第64章 幸福の波紋
縁が少し焦げたトーストの香りが、ダイニングを満たしていた。しかし、今朝の主役はその失敗した朝食ではなく、サヌールの朝日すら霞ませるほどに輝きを放つトリアの表情だった。
向かいに座るシャニアは両手で頬杖をつき、五分前からずっといたずらっぽい笑みを浮かべている。
「それで……『ユダ・プラディプタ夫人』としての初日の朝の気分はどう?」
シャニアが眉を上下に動かしながらからかう。
トリアは飲んでいたオレンジジュースに小さくむせた。慌てて一枚の食パンを掴み、耳の先まで真っ赤に染まった顔の半分を隠す。
「もう、シャニアさん! まだ結婚もしてないのに、夫人だなんて……」
食パンの裏から、くぐもった抗議の声が漏れる。
「あら! 昨日の夜の十二時、私の部屋のドアをバンバン叩いて『お姉ちゃん、私、付き合うことになった!』って飛び跳ねてたのはどこの誰かしら?」
昨夜のトリアの狂乱ぶりを真似て、シャニアが鼻で笑う。
トリアは恥ずかしさに顔を歪めた。ユダが帰った後、胸の奥が満たされすぎて、誰かにその感情をぶつけずにはいられなかったのだ。そして、一番の被害者となったのがシャニアだった。
「それは……あんまりにも嬉しすぎて、つい」
「顔を見ればわかるわよ。ほら、さっきからずっと口角が上がりっぱなし。歯が乾いちゃうわよ」シャニアはバターナイフでジャムを塗りながら、さらにからかった。
だが、彼女はふと手を止め、温かな眼差しを向けた。
「でも、正直に言うわ。本当に嬉しい。やっと……私の可愛い妹分が、心から幸せになれたんだから」
トリアは食パンを下ろし、潤んだ瞳でシャニアを見つめた。
「ありがとうございます、シャニアさん。あなたがいてくれなかったら、私……」
「しっ、朝からしんみりするのは禁止。さあ、早く食べなさい。王子様のお迎えに遅れるわよ。……あ、違うわね。今日は私に相乗りしていくんだったわ。王子様は今日も鉄の馬に乗ってくるらしいから」
◇◇◇
アルカディア・プライムへの道のりは、いつもよりずっと短く感じられた。バイパス・ングラ・ライを滑るように走るシャニアの車の助手席で、トリアの膝の上にあるスマートフォンが絶え間なく震え続けている。
ブブッ……ブブッ……ブブッ……。
画面のロックを解除すると、WhatsAppの通知が画面を埋め尽くしていた。送り主はすべて同じ名前だ。
ナディア:『嘘でしょ!? シャニアから聞いたわよ! ついに公式カップル!?』
ナディア:『キャー! やったわ! 私の推しカップルが結ばれた!』
ナディア:『トリアちゃん! 早く教えて! どんな風に告白されたの? 花束? それともいきなりキス!? ああああ、気になる!』
ナディア:[踊る猫のスタンプ]
ナディア:[ハートが飛び交うスタンプ]
トリアは勢いよく隣を向いた。運転席のシャニアは、悪びれる様子もなく涼しい顔でハンドルを握っている。
「シャニアさん! ナディアさんにバラしたわね!?」
トリアが半ば悲鳴のように抗議する。
シャニアは声を上げて笑い、ハンドルを軽く叩いた。「当たり前じゃない! こんな国家レベルのビッグニュース、一人で抱え込めるわけないでしょ。世界中に知らせなきゃ罪よ。それに、ナディアはあなたたちの選挙対策委員長みたいなものなんだから」
「でも、恥ずかしいわ! ほら、メッセージがこんなに暴走してる!」
口では文句を言いながらも、ナディアの熱狂的なメッセージを読むトリアの唇は、どうしても緩んでしまう。
彼女は火照る頬を抑えながら、恥じらいの絵文字を添えた短い返信を打ち込み、スマートフォンを胸に抱きしめた。渋滞するサヌールの街並みすら、今の彼女には美しく輝いて見えた。
◇◇◇
三階のフロアに足を踏み入れた瞬間、トリアは意識をプロフェッショナルなモードへと切り替えた。ブレザーの襟を直し、背筋を伸ばし、努めて平坦な表情を作る。
ここは職場だ。いくら幸せでも、自分の関係が業務の妨げになったり、安っぽいゴシップの種になったりするのは避けたかった。もっとも、それが不可能に近いことは理解していたが。
「おはよう、トリア!」
席に着くと、ミラが声をかけてきた。
「おはよう、ミラ。セラも」トリアはバッグを置きながら返す。
セラが目を細め、探るような視線を向けてきた。「なんだか、今日はずいぶんと顔色が明るいわね。何かいいことでもあった?」
「何もないわよ。ただ、ぐっすり眠れただけ」トリアはそつなく嘘をついた。
その時、ユダの執務室のドアが開いた。数枚の書類を手にした彼が、事務デスクの方へと歩いてくる。その瞬間、トリアの心臓の回転数が跳ね上がった。
ユダはトリアのデスクの前で立ち止まった。表情は極めて真剣に保たれていたが、その瞳の奥には、トリアにしか読み取れない深い熱が宿っている。
「トリアさん、メールで送ったベンダーの契約書のドラフトを確認してくれないか。午後二時までに仕上げる必要がある」ユダが事務的なトーンで指示を出す。
「承知いたしました、ユダさん。すぐに取り掛かります」トリアも負けじとフォーマルに返す。
しかし、ユダが物理的な書類をトリアに手渡そうとした瞬間、二人の指先が触れ合い、本来ならすぐに離れるはずの手が、ほんの一秒だけ長く留まった。
ユダは微かに口角を上げ、周囲には絶対に聞こえないほどの、吐息のような声で囁いた。
「頑張ってね……愛しい人」
ドクンッ!
トリアの目が限界まで見開かれた。反射的に、書類をひったくるように引き寄せる。
「コホン!」
隣でミラがわざとらしく大きな咳払いをした。「何よ、今のヒソヒソ話。トリア、なんでそんなに驚いてるの?」
ユダは即座に居住まいを正し、小さく咳払いをして誤魔化した。「いや……ただ、締め切りが厳しいから頑張ってくれと言っただけだ」
「へえ……。てっきり、『頑張ってね、僕の愛しい人』とでも言ったのかと思いましたよ」
セラの投げやりな、しかし鋭すぎる推測が空気を切り裂いた。
ユダとトリアの肩が同時に跳ねた。図星だった。
二人の顔は、数秒の間に同じ色に染まっていった。ユダはきまりが悪そうに項を掻く。
「君たちは……まったく。さあ、仕事に戻りなさい」
ユダはぎこちなく言い捨てると、少し早すぎる足取りで自分の執務室へと逃げ帰っていった。
ミラとセラは顔を見合わせ、モニターの陰に顔を隠しているトリアをじっと見つめた。
「怪しい」ミラが低く囁く。「限りなく怪しいわ」
トリアは何も答えず、光の速さでキーボードを叩くふりをした。頭の中は、先ほどの甘い囁きで完全にショートしていた。
セラは小さく笑い、ミラの腕を小突いた。「まあいいわ、ミラ。泳がせておきましょう。どうせすぐにボロが出るんだから」
◇◇◇
昼休みが近づき、フロアが少しずつざわめき始めた頃。
報告書の作成に集中していたトリアの横に、大きな影が落ちた。見上げると、人事部長のバスカラ・リンタンが青いファイルを手に立っていた。いつもの親しみやすい、父親のような微笑みを浮かべている。
「トリアさん、少し時間をもらえるかな?」
トリアはすぐに背筋を伸ばした。ハルランやユニの件で人事部に呼ばれたトラウマが、まだ少し残っている。
「はい、バスカラ部長。報告書に何か不備がありましたか?」
「いや、報告書は完璧だ。ただ……保険データの更新のために、ここにサインが欲しくてね」
バスカラがファイルを差し出す。
トリアは安堵の息を吐き、ペンを取って指定された欄にサインを書き込んだ。
彼女がうつむいてペンを走らせている間、バスカラは突然、リラックスしたトーンで口を開いた。しかし、その声のボリュームは、隣のミラやセラ、そして周囲のスタッフ全員に聞こえるほど大きかった。
「そういえば、トリアさん。おめでとう」
ペンの動きが止まった。トリアは不思議そうに顔を上げる。
「おめでとう……とは?」
バスカラは満面の笑みを浮かべた。
「ユダとの新しい関係、おめでとう。今朝、シャニアから電話があってね。ユダにようやく手綱を握る人ができたって、大喜びしていたよ。末長くお幸せに」
しんっ。
一秒。二秒。三秒。
事務エリアの空気が、完全に凍りついた。
トリアは口を半開きにしたまま硬直した。指からペンが滑り落ち、デスクの上をコロコロと転がっていく。ホラー映画のワンシーンでも見ているかのような目で、バスカラを見つめた。
「ぶ、部長……」トリアの顔は、これ以上ないほど赤く染まっていた。
バスカラの肩が揺れる。「なんだ、恥ずかしいのか? 気にすることはない。どうせこのフロアの人間は、昨日からみんな感づいていたんだから」
その一言が、導火線に火をつけた。
「えええええっ!?」
ミラの絶叫が沈黙を打ち破り、続いてセラの興奮した悲鳴が上がった。
「本当に!? 本当に付き合ったの!?」セラが机を叩いて立ち上がる。
「ついに! ついにユダさんが売約済みよ!」向かいの物流部門のスタッフが叫んだ。
「おめでとう、トリアさん! ユダさん、ついに年貢の納め時ですね!」
「よし、今日は奢りだ!」
静かだったオフィスは、一瞬にしてお祭り騒ぎへと変わった。歓声と拍手がフロア中に響き渡る。トリアは深くうつむき、両手で顔を覆い隠すしかなかった。口の軽いシャニアに文句を言いたかったが、隠しきれない喜びのせいで、唇は笑いの形に歪んでいた。
バスカラは愉快そうに笑い、トリアの肩を軽く叩いた。「少し口が滑ってしまったな。だが、私も嬉しいよ。ユダは幸せになるべき男だ。君もね」
◇◇◇
執務室の中で、青写真と睨み合っていたユダは、外から聞こえてくる異常な騒がしさに眉をひそめた。
「また何かトラブルか……?」
ハルランの乱入事件の記憶が蘇り、ユダは不安に駆られて立ち上がった。勢いよくドアを開ける。
「一体何の騒ぎ——」
ユダの言葉は途切れた。ドアの枠で立ち尽くす。
目の前に広がっていたのは、乱闘でもテロでもなく、祝福の嵐だった。
数十人の社員がトリアのデスクを囲み、拍手喝采を送っている。中央に座るトリアは顔を真っ赤にして縮こまり、ミラとセラが彼女の肩を揺さぶって大はしゃぎしていた。
そしてその中心で、バスカラ・リンタンがユダに向かって笑いながら手を振っている。
「ほら! 花婿のお出ましだぞ!」ミラがユダを指差して叫んだ。
全員の視線が一斉にユダに集まる。さらなる歓声が上がった。
「おめでとうございます、ユダさん!」
「ピザ奢ってくださいよ!」
ユダは呆然とした。状況を理解するのに数秒かかったが、バスカラと目が合った瞬間、すべてを悟った。人事部長は片目をウインクし、自分のスマートフォンを指差して見せた。シャニアからの連絡だ。
ユダは小さく鼻を鳴らし、呆れたように首を振って笑い声を漏らした。「やれやれ……隠す暇もなかったな」
視線を巡らせ、人混みの向こうにいるトリアを探す。
目が合った。
トリアは、恥ずかしさと申し訳なさが入り混じったような顔で彼を見つめ、唇を尖らせて『助けて!』と無言で訴えかけていた。しかし、その瞳の奥には隠しきれない幸福の光が踊っている。
ユダの顔に、これまでに誰も見たことがないほど無防備で、心からの満面の笑みが広がった。彼は否定もせず、怒りもせず、ただ右手を高く掲げた。
そして、トリアに向かって力強く親指を立ててみせた。言葉など必要なかった。
「わかった、わかった! みんな、ありがとう!」ユダの声が歓声をなだめる。「今日の昼は、このフロア全員にピザを奢るよ。だから、今は仕事に戻ってくれ!」
「よっしゃあああ!」
社員たちは満足げな顔で散っていき、トリアはついに安堵の息を吐き出すことができた。
ユダとトリアは、喧騒の中で最後にもう一度だけ視線を交わした。恥ずかしそうに微笑み合う二人だけの秘密の空間。ユダは満ち足りた思いを胸に、自室へと戻っていった。
◇◇◇
椅子に深く腰を下ろしたユダの心は、高く舞い上がっていた。外から微かに聞こえる笑い声すら、心地よいBGMのようだ。
手元にあるペンを指先で回しながら、笑みがこぼれるのを止められない。トリアが自分のものになり、職場にも祝福され、すべてが完璧な軌道に乗っているように思えた。
「よし、仕事に戻るか」
独り言を呟き、スリープ状態だったノートパソコンのマウスを動かした。
画面が明るくなり、メールソフトが自動的に最新の受信トレイを表示する。一番上に、赤いフラグが立てられた『重要』な新着メールがあった。
ユダは目を細め、その件名を読んだ。
送信元:Recruitment - Pacific Vision Solutions (NZ)
件名:【重要】オファーレター(採用通知書) - リージョナル・オペレーション・マネージャー
『ユダ・プラディプタ様
この度、弊社のオークランド・セントラル・オフィスにおけるリージョナル・オペレーション・マネージャーの職位を、正式に貴殿にオファーできることを嬉しく思います……』
ユダの顔から、ゆっくりと笑みが消えていった。
先ほどまで高鳴っていた心臓が、今は全く別の理由で重く、不規則な鼓動を打ち始めた。
彼はメールの本文を開いた。視線が文字列を高速で滑っていく。ドル建ての莫大な報酬、オークランド中心部の高級アパートメントの提供、移転手当、そして何より、彼が長年追い求めてきた国際的なキャリアの頂点が、そこにはっきりと記されていた。
すべてが、文字となって目の前にある。あとは「返信」ボタンを押し、承諾のサインを送るだけだ。
しかし、ユダの脳裏には、先ほど外で顔を赤らめていたトリアの姿が浮かんでは消えた。
過去の裏切りからようやく立ち直り、自分を信じてくれた女性。このサヌールの地に、彼が留まるべき最大の理由となった存在。
マウスを握るユダの指が、冷たく凍りついたように動かなくなった。
彼の最大の夢が、ついに扉を叩いた。彼が、どこへも行きたくないと心の底から願った、まさにその瞬間に。
「神様……」
ユダは掠れた声を漏らし、両手で顔を乱暴に覆った。
「なぜ、今なんだ……」
第64章、お読みいただきありがとうございます。 オフィスのみんなの反応、楽しんでいただけたでしょうか? 幸せな瞬間の直後に訪れた、ユダへの試練……。
次章がどうなるか、ぜひ想像しながらお待ちください。 「応援してる!」という気持ちや感想を、コメントやブックマークでいただけると嬉しいです。
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