第69章 帰る場所は、あなた
オフィスの隅にあるデジタル時計が16時45分を指していた。アルカディア・プライムの社員の多くにとって、その数字は待ちに待った解放の合図だ。しかし、トリアにとっては、刻一刻と過ぎゆく一分一秒が、避けられない対峙へのカウントダウンのように感じられた。
昼間、トリアは必死に普通を装い続けた。気難しいクライアントに対するミラの愚痴に笑い、セラが話すヌサ・ペニダへの旅行計画に熱心に頷いた。そして、ユダが通りかかるたびに、あるいは様子を伺う短いメッセージが届くたびに、愛らしい微笑みを返した。
表面上は穏やかに見えたが、デスクの下では足が落ち着かなく床を叩いていた。頭の中は、ユダが送った辞退のメールと、彼が捨て去ったニュージーランドでの輝かしい未来のことで一杯だった。罪悪感と愛情が混ざり合い、胸の奥で今にも弾けそうな感情の塊となっていた。
「トリア、帰らないの?」
バッグを肩にかけながら、ミラが声をかけてきた。「もう五時過ぎてるわよ。珍しく残るのね」
トリアはハッとして、慌ててコンピュータの電源を落とした。「ええ、今帰るところ。お先にどうぞ、ミラ」
「オッケー、気をつけてね。王子様によろしく」
ミラはセラと共に、楽しげにオフィスを後にした。
トリアは深く息を吐き、ゆっくりとした動作でデスクを片付けた。ふと視線を上げると、ユダの部屋のドアが開いたところだった。部屋から出てきた彼は疲れの色を滲ませていたが、トリアの姿を見つけると、その瞳にパッと光が灯った。
「やあ」
ユダがトリアのデスクに歩み寄り、穏やかに声をかけた。「帰る準備はできた?」
トリアはその顔を見つめた。自分のために、人生最大の夢を犠牲にしようとしている男の顔。胸が締め付けられるような痛みを感じたが、決意はさらに固まった。
「できたわ」
トリアはバッグを手に取り、ユダをじっと見つめた。「でも……帰る前に、少し寄ってもいいかしら?」
ユダはわずかに眉を寄せたが、微笑みは消さなかった。「いいよ。夕食を食べていく? それとも、またマルタバでも買いに行こうか?」
トリアは静かに首を振った。「ううん。あの……海が見たいの。サヌールビーチへ行かない? 風に当たりたいの」
ユダは一瞬沈黙し、トリアの瞳の奥にある真剣な光を読み取った。しかし、いつものように反対はしなかった。彼は頷き、手を差し出した。
「行こう。日が完全に沈んでしまう前に」
◇◇◇
ユダのバイクは夕方の渋滞を縫うように走り、二人を静かなサヌールの海岸線へと運んだ。空は紫がかった赤色に染まり、引き潮の海面に残照を反射させている。
二人は波消しブロックの上に並んで座り、広大な海を眺めた。夕方の風は強く、トリアの髪をなびかせて顔を覆った。ユダは自然な動作で手を伸ばし、その房を彼女の耳の後ろへと優しく流した。
「寒い?」
ユダが気遣わしげに尋ねる。
トリアは首を振った。頬に添えられたままのユダの手を掴み、そのまましばらく自分の顔に押し当てた。彼の掌の温もりが伝わってくる。
「ユダ……」
波の音にかき消されそうなほど、小さな声で呼んだ。
「ん?」
トリアはユダの手を下ろし、自分の膝の上でその手を強く握りしめた。海を見つめたまま、次の言葉を口にする勇気を振り絞る。ユダの目を見ることはできなかった。
「今朝……ナディアさんから電話があったの。離陸する前に」
隣に座るユダの身体が、一瞬で強張ったのがわかった。握られた手の力が強くなったが、彼は手を引こうとはしなかった。波の音よりも騒がしい、重苦しい沈黙が二人の間に降りた。
「全部聞いたわ、ユダ」
トリアは意を決して顔を上げ、硬直したユダの横顔を見つめた。
「パシフィック・ビジョン・ソリューションズのこと。オークランドのオペレーションマネージャーのポストのこと。そして……三日前にあなたがそれを断ったことも」
ユダは深く息を吐き出し、肩の力を抜いた。埃を被った自分の靴を見つめ、視線を落とす。
「ナディアのやつ……本当に口が軽いな」
無理に作ったような、力のない笑い声が漏れた。
「どうして?」
トリアの声が震え始めた。「どうして私に言ってくれなかったの? あんなに大きなチャンスを、どうして捨てたの?」
ユダが顔を向けた。その眼差しは深く、凪いだ海のように穏やかだった。そこには後悔の色など微塵もなく、ただ彼女を案じる心だけがあった。
「君のためだよ、トリア」
ユダは正直に答えた。「君を一人ここに残していくなんてできない。それに、ようやくここで安らぎを見つけた君を、見知らぬ土地へ連れ出すなんて……僕には耐えられなかったんだ」
「でも、それはあなたの夢でしょう!」
トリアの目尻に涙が溜まり始めた。「大学時代からの目標だってナディアさんが言ってたわ。私のために未来を捨てたりしちゃダメよ!」
「君が僕の未来なんだ、トリア!」
ユダの強い口調がトリアの言葉を遮った。彼は身体を向け、トリアと正面から向き合った。両肩を掴むその手には、優しくも確かな力が込められている。
「聞いてくれ。キャリアなんてまた探せばいい。お金だってまた稼げる。でも、君が癒えていく姿、昨日みたいに笑う姿を見られること……それは僕にとって何物にも代えがたいんだ。君を新しい環境に連れて行って、またトラウマがぶり返すような真似は、自分勝手でできない」
「自分勝手なのは、今のあなたの行動よ!」
トリアは涙をこぼしながら反論した。「あなたが私のために全てを犠牲にしたと知って、私が幸せになれると思う? 違うわ、ユダ。私は一生罪悪感を抱えて生きていくことになる。自分があなたの足枷になったと感じながらね」
「足枷だなんて思ったことは一度もない!」
「なら、証明して!」
トリアはユダの瞳を射抜くように見つめた。「愛は支え合うものでしょう。夢を削り合うものじゃないわ。私のせいであなたが飛ぶのをやめるなら、それは愛じゃなくて重荷よ」
ユダは絶句した。トリアの言葉が胸の奥深くに突き刺さった。彼は肩から手を離し、もどかしそうに顔を覆った。
「……じゃあ、僕はどうすればいいんだ? 君を置いて一人で行けと言うのか? 遠距離恋愛か? こんなに不安定な君を置いて? そんなの無理だ、トリア。君を心配して、毎日生きた心地がしないよ」
潮風がさらに強く吹き抜け、刺すような冷たさを運んできた。トリアは乱暴に涙を拭った。深く息を吸い込み、持てる限りの勇気をかき集める。
彼女はユダの右手をとり、その掌を広げさせると、自分の手を重ねた。その瞳には、先ほどまでの脆い女性の影はなかった。戦う準備のできた、一人の強い女性の光が宿っていた。
「誰が、私を置いていけなんて言ったの?」
トリアは柔らかく問いかけた。
ユダは顔を上げ、困惑した表情を浮かべた。「どういう意味だい?」
トリアは微笑んだ。心からの、確信に満ちた微笑みだった。
「私を連れて行って、ユダ」
ユダの目が大きく見開かれた。「え……?」
「ニュージーランドへ連れて行って。私を一緒に行かせて」
トリアはきっぱりと言い切った。
「トリア、君……本気なの?」
ユダは耳を疑うように言葉を詰まらせた。
「あそこは外国だ。シャニアさんもいない、オフィスの仲間もいない、君のコンフォートゾーンから遠く離れた場所なんだ。ようやく元気になったばかりなのに……本当に大丈夫なのか?」
トリアは静かに首を振った。
「私の居場所はバリじゃないわ、ユダ。アルカディアのオフィスでも、シャニアさんの家でもない」
トリアは膝が触れ合うほど近くに寄り添った。手を伸ばし、髭の剃り跡で少しざらついたユダの頬を包み込む。
「私の家は、あなたなのよ、ユダ」
声は震えていたが、一言一言がはっきりと紡がれた。
「あなたがどこへ行こうと、そこが私の家になる。あなたがバリにいるなら私もバリに。あなたがオークランドへ行くなら、私も行く。あなたの隣にいれば、もう何も怖くない。馴染みのある場所なんていらないの。ただ、あなたが必要なのよ」
ユダの防波堤が、音を立てて崩れた。
彼の瞳が潤み、目の前の女性を世界で最も美しい奇跡を見るかのように見つめた。トリアがこれほどの勇気を持っているとは想像もしていなかった。自分は彼女を世界から守らなければならないと思い込んでいたが、彼女は自分と共に世界に立ち向かう準備ができていたのだ。
「本当に……ついてきてくれるのか? 全てを捨てて?」
ユダの声は掠れていた。
「あなたと一緒なら」
トリアは迷いなく答えた。「それに、ナディアさんが言ってたわ。オークランドには綺麗な花がたくさん咲いてるって。あそこでもサボテンは買えるでしょう?」
ユダの唇から、嗚咽の混じった小さな笑いが漏れた。彼は言葉で答える代わりに、トリアを力いっぱい抱き寄せた。二人の鼓動が重なるほど強く、彼女を離さないというように。
ユダはトリアの首筋に顔を埋め、肩を小さく震わせた。
「ありがとう、トリア……ありがとう」
何度も、何度も囁いた。
「約束する……必ず向こうで幸せにする。一生懸命働いて、君を一生守り抜くよ」
トリアはその背中に手を回し、広い背中を優しく撫でた。「わかってるわ。信じてる」
暗くなり始めた夕暮れの空の下、サヌールの波音だけが二人の誓いの証人となった。二つの心は、ようやく一つの目的地へと重なった。
ユダは腕を緩め、涙に濡れながらも幸せそうに輝く瞳でトリアを見つめた。そして、ポケットからスマートフォンを取り出した。
「今すぐアルデンに電話する。辞退のメールを撤回するよ。……条件は、僕の婚約者も一緒に行くことだ、と伝えてね」
「婚約者」という言葉にトリアの頬が赤く染まったが、彼女は満面の笑みで力強く頷いた。
「今すぐかけて。チャンスが消えてしまう前に」
ユダは微笑み、トリアの額に軽くキスを落とすと、期待に震える手でアルデンの番号をダイヤルし始めた。
その夜、海岸のほとりで、二人の人生の新しい章が正式に幕を開けた。それはもはや逃避ではなく、共に築き上げる未来への、新しい冒険の始まりだった。
第69章、お読みいただきありがとうございます。 ユダとトリア、二人の新しい決断。 涙と笑顔が入り混じる、感動的な一章でした。
「あなたがいる場所が、私の家」 この言葉に込めた思い、伝わりましたか?
次章からは、いよいよニュージーランドでの新生活が始まります……! どんな展開になるか、どうぞお楽しみに。
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