第68章 灰に消えた夢の切符
アルカディア・プライムでは、時間は不思議な魔法のように流れていく。かつてトリアを縛り付けていた重苦しい緊張感は、今や、心待ちにする穏やかな日常へと姿を変えていた。
あの嵐が過ぎ去ってから、二週間。ハルランの影も、ユニの刺すような視線も、もうここにはない。三階のオフィスは、彼女にとって温かな第二の我が家となっていた。
毎朝の風景は、ささやかだが満ち足りている。天候に合わせて車やバイクで迎えに来てくれるユダ。デスクには、彼女が到着する前に必ずアレン糖のミルクコーヒーが置かれている。そして昼食は、隠れることもなく、彼のお気に入りの店で共にテーブルを囲む。
同僚のミラやセラは、二人を冷やかすことにもう飽きてしまったようだ。ユダが時折事務デスクに立ち寄り、トリアの乱れた毛先を整えたり、そっとチョコレートを差し出したりする光景は、今やオフィスに微笑ましさを添える日常の一部となっていた。
人生がようやく正しい軌道に乗ったのだと、トリアは感じていた。愛され、尊重され、そして守られている。
しかし、完璧すぎる静寂の裏には、往々にして予期せぬ波紋が潜んでいるものである。
◇◇◇
壁の時計は午前十時を指していた。オフィスは活気に満ち、電話のベルとキーボードを叩く音が、生産的なシンフォニーを奏でている。
トリアが月間の勤怠データの集計に集中していると、デスクの上のスマートフォンが長く震えた。
画面には、ナディアの名前。
トリアは口元を綻ばせると、通話ボタンをスライドさせた。肩と耳の間に端末を挟み、タイピングを続けながら明るい声を出す。
「ナディアさん、お早うございます。朝からお電話なんて、珍しいですね」
「おはよう、トリア。仕事中にごめんなさいね」
受話器の向こうから、ナディアの快活な声が聞こえてきた。背景には空港のアナウンスのような騒音が混じっている。「ちょっとお別れを言いたくて。今、ングラ・ライ空港にいるの。もうすぐオークランド行きの便に搭乗するわ」
トリアの手が止まった。背筋を伸ばし、受話器を握り直す。
「えっ? 今朝の便だったんですか。……てっきり夕方かと思っていました。お見送りに行けなくて、本当にごめんなさい」
「いいのよ、気にしないで。あなたはお仕事があるんだし。それに、今朝早くにユダ君がホテルまで会いに来てくれたから」
ナディアは事もなげに言った。
「道中、気をつけてくださいね。アルデンさんにもよろしくお伝えください。到着したら連絡をいただけると嬉しいです」
通常なら、ここで定型的な挨拶と共に通話は終わるはずだった。しかし、ナディアはすぐに電話を切ろうとはしなかった。数秒の、奇妙な沈黙が流れる。
「トリア……」
ナディアの声のトーンが劇的に変わった。先ほどまでの明るさは消え、背筋が凍るような真剣さが漂う。
「はい? どうかしましたか? 何か忘れ物でも……」
受話器の向こうで、重いため息が漏れた。
「本当はね、アルデンに口止めされているの。これは男同士の問題だから、余計な口出しはするなって。でも……」
ナディアは言葉を切り、夫に聞かれないよう場所を移動したのか、衣擦れの音が聞こえた。
「どうしても黙っていられないわ。同じ女性として、あなたには知っておく権利があると思うの。ユダ君が一人でこれを背負って、あなたが何も知らないままなんて、私は嫌よ」
トリアの心臓が、不吉なリズムを刻み始めた。嫌な予感が胸の内に忍び寄る。彼女は、固く閉ざされたユダの執務室のドアに視線を向けた。
「何のことですか?」
トリアの声は、無意識に低くなっていた。
「ニュージーランドの話よ」
ナディアは単刀直入に告げた。
トリアは眉をひそめる。「あの採用の話ですか? ユダさんは、まだポジションが確定していないって言ってましたけど……」
ナディアは、どこか悲しげな乾いた笑い声を漏らした。
「確定していない? 冗談じゃないわ、トリア。もう決まっていたのよ。正式な採用通知は先週には届いていたわ。給与も破格だし、市中心部のアパートに、移住手当……すべてが目の前に用意されていたの」
トリアは絶句した。手に持っていたペンが指からこぼれ落ち、デスクの上を転がっていく。
「パシフィック・ビジョン・ソリューションズは、一刻も早い返答を求めていた。あれはユダ君が学生時代から抱いていた夢なのよ。彼はいつだって、グローバルなキャリアを望んでいたわ」
「……じゃあ、どうして彼はまだ行かないんですか?」
トリアは絞り出すように尋ねた。心の奥底では、すでに答えを予感していた。
「断ったのよ、トリア」
ナディアの言葉が、鋭く胸を刺した。「ユダ君は三日前、そのオファーを辞退したわ」
どくん、と心臓が跳ねた。
周囲の景色が止まったかのように感じられた。オフィスの喧騒が遠のき、耳の奥で鋭い耳鳴りだけが響く。
「じ、辞退……?」
トリアは呆然と繰り返した。
「ええ。アルデンは激怒していたわ。こんなチャンス、一生に二度とないかもしれないって。でも、彼が何て言ったか分かる?」
トリアは息を止めた。自覚もないまま、視界が涙で滲んでいく。
「今はあなたを置いていけない、そう言ったの。あなたは傷が癒えたばかりで、ようやくバリで安心感を得られたところだって。そんな時に、知り合いもいない寒くて見知らぬ国へ連れて行ったら、あなたの心がまた壊れてしまうかもしれない。彼はそう恐れたのよ」
ナディアの声が、微かに震えている。
「彼は自分の夢だったキャリアを犠牲にして、あなたの平穏を守ることを選んだの。あなたがその場所で『家』と仲間に囲まれていられるように」
大きな岩で胸を殴られたような衝撃だった。消え去ったと思っていた罪悪感が、十倍の重みを持って彼女に襲いかかる。
霞む視線の先には、ユダの部屋のドアがある。あの扉の向こうには、毎朝微笑みかけてくれる人がいる。コーヒーを買い、ハルランから守ってくれた人が。
自分のために、自らの未来への切符を焼き捨てた人が。
「トリア? 聞いてる?」
ナディアが心配そうに呼びかける。
トリアは手の甲で乱暴に涙を拭った。「はい……聞いています」
「いい、これを話したのは、あなたを罪悪感に陥らせるためでも、別れを促すためでもないわ」
ナディアは、トリアの思考を読み透かしたように早口で続けた。
「彼がどれほどあなたを愛しているか、分かってほしかったの。隠していたことを怒らないであげて。ちゃんと話し合って。彼の犠牲を尊重しつつ、将来彼が後悔するようなことにはさせないで」
背景で、搭乗を促すアナウンスが流れた。
「……さあ、もう行かなくちゃ。私の言ったこと、忘れないでね。コミュニケーションよ。一人で抱え込まないで。じゃあね、トリア」
ぷつり、と通話が切れた。
トリアはゆっくりとスマートフォンを下ろした。デスクに座り込んだまま、もはや意味をなさない数字が並ぶコンピューターの画面を凝視する。
隣に座っていたミラが、トリアの異変に気づいて椅子を回転させた。
「トリア? どうしたの? なんで泣いてるの?」
ミラが慌てて尋ねる。「ナディアさんが何か?」
トリアは弱々しく首を振った。言葉が出ない。声を上げて泣き出さないよう、必死に口元を抑えて耐える。
思考は支離滅裂だった。自分がひどく小さく、身勝手な存在に思えてならない。
自分は立ち直り始めたのだと思っていた。ユダとの関係は対等なのだと。けれど実際は、ユダがすべてを一人で支えていたのだ。トリアの頭上の屋根が崩れないよう、自らの足を切り落としてまで、強固な柱であり続けてくれた。
(馬鹿だ……私、本当に馬鹿……)
先週、サボテンやクッションを買う計画をあんなに楽しそうに話した自分を思い出す。その時、彼はあの採用通知を手にしていたはずだ。そして、あの小さなサボテンのために、トリアのささやかな笑顔のために、彼は海外マネージャーという夢を捨てたのだ。
トリアは突如として立ち上がった。椅子の軋む音が大きく響く。ミラとセラが当惑した表情で彼女を見上げた。
「ちょっと……トイレに行ってくるわ」
掠れた声でそう言い残すと、涙が溢れ出す前に足早にデスクを離れた。
向かったのはトイレではなかった。足は自然と、人のいない給湯室へと向かっていた。呼吸をするための場所が必要だった。
給湯室の中で、トリアは冷たい壁に背を預け、目を閉じた。彼女を見るたびに向けられるユダの心からの笑顔が、今はただ痛い。
あれは単なる愛の微笑みではなかった。犠牲の上に成り立つ微笑みだったのだ。
「どうして言ってくれなかったの、ユダ……」
誰もいない空間に、囁きが漏れる。「どうして、そんなに優しくするの?」
トリアは深く息を吸い込み、心を奮い立たせた。弱くなってはいけない。泣き虫で脆いトリアに戻ってはいけないのだ。
ユダがそれほどの犠牲を払ってくれたのなら、自分もまた、態度を示さなければならない。彼の夢をそのまま葬らせるわけにはいかない。愛とは、誰かの翼を縛り付ける籠であってはならないはずだ。
トリアは涙を拭い、洗面台で顔を洗うと、鏡に映る自分を見つめた。その瞳には、もはや被害者の影はない。パートナーのために戦う準備を整えた、一人の女性の意志が宿っていた。
給湯室を出て、デスクへと戻る。視線は真っ直ぐに、部屋の向こう側へと向けられた。
カーテンが僅かに開いたガラス壁の向こうで、ユダがノートパソコンに向かっている。眉間に皺を寄せ、プロジェクトの報告書かクライアントへのメールを確認しているのだろう。時折こめかみを揉む姿には疲れが見えるが、その集中力は途切れていない。
トリアは遠くから、その逞しい背中を見つめた。どんな嵐からも彼女を守ろうとする背中。自分のために、灰になった夢の重みを背負っている背中。
再び目頭が熱くなったが、今度はその奥に決意の炎が灯っていた。
(後悔なんて、絶対にさせないわ、ユダ)
壁時計に目をやる。昼休みまで、あと一時間。トリアは再び席に着いたが、その頭の中ではすでに言葉が組み立てられていた。話さなければならない。今日、この後に。
第68章、お読みいただきありがとうございます。 ユダの隠していた真実と、トリアの決意。 二人の関係は、新たな段階へと進もうとしています。
「愛」の重さを知ったトリアが、次にどんな行動を取るのか…… 続きが気になる方は、ブックマークやコメントをいただけると励みになります。
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