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自己愛者(ナルシシスト)の婚約者から逃れて:バリ島で私を救ってくれた人  作者: NoxVane


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第66章 秘められた決断と悪戯な約束

サヌールの夜風が頬を撫で、夕暮れの礼拝の残り香であるお香の匂いと、微かな潮の香りを運んでくる。バイパス・ングラ・ライ通りの上空は深い紺色に染まり、連なる街灯が巨大な蛍のように明かりを灯していた。


スクーターの速度を一定に保ちながら、ユダは前方の道路を見つめていた。だが、彼の思考はタイヤの回転よりも遥かに速く加速していた。


一時間前。彼はあの「送信」ボタンを押した。


パシフィック・ビジョン・ソリューションズへの辞退メール。たった一度のクリックで、これまでの五年間描き続けてきた夢が消えた。オークランドの高級アパートメント、ドル建ての報酬、そして野心的なキャリアの頂点。それらすべてへの扉を、自らの手で閉ざしたのだ。


胸の奥に、ぽっかりと小さな穴が開いたような感覚があった。黄金のチャンスを手放す時に感じる、人間らしい喪失感。しかし、その空白は、今まさに自分の腰に回されている温もりによって、ゆっくりと満たされていった。


初めてのことだった。トリアが後ろのグラブバーを握っていないのは。


彼女の両腕は、躊躇いながらも、確かな意志を持ってユダの腹部に回されていた。映画のような激しい抱擁ではない。指先が控えめに重なっているだけだが、背中に伝わる彼女の体温が、ユダの心を震わせるには十分すぎた。


「ユダ、寒くない?」


ヘルメット越しに、風に逆らうようなトリアの小さな声が聞こえた。


ユダはバイザーの奥で、ふっと口角を上げた。その問いかけ一つが、後悔の残滓を綺麗に拭い去ってくれる。オークランドには輝かしい未来があるかもしれないが、そこには「寒くないか」と気遣ってくれるトリアはいない。


「いや。……抱きしめてくれる人がいるからな」


少し大きな声で、悪戯っぽく答えた。


背中に顔を押し当てるような感覚があった。照れているのだろうか。腰に回された腕の力が、ほんの少しだけ強くなった。


「誰が抱きしめてるって? 落ちないように掴まってるだけよ」


トリアの声には、隠しきれない照れ笑いが混じっていた。


ユダは低く笑った。


「はいはい。じゃあ、そのままで。しっかり掴まっててくれ」


心の中で、ユダは静かに誓った。


(もう二度と、君を離さない。たとえそれが、俺の最大の夢を捨てることになっても)


サヌールの交差点で信号が赤に変わった。ユダはゆっくりとブレーキをかけ、左足で車体を支える。周囲には数十台のバイクが列をなし、エンジンの唸りとクラクションの音が夜の空気に混ざり合っていた。


背筋を伸ばし、ユダは左のバックミラーに視線をやった。


鏡の中には、ヘルメットに半分隠れたトリアの顔が映っていた。彼女は歩道を歩く観光客の群れをぼんやりと眺めている。その瞳は穏やかに輝き、唇には平和な微笑みが宿っていた。一週間前、恐怖に震え、トラウマの影に怯えていたあの女性の面影は、もうどこにもない。


その表情は……ただ、凪いでいた。


(俺の決断は、間違っていなかった)


ユダは確信した。もう一度、ミラー越しに彼女の瞳を見つめる。


視線に気づいたのか、トリアがミラー越しに目を合わせた。


「何見てるの?」


声は出さず、唇の動きだけで彼女が問う。


ユダは首を横に振り、優しく微笑みかけた。


「綺麗だなと思って」


トリアがユダの肩を軽く叩いた。


「お調子者。ほら、青になったわよ」


再びスクーターが走り出す。二人の家路。それは、ユダが選び取った新しい運命へと続く道でもあった。


◇◇◇


シャニアの家の門の前に、スクーターが滑らかに止まった。夜が更けるにつれ、虫の音が静寂を際立たせている。


トリアがシートから降り、ヘルメットを脱いだ。乱れた髪を直そうとする彼女の手を制し、ユダが自然な動作で指を差し入れ、その毛先を整える。最近では、それが二人の間の新しい習慣になっていた。


「ありがとう、ユダ。気をつけて帰ってね」


トリアが真っ直ぐに自分を見つめる。ユダの胸には、すべてを打ち明けたいという強い衝動が突き上げていた。オークランドのオファーを断ったこと、アルデンを失望させたこと、そして、君のためにすべてを捧げたこと。


男としてのエゴが、認められたいと叫んでいた。どれほど深く君を愛しているかを知ってほしかった。


しかし、ユダは言葉を飲み込んだ。トリアの屈託のない笑顔を見れば、答えは明白だった。今ここで真実を話せば、この笑顔は消え、代わりに重い罪悪感が彼女を支配するだろう。トリアは自分のせいでユダのキャリアを奪ったと、自分を責めるに違いない。


それは望むところではなかった。この重みは、自分一人で背負えばいい。


「ユダ? どうしたの、ぼーっとして」


トリアがユダの顔の前で手をひらひらと動かした。


ユダはハッとして、その手を捕まえて優しく握った。


「いや……明日の昼飯、何にしようか考えてただけだ」


滑らかな嘘が口をついて出る。


トリアは声を立てて笑った。


「もう。食べることばっかり。ほら、早く帰って。もう遅いわよ」


「追い返すのか?」


「違うわよ、心配してるの。まだお風呂も入ってないんでしょ? 太陽の匂いがするわ」


トリアが鼻をつまむ仕草をする。ユダは彼女の頬を愛おしそうにつねった。


「明日、七時丁度に迎えに来るからな。遅れるなよ」


「了解、ボス」


ユダは再びスクーターに跨った。ヘルメットを被る直前、もう一度だけその幸せそうな顔を記憶に焼き付ける。今日下した決断が、決して無駄ではなかったことを確かめるために。


「おやすみ、トリア」


「おやすみなさい」


夜風と共に、ユダは走り去った。大きな秘密を、その背中に背負ったまま。


◇◇◇


自室に戻ったトリアは、ドアを閉めるなり柔らかいベッドにダイブした。抱き枕を力一杯抱きしめ、左右にごろごろと転がる。まるで初恋を知ったばかりの少女のような高揚感。


胸が熱い。弾けるような幸福感で息が詰まりそうだった。もう、あの黒バラの恐怖も、過去の亡霊も、今の彼女を脅かすことはできない。ただ、日に日に自分を開示してくれるユダの甘い態度だけが、頭の中を占領していた。


サイドテーブルのスマートフォンに手を伸ばす。この喜びを真っ先に伝えなければならない相手がいた。シャニアではない。彼女はもうすべてを知っている。


トリアはWhatsAppの連絡先から「サンティ」を探し、通話ボタンを押した。


プルル……プルル……


『もしもし?! トリア?!』


耳に当てる前に、サンティの叫び声がスピーカーから漏れ出した。トリアは顔をしかめながらも、楽しそうに端末を少し遠ざける。


「まずは挨拶してよ、サン。いきなり大声出さないで」


『挨拶なんてどうでもいいわよ! 今日の夕方のステータス見たわよ! あの手は何!? 男の手よね?! 車の中で手を繋いでたじゃない! 相手は誰!? 誰なのよ!!』


サンティの興奮は最高潮に達していた。息をつく暇もないほどのマシンガントーク。


トリアは唇を噛み、笑みを堪えた。昨日、警察署からの帰り道、ユダが繋いでくれた手を密かに撮影し、白いハートの絵文字一つだけを添えてアップしたのだ。シンプルだが、勘のいい友人たちにはこれ以上ない爆弾だった。


「ユダに決まってるでしょ、サン」


トリアは照れくさそうに答えた。


一瞬の沈黙。そして――


『キャアアアアアーーー!! 嘘でしょ!? ついに!? ついに付き合い始めたのね!?』


サンティの悲鳴で鼓膜が破れるかと思った。


「ええ、サン……正式にね」


『信じられない! 凄すぎるわ! トリア・マヘスワリ、ついに完売御礼ね! 鳥肌が止まらないわよ! ハルランの奴、これ知ったら発狂するわね。まあ、あいつはもう刑務所の中だけど!』


トリアは小さく笑った。ハルランのことはもう、語るに値しない過去だ。今夜はただ、この幸福に浸っていたい。


「もういいのよ、元彼の話は。とにかく、私は今すごく幸せ。ユダは……本当に特別なの。忍耐強くて、無理強いもしない。心から私を守ってくれるの」


『当たり前じゃない、特別じゃなきゃ海に捨ててやるわよ!』サンティが鼻息荒く言った。『あ、でもトリア……ナワセナ時代の同期グループ、今えらいことになってるわよ』


「何が?」


『あんたのステータスのせいよ! ミタの奴が口を滑らせて、「トリアがバリで王子様を捕まえた」って噂を広めたの。みんな信じてないわよ。「どうせ普通の男でしょ」とか「ただの現実逃避じゃないの?」とか、散々な言いようよ』


トリアは鼻を鳴らした。「勝手に言わせておけばいいわ」


『それじゃ気が済まないのよ、トリア! あの意地の悪い連中を黙らせなきゃ! ビジュアルの証拠が必要だって騒いでるわ。「写真がないのは捏造と同じだ」ってね』


トリアは眉をひそめた。「どういう意味?」


『明日のお昼! 休憩時間よ! ビデオ通話するわ。その時、絶対にユダさんを隣に置いておいて。彼の顔を拝ませてもらうわよ。フィルターなしの生配信でね! ついでにミタの隣で自慢してやるんだから!』


トリアは絶句した。ビデオ通話? ジャカルタの友人たちにユダを紹介する?


以前の彼女なら、即座に拒絶していただろう。他人の目に怯え、過去を掘り返されるのを恐れていたから。だが、今は違う。


トリアの脳裏に、数日前の夜の光景が浮かんだ。ユダが予告もなしに、彼の両親とビデオ通話させた時のこと。心の準備ができていなかったトリアは、顔を真っ赤にして固まってしまった。あの時、ユダはそれを見て満足げに笑っていた。


トリアの唇に、少しだけ邪悪で、魅力的な笑みが浮かんだ。


「ふーん……ビデオ通話ねぇ……」


『そうよ! 必須よ! 電波が悪いなんて言い訳は通用しないからね!』


「わかったわ、サン。いいわよ。明日のお昼、電話して」


『マジで!? やったぁ! 私、彼氏に負けないくらい気合入れてメイクするわよ!』


トリアは小さく吹き出した。


「でも、驚かないでね。ユダはマネージャーだから、少し堅苦しいところがあるの」


『関係ないわよ、イケメンなら! じゃあ明日ね! バイバイ、トリア! 幸せのお裾分け、楽しみにしてるわよ!』


通話が切れた。


トリアはスマートフォンを胸に抱き、天井を見上げて声を殺して笑った。


「見てなさいよ、ユダ・プラディプタさん」


頭の中のユダの影に向かって、彼女は密かに囁いた。


「先日はご両親の前で私をからかって楽しそうでしたね。今度は私の番です。テンションの高い友人たちの前で、あなたがどんな反応を見せるか……今から楽しみです」


トリアは部屋の明かりを消し、毛布を胸まで引き上げた。目を閉じると、明日へのささやかな「復讐」の計画が頭を駆け巡る。恐怖ではなく、悪戯な期待に胸を躍らせながら、彼女は深い眠りへと落ちていった。

第66章、お読みいただきありがとうございます。 ユダの大きな決断と、トリアのささやかな「復讐」計画、楽しんでいただけたでしょうか?

次章では、いよいよサンティとのビデオ通話が登場します。 ユダがどんな反応を見せるのか、どうぞお楽しみに!

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