持っている。彼女は門の前に立つ人影に気づき、動きを止めた。


「……トリア? トリアなの?」


「お母さん……」


トリアの声が震えた。


母・レトノは箒をその場に放り出し、小走りに門へと駆け寄ってきた。トリアが門を開けると、次の瞬間には温かな母親の腕の中に包まれていた。


「ああ、トリア……会いたかったわ。少し痩せたんじゃない? バリでちゃんと食べてるの?」


レトノはトリアの顔を両手で包み込み、涙を浮かべてまじまじと見つめた。


「食べてるわよ、お母さん。元気だった?」


「ええ、元気よ。お父さん! お父さん! トリアが帰ってきたわよ!」


レトノが家に向かって叫ぶと、庭の奥からハサミを手にしたアルウィンが姿を現した。彼は落ち着いた足取りで近づいてきたが、その口元には隠しきれない喜びの笑みが浮かんでいた。


「我が家の自慢の娘が、ようやく帰ってきたか」


アルウィンの重厚な声が響く。トリアは母の腕を離れ、父に歩み寄ると、その節くれだった手に敬意を込めて唇を寄せた。


「お父さん……」


再会の余韻が落ち着いた頃、レトノとアルウィンの視線が、トリアの背後に立つ背の高い男へと向けられた。


ユダは大きなスーツケースの傍らに立ち、礼儀正しく頭を下げた。


レトノがトリアの腕を軽く小突いた。「トリア、あの方は? バリの会社の同僚?」


トリアはユダを振り返った。目が合う。ユダは小さく、力強く頷いた。


トリアは深く息を吸い込み、背筋を伸ばした。そしてユダの隣に立ち、彼の腕をしっかりと掴んだ。


「お母さん、お父さん。紹介するわ」


トリアの声は、静かだが凛としていた。


「この人はユダ。同僚じゃないわ。ただの恋人でもない」


レトノの目が驚きに見開かれる。アルウィンは鋭い視線でユダを値踏みするように見つめた。


「私の、結婚相手よ」


一瞬、高原の風が吹き抜ける音だけが聞こえた。


やがてレトノの顔に、先ほどよりも大きな、輝くような笑みが広がった。


「まあ……! さあ、立ってないで中に入って! 外は冷えるわ。ユダさん、どうぞ、自分の家だと思ってくつろいでちょうだい」


ユダは安堵したように微笑み、アルウィンとレトノに順に挨拶を交わした。


「ありがとうございます。お邪魔させていただきます」


「許可しよう。さあ、積もる話を聞かせてもらおうか」


アルウィンがユダの肩を軽く叩いた。それは、男同士の最初の一歩としての、不器用だが温かな歓迎の儀式だった。


◇◇◇


一時間後、カリウランの古いキッチンには、ジャスミン茶の香りとバナナを揚げる香ばしい匂いが立ち込めていた。


ユダは表のテラスで、アルウィンの盆栽コレクションを眺めながら男同士の会話に興じている。その隙に、レトノは娘を「女の城」であるキッチンへと連れ込んだ。


レトノは慣れた手つきでバナナを揚げながら、不意に口を開いた。


「ハンサムな人ね、トリア」


トリアは玉ねぎの皮を剥く手を止め、恥ずかしそうに笑った。「お母さんったら……」


「本当のことよ。立ち振る舞いが丁寧だし、何より眼差しが穏やかだわ。あの……ほら、以前の彼とは大違いね」


レトノはハルランの名前を出さぬよう、慎重に言葉を選んだ。


「以前の人は、どこか落ち着きがなくて、目が泳いでいた。でもユダさんは違う。成熟した大人の余裕を感じるわ」


トリアは小さな包丁を置き、遠くを見つめた。「ええ。ユダは……本当に私を大切にしてくれるの」


レトノはコンロの火を止め、揚げたてのバナナを皿に移すと、娘の前に座った。その瞳には、母親特有の鋭い観察眼が宿っている。


「でもね、トリア。お母さんの目は誤魔化せないわよ。あなたの目、幸せそうだけど……どこかに暗い影がある。何か、私たちに隠していることがあるでしょう?」


トリアは言葉に詰まり、指先で玉ねぎの皮をいじった。やはり、母親の直感から逃れることはできないのだ。


「……後で話すわ、お母さん。お父さんも一緒に。ユダも隣にいてくれるから」


レトノは静かに頷き、トリアの髪を優しく撫でた。「わかったわ。どんな話でも、お母さんは聞く準備ができているからね。あなたが無事に帰ってきてくれた、それだけで十分なのよ」


◇◇◇


カリウランに夕闇が降りてきた。山から降りてきた薄い霧が庭を包み、空気はいっそう冷え込んでいる。


居間には温かなオレンジ色の明かりが灯され、古いチーク材のテーブルには湯気を立てるお茶と揚げバナナが並んでいた。しかし、誰もそれに手を伸ばそうとはしなかった。


アルウィンは上座に座り、穏やかながらも威厳のある表情で娘を見つめている。レトノはその隣で、不安を隠せない様子でトリアを見守っていた。


向かい側のソファでは、トリアとユダが寄り添うように座っていた。


トリアは膝の上で拳を握りしめていた。手のひらがじっとりと汗ばむ。もう、嘘を重ねる必要はない。仕事の「転勤」という仮面を脱ぎ捨てる時が来たのだ。


ユダが、トリアの震える手に自分の手を重ねた。指先に力を込め、無言で勇気を与える。


――大丈夫だ、君ならできる。


その視線に背中を押され、トリアは深く息を吸い込んだ。肺を勇気で満たし、両親を交互に見つめる。


「お父さん、お母さん……」


トリアの声は、最初は微かに震えていた。


「実は……私がバリへ行ったのは、会社の転勤なんかじゃなかったの」


アルウィンがお茶のカップを静かに置いた。レトノが息を呑むのがわかった。


「二人に心配をかけたくなくて、嘘をついていたわ。でも、今日は本当のことを話しに来たの。私がどうしてジャカルタから逃げ出したのか。ハルランとの間に何があったのか……そして、今日まで何が起きていたのか」


トリアはユダの手をさらに強く握りしめた。


「お願い。最後まで、黙って聞いてほしいの」



第75章、お読みいただきありがとうございます。

いよいよ舞台はジョグジャカルタへ。

トリアの実家での対面、そして真実を告げる瞬間が描かれました。

父母の反応はいかに……?

緊張と涙の下一章へ続きます。

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