第72章 扉の向こうの温もり
空港からの一時間半、車窓を流れるジャカルタの景色は、重苦しい渋滞の波に飲み込まれていた。オンラインタクシーがようやく南ジャカルタの閑静な高級住宅街へとハンドルを切った頃、西に傾いた太陽は木々の隙間から黄金色の光を投げかけ、長い影を路面に落としていた。
後部座席に座るトリアは、無意識のうちに背筋を伸ばしていた。窓の外を見つめるその瞳には、期待よりも、自分を小さく見積もるような不安の色が濃く滲んでいる。
高くそびえる漆黒の鉄柵、手入れの行き届いた並木道、そして時折通り過ぎる邸宅の前に控える私設警備員の姿。ガレージに並ぶ欧州製の高級車の輝きが、トリアの気後れを加速させた。ユダが裕福な家庭の出身であることは知っていたが、こうして「彼の世界」を目の当たりにすると、言葉にできない威圧感に胸がすくむ。
「ユダ……ここ、あなたの家の近所なの?」
トリアの声は、自分でも驚くほど細く震えていた。
「そうだよ。静かでいいところだろう」
隣でスマートフォンを眺めていたユダは、彼女の指先が膝の上で微かに震えていることには気づかない様子で、事もなげに答えた。
タクシーは、モダン・トロピカル様式の優美な二階建ての邸宅の前で静かに停車した。広い庭には鮮やかな緑が溢れ、開放されたガレージには重厚な欧州製SUVが鎮座している。
トリアは小さく息を呑んだ。想像を遥かに超える豪奢な佇まいに、眩暈にも似た感覚を覚える。複雑な過去を背負い、バリでようやく立ち直り始めたばかりの自分が、果たしてこの門を潜る資格があるのだろうか。場違いな場所へ迷い込んでしまったのではないかという疑念が、澱のように足元から這い上がってきた。
「着きましたよ」
運転手の声で、トリアは現実へと引き戻された。ユダが手際よく支払いを済ませ、歩道にスーツケースを下ろす。タクシーが走り去ると、辺りは不気味なほどの静寂に包まれた。
ユダは施錠されていない小さな勝手口を開けると、立ち尽くしたまま動けないトリアを振り返った。
「トリア、おいで」
「ユダ……私、すごく緊張してる。服、変じゃない? 髪も、乱れてないかしら」
トリアはおずおずと歩み寄り、何度もブラウスの裾を整えた。ユダは小さく吹き出すと、彼女の乱れた前髪を指先で優しく直した。
「綺麗だよ。完璧だ。そんなに怯える必要なんてない」
二人はチーク材の重厚な玄関ドアへと向かった。しかし、ドアの数メートル手前で、ユダは唐突に足を止め、大きな植木鉢の陰にスーツケースを置いた。
そして、困惑するトリアの手を引き、彼女をドアの正面へと優しく押し出した。
「さあ、君の番だ」
ユダが耳元で楽しげに囁く。
「え? どういう意味?」
トリアが問い返す間もなく、ユダは数歩後退し、テラスの太い柱の陰に身を隠してしまった。
「君がノックするんだ。僕はここに隠れてる。母さんがドアを開けた時、目の前に突然天使が現れたらどんな顔をするか見たくてね」
トリアの瞳が驚愕に見開かれた。心臓が肋骨を突き破らんばかりに跳ねる。
「ユダ! 冗談はやめて、怖いから! 飛び込み営業の鍋売りだと思われたらどうするのよ!」
パニックに陥った彼女は、柱の影にいるユダを必死に引き戻そうとした。しかし、ユダは悪戯っぽい笑みを浮かべ、手振りだけでノックを促す。
「大丈夫だって。ほら、早く。じゃないと、本当に君を置いて行っちゃうぞ」
トリアは恋人のあまりに子供じみた提案に、トリアは恋人を一発殴ってやりたい衝動に駆られた。だが、他に選択肢はない。湿った手のひらをスカートで拭い、震える右手をゆっくりと持ち上げた。
コン、コン、コン……。
「ご、ごめんください……」
蚊の鳴くような声が、夕暮れの空気に吸い込まれていく。
沈黙。
トリアは絶望的な面持ちで柱の方を向いた。ユダは指を立てて「もっと大きく!」と合図を送る。
彼女は深く息を吸い、瞼を閉じて、今度は力を込めて扉を叩いた。
コン、コン、コン!
「ごめんください!」
ほどなくして、家の中から忙しない足音が近づいてくるのが聞こえた。鍵が回される金属音が、トリアの耳には死刑宣告の鐘のように響く。
「はーい、今行きます! 全く、夕方の忙しい時に誰かしら……」
女性の小言が漏れ聞こえ、重厚なドアがゆっくりと開かれた。
そこに立っていたのは、落ち着いた柄のホームウェアを纏った中年女性だった。髪は無造作にまとめられ、化粧気のない顔にはまだ若々しさが残っている。ユダの母、ラティだった。
ラティは、玄関先に立ち尽くす見知らぬ若い女性を、不思議そうに見つめた。
「あら……どちら様かしら?」
トリアは喉が焼けつくような渇きを覚え、言葉を詰まらせた。「あの……その、私……トリアと、申します……」
ラティの眉がわずかに動いた。彼女は小首を傾げ、トリアの顔を凝視する。数週間前、スマートフォンの小さな画面越しに見たあの顔が、記憶の中で鮮明に像を結んでいく。
「ちょっと待って……」
ラティが口元を両手で覆った。瞳が驚喜に輝き、みるみるうちに大きく見開かれる。
「……トリアさん? トリアさんなの!?」
トリアが硬直したまま頷こうとした瞬間だった。
「キャアアアアッ! トリアさんじゃないの!」
耳を疑うような悲鳴と共に、ラティが突進してきた。トリアは状況を飲み込む暇もなく、温かな腕の中に力一杯抱きしめられた。まるで、十年も行方不明だった実の娘が帰ってきたかのような、激しい歓迎だった。
「まあ! なんてこと! 夢でも見てるのかしら!? 本当に来てくれたのね! どうして連絡もなしに!」
ラティはトリアの肩を掴み、興奮した様子で体を揺さぶった。トリアは目を白黒させながら、ただ圧倒されるばかりだった。
「ユダ! ユダはどこ!? あのバカ息子、こんな綺麗な子を一人でタクシーに乗せてきたの!?」
ラティが周囲を見回して怒鳴ろうとしたその時、ユダが柱の陰からひょいと姿を現した。
「サプライズ成功だね、母さん」
ユダが満面の笑みで両腕を広げる。ラティは息子を一度だけ冷ややかに一瞥した。
「あら、あなたもいたの」
あまりに素っ気ない言葉を投げ捨てると、ラティはすぐにトリアへと向き直り、その手を優しく取った。
「さあ、トリアさん、中へ入って。外は暑いでしょう? 自分の家だと思って、遠慮しないでちょうだいね」
「え? 母さん、僕のハグは?」
ユダの抗議は、完全に無視された。
「スーツケースを持って早く入りなさい! 汗臭いまま家に入らないでよ、シャワーを浴びるまで抱きしめてあげないから!」
ラティはトリアをエスコートするように家の中へと導き、ユダは二つの重いスーツケースを引きずりながら、不満げに鼻を鳴らして後に続いた。トリアは肩越しにユダを振り返り、安堵に満ちた微かな笑みを浮かべた。先ほどまでの劣等感は、この温かな騒々しさの中に溶け始めていた。
玄関の騒ぎを聞きつけ、奥から二人の人物が姿を現した。
新聞を手にしたままのプラモノが、老眼鏡をずらして不思議そうにこちらを見ている。その背後からは、ショートボブの髪を揺らした若い女性が、興味津々といった様子で顔を覗かせた。
「なんだ、母さん。宝くじでも当たったような声を出して」
プラモノが穏やかに尋ねる。
「お父さん! 見て、トリアさんが来てくれたわよ!」
ラティが自慢げにトリアを紹介すると、プラモノの顔に柔らかな父性的な微笑みが広がった。彼は老眼鏡を外し、丁寧にトリアを見つめた。
「おや、トリアさんか。ようこそ、よく来てくれたね。ユダから話は聞いていたよ」
「初めまして、おじ様。トリアです。突然お邪魔してしまって……」
トリアが丁寧に腰を折って挨拶をすると、プラモノの後ろにいた少女が弾かれたように前に飛び出してきた。
「わあ! 本物のトリアさんだ! ビデオ通話で見るよりずっと透明感があって綺麗!」
「ファラ、失礼だぞ」
プラモノが苦笑しながら嗜める。少女――ユダの妹のファラは、屈託のない笑みを浮かべてトリアに右手を差し出した。
「初めまして、お姉さん! 私、ファラです。この家で一番可愛くて、兄貴に一番いじめられてる被害者代表です!」
トリアは堪えきれずに声を立てて笑った。差し出された小さな手を握り返す。
「初めまして、ファラちゃん。よろしくね」
そこへ、スーツケースを二つ抱えたユダが、肩で息をしながらリビングに入ってきた。
「はいはい、荷物運びの苦役は終わりましたよ。話に花を咲かせるのはいいけど、僕の存在も忘れないでほしいな」
その場にどっと笑い声が広がった。豪華な邸宅の冷たさはどこにもなく、そこにあるのは、どこまでも等身大な家族の温もりだった。
一行は広々としたリビングのソファに腰を下ろした。トリアはラティとファラに挟まれるように座らされ、ユダとプラモノは向かい側の席に陣取った。
ラティはユダを鋭い目で見据え、母親特有の「尋問モード」に入った。
「それにしてもユダ、あなたって子は本当に……。今日帰ってくるなら、どうして一言言わなかったの? 冷蔵庫には昨日の残りの野菜と卵しかないわよ。大事なトリアさんに何を食べさせろっていうの?」
ユダはテーブルの上のナッツの瓶を手に取り、リラックスした様子で背もたれに身を預けた。
「サプライズにならないだろう? それにトリアは偏食じゃないよ。卵焼きでもあれば喜んで食べるさ。ねえ、トリア?」
トリアは照れくさそうに微笑んだ。「はい、おば様。お気遣いなく。私、何でも美味しくいただきますから」
「そんなわけにいかないわ!」
ファラがユダを指差して叫んだ。「母さんをパニックにさせて、台所を空っぽにした罪は重いわよ。兄貴、罰金を払いなさい!」
ユダがナッツを口に運ぶ手を止めた。「罰金?」
「トリアお姉さんの歓迎パーティーのための、最高に豪華なデリバリー代よ!」
ファラは電光石火の動きで、テーブルに置かれていたユダのスマートフォンを奪い取った。
「おい! 勝手に注文するな!」
ユダが手を伸ばすが、ラティがそれを制した。
「いいじゃないの。自業自得よ。ファラ、遠慮はいらないわよ。一番高いシーフード・プラッターと、セナヤンの特製サテを人数分頼みなさい!」
「御意、女王陛下!」
ファラは楽しげに画面を操作し始める。「お姉さん、何がいい? 飲み物はタピオカにする? 大丈夫、兄貴の財布は給料日直後でパンパンだから!」
抵抗を諦め、項垂れるユダの姿に、トリアは声を上げて笑った。
「私は何でもいいわ、ファラちゃん。お任せするね」
黙って見守っていたプラモノが、長男の膝をぽんぽんと叩いた。
「諦めろ、ユダ。これも徳を積む修行だと思えば、結婚運も上がるというものだ」
ユダは芝居がかった大きな溜息をつき、トリアに哀れみを誘うような視線を向けた。
「見たかい、トリア。会社ではマネージャーなんて呼ばれてるけど、この家じゃ僕はただの歩くATMなんだ」
トリアは心の底から、軽やかな笑みを漏らした。目の前に広がる光景――賑やかなラティ、穏やかなプラモノ、快活なファラ、そして家族に翻弄されるユダ。
この家の中で、トリアはもう自分を「よそ者」だとは感じていなかった。
「いいじゃない、ユダ」
トリアは潤んだ瞳で彼を見つめ、優しく言葉を添えた。
「それだけ、みんなに愛されてるってことよ」
ユダの表情がふっと緩み、心からの微笑みがその顔に浮かんだ。彼はトリアの瞳を真っ直ぐに見つめ返し、低く、確信に満ちた声で囁いた。
「ああ。そして今、みんな君のことも愛し始めたみたいだ」
第72章、お読みいただきありがとうございます。
ユダのご家族との対面、いかがでしたか?
お母様のドッキリへの反応や、ファラちゃんの元気な姿、楽しんでいただけたなら幸いです。
次章では、いよいよジャカルタでの生活や、ユダの過去との向き合い方が描かれます……?
温かい家庭の雰囲気と、少しの緊張感をお楽しみください。
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