第63章 受け入れられた心の欠片
「僕の恋人に……なってくれるかな? 両親に紹介する、たった一人の女性として」
その問いかけは、互いの荒い吐息が混じり合う空気の中に溶けていった。ユダの瞳は真っ直ぐにトリアを射抜き、期待に満ちている。それは彼女がずっと夢見てきた世界――誠実で、隠し事のない、認められた関係の提示だった。
トリアの胸に激しい震えが走る。唇はすでに開き、喉元まで出かかった「はい」という言葉を叫ぼうとしていた。しかし、その声が零れる寸前、暗い影が脳裏をよぎった。
招かれざる記憶。ハルランのアパートで過ごしたあの夜。乱れたシーツ。結婚という甘い約束の果てに、すべてを捧げてしまった自分。そして、そのすべてが無残に裏切られた結末。
トリアの微笑みが、ゆっくりと消えていく。瞳の輝きは失われ、代わりに深い葛藤の霧が立ち込めた。彼女は俯き、ユダの視線から逃れるように、重ねられていた彼の手からそっと自分の手を引き抜いた。
「トリア?」ユダが困惑したように、静かに名を呼んだ。「どうしたんだい? ……嫌なのかな?」
トリアは弱々しく首を振り、膝の上で自分の指をきつく握りしめた。劣等感が再び彼女の首を絞める。
(私に、そんな資格があるの?)
心の叫びが止まらない。
ユダは立派な家柄の、非の打ち所がない誠実な男性だ。彼がどれほど自分の信念を大切にしているか、トリアも知っている。それに引き換え、自分はどうだろう。高級店のショーケースに並べられた、傷物の商品のようではないか。
「嫌なわけじゃないの、ユダ……」トリアの声は震え、消え入りそうだった。「でも、私を選ぶ前に、あなたに知っておいてほしいことがあるの」
ユダは急かすことをしなかった。ただ少しだけ座り直し、彼女に寄り添いながらも、圧迫感を与えない距離を保った。「何だい? 話してごらん」
トリアは深く息を吸い込み、残された勇気を振り絞った。これが最大の賭けだと分かっている。正直に話せば、彼は幻滅して去っていくかもしれない。けれど、隠し通したまま嘘の上に築く関係は、ハルランが自分にしたことと同じだ。トリアは、あんな男のようにはなりたくなかった。
「私……」トリアは唾を飲み込んだ。喉が渇き、痛む。「私には、あなたには受け入れられないかもしれない過去があるの」
視界が涙で滲み始める。ユダの顔を見る勇気が出ない。彼女はただ、床のタイルの模様を、まるでそれが世界で一番重要なものであるかのように見つめ続けた。
「ハルランと付き合っていた一年間……私、本当に馬鹿だった。彼の結婚の約束を信じて……だから……」
言葉が詰まった。最初の一滴が、彼女の手の甲にこぼれ落ちる。
「すべてを、彼に捧げてしまったの。女性として一番大切なものを……私はもう持っていない。私はもう、清らかな体じゃないの」
静寂がリビングを支配した。トリアは固く目を閉じ、宣告を待った。失望の溜息か、あるいは遠ざかっていく足音を。一番恐ろしいのは、あの穏やかな瞳に軽蔑の色が浮かぶことだった。
「ごめんなさい……」トリアは小さく声を漏らした。「今の言葉、取り消したいなら……分かってる。あなたには、もっと相応しい人がいるはずだから」
一秒、二秒。
温かな手がトリアの顎に触れ、優しく、けれど拒絶を許さない強さで彼女の顔を上げた。
彼女は、無理やり目を開かされた。涙で視界はぼやけていたが、ユダの顔ははっきりと見えた。そこには怒りも、失望も、審判を下すような冷たさもなかった。
ユダは、微笑んでいた。それはどこまでも優しく、すべてを包み込むような、慈愛に満ちた微笑みだった。
「トリア、僕の話を聞いて」ユダの低く深い声が響く。親指が、彼女の頬を伝う涙を拭った。
「僕が恋に落ちたのは、今、目の前にいるトリアなんだ。困難から立ち上がろうとする強さ、料理を作る時の楽しそうな姿、そして、その素敵な笑顔に」
ユダはトリアの瞳をじっと見つめた。
「君の過去は、今の素晴らしい君を作り上げるための道のりの一部だ。僕に、それを裁く権利なんてない。それに、『清らかさ』なんて……」
ユダは静かに首を振った。
「そんな過去のことで、君の価値が少しでも損なわれるなんてことは絶対にない。僕の目には、君は今も変わらず尊く、かけがえのない存在に映っている。僕が探しているのは完璧な女性じゃない。君なんだ、トリア」
トリアの張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。悲しみではなく、圧倒的な安堵感に、彼女は声を上げて泣き崩れた。欠点も傷跡も、すべてを含めた自分という人間が、丸ごと受け入れられたのだ。ユダは彼女を「傷物」としてではなく、愛すべき一人の人間として見てくれていた。
「ユダ……あなたは、優しすぎるわ……」
ユダは言葉で返さなかった。彼はトリアを腕の中に引き寄せ、すべての痛みを吸い取るかのように強く抱きしめた。
しかし、いつまでも止まらないトリアの涙に、ユダの胸は締め付けられた。この涙を止めたい。別の感情で、彼女を満たしてあげたい。
ユダは腕の力を緩めると、両手でトリアの顔を包み込んだ。そして、何の前触れもなく、再び彼女の唇に自分の唇を重ねた。
今度の口づけは、先ほどとは違っていた。
先ほどが許しを請うものだったなら、今回は証明だった。激しく、深く、感情のすべてをぶつけるような接吻。ユダは優しく、それでいて貪るように彼女の唇を食み、これまで抑えてきた愛しさと渇望を注ぎ込んだ。
トリアは陶酔した。全身を駆け巡る熱い感覚に、思考が麻痺していく。彼女はユダの首に腕を回し、同じ深さでその口づけに応えた。涙の塩分と唇の甘さが混じり合い、酔いしれるような感覚が二人を包む。
吐息が荒くなる。エアコンの効いた室内が、急激に熱を帯びた。
無意識のうちに、二人の体が動く。ユダがトリアの体をゆっくりとソファの背もたれへと押し込み、そのまま彼女を横たえさせた。ユダは彼女の上に覆いかぶさるようにして、肘で自分の体重を支えながら、彼女の逃げ場を塞いだ。
口づけはさらに熱を増していく。トリアの顔にあったユダの手が、ゆっくりと下へと滑り落ちた。しなやかな首筋を辿り、肩を通り、細い腰へと。
「んっ……」
ユダの手が腰を優しく愛撫すると、トリアの喉から小さな吐息が漏れた。
その声が、ユダの理性に火をつけた。男としての本能が彼を支配する。手はさらに下へと動き、腰の曲線をなぞりながら、膝丈のドレスに覆われた太ももへと辿り着いた。
ユダの指先がドレスの裾に触れ、その内側の肌へと滑り込もうとした、その時。
トリアの体が、びくりと強張った。彼女は目を固く閉じ、眉間に皺を寄せた。拒絶ではない。それは無意識下の恐怖が引き起こした反射だった。この先の感触が、かつての無力感へと繋がっていることを、彼女の体が記憶していた。
薄く目を開けていたユダは、その微かな変化を見逃さなかった。トリアの顔に浮かんだ緊張の色を。
(止まれ)
ユダの頭の中で、警報が鳴り響いた。一瞬にして、理性が引き戻される。
(何をしているんだ、ユダ。彼女は今、トラウマを打ち明けてくれたばかりじゃないか。それを繰り返すつもりか?)
ユダは心の中で自分を激しく叱責した。
荒い呼吸を整えながら、ユダは手の動きを止めた。そしてトリアの唇から離れ、長い口づけを終わらせた。
トリアは困惑と恐怖の入り混じった表情で、ゆっくりと目を開けた。「ユダ……?」
ユダは答えず、姿勢を変えた。彼女から離れるのではなく、トリアの体を自分に背を向けるように反転させると、狭いソファに横たわる彼女を後ろから包み込むように抱きしめた。それは威圧するものではなく、守るための抱擁だった。
彼はトリアのドレスの裾を、丁寧に整えた。
「ごめん……」ユダはトリアの耳元で、低く掠れた声で囁いた。熱い吐息が彼女の首筋をかすめる。
「ごめんね……。歯止めが利かなくなるところだった。今夜の君があまりにも綺麗だから、抑えるのが難しくて」
トリアは呆然とした。瞬きを繰り返し、恐怖で跳ねていた鼓動が、今は別の理由で高鳴っている。
止めてと懇願する必要もなかった。「嫌」と言う必要さえなかった。ユダは自ら止まってくれたのだ。彼は自分を尊重し、自分の心を守るために、自らの欲求を抑えてくれた。
その違いは、あまりにも明白だった。ハルランはいつも愛を盾に自分の意志を押し付けてきたが、ユダはトリアを守るために自分を律した。
トリアの唇に、自然と笑みがこぼれた。言いようのない温かさが胸を満たしていく。お腹のあたりに回されたユダの逞しい腕の中に、これ以上ない安心感を感じていた。
トリアはユダの腕に頭を預け、消え入りそうな声で囁いた。
「ありがとう……大好きよ」
ユダの体が、一瞬で硬直した。「え?」
ユダは少し顔を上げ、横からトリアの顔を覗き込もうとした。「今……なんて言ったの?」
トリアはくすくすと悪戯っぽく笑い、ソファのクッションに顔を埋めた。「再放送はなし。聞き間違いじゃない?」
「ずるいよ!」ユダは堪らなくなって、彼女をさらに強く抱きしめ、腰のあたりをくすぐった。「もう一回。言ってくれないなら、今日は帰らないからね」
「もう、ユダ! くすぐったい! あはは!」トリアは身をよじりながら、声を上げて笑った。「分かった、分かったわ! 大好き! これで満足?!」
ユダは、目が細くなるほど満面の笑みを浮かべた。そして、彼女の頬に横から口づけをした。
「大満足だ。今なら街中を走り回れる気分だよ」
トリアが寝返りを打ち、二人はソファの上で至近距離で見つめ合った。トリアはユダの顔を見つめ、その凛々しい眉や高い鼻筋を、愛おしそうに視線でなぞった。
「ユダ……」
「なあに?」
「さっきの質問の答え……」トリアは心からの笑顔を見せた。「はい。あなたの恋人になりたい」
ユダは歓声を上げる代わりに、ただ深い感謝を込めてトリアを見つめた。そして再び、彼女の額に、長く深い口づけを落とした。
「ありがとう、トリア。君を後悔させるようなことは、絶対にしないと誓うよ」
◇◇◇
時計の針は夜の十時を回っていた。ユダはようやく腰を上げ、少し乱れたシャツを整えた。シャニアへの配慮と、訪問のマナーを守るため、夜更け前には帰らなければならない。
二人は玄関へと歩いた。トリアはドアの枠に寄りかかり、テラスに立つユダを見つめた。
背を向ける直前、ユダは体を屈めた。彼は自分の額をトリアの額にそっと合わせた。鼻先が触れ合う。二人の瞳は、至近距離で互いを捉えて離さない。
「おやすみ、僕の彼女」ユダが囁く。
「気をつけてね……私の彼氏」トリアも照れながら返した。
ユダは微笑み、トリアの頭を優しく撫でると、軽やかな足取りで、愛車へと向かっていった。
ユダの姿が角を曲がって見えなくなると、トリアはゆっくりとドアを閉めた。木の扉に背中を預け、まだ高鳴っている胸に手を当てる。
もう迷いはない。恐怖もない。今夜、トリアは確信した。自分は正しい人を選んだのだと。自分を愛してくれるだけでなく、尊重し、守ってくれる人を。
そして長い年月の後、トリアは初めて、明日という日を笑顔で待ち望むことができた。
第63章、お読みいただきありがとうございました。 トリアの過去、そしてユダの答え。 二人の関係が、ようやく本当の意味で始まりました。
「傷」さえも愛してくれる人。 そんな温かい瞬間を、共有できて嬉しく思います。
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