第70章 延期された夢を迎えに
サヌールの夜は更けていくが、ユダの体中を駆け巡るアドレナリンは、彼から眠気を完全に奪い去っていた。トリアを送り届け、新しい未来への約束を交わした今、ユダはバイクを走らせて家路につき、その心はかつてないほど高揚していた。
部屋に戻ると、彼は一刻の猶予も惜しんでスマートフォンを手に取った。壁の時計は夜の九時を回っていたが、時差とフライト時間を考えれば、アルデンとナディアは今ごろトランジットの最中か、あるいは目的地に着いたばかりのはずだ。
ユダは連絡先から「アルデン・ルクマナ」の名前を探し出し、音声通話のボタンを押した。
プルルル…… プルルル……
呼び出し音が長く響く。ユダはベッドの端から立ち上がり、狭い室内を落ち着きなく歩き回った。手のひらにはじっとりと冷や汗がにじむ。もし、あのポジションがすでに他の誰かに決まっていたら。もし、もう手遅れだったら。
カチッ。
「もしもし、ユダか?」
受話器の向こうからアルデンの声が聞こえてきた。背景には空港のアナウンスが騒がしく響いている。ユダは一瞬息を止め、それから強く吐き出した。
「アルデン」ユダの声は震えていた。それは迷いからではなく、爆発しそうな期待感のせいだった。「あのポジション……まだ空いてるか?」
一瞬の沈黙。それから、アルデン特有の短い笑い声が聞こえた。
「今シドニーに降りてトランジット中なんだが、開口一番に聞こえてくるのがお前の焦った声とはな。どうした? 心変わりか?」アルデンがからかうように言った。
「ああ」ユダはプライドを捨て、即座に答えた。「辞退のメールは撤回する。あのオファーを受けたいんだ、アルデン。オークランドへ行くよ」
受話器の向こうで、アルデンが深く長い安堵の息をつくのが分かった。まるで重荷から解放されたかのような響きだった。
「ようやくまともな判断ができるようになったか、相棒! 昨日お前の辞退メールを読んだときは、本気で殴り飛ばしてやろうかと思ったぞ」
「だが、一つだけ条件がある」ユダが素早く言葉を挟んだ。
「何だ? 給料か? それとも福利厚生か?」
「いや。トリアも連れて行く」
今度はアルデンの爆笑が響き渡り、ユダは思わずスマートフォンを耳から少し遠ざけた。
「ははは! そう来ると思ったよ! ナディアもこれを聞いたら飛び上がって喜ぶはずだ。安心しろ、ユダ。お前のリロケーションパッケージは家族帯同枠だ。トリアのパートナービザやスポンサーシップについては、こっちのHRに掛け合ってやる。まずは正式に『イエス』と言ってくれることが先決だ」
ユダは目を閉じ、顔いっぱいに笑みを浮かべた。安堵の波が洪水のように胸に押し寄せてくる。
「ありがとう、アルデン。本当に……何と言えばいいか」
「礼なんていいさ。オークランドに着いたら、美味いコーヒーでも奢ってくれ。さあ、今すぐHRにメールを送り直せ。意思疎通のミスだったとかなんとか適当に書いてな。再手続きが進むように、俺も中からプッシュしてやる」
「分かった。今すぐ送る」
「よし。歓迎するよ、パートナー。地球の南側で会おう」
通話が切れた。ユダは潤んだ瞳でスマートフォンの画面を見つめた。一度は燃え尽きかけた未来への切符が、再びその手の中に戻ってきたのだ。
◇◇◇
次のステップは、さらに重いものだった。アルカディア・プライムへの退職の意思表示だ。
ユダはベッドの端に座り、連絡先リストにあるバスカラの名前を見つめた。あの人は単なる上司ではない。ジャカルタから移ってきた自分を救ってくれた恩師であり、ハルランの嵐が吹き荒れたとき、自分とトリアを守ってくれた父親のような存在だ。
こんな夜更けに電話をするのは失礼だと分かっていたが、この知らせを明日の朝まで取っておくことはできなかった。一歩を踏み出すための確信が必要だった。
少し震える指で、ユダは発信ボタンを押した。
プルルル……
「もしもし、ユダか? どうしたんだ?」バスカラの重厚な声が響いた。そこには微かな不安が混じっている。ここ数日の出来事を考えれば、無理もないことだった。
ユダは慌てて答えた。「夜分遅くに失礼いたします、バスカラさん」
「ああ、構わないよ。ちょうど本を読んでいたところだ。何かあったのか? 声が真剣だが」
ユダは深く息を吸い込み、誰も見ていないにもかかわらず背筋を正した。
「バスカラさん……まずは口頭でお伝えしたいことがありまして」ユダは慎重に言葉を選んだ。「私……アルカディア・プライムを退職させていただきたく、考えております。トリアも、一緒にです」
電話の向こうに長い沈黙が流れた。ユダはバスカラの表情を想像した。驚いているだろうか。失望しているだろうか。それとも、怒っているだろうか。
「退職……か」ようやくバスカラの声が聞こえた。先ほどよりも静かなトーンだった。「昨日のハルランの件か? ユダ、何度も言ったはずだ。役員会は君たちのことを問題視してなど――」
「いえ、バスカラさん。決してそのような理由ではありません」ユダは素早く否定した。「むしろ、アルカディアが私たちをこれほどまでに守ってくださったからこそ、これを申し上げるのが心苦しいのです」
ユダはそれから、パシフィック・ビジョン・ソリューションズからのオファーのこと、長年の夢だったこと、そして過去の影から遠く離れた場所で新しい人生を始めようというトリアの決意について説明した。
「私たちには新しい始まりが必要なのです。本当の意味での、新しい場所が。そして、このチャンスが最高のタイミングで訪れました」ユダはそう締めくくった。
バスカラが長く息を吐く音が聞こえ、続いて椅子が軋む音がした。あの初老の男性が背もたれに体を預けたのだろう。
「ニュージーランド、か……」バスカラが呟いた。その声に怒りはなく、むしろ……寂しさと誇りが入り混じっているように聞こえた。
「正直に言おう、ユダ。HRマネージャーとしては、頭が痛いよ。君のようなプロジェクトマネージャーと、トリアのように有能な事務スタッフを同時に失うのは、オフィス運営にとって大打撃だ」
ユダは申し訳なさにうつむいた。「申し訳ありません」
「だが……」バスカラは言葉を続け、その声は温かみを帯びた。「友人として、そして親のような気持ちで言わせてもらえば……誇りに思うよ。本当に」
ユダは驚いて顔を上げた。
「君は責任感のある男だ、ユダ。愛する女性の未来のために、大きなリスクを取る勇気がある。それに、オークランドでのオファーだろう? それは素晴らしいキャリアの飛躍だ。私が君の立場でも、同じ道を選ぶだろう。私への義理立てだけでここに留まり、そのチャンスを棒に振るような真似をしたら、それこそ君を軽蔑していたところだ」
ユダの目頭が熱くなった。「ありがとうございます、バスカラさん。ご理解いただき、本当に感謝いたします」
「出発の予定は?」
「おそらく一ヶ月後になるかと思います。業務の引き継ぎと、ビザや書類の手続きを進めながらですので」
「分かった。引き継ぎには十分な時間があるな。正式な退職願は明日の朝、私のデスクに置いておきなさい。滞りなく承認しよう」バスカラが約束してくれた。
その感動的な空気は、バスカラの低い笑い声によって不意に破られた。
「ただ、明日から頭が痛くなることが一つだけあるんだ、ユダ」
「何でしょうか?」
「トラック一台分のティッシュと、鎮痛剤を用意しておかなければならん。ミラとセラの二人が、トリアがいなくなると知ったらどうなるか想像がつくだろう? 私の部屋の前で泣き喚きながらデモを起こしかねん。やれやれ……難儀なことだ」
ユダは、大げさに騒ぎ立てるミラの顔と、静かに涙を流すであろうセラの姿を思い浮かべ、小さく笑った。
「それは……私たちの共通の課題ですね。彼女たちが暴れないよう、後で美味しいものでも奢らせていただきます」
「そうしてくれ。とにかく、おめでとう、ユダ。夢を掴んでこい。向こうでもトリアをしっかり守ってやるんだぞ」
「はい。ありがとうございます」
電話を切る直前、バスカラの口調が再び真剣なものに戻った。
「ユダ、一つだけ頼みがある。このことは、プロジェクトチームやあの事務コンビを含め、他の社員にはまだ伏せておいてくれ。ユニの件があったばかりだ、まずはオフィスの空気を落ち着かせたい。君の出発の手続きが百パーセント確定してから発表しよう」
「承知いたしました。私も、時期が来るまでは騒ぎにしたくありません」
「よし。ゆっくり休みなさい。明日からはやることが山積みだぞ」
カチッ。
ユダはスマートフォンをサイドテーブルに置いた。ベッドに体を投げ出し、両手を頭の後ろで組んで枕代わりにする。
視線は、真っ白な天井に向けられていた。いつもなら、明日の会議のスケジュールやプロジェクトの戦略で頭がいっぱいになるところだ。しかし今夜、彼の心から重荷は消えていた。
あるのは、計り知れないほどの安堵感。そして、脳裏にゆっくりと形作られていく未来の情景。
オークランドの涼しい風。大きな窓のあるアパート。バルコニーで植物に水をやるトリアの姿。そして、過去の影に怯えることなく、二人で新しい一日を始める。
大きな一歩を踏み出した。もう、後戻りはしない。
「よし……すべて上手くいきますように」
ユダは静かな夜に向かって、小さく呟いた。
彼は目を閉じた。ここ数週間で初めて、朝を迎えるまでその微笑みが消えることはなかった。
第70章、お読みいただきありがとうございます。
ユダの決断が、周囲にも少しずつ理解され始めています。
バスカラさんの温かい言葉、感動的でしたね。
次章からは、いよいよ退職手続きや引っ越しの準備が進みます。
ミラやセラの反応も気になるところ……?
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