第67章 小気味よい報復
ミラの手元にある卓上カレンダーが、その日の朝の注目の的だった。トリア、ミラ、セラの三人が、まるで軍事作戦でも練るかのようにその紙の塊を囲んでいる。もっとも、彼女たちが計画していたのは武力行使ではなく、退屈な日常への反撃だった。
「見てこれ。来月、金曜日が祝日よ。土日と合わせれば、三連休じゃない!」
ミラの瞳が爛々と輝き、人差し指がカレンダーの赤い数字を力強く叩いた。
セラは朝のコーヒーを一口啜り、深く頷いた。「いいわね。監査も終わったし、今は仕事も少し落ち着いてるもの。どこに行く? ブドゥグル? それとも海を渡ってヌサ・ペニダ?」
トリアは頬杖をつき、唇に柔らかな笑みを浮かべた。
「ヌサ・ペニダ、楽しそう。私、まだ行ったことがないの」トリアが声を弾ませる。「あそこのビーチ、すごく綺麗だって聞くわ」
「最高よ、トリア! でも覚悟しておいてね。階段がすごく急だから、足が棒になるわよ」ミラが愉快そうに笑い飛ばした。
休暇の計画で盛り上がっている最中、マネージャー室のドアが静かに開いた。ユダが数冊の厚いファイルを持って現れ、ゆったりとした足取りで彼女たちのデスクへと近づいてくる。小さな人だかりに気づき、彼の足が止まった。
「朝から秘密の会議か? ずいぶん真剣な顔をしているが」
ユダはそう言いながら、セラのデスクにファイルを置いた。
ミラが即座に顔を上げ、悪戯っぽく口角を上げた。「来月の脱走計画ですよ、ボス。ビタミン・シー(海のエネルギー)が必要なんです」
ユダは低く笑い、それから視線をトリアへと移した。その瞳がふっと熱を帯びるのを、トリアは肌で感じた。頬の温度がわずかに上がる。
「ヌサ・ペニダはいい案だ」ユダが自然に会話に加わった。「だが、もしもっと静かでロマンチックな場所がいいなら、シデメンの方をお勧めするよ。田んぼの真ん中にヴィラがたくさんあって、空気も涼しい。……心を癒やすには、うってつけの場所だ」
トリアはユダを見つめた。彼が口にした「癒やす」という言葉の裏にある意味を、彼女は正確に受け取っていた。あの嵐のような日々を乗り越えたトリアには、安らぎを得る権利があるのだと、彼は暗に伝えていた。
「オホン! ゴホッ!」
背後から、わざとらしい咳払いが響いた。
大柄なシニア建築家のリオが、図面の束を抱えて現れた。彼は親しげにユダの肩に腕を回す。
「おやおや、うちのマネージャー様は、今やロマンチックな旅行コンサルタントですか? 守るべき相手ができると、こうも変わるもんなんですかね」
リオの豪快なからかいに、周囲のスタッフからも笑いが漏れた。三階のフロアに漂う家族のような温かな空気は、先週までの緊張感とは対照的だった。
「よせよ、リオ」ユダはリオの脇腹を軽く小突きながら、赤くなった耳を隠すように視線を逸らした。
「トリアちゃん、気をつけてね」リオは今度はトリアに向き直り、芝居がかった真剣な顔を作った。「ユダと一緒に旅行に行くなら、あいつにノートパソコンを持たせないことだ。仕事のことになると、デート中だってことを忘れちまう男だからな」
「承知いたしました、リオさん。その時は、私がパソコンを人質に取ります」
トリアの鈴の音のような笑い声が、オフィスに響き渡った。
ユダは降参したように首を振り、からかわれるがままになっていた。しかし、その胸の内には深い安堵が広がっていた。オークランドからのオファーを断り、この場所に留まる決断をしたことは、やはり正しかった。
友たちの笑い声に囲まれ、自分を見つめて微笑む女性が隣にいる。こここそが、彼の居場所だった。
◇◇◇
昼休みが訪れた。バリの太陽は容赦なく照りつけていたが、時折吹き抜ける潮風が肌に心地よい。
今日のユダは、オフィスの食堂や一回目のデートで行ったような高級レストランではなく、彼が昔から通っている地元の「ワルン(食堂)」へとトリアを誘った。
二人は長い木製のテーブルで向かい合って座った。店内は活気に溢れ、賑やかな喧騒が、かえって二人だけの親密な空間を作り出していた。
「これ、サンバルを試してみて。でも少しずつだぞ。ここの辛さは冗談じゃないからな」
ユダはトリアの皿に、自家製のサンバル・マタを丁寧に添えた。
「ありがとう、ユダ」
二人の間に、甘酸っぱい気恥ずかしさが漂う。公の場で「恋人」として食事を共にするのは、これが初めてだった。クルプック(揚げせんべい)やティッシュを取る際に指先が触れ合うたび、トリアの心臓は小さな火花を散らした。
ユダは美味しそうに食事を頬張るトリアを、眩しそうに見つめた。頬を膨らませて夢中で食べる彼女の姿を見ていると、オークランドの企業に送った辞退のメールに対する後悔など、微塵も湧いてこなかった。
「そういえば、トリア」ユダが冷たいアイスティーを一口飲み、話を切り出した。「今朝、母さんからまた電話があったんだ」
トリアの手が止まり、目を丸くして警戒した。「えっ? おば様が? まさか……孫の顔が見たいなんて言っていませんよね?」
ユダは吹き出しそうになり、危うくむせかけた。「いや、さすがにそこまでは。ただ、君の様子を気にしていてね。『あの可愛らしいトリアさんは元気? どうしてビデオ通話に出てくれないの?』ってさ。君とお喋りしたくて堪らないみたいだ」
トリアの顔は瞬く間に真っ赤に染まった。胸の奥に温かな感覚が広がる。相手の家族にありのままを受け入れられるという経験は、かつての彼女にとっては何よりも得難いものだった。
「おば様によろしくお伝えください。……心の準備ができたら、またお顔を拝見します、って」トリアは恥ずかしそうに呟いた。
「わかった。伝えておくよ」
「ビデオ通話」という言葉を聞いた瞬間、トリアの脳裏に一つの悪戯な計画が閃いた。昨夜、サンティと交わした約束。それは、最高に甘い「復讐」の計画だった。
トリアは、ユダが缶から大きな白いクルプックを取り出すのを横目で見た。今の彼は、オフィスで見せる厳格なマネージャーの面影など微塵もない、リラックスした一人の男性だった。
「ねえ、ユダ」トリアが静かに呼んだ。
「ん?」ユダはクルプックを一口齧った。
サクッ!
トリアは素早い動作でスマートフォンを取り出した。WhatsAppを開き、サンティの連絡先を探してビデオ通話のボタンをタップする。
「紹介したい人がいるの。ちょっと待ってて」トリアは狡猾な笑みを隠しながら言った。
ユダは何も知らずにクルプックを咀嚼し続けている。「誰だい? クライアントか?」
ユダが飲み込もうとするよりも早く、スマートフォンの画面にフルメイクのサンティが現れた。そして彼女の背後には、さらに四、五人の女性たちがフレームに収まろうと押し合いへし合いしている。ジャカルタの元の職場の同僚たちだった。
『ハローーー、トリアーーーー!』
彼女たちの黄色い歓声が、スピーカーから一斉に溢れ出した。
ユダは凍りついた。口の中にはまだクルプックが詰まっている。
トリアはすかさずスマートフォンを回転させ、状況を処理しきれずにフリーズしているユダの顔に背面カメラを向けた。
『キャーーー! 本物よ! 本物が映ったわ!』サンティが狂喜乱舞する。
『マジでイケメンじゃない!』同僚のミタが叫ぶ。
『トリアの彼氏さん、初めまして! ジャカルタから愛を込めてご挨拶しまーす!』
ユダの目は限界まで見開かれた。この状況は、彼の計算高い頭脳をもってしても完全に想定外だった。彼はパニックに陥り、礼儀正しく挨拶をしようと、慌てて口の中のクルプックを飲み込もうとした。
しかし、運命は非情だった。乾燥したクルプックの破片が、喉の奥に引っかかった。
「ゲホッ! ゴホッ! ウッ、ヒィッ!」
ユダは激しくむせ返った。顔は真っ赤になり、目には涙が浮かぶ。喉を押さえて咳き込む彼の姿に、かつての「アルカディアの王子様」の威厳は、数秒で跡形もなく崩れ去った。
スマートフォンの向こう側では、サンティたちがその無様な姿を見て爆笑していた。
『やだ、お兄さん驚きすぎ! 早く水飲んで、水!』
トリアは満足げに、お腹が痛くなるほど笑い転げた。彼女は急いでユダにアイスティーのグラスを差し出し、彼の背中を優しく叩いた。
「ほら、ユダ。ゆっくり飲んで」トリアは悪戯な笑みを浮かべながら、慈しむように言った。
ユダはひったくるようにグラスを掴み、一気に飲み干した。ようやく呼吸を整えると、潤んだ瞳でショックを隠せないままトリアを睨みつけた。
「君……わざとやったな?」ユダの声は、咳のせいで少しかすれていた。
トリアは片目をパチンとウィンクし、再びカメラを二人の方へ向けた。
「みんな、紹介するわ。こちらがユダ。ごめんなさいね、みんなの魅力に圧倒されて、ちょっと腰を抜かしちゃったみたい」
ユダはもはや観念するしかなかった。彼は目尻の涙を拭いながら、力なく画面に向かって手を振った。心の中で、この仕返しは必ずしてやると誓いながら。
しかし、トリアのこれほどまでに晴れやかな笑い顔を見ていると……。
クルプックで死にそうになったことも、それだけの価値があったと思えてしまうのだった。
第67章、お読みいただきありがとうございます。 ユダの「惨めな」姿、楽しんでいただけたでしょうか? トリアの小さな復讐、そして二人の絆がさらに深まる一章でした。
次章では、いよいよヌサ・ペニダ旅行の話が進むかもしれません……? どんな展開になるか、どうぞお楽しみに!
感想や「ここが好き!」という箇所があれば、コメントやブックマークをいただけると励みになります。 X(@mrnoxvane)やLINE(ID: noxvane)でも、気軽にメッセージくださいね。




