第65章 拭い去られた夢
執務室の机の上で、スマートフォンが長く震えた。静まり返った室内に、バイブレーションの低い唸りがじりじりと響く。液晶画面には『アルデン・ルクマナ』の名が点滅し、持ち主の注意を執拗に促していた。
ユダは革張りの椅子に深く腰掛けたまま、動かなかった。両肘を突き、組んだ指先で顔の半分を覆っている。点滅を繰り返す画面を瞬きもせずに見つめ、その震えが止まって留守番電話に切り替わるのを、ただ静かに待っていた。
鼻から重く長い吐息が漏れる。一度収まった震えは、数秒後には再び始まった。アルデンという男は、一度決めたら簡単には引き下がらない。ユダはそれを誰よりも知っていた。
ユダはゆっくりと目を閉じ、心の奥底にあるわずかな気力を振り絞った。この対話から永遠に逃げ続けることはできない。彼は重い手を伸ばし、画面の緑色のアイコンを滑らせると、端末を耳に当てた。
「……ああ、アルデンか」
押し殺した声は平坦で、胸の内で渦巻く葛藤を巧妙に隠していた。
『ユダ! 全く、捕まえるのに一苦労だよ。忙しいのか、それとも運命から逃げ回っているのか?』
受話器の向こうから、アルデンの弾んだ声が響く。ユダの沈んだ心境とは対照的な、高揚したトーンだった。
『採用通知のメール、もう届いているだろう? 信じられない条件だぞ。学生時代の俺たちが夢見ていた以上の報酬だ。オークランドの中心部にあるアパートに、移住費の全額支給、それに最高クラスの医療保険までついているんだからな』
ユダは椅子から立ち上がり、ブラインドが半分降りた大きな窓へと歩み寄った。視線の先には、どこまでも澄み渡ったバリの空が広がっている。だが今の彼の目には、その青ささえも灰色に沈んで見えた。
「ああ。読んだよ」
『なら、何を迷っているんだ? 向こうの人事からも催促が来てる。就労ビザの手続きを今月中に済ませたいから、早急に承諾の返事が欲しいそうだ』
ユダは冷たい窓ガラスに額を押し当てた。
「アルデン……正直、迷っているんだ」
電話の向こうで、笑い声がぴたりと止まった。
『迷っている? なぜだ。これは俺たちの夢だった国際的なキャリアじゃないか。お前ならリージョナル・オペレーションを完全に掌握できるはずだぞ』
「トリアのことだ」
ユダが短く遮ると、アルデンは小さく息を吐いた。
『彼女も連れて行けばいい。パートナー向けの配偶者手当も出るんだ。先に籍を入れるか、あるいは――』
「そんなに単純な話じゃない」
ユダの声に、鋭い響きが混じった。
「彼女の今の状態を知っているだろう。トリアはようやく立ち直り始めたばかりなんだ。このバリで、このオフィスで、ようやく『家』と安心感を見つけ出した。仲間たちに囲まれて、やっと心から笑えるようになったんだ」
ユダは振り返り、固く閉ざされた執務室のドアを見つめた。
「今、彼女をニュージーランドへ連れて行けばどうなる? 友人もいない、言葉も文化も違う見知らぬ土地だ。俺がキャリアを追い求めるエゴのせいで、彼女がようやく築き上げた笑顔を失わせてしまうのが……何より怖いんだ。また彼女が崩れ落ちてしまうのを、俺は見ていられない」
『ユダ……』
アルデンの声が和らいだ。
『お前の懸念はわかる。だが、これはお前の未来でもあるんだぞ』
「俺の未来は、彼女の隣にあるんだ。オークランドじゃない」
ユダは断固とした口調で告げ、それから声を落とした。
「すまない。もう少しだけ、考える時間をくれ」
返事を待たずに通話を切り、ユダはスマートフォンをデスクに置いた。
彼は静かな足取りで、オフィスフロアを一望できるガラス壁へと近づいた。ブラインドの隙間から、三階の執務エリアを見渡す。
ユダの視線は、一箇所に吸い寄せられた。事務デスクのエリアだ。
そこには、ポテトチップスの袋を手に持ったトリアが立っていた。彼女は少し頭を後ろに反らせ、弾けるような笑顔で笑っていた。隣ではミラが滑稽な身振りで誰かの真似をしており、セラは腹を抱えて笑い転げている。
その光景はあまりにもありふれていて、そして、あまりにも尊かった。
一ヶ月前には想像もできなかった、トリアの心からの笑い声。彼女は今、この場所に確かに根を下ろし、生きていた。
「君を連れ去ってしまったら……」
ユダは隔絶されたガラス越しに、届くはずのない声を漏らした。
「その笑顔は、消えてしまうのかな」
オークランドの冷え切ったアパートで、深夜まで帰らない俺を一人で待つトリア。ミラやセラ、シャニアから遠く引き離された彼女の瞳から、再び光が失われていく光景が脳裏をよぎる。ユダは胸を締め付けられるような窒息感に襲われた。
彼女の瞳の輝きを奪う原因が自分になることなど、耐え難い屈辱だった。
トントン。
規則正しいノックの音が、ユダの沈思を破った。彼は慌ててデスクに戻り、プロフェッショナルな表情を取り繕った。
「入れ」
ドアが開き、シニア建築家のリオが大きな図面の束を脇に抱えて入ってきた。その顔は熱意に満ち溢れている。
「ユダ! 悪いな、少し時間をいいか? これを見てくれよ」
リオは机の上にブループリントを広げた。他の書類が端に追いやられる。
「来年のウブド・リゾート・プロジェクトの最終案だ。お前が提案したエコ・リビングのコンセプト、投資家から正式にゴーサインが出たぞ!」
ユダは青い線で描かれた図面を見つめた。ウブドのプロジェクト。少なくとも五年の歳月を要する、超長期の国家的プロジェクトだ。
「……そうか。よかったな、リオ」
ユダは賞賛の言葉を口にしたが、その笑みはどこか強張っていた。
リオはユダの肩を力強く叩いた。
「全部お前のリードのおかげだよ、ボス。今のプロジェクトチームがこれほど結束しているのは、お前がいるからだ。みんな言ってるぜ、このメンバーでいれば、これからの五年はアルカディアの黄金時代になるってな」
黄金時代。五年。
リオの言葉は、ユダの夢の棺に打ち込まれる釘のようだった。チームは自分を頼りにしている。リオは、五年後の未来を俺と一緒に見据えている。
「ああ……順調に進むことを祈っているよ」
「当たり前だろ! それじゃ、また夕方の技術ブリーフィングでな!」
リオは嵐のように去っていった。自分の船の船長が、今まさに自分自身を沈めようとしていることなど露知らずに。
ユダは顔を乱暴に拭った。肩にのしかかる責任と罪悪感が、鉛のように重い。
一息つく間もなく、再びドアが静かに開いた。今度はノックも形式ばった挨拶もない。ドアの隙間から、柔らかな微笑みが顔を覗かせた。
「お疲れ様です、ボス。少しお邪魔してもいいかしら?」
その鈴の音のような声を聞いた瞬間、ユダの肩から余計な力が抜けていった。トリアが書類を一枚手に持って入ってくる。
「おいで。二人きりの時は、そんなにかしこまらなくていいよ」
ユダの顔に、ようやく本物の笑みが浮かんだ。トリアはくすくすと笑いながら歩み寄り、デスクに書類を置いた。
「公私混同はダメですよ。これはミラとセラの残業申請書。明日の月次データのリキャップを終わらせたいんですって」
ユダは内容も確認せずにサインをした。視線は、生き生きとした表情でこちらを見つめるトリアの顔から離れない。
「そういえば、ユダ」
トリアが目を輝かせて言った。
「来週、私にとって初めての給料日でしょう? デスクの上に飾る小さな観葉植物を買おうと思っているの。サボテンか、多肉植物がいいかなって」
「サボテン?」
「ええ! 殺風景なデスクに潤いが欲しいの。それから、可愛い背もたれクッションも買いたいのよ。長時間座っていても疲れないように。ミラがデンパサールにいいお店があるって教えてくれたから、今週末に行ってみるつもり」
トリアは楽しそうに、自分のささやかな計画を語り続けた。デスクを飾り、クッションを買い、週末の予定を立てる。その一つひとつが、彼女が『ここに居続けたい』と願っている証拠だった。彼女は今、自分の巣をここで作ろうとしているのだ。アルカディア・プライムで。バリという島で。
ユダの喉が熱くなった。苦い唾を飲み込む。
来月、別の国へ行くからサボテンなんて買うな。そんな言葉、この幸せそうな女性に言えるはずがなかった。それはあまりにも残酷な宣告だ。
「……いいと思うよ」
ユダの声は、かすかに掠れていた。
「きっと……素敵なデスクになるだろうね」
トリアは満足げに微笑んだ。恋人の瞳の奥に潜む悲しみに気づくことなく。
「ありがとう、ユダ。じゃあ、仕事に戻るわね。頑張って!」
彼女は小さく手を振ると、軽やかな足取りで部屋を去っていった。ドアが閉まる音が、ユダを再び静寂の中に置き去りにする。
ユダはノートパソコンの画面に視線を戻した。パシフィック・ビジョン・ソリューションズへの返信メールが、空白のまま開かれている。
彼はもう一度、そのオファーに目を通した。オークランド。リージョナル・マネージャー。グローバル・キャリア。
かつての自分が喉から手が出るほど欲しがったすべてが、そこにある。
だが、ドアの向こうには、彼にとっての真実の未来がある。傷を癒やし、ようやく根を下ろし始めた最愛の女性の姿が。
「夢は……後回しにできる」
ユダは自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「だが、君の幸せは、一刻も待てないんだ」
迷いはなかった。ユダはマウスを動かし、カーソルを『送信』ではなく、『下書き削除』へと運んだ。
クリック。
夢の残骸が、画面から消え去った。
代わりに、彼は新しく、短く簡潔な英文を打ち込んだ。
『採用チーム担当者様。検討の結果、今回のオファーを辞退させていただきます。個人的な事情により、現在の場所を離れることができないため……』
震える指先が綴る、拒絶の言葉。ユダは読み返すこともせず、送信ボタンを強く押した。
終わった。
彼は一人の女性の笑顔を守るために、自らの最大の野心を埋葬した。後悔はなかった。ただ、胸の奥に鈍い痛みが走ったが、それは時が解決してくれるはずだと信じた。
ユダはノートパソコンの電源を落とし、まるで夢の詰まった棺を閉じるように、ゆっくりと蓋を閉めた。
壁時計に目をやる。退勤の時間だ。
ユダはデスクの上のバイクの鍵を掴んだ。立ち上がり、シャツの袖を整えると、鏡の中の自分に向かって無理やり笑ってみせた。苦く、けれど誠実な笑みだった。
「……さあ、帰ろうか、トリア」
彼は執務室を出た。トリアを家まで送り届けるために。
自分が下した大きな決断を、彼女に悟られないように。だが、愛する男の変化に、鋭い直感を持つ女性がいつまでも気づかないはずはなかった。
第65章、お読みいただきありがとうございます。 ユダの決断、どう受け止められましたか? 彼が選んだのは、華やかな未来ではなく、今ここにある幸せでした。
この先、二人にどんな試練が待ち受けているのか…… 続きが気になる方は、ブックマークやコメントをいただけると励みになります。
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