第59章 執着の終焉
デンパサール南警察署の待合室に置かれた掛け時計の針が、ゆっくりと十時へと向かっていた。室内には、最大設定にされたエアコンの冷気と、重苦しく張り詰めた緊張感が混ざり合い、肌を刺すような冷たさが漂っている。
しかし、昨日のようにオフィスのトイレで震えていた時とは違い、今のトリアは一人ではなかった。
彼女は鉄製の長いベンチに座り、頼もしい「守護者たち」に左右を固められていた。右側ではシャニアが彼女の手を強く握りしめ、捜査室のドアから誰が出てきても即座に飛びかかれるよう、鋭い視線を向けている。左側にはナディアが背筋を伸ばして座り、手に持った扇子を激しく動かしながら、抑えきれない憤りを発散させていた。
「大丈夫よ、トリア。あの狂った男がまた何か仕掛けてきたら、私がこのバッグを叩きつけてやるわ」
ナディアは重厚なブランド物の革バッグを指さし、低く唸るように囁いた。
彼女たちの正面には、アルデンとユダが二本の守護塔のように並んで立っていた。黒の無地のシャツを纏ったユダは、腕を組み、一瞬たりとも周囲への警戒を解かない。アルデンは時折、親友であるユダの背中を叩き、その昂ぶりを宥めていた。
受付のデスクでは、バスカラ・リンタンが捜査官と深刻な面持ちで話し合っていた。彼の傍らには、アルカディア・プライムの法務チームから派遣された、隙のないスーツ姿の弁護士が二人控えている。彼らはプロフェッショナル特有の、威圧的なオーラを放っていた。
バスカラは断固とした動作で、一本のフラッシュメモリと写真の束を捜査官の前に置いた。
「これはシャニア殿の自宅が損壊された際のCCTV映像です。それから、こちらが物的損害の見積書と、被害者が受けた精神的ショックに関する診断書です」
バスカラの重厚なバリトンボイスには、一切の反論を許さない響きがあった。
捜査官は頷き、手早く書類に目を通した。「承知いたしました。容疑者の家族から連絡があり、示談による解決を求めてきておりますが……」
アルカディアの弁護士の一人が即座に割って入り、眼鏡の縁を直した。
「我がクライアントは、いかなる形での示談も拒否します。これは明白な器物損壊、脅迫、そして誘拐未遂という刑事事件です。弊社は全力を挙げて社員を保護し、最大限の抑止効果を得るために告訴を取り下げることはありません。法に則った厳正な処罰を求めます」
バスカラはトリアの方を向き、短く頷いた。その視線は「私たちが守る」と明確に告げていた。
廊下のドアが開き、全員の視線が一斉にそちらへ向いた。
二人の警察官に連れられて、一人の男が部屋に入ってきた。
ハルラン・アディティア。
その姿は、かつてトリアがジャカルタで知っていた、成功したマネージャーの面影など微塵もなかった。肩の部分が裂けたシャツは埃にまみれ、汚れきっている。顎には昨日ユダに殴られた痕が青黒く残り、目元は激しく腫れ上がっていた。
ハルランの足が止まった。彼は、恐怖に震え、一人で立ち尽くすトリアの姿を予想していたのだろう。しかし、目の前にいたのは、自分を一歩でも近づかせまいとする「人間の壁」に守られ、毅然と座るトリアだった。
昨日まで彼を支配していた傲慢さと狂気は消え失せ、代わりに惨めな絶望がその顔を覆っていた。
「座れ」
警官の命令に従い、ハルランはトリアから三メートルほど離れた鉄製の椅子に座らされた。
ハルランはトリアをじっと見つめた。その瞳には涙が浮かび、唇が小刻みに震えている。
「トリア……」
彼はかすれた声で呼んだ。「ねえ……僕がこんな姿になっても、君は平気なの?」
トリアは深く息を吸い込んだ。シャニアが握る手に力がこもる。ユダが今にも踏み出そうとしたが、トリアは視線で彼を制した。「私に任せて」という合図だった。
「トリア、お願いだ……」
ハルランは泣き始め、汚れた頬を涙が伝った。
「魔が差したんだ。僕はただ、君を迎えに行きたかっただけなんだ。一緒にジャカルタへ帰ろう? もう二度とあんなことはしない。クラリッサとはもう終わったんだ。僕たち二人だけになれる。覚えているだろう? 来年結婚しようって約束したじゃないか。理想の家を建てるために、貯金だってしていたんだ……」
吐き出される甘い言葉の数々は、今のトリアにとっては吐き気がするほど無意味で、滑稽だった。彼女は目の前の男を、まるで見知らぬ他人を見るような目で見つめた。かつての彼女なら、この涙に絆されていたかもしれない。罪悪感に苛まれていたかもしれない。
だが、今の彼女の心にあるのは、ただの「空虚」だった。愛という感情は、度重なる裏切りと恐怖によって、とっくの昔に死に絶えていた。
トリアはゆっくりとシャニアの手を離した。バッグの中から、小さなワインレッドのベルベットの箱を取り出す。スーツケースの奥底にずっと隠していた、捨て去ることのできなかった過去の重荷だ。
トリアは立ち上がり、静かな足取りで捜査官のデスクへと近づいた。ユダの体は緊張に強張ったが、彼女の意志を尊重し、見守ることに決めた。
ハルランの顔を見ることなく、トリアはその箱を机の上に置いた。
コトッ。
「あなたの指輪よ、ハルラン」
トリアの声は、驚くほど穏やかで、平坦だった。感情の起伏などどこにもない。
「お返しするわ」
ハルランは恐怖に目を見開き、箱とトリアを交互に見た。「嫌だ……トリア、やめてくれ……これを返すなんて許さない。これは僕たちの約束なんだ……!」
ハルランがトリアの手に触れようと身を乗り出したが、彼女は素早く一歩下がり、その接触を拒絶した。そして、彼の濡れた瞳を真っ直ぐに見据えた。
「もう『私たち』なんていないのよ、ハルラン。ずっと前からね」
トリアは断固として言い放った。
「でも愛しているんだ! 君を愛しているから、こんなことをしたんだ!」
ハルランがヒステリックに叫んだ。
「愛は人を傷つけないわ、ハルラン。愛は人を脅かさない。愛は人の家を壊したりしない」
トリアの冷徹な言葉が、彼の叫びを遮った。
部屋は静まり返った。シャニアは妹の勇姿に目頭を熱くし、ナディアは誇らしげな笑みを浮かべてアルデンの腕に寄り添った。
トリアは深く息を吸い込み、肩から数千トンもの重荷が消えていくのを感じた。
「私は、自分自身を許すことにしたわ」
トリアの声はわずかに震えていたが、そこには確かな信念が宿っていた。
「間違った男を愛してしまった自分を。あなたを信じてしまった、かつての愚かな自分を、もう責めないことにしたの」
トリアは最後にもう一度だけハルランを見た。それは、完全なる決別の眼差しだった。
「あなたはもう、私の未来ではない。大切にすべき過去ですらないわ。ただの『教訓』よ。そして今……私はその教訓を学び終えて、卒業するの」
「トリア! そんなこと言うな! トリア!」
ハルランは立ち上がろうとしたが、警官によって力ずくで押さえつけられた。
トリアは背を向けた。二度と振り返ることはなかった。彼女は、誇らしげな眼差しで両腕を広げて待っているユダの元へと、真っ直ぐに歩いていった。
「容疑者を独房へ戻せ」
捜査官が淡々と命じた。
「トリアーーー! 行かないでくれ! トリアーーー!」
ハルランの絶叫が警察署の廊下に響き渡り、警官に引きずられていく彼の声には、後悔と怒り、そして完全なる敗北が混じっていた。
ユダは即座にトリアの肩を抱き寄せ、過去の暗闇から遠ざけるように部屋の外へと連れ出した。
「君は、本当に立派だった」
ユダが耳元で優しく囁いた。
警察署の建物の外に出ると、バリの眩い太陽の光が二人を迎え入れた。暖かく、視界を白く染めるほどの光。トリアは一瞬目を閉じ、自由になった空気の甘さを胸いっぱいに吸い込んだ。
「終わったのね……」
トリアは安堵の溜息を漏らした。彼女はユダを見上げ、今までで一番晴れやかな、心からの笑顔を見せた。
「帰りましょう。お腹が空いちゃった」
トリアが軽やかに言うと、シャニアが笑いながら反対側から彼女を抱きしめた。
「そうね! この自由を思いっきりお祝いしましょう! 支払いはアルデンね!」
「えっ? なんで僕なんだよ」
アルデンは笑いながら抗議したが、その手は車のキーをしっかりと握っていた。
一行は笑い声と大きな解放感に包まれながら、駐車場へと歩いていった。トリアの頭上にずっと垂れ込めていた暗雲は、ようやく跡形もなく消え去ったのだ。
◇◇◇
しかし、警察署のテラスには、まだバスカラが一人残っていた。彼が駐車場へ向かおうとしたその時、ジャケットのポケットにあるスマートフォンが長く震えた。
バスカラは足を止め、画面を確認した。アルカディア・プライムのIT部門長からのメッセージだった。
差出人:ヘンドラ(ITセキュリティ)
『バスカラさん、お忙しいところ失礼します。昨日の事件を受けてサーバーのログ監査を完了しましたが、奇妙な点が見つかりました』
バスカラは眉をひそめ、素早く返信を打った。
『何が見つかった?』
数秒後、一枚のスクリーンショットが送られてきた。
『花束のテロ事件が起こる二日前、トリア・マヘスワリ殿の個人データへの不正アクセスがありました。IPアドレスは外部からではなく、社内ネットワークのものです。マーケティング部のログイン資格情報が使用されています』
バスカラの鼓動が速まった。彼は遠くで笑い合っているトリアとユダの背中を見つめ、それから険しい表情でスマートフォンの画面に視線を戻した。
垣根の外にいた敵は倒した。だが、身内に潜む敵が、今まさに姿を現そうとしていた。
第59章、お読みいただきありがとうございます。 ハルランとの決着、そしてトリアの「卒業」。 長かった悪夢が、ようやく終わりを告げました。
しかし、最後の最後でバスカラに届いた一通のメッセージ。 敵は外だけでなく、内にもいたのでしょうか……?
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