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第61章 終幕の調べ

ユニの足取りは力強かった。人事部へと続く廊下を進む彼女は、ガラス扉の前で一度立ち止まると、ブレザーの襟を整え、扉に映る自分に向かって自信に満ちた笑みを浮かべた。


バスカラからの突然の呼び出し。それはきっと、新しいプロジェクトの相談か、あるいはこれまでの実績を評価されてのことだろう。彼女は自分の立場が揺るぎないものだと信じて疑わなかった。ハルランはすでに捕まり、自分に繋がる証拠などどこにも残っていないはずなのだから。


ユニは二度、ドアをノックした。そして返事を待たずに扉を開ける。


「失礼します、バスカラ部長。お呼びだと伺い――」


言葉が途切れた。浮かべていた笑みは瞬時に凍りつき、眉間に困惑の皺が寄る。


冷房の効いた室内には、バスカラだけではなかった。ユダが硬い表情で座り、その鋭い視線が射抜くようにユニを捉えている。そしてその隣には、トリアの姿があった。


彼女の瞳は少し腫れ、疲労の色を隠せていない。それでも背筋を伸ばし、真っ直ぐにユニを見据えていた。


室内の空気は重く、まるで酸素がすべて吸い取られたかのような圧迫感に満ちている。


「座りなさい、ユニ」


バスカラが淡々と言い、空いている席を指した。


ユニは唾を飲み込み、平静を装いながら優雅な所作で椅子に腰を下ろした。


「どうされたんですか、部長? なんだか物々しい雰囲気ですけど。マーケティング報告に何か不備でもありました?」


しらじらしく問いかけるユニを、バスカラは眼鏡の奥からじっと見つめた。そこには、いつもの温厚な上司の面影はない。


「マーケティングの話をするために呼んだのではない。社員の個人情報の安全性、そして……犯罪行為への教唆についてだ」


「まあ、ずいぶんと物騒なお話ですね。私には何のことだかさっぱり……」


ユニは力なく笑ってみせた。


「しらばれるな」


ユダが鋭く遮った。低い声の奥に潜む怒りの震えに、ユニの肩がわずかに強張る。


「ハルラン・アディティアを知っているか?」


ユニは困惑したふりをしてユダを見返した。「ハルラン? どなたのことでしょう。ああ、昨日騒ぎを起こしたあの不審者のことですか? 面識なんてありませんわ」


そして、蔑むような視線をトリアへ向けた。「トリアさんの方が詳しいんじゃないかしら。だって、彼女の『問題あり』な元恋人だったんでしょう? もしかして、私のことについて何か変な作り話でもしたの?」


トリアは答えなかった。ただ、哀れな部外者を見るような冷ややかな眼差しをユニに返した。


「ユニ」


バスカラの声が一段高くなった。


「もう一度聞く。君がトリアの個人情報をハルランに流したのか? 裏口からの侵入方法を教えたのも君か?」


ユニは鼻で笑い、防衛的に背筋を正した。「部長、それは重大な侮辱ですよ。私はあの男と接触なんてしていません。トリアさんが自分の過去のせいで被害妄想に陥っているのなら、私を巻き込まないでいただきたいわ。被害者面もいい加減にしてください」


「そこまでだ」


背後でドアが開く音が、ユニの言葉を断ち切った。


入ってきたのはセラだった。手には何枚ものプリントアウトされた紙を抱えている。いつもは冷静な彼女の表情は、今は冷徹な決意に満ちていた。


ユニは目を見開いた。「セラ? どうしてあなたがここに?」


セラは答えず、ユニの目の前の机にその紙の束を叩きつけるように置いた。


「読みなさい」


短く、突き放すような声だった。


ユニが視線を落とす。一番上のページには、メッセージアプリのスクリーンショットが写し出されていた。


『ユニ:彼は今ロビーにいるわ。裏口から入って。警備が手薄になってるから』


その下には、ユニのパソコンからトリアの個人データにアクセスしたことを示すサーバーのログが並んでいる。


自信に満ちていたユニの顔から、みるみる血の気が引いていった。唇が震え、言葉にならない声が漏れる。震える手で次のページをめくると、そこには盗撮されたトリアとユダの写真があった。


「これ……これは……」


ユニは絶句し、額からは冷や汗が滲み出した。


「それは君のパソコンから見つかったものだ、ユニ。一時間前にな」


バスカラの声は、まるで判決を下す裁判官のように響いた。


「セラに命じて、フォレンジック調査を行わせた結果だ」


ユニは信じられないといった様子でセラを振り返った。「あなた……私を嵌めたのね? 同じ職場の仲間じゃない!」


「嫉妬心から仲間の命を危険にさらすような人間を、私は仲間だなんて思わないわ」


セラが冷たく言い放つ。


沈黙が部屋を支配した。証拠はあまりにも明白で、言い逃れの余地はどこにもなかった。


ユダがユニを見つめる。その瞳にあるのは怒りではなく、深い失望だった。


「なぜだ、ユニ」ユダが静かに問いかけた。「君のことはプロフェッショナルな同僚だと思っていた。なぜトリアにこんな真似ができた? 彼女が君に何をしたというんだ」


その問いが、ユニの中で堰き止められていた感情を崩壊させた。露呈した醜態への羞恥と、長年積み重なった欲求不満が混ざり合い、彼女の顔は赤黒く染まった。


「彼女のせいよ!」


ユニが突如として立ち上がり、金切り声を上げた。震える指先でトリアを指差す。


「この女がここに来て、すべてをめちゃくちゃにしたのよ! 私はここで二年も働いてきたの、ユダさん! あなたの目に留まるように、誰よりも努力してきた! なのに、あなたは一度だって私を見てくれなかった!」


肩で息をし、取り繕っていた仮面は無残に剥がれ落ちた。


「それなのに、この女が現れて……ジャカルタからトラブルを持ち込んだだけの女が。それなのに、あなたはいきなりヒーロー気取りで彼女を守るの? 送り迎えまでして、必死になって庇って。そんなの、不公平じゃない!」


トリアは呆然とした。あまりにも身勝手で、ありふれた理由に言葉を失った。


「……たった、それだけのために?」トリアが掠れた声で呟いた。「私をあんな目に遭わせようとしたの? ただの嫉妬で?」


「黙りなさい!」ユニが怒鳴った。「常に無視され続ける私の気持ちなんて、あんたにはわからないわよ!」


ドンッ!


バスカラが力任せに机を叩き、その場の狂乱を抑え込んだ。


「いい加減にしろ、ユニ・ララサティ!」


バスカラの威厳が室内を圧倒する。


「私情のために犯罪行為を正当化することはできない。社員の情報を漏洩させ、社内での暴力を教唆したことは重大な規律違反だ」


バスカラは引き出しから、あらかじめ用意されていた白い封筒を取り出した。それをユニの前に突きつける。


「これは解雇通知書だ。即刻、君を懲戒解雇とする。退職金も一切支払われない」


ユニは封筒を見つめたまま硬直した。膝の力が抜け、椅子に崩れ落ちる。


「部長……でも……いきなり解雇なんて……私は……」


「会社は、他人の命を危険にさらすような社員を容認しない。本来なら警察に通報し、情報通信法違反と傷害罪の共犯で訴えるところだ。それを免れただけでも幸運だと思いなさい。さあ、荷物をまとめろ」


バスカラがインターホンを押した。「警備員、部長室まで。ユニ氏の荷物整理に立ち会い、そのまま建物外へ連れ出してくれ」


屈強な警備員が二人、入室してきた。ユニは虚ろな目で周囲を見渡したが、ユダにも、セラにも、そしてトリアの瞳にも、同情の色は微塵もなかった。


「行きましょうか」


警備員の冷徹な声に促され、ユニはふらつく足取りで立ち上がった。プライドは粉々に砕け散り、犯罪者のように両脇を固められ、うなだれたまま部屋を後にした。


◇◇◇


人事部長室から自分のデスクまでの道のりは、ユニにとって地獄そのものだった。


普段はタイピング音や話し声で賑やかな三階のフロアが、警備員を伴ったユニの姿が現れた途端、水を打ったように静まり返った。


すべての視線が彼女に突き刺さる。パントリーの近くでは、ミラが腕を組んで満足げな表情で彼女を見つめていた。アリンは失望したように首を振る。同じ部署の同僚たちでさえ、関わりを避けるように目を逸らした。


ユニは震える手で、私物を段ボールに詰め込んだ。口紅、手鏡、休暇中の写真。かつてデスクを彩っていた自慢の品々が、今は無価値なゴミのように見えた。


誰も手を貸さない。別れの言葉をかける者もいない。


ただ、沈黙という名の審判だけがそこにあった。


箱がいっぱいになると、ユニはそれを抱え上げた。空席となっているトリアのデスクを一度だけ盗み見る。自分の嫉妬に負けたのだと、その時ようやく思い知らされた。


ユニは逃げるようにエレベーターへと向かった。数十人の目撃者に見守られながら、彼女のキャリアは終わりを迎えた。エレベーターの扉が閉まり、彼女はアルカディア・プライムから永遠に追放された。


◇◇◇


ユニが去って数分後、トリアはユダとセラを伴って部長室から出てきた。


自分のデスクの前に立ち、向かい側にあるユニの空席を見つめる。トリアは深く長い溜息をついた。肩に乗っていた数千トンもの重荷が、ようやく消えていくのを感じた。


ユニの破滅を見て、喜びが湧き上がるわけではなかった。勝利の凱歌が聞こえるわけでもない。ただ、言いようのない安堵感があった。ようやく、本当の安全を取り戻したのだ。


「終わったわね、トリア」


セラがトリアの肩を優しく抱いた。「あの毒蛇はようやく消えたわ」


トリアは微かに微笑み、セラを見つめた。「ありがとう、セラ。あなたがいなかったら、どうなっていたか……」


「いいのよ。趣味のファイル整理をしただけだから」


セラは場を和ませるように冗談を言った。


そこへミラが駆け寄り、トリアを力いっぱい抱きしめた。「やったわね! これでオフィスもクリーンになったわ!」


三人は顔を見合わせ、小さく笑い合った。長く、過酷だった一日の終わりを告げる安堵の笑いだった。


夕暮れ時、オフィスの空気は緩やかに日常へと戻っていった。一人、また一人と社員が帰路につく中、トリアが荷物をまとめているとユダが歩み寄ってきた。


彼はネクタイを外し、シャツの袖を無造作に捲り上げている。口角の傷はまだ痛々しいが、その表情は驚くほど穏やかだった。


「もう帰るのか?」


トリアは頷き、バッグを肩にかけた。「ええ。ユダさんは?」


「あと少しだけ。最後に一通、メールを送ったら帰るよ」


ユダはトリアをじっと見つめた。そして手を伸ばし、彼女の耳にかかった後れ毛を優しく整えた。その指先の温もりに、トリアの胸が高鳴る。


「明日からは……すべてがうまくいく。もう、穏やかに始められるはずだ」


「ええ、ユダさん。本当に、ありがとう」


ユダは微笑み、ミラやセラと共にエレベーターへ向かうトリアを見送った。その背中が消えるまで、彼は静かに見守り続けた。すべてが終わった安堵を、静かに胸に刻むように。

第61章、お読みいただきありがとうございました。 ようやく訪れた平穏な空気。 ユニの退場、すっきりしましたか?

物語も佳境に入ってきました。 次の展開へ向けて、また一歩進みます。

感想や応援メッセージは、X(@mrnoxvane)やLINE(ID: noxvane)でお待ちしています。 ブックマークしていただけると、執筆の励みになります。

引き続き、よろしくお願いいたします。

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