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自己愛者(ナルシシスト)の婚約者から逃れて:バリ島で私を救ってくれた人  作者: NoxVane


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第71章 新たな家への帰還

アルカディア・プライムに、以前よりもずっと穏やかな時間が流れてから一ヶ月が過ぎた。宙に舞っていたスキャンダルの塵はすっかり収まり、今では活気に満ちた、温かな日常がオフィスに戻っている。給湯室での密やかな噂話も、疑いの眼差しも、もうどこにもなかった。


トリアはデスクの前に立ち、私物をハンドバッグに収めていた。パソコンの電源を落とし、不在の間にミラへ引き継ぐための書類を丁寧に整える。


「本当に一週間だけでいいの?」


ミラがキャリー付きの椅子を滑らせて近づき、茶化すように言った。


「ジャカルタが恋しくなって、そのまま結婚休暇に突入しちゃうんじゃないかしら」


トリアは小さく笑ったが、胸の鼓動がわずかに速まるのを感じた。ニュージーランドへの移住という大きな計画は、彼女とユダ、そしてバスカラ部長の間だけで守られている厳重な秘密だ。


ミラやセラにとって、二人の休暇は単なる「骨休め」であり、同時にジャカルタに住むユダの家族へトリアを正式に紹介するという、重要な節目として映っている。


「無事に済むように祈ってて、ミラ。結婚の話はまだ早いわ。義理のご両親に会うと思うだけで、もう膝が震えているんだから」


バッグのファスナーを閉めながらトリアが返すと、ガムを噛んでいたセラも会話に加わった。彼女はモデルの審査員のような鋭い視線でトリアを見つめる。


「空港ファッションは合格。顔色も明るい。いい、トリア。義理の両親の心を掴む鍵は二つだけよ。素敵な笑顔と、お母さんの手料理を褒めちぎること。ユダさんのお母様、お料理が上手だって評判なんでしょ?」


「了解、マスター・セラ。実践してみるわ」


「それとお土産を忘れないで!」


ミラが素早く付け加えた。


「何でもいいから、ジャカルタらしいものをお願いね。あ、ロティ・ブアヤ(ワニのパン)とか……って、あれは結婚式用だっけ? まあいいわ、とにかく美味しいものを!」


二人の賑やかな様子に、トリアは呆れたように首を振った。


「わかったわ。二人のために、スーツケース一つ分のお土産を買ってくるから」


その時、マネージャー室のドアが開いた。ネイビーのポロシャツにチノパンという、いつものスーツ姿よりもずっと若々しくリラックスした装いのユダが現れた。肩にはバックパックが掛けられている。


「準備はいいかい、トリア?」


ユダの唇に、柔らかな笑みが浮かんだ。


「はい、ボス」


トリアが答えると、ユダはミラとセラの方を向いた。


「少しの間、オフィスを頼むよ。何か緊急のことがあれば連絡して。でも、できれば控えめにお願いしたいな。今回は最高のガイド役に専念したいんだ」


「了解です、部長! 安心してください、部長が一週間いなくても世界は滅びませんから」


ミラがふざけて敬礼をしてみせた。


ちょうど通りかかったアリンも、手に持ったコーヒーマグを揺らしながら心からの笑みを向けた。


「気をつけてね、ユダ、トリア。ご家族との時間が素敵なものになりますように」


「ありがとう、アリンさん」


ユダはトリアの機内持ち込み用ケースを軽々と持ち上げた。


「行こうか。バイパスが混み始める前に」


トリアは仲間に最後の手を振った。


「みんな、行ってきます! 私が緊張で倒れないように祈っててね!」


「頑張って!」


ミラとセラの声が重なり、背中を押してくれた。


エレベーターへ向かうユダの隣を歩くトリアの足取りは軽かった。しかし、胃の奥には目に見えない重りがぶら下がっているような感覚があった。ジャカルタ。あの街が彼女を呼んでいる。逃げ場所としてではなく、自分を証明する場所として。


◇◇◇


予約していたオンラインタクシーがロビーで待っていた。しかし空港へ向かう前に、トリアの大きなスーツケースを預けているシャニアの家に寄らなければならない。


シャニアの家に着くと、そこには少ししんみりとした空気が漂っていた。シャニアはテラスに立ち、不安げに荷物を確認するトリアを腕組みしながら見守っている。


「パスポートは? 身分証は? お財布は? 忘れ物はないわね、トリア。ジャカルタは遠いのよ。口紅一本のために戻ってくるなんてできないんだから」


からかうような口調だったが、シャニアの瞳はわずかに潤んでいた。


「大丈夫、お姉ちゃん。全部あるわ」


シャニアは一歩踏み出し、トリアを力一杯抱きしめた。それは、戦場へ向かう妹を送り出す姉のような、深く温かな抱擁だった。


「あなたなら大丈夫よ。忘れないで、あなたは素晴らしい女性だってことを。もしユダのお母様があなたのことを気に入らないなんてことがあったら、それはお母様のセンスを疑うべきだわ」


耳元で囁かれた言葉に、トリアは腕の中で声を立てて笑った。


シャニアは体を離すと、タクシーのトランクに荷物を積み終えたユダに視線を向けた。


「ユダ!」


鋭い声に、ユダが振り返る。


「何だい、シャニア?」


「私の妹をしっかり守って。もしバリに帰ってきた時に、泣き腫らした目をしてたら承知しないわよ。ジャカルタまで追いかけていって、あなたを叩きのめして、さよならさせてやるんだから」


凄んでみせるシャニアに、ユダは爽やかに笑い、指でピースサインを作った。


「安心して、シャニア。彼女が最高の笑顔で帰ってこられるように約束するよ。……あるいは、少なくとも薬指に指輪を光らせてね」


「きゃあ! アミーン(そうなりますように)!」


シャニアがはしゃいだ声を上げる。トリアの顔は一瞬で真っ赤に染まった。


「ユダ! 変なこと言わないで!」


「ほら、早く行きなさい。しっしっ!」


笑いながら追い払うシャニアに見送られ、二人はタクシーに乗り込んだ。数ヶ月間、トリアの避難所となってくれた家が、角を曲がるとともに小さくなって消えていった。


◇◇◇


イ・グスティ・ングラ・ライ空港への道中、車内には長い沈黙が流れた。トリアは硬い表情で、海の上に伸びるバリ・マンダラ高速道路の景色を見つめていたが、その思考はすでに海を越え、遠く離れた場所へと飛んでいた。


膝の上に置かれた彼女の手は冷たく、じっとりと汗ばんでいる。


その不安に気づいたユダが、そっと手を伸ばした。彼はトリアの手を包み込み、優しく握りしめる。


「手がすごく冷たいね」


ユダが静かに言った。


「まだ、怖いかい?」


トリアは顔を上げ、ユダの穏やかな横顔を見つめた。そして、深く長い溜息をつく。


「正直に言うわ……ええ、ユダ。怖いの。あなたのご両親に会うことだけじゃなくて……ジャカルタという街が」


トリアは唾を飲み込み、震える声で続けた。


「最後にあの街にいた時、私はボロボロの心で逃げ出した。あの街には……悪い思い出が多すぎるの。あそこに着いた途端、過去の影がまた襲ってくるんじゃないかって、それが怖いのよ」


ユダは深く頷き、理解を示した。彼はトリアの手を持ち上げ、その甲に軽く唇を寄せた。


「怖がるのは当然だよ。でも、一つだけ覚えておいて。今ジャカルタへ向かっている君は、あの時去っていったトリアとは違うんだ」


ユダは彼女の瞳をじっと見つめた。


「あの時の君は一人で、傷つき、逃げるしかなかった。でも今は、僕と一緒にいる。君は、自らの傷を癒やし、乗り越えた勝者としてあそこへ行くんだ。過去の影に指一本触れさせやしない。あそこで新しい思い出を作ろう。最高に幸せな思い出を」


ユダの言葉は、魔法の鎮静剤のようにトリアの心に浸透していった。激しかった鼓動が次第に落ち着きを取り戻していく。彼女はユダの手を強く握り返した。


「ありがとう、ユダ。あなたはいつも、私を安心させる方法を知っているのね」


「それが僕の役目だから」


ユダは優しく微笑んだ。


◇◇◇


二人を乗せたバティック・エアーの機体は、午後二時ちょうどにスカルノ・ハッタ国際空港の滑走路へ滑らかに着陸した。ジャカルタの空は、大都会特有の灰色に霞み、ボーディングブリッジを一歩出た瞬間にまとわりつくような熱気が二人を迎えた。


空港の喧騒、到着を告げるアナウンス、そして急ぎ足で行き交う人々の足音。それは、ゆったりとしたバリとは全く異なる、ジャカルタのリズムだった。速く、騒がしく、そして容赦のないリズム。


トリアはユダの隣を歩きながら、キャリーケースを引いた。到着ロビーを見渡す。かつて、ここは彼女の逃避の出発点だった。一人で泣きながら、バリ行きの便を待った場所。


今、彼女は戻ってきた。


トリアは深く息を吸い込み、ジャカルタの空気を肺に満たした。不思議なことに、恐れていた息苦しさは感じなかった。むしろ、ある種の安堵感さえあった。奇妙なほど、馴染みのある感覚。


「準備はいい?」


ターンテーブルの前で荷物を待っている時、ユダが尋ねた。トリアが振り向くと、ユダが彼女の背中に守るように手を添えて立っていた。


トリアの唇に、確かな笑みが浮かぶ。


「ええ、準備はできているわ」


大きなスーツケースを回収し、二人は出口へと向かった。出迎えの人々とタクシーの客引きで溢れかえるエリアで、ユダがスマートフォンを取り出した。


「オンラインタクシーで行こう」


アプリで配車場所を入力しながら、ユダが言った。


「わざと誰にも迎えを頼まなかったんだ」


トリアは不思議そうに眉を寄せた。


「え? おじ様もおば様も、私たちがこの時間に着くことを知らないの?」


ユダは悪戯っぽく口角を上げ、配車が確定するとスマホをポケットに仕舞った。


「知らないよ。明日着くと思っているはずだ。サプライズだよ。母さんを驚かせて、腰を抜かさせたいんだ」


「ユダ! あなたって人は……本当に人を驚かせるのが好きね!」


トリアは呆れながらも、ユダの腕を軽くつねった。


「もしおば様の準備ができていなかったらどうするの?」


「それが面白いんじゃないか。準備ができていない時の、ありのままの家族の顔が見られるからね」


ユダは楽しそうに笑い、トリアの肩を抱いて駐車場へと促した。


車を待つ間、ジャカルタの熱い風が二人の頬を撫でた。遠くで聞こえる苛立たしげなクラクションの音は、無骨だが正直な歓迎の音楽のようだった。


トリアは曇り空を見上げた。


(ハロー、ジャカルタ)


彼女は心の中で呟いた。


(帰ってきたわ。でも今度は、もう泣いたりはしない)


黒いMPVが二人の前に停まった。ユダは手際よく荷物を積み込み、トリアのためにドアを開けた。


「さあ、お姫様。ジャカルタ版の南瓜の馬車が用意できましたよ」


トリアは微笑みながら首を振り、車内へと滑り込んだ。


車は混雑する空港高速道路を走り出した。遠くには、灰色の空を突き刺すようにジャカルタの摩天楼がそびえ立っている。あのビル群のどこかに、ハルランやナワセナとの苦い記憶が眠っているのかもしれない。だが不思議なことに、トリアはもうそれを恐れてはいなかった。


隣には、車のシートの上で彼女の指を強く握りしめるユダの手がある。その温もりさえあれば、この残酷な大都会であっても、世界中の何にだって立ち向かえる気がした。



第71章、お読みいただきありがとうございます。

ついに舞台はジャカルタへ。

トリアにとっての「帰還」、そしてユダとの新たな挑戦が始まります。

次章では、いよいよユダのご両親との対面です。

サプライズ訪問の結果や、家族の反応は……?

続きが気になる方は、ブックマークやコメントをいただけると励みになります。

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