第62章 延期されたステータス
アルカディア・プライム三階の朝の空気は、今日は一段と軽やかに感じられた。ユニとハルランの騒動という暗雲が去り、すべてが洗い流されたかのようだ。ガラスの壁を通り抜けた陽光が、磨き上げられた大理石の床に反射している。
事務デスクでトリアが請求書の整理に追われていると、キーボードの横に黒いタンブラーが静かに置かれた。
「黒糖ラテ、微糖だ。元気が出るように」
聞き慣れた深いバリトンボイスが耳に届く。
トリアが顔を上げると、そこには薄く笑みを浮かべたユダが立っていた。グレーのスラックスのポケットに片手を突っ込んだ彼は、どこか清々しい。口角の傷はすでに癒え、かすかに残る赤い線が、かえって彼の男らしい色気を引き立てていた。
「ありがとう、ユダ」
トリアは満面の笑みで応えた。
「ゴホン! おっと、空気にむせたわ!」
隣のデスクから、わざとらしい咳払いが響いた。ミラが暑がっているかのように、顔の前で手をひらひらと仰いでいる。
「セラ、エアコン壊れてない? なんだかここ、すごく熱いんだけど。隣のデスクに太陽が二つもあるせいかしら?」
ミラが大きな声で皮肉を飛ばす。
セラはモニターから目を離さずに、くすくすと笑った。「エアコンのせいじゃないわよ、ミラ。私たちの目が眩んでいるだけ。ほら、あそこにオーラ全開のカップルがいるじゃない」
トリアは恥ずかしさに俯いたが、ユダは小さく笑いながら首を振るだけだった。もう否定もしないし、恐れもない。ユダは部屋を出る間際、ミラに向かって茶目っ気たっぷりにウィンクしてみせた。
オフィス全体が温かな笑いに包まれる。公然の秘密はもはや秘密ではなく、三階のスタッフたちにとって微笑ましい日常の光景となっていた。
◇◇◇
時間はあっという間に過ぎ、昼休みがやってきた。賑わう社員食堂で、ユダとトリアは向かい合って座っていた。
バリ風のナシチャンプルを楽しんでいると、物流部門の同僚であるバンバンさんが通りかかり、ユダの肩を叩いた。
「いやあ、ユダさんとトリアさん、ますます熱々ですね。招待状はいつ配るんですか? 物流部門を忘れないでくださいよ!」
バンバンさんが快活に笑いながら冷やかす。
ぽっ。
トリアの頬が林檎のように赤く染まる。対照的に、ユダは落ち着いた様子で丁寧に微笑んだ。「善処しますよ」
バンバンさんは去っていったが、その問いはユダの心に小さな波紋を残した。彼は頬を赤らめながらアイスティーをかき混ぜるトリアを見つめた。二人の距離は、限りなく近い。あの海辺のレストランで、彼はすでに想いを伝えている。
しかし、トリアからはまだ言葉による明確な返事をもらっていない。そして、二人の関係にはまだ正式な「ラベル」がついていなかった。
(付き合っているようで見えて、実はまだ恋人同士じゃないんだよな……)
ユダの心に、妙なもどかしさが込み上げる。他人の憶測ではなく、彼女を完全に自分のものにしたいという独占欲が、胸の奥をちりちりと刺激した。
◇◇◇
夜のサヌールは、少し強めの風が吹き抜けていた。修理を終えたユダのスクーターが、真っ暗なシャニアの家の前で止まる。テラスの明かりは消え、街灯の鈍い光だけが辺りを照らしていた。
トリアは後部座席から降り、ヘルメットを渡した。「送ってくれてありがとう、ユダ」
「ずいぶん暗いな」
ユダは眉をひそめて家を見つめた。彼の保護本能が即座に作動する。
「ああ、シャニアさんからメッセージがあったの。今日は残業で、そのあとクライアントとディナーだから、帰りはかなり遅くなるって」
トリアはバッグから鍵を取り出しながら、事もなげに言った。
ユダはエンジンのスイッチを切り、スタンドを立ててバイクから降りた。
「中に入るまで付き添うよ」
その警戒ぶりに、トリアは小さく笑った。「ユダ、ここはサヌールよ。ジャングルじゃないわ。それに、ハルランはもう刑務所の中でしょう?」
「ハルランのことじゃない」
ユダはトリアを追い越すように門扉へと歩き出した。
「空き家なんだ、何がいるかわからないだろう。ネズミとか……空飛ぶゴキブリとか。君、ゴキブリ苦手だろ?」
トリアは呆れたように首を振った。それがただの口実であることは分かっている。「寄っていきたいって正直に言えばいいのに。さあ、入って。守護騎士様」
リビングの明かりを点けると、家の温かな雰囲気が二人を迎え入れた。トリアはバッグを置き、キッチンへと向かう。
「何か飲む? それとも夕食も食べていく? 昨日シャニアさんが作ったルンダンの残りがあるから、温めればすぐ食べられるわよ」
「いただくよ。お腹が空いた」
ユダは即答した。彼はソファに座り、オープンキッチンで立ち働くトリアの背中を眺めた。その光景は、彼に「帰宅」したような安らぎを感じさせた。
夕食は軽い会話と時折混じる笑い声とともに、穏やかに進んだ。食器を片付け終えた二人は、リビングのソファに並んで座った。
ユダはスマートフォンを取り出し、何度か画面をスワイプすると、意味深な笑みを浮かべてトリアを見つめた。
「トリア、ちょっとこっちへ」
「どうしたの?」
ユダは答えず、ビデオ通話のボタンを押した。呼び出し音が静かな部屋に響く。
トリアは不思議そうに眉を寄せた。「こんな夜遅くに誰に電話してるの? アルデンさん?」
ユダが答える前に、画面には読書用の眼鏡をかけた、上品で若々しい中年女性の顔が映し出された。
『あら、ユダ? こんな時間に珍しいわね。また残業かと思ったわよ』
女性は独特のジャカルタ訛りで親しげに話しかけてきた。
トリアの目が見開かれる。心臓の鼓動が急激に速まった。
「こんばんは、母さん」
ユダが平然と挨拶する。
トリアは凍りついた。母さん? ユダのお母さん!? 彼女はパニックになりながら、反射的に乱れた髪を手で整えた。
『そういえばユダ、お父さんがいつジャカルタに帰ってくるのかって聞いてたわよ。あ、それからラトナおばさんがまた、娘さんを紹介したいって。海外帰りの美人さんなんですってよ』
画面の中の女性は、息つく暇もなく喋り続ける。
ユダは、息を止めて固まっているトリアを横目で見て、低く笑った。
『早くいい人を見つけて連れてこないと、妹のサラに先を越されちゃうわよ。家の猫にまで笑われちゃうわ』
トリアは母親特有の小言に、吹き出しそうになるのを必死で堪えた。しかし、ユダが突然座り直し、肩が触れ合うほど密着してきたため、その笑いは喉の奥に引っ込んだ。
ユダはスマートフォンを高く掲げ、二人の顔が一つのフレームに収まるようにカメラを向けた。
「ラトナおばさんの娘さんは結構だよ、母さん。ほら、見て」ユダは顎でトリアを指した。「綺麗だろう?」
ぽっ。
トリアの顔は一瞬にして茹で上がったタコのように真っ赤になった。彼女は硬直したまま、ぎこちない笑みを浮かべてカメラに向かって手を振るのが精一杯だった。
「こ、こんばんは……」
画面の向こうで、ユダの母親の目が見開かれた。眼鏡が少しずり落ちる。
『まあ! あなた! お父さん! 早く来て! ユダが女の子と一緒にいるわよ!』
母親は興奮した様子で叫び、夫を呼ぶために一時的に画面から消えた。
トリアはパニックの極致だった。カメラに映らないところで、ユダの脇腹をぎゅっとつねる。
「痛っ」ユダが小さく呻く。
「ちょっと……何考えてるのよ、ユダ! 心の準備ができてないわ!」トリアは顔を火照らせながら、必死で囁いた。
ユダはトリアの狼狽ぶりを楽しみながら、悪戯っぽくニヤリと笑った。やがて、画面にはユダによく似た中年の男性が現れた。威厳のある皺と、こめかみに混じる白髪が知的な印象を与える。
『どれどれ?』男性は画面を凝視した。トリアの姿を認めると、太い眉が跳ね上がった。『ほう……ユダ、それが君の婚約者候補か?』
「ああ、父さん。見守っててくれ。どうだい? 綺麗だろう?」
『とっても綺麗よ!』ユダの母親が再びフレームに割り込んできた。『まあ、なんて可愛らしいのかしら。お名前はなんていうの?』
『ああ、お父さんも賛成だ。美人だね。ユダ、いい目を持ってるじゃないか』
ユダの父親も満足げに頷いている。
ユダは、ますます居心地が悪そうにしているトリアを見てくすくすと笑った。
「トリアっていうんだ、父さん、母さん。じゃあ、二人で直接話してよ。俺、ちょっと飲み物取ってくるから」
ユダは何の罪悪感もなく、震えるトリアの手にスマートフォンを押し付けると、立ち上がって向かいのソファへと移動してしまった。トリアを一人「火あぶり」の状態にして。
「ユダ!」トリアは声を出さずに、助けを求めるように目を剥いた。
しかし画面の中では、母親が満面の笑みを浮かべていた。
『トリアさん、はじめまして。驚かせてしまってごめんなさいね。おばさん、本当にびっくりしちゃって』
トリアは深く息を吸い込み、自動的に「礼儀正しいモード」を起動させた。背筋を伸ばし、精一杯の笑みを浮かべる。
「いえ、こちらこそ。はじめまして、トリアです。夜分遅くに突然お邪魔してしまって、申し訳ありません」
『邪魔だなんてとんでもない! むしろ嬉しいわよ!』母親が熱っぽく遮った。
『知ってる? ユダが私たちに女性を紹介するなんて、生まれて初めてのことなのよ。あの子ったら石みたいに頑固で、彼女のことを聞いても「そのうちに」ってばっかりだったんだから』
トリアは遠くでニヤニヤしているユダを盗み見た。胸の奥がじんわりと温かくなる。初めて? 自分はそれほど特別な存在なのだろうか。
父親も、真面目な顔をして冗談を付け加えた。『そうだね、トリアさん。おじさんは、ユダがそっちの気なんじゃないかと心配していたくらいだよ。まともな感性を持っていて安心したよ』
「ブッ!」飲み物を飲んでいたユダがむせた。
トリアは思わず吹き出した。「ふふふ……そうですね。ユダさんは仕事中毒なところがありますから」
会話は驚くほどスムーズに弾んだ。ユダの両親は想像していたような堅苦しさは微塵もなく、とても温かくてユーモアに溢れていた。彼らはトリアを、何の偏見も難しい質問もなく、ありのままの姿で受け入れてくれた。
十五分後、母親は名残惜しそうに話を締めくくった。
『とにかく、ジャカルタに来るのを待ってるわね。家族みんなで食事をしましょう。絶対に来てちょうだいね!』
「はい。ジャカルタへ行く際は、必ず伺います。お二人とも、どうぞお健やかにお過ごしください」
『ええ! あ、あなた、ユダに何か言うことは?』母親が夫に尋ねる。
後ろで父親が即座に答えた。『いや、いいよ。ユダの顔は見飽きた。切ってくれ』
トリアはまた笑ってしまった。
『じゃあ、体に気をつけてね、トリアさん』
最後に母親がそう言い、通話が切れた。
ピッ。
トリアは長い溜息をつき、スマートフォンをテーブルに置いた。勝利の笑みを浮かべてくつろいでいるユダをじっと見つめる。
トリアは立ち上がり、ユダのすぐ隣に座り直した。二人の間に隙間はない。彼女はユダの腕を小突き、唇を尖らせた。
「もう……あなたって人は。心臓が止まるかと思ったわ。どうして先に言ってくれないの? お化粧も直してなくて、ボロボロだったのに!」
ユダは笑いながら、トリアの方へ体を向けた。「その方が自然だろう? 台本なしの方がいい。それに、俺の両親は飾らない姿の方が好きなんだ。現に、二人とも一瞬で君を気に入ったじゃないか」
「でも、すごく緊張したんだから!」トリアはもう一度ユダの腕をつねろうとした。
しかし、今度はユダの方が速かった。彼はトリアの手を空中で捕まえ、優しく、しかし力強く握りしめた。彼の顔から笑みが消え、代わりにトリアを射抜くような真剣な眼差しが向けられた。
ユダの顔がゆっくりと近づく。トリアは彼の瞳の中に、自分の姿が映っているのを見た。呼吸が止まる。彼女は逃げなかった。
ユダはわずかに首を傾け、トリアの唇に自分の唇を重ねた。
ちゅっ。
そのキスは柔らかく、慎重で、それでいてこれまで抑えてきた想いが溢れ出していた。強引に求めるものではなく、許しを請い、確信を与えるような口づけ。
トリアは驚きに一瞬目を見開いたが、やがてゆっくりと瞼を閉じた。彼女はそのキスに応え、ユダの唇から全身へと広がる熱を感じていた。心の中に残っていた最後のためらいが、溶けて消えていく。
外の世界が止まってしまったかのように、長い時間が流れた。
ユダが唇を離したとき、二人の額はまだ触れ合っていた。互いの呼吸が少し乱れている。トリアの顔は真っ赤になり、恥ずかしそうに目を伏せた。
ユダは片手でトリアの頬を包み込み、親指で優しく撫でた。
「トリア……」
ユダの声が掠れている。トリアはゆっくりと目を開け、愛に満ちた彼の瞳を見つめ返した。
「俺の恋人になってくれないか? 俺が両親に紹介する、唯一の女性として」
第62章、お読みいただきありがとうございます。 ユダの両親との対面、ドキドキしましたか? そして、ようやく訪れた二人だけの時間。
トリアの答えは、もう明らかですね。 温かい気持ちで満たされたなら幸いです。
次の章も、どうぞお楽しみに。 感想はX(@mrnoxvane)やLINE(ID: noxvane)までお気軽に。 ブックマークしていただけると、とても励みになります。




