第58章 砕けた硝子と過去の残像
アルカディア・プライムのロビーで騒動を起こした後、ハルランの運命は風前の灯火だった。しかし、経営陣にとって会社の評判は何よりも優先されるべきものだった。
その場に居合わせたVIP客の手前、事態を穏便に収束させるべく、警備員には警察を呼ばないよう指示が下った。彼らはハルランを力ずくで引きずり出すと、アスファルトの熱がこもる歩道へと放り出し、二度と敷居を跨ぐなと、さもなくば刑事告訴すると言い渡した。
まともな精神状態であれば、それは引き返すべき最後通牒だっただろう。だが、砕け散った自尊心とアルコールで濁ったハルランの頭には、破滅のスイッチが入っていた。
彼はジャカルタへは戻らなかった。トリアを手に入れるための、最後にして無謀な計画を練り始めたのだ。
そして、その瞬間は訪れた。
◇◇◇
数刻前まで、シャニアの自宅周辺は夜明け前の深い静寂に包まれていた。しかし、その平穏は一瞬にして粉砕される。
ガシャーン!
窓ガラスを突き破る衝撃音が、静まり返った室内に響き渡った。床に散らばった硝子の破片が、街灯の鈍い光を反射して不気味に光る。
行方不明のトリアを案じて部屋を往復していたシャニアは、悲鳴を上げてソファの陰に身を隠した。耳を塞ぎ、激しく打ち鳴らされる鼓動を感じながら、無残に穴の開いた窓を見つめる。お気に入りのシャギーラグの真ん中に、拳ほどの大きさの石が転がっていた。
「トリア! 出てこい!」
表から聞こえる掠れた叫び声には、執着と絶望が混じり合っていた。
シャニアはその声に聞き覚えがあった。会ったことはなくとも、トリアから聞かされていたあの異常な響きそのものだった。ハルランだ。
彼女は震える手でスマートフォンを掴むと、主寝室の浴室へと駆け込み、鍵を二重にかけた。背中をドアに預け、荒い息を吐きながらユダの番号を呼び出す。
外では、玄関のドアを激しく蹴りつける音が執拗に繰り返されていた。
ドンドンドンドンドンドン!
「開けろ! 中にいるのは分かっているんだぞ、トリア! 未来の夫から隠れるな!」
シャニアは隅にあった掃除用具の柄を握りしめた。それが唯一の武器だった。身体の震えが止まらない中、ユダが電話に出た瞬間、彼女は声を絞り出した。
「ユダさん! 助けて、狂った男が……!」
その時、居間から木材が裂ける音が響いた。玄関の蝶番が、ハルランの狂気に屈したのだ。重い足音が室内に侵入し、次々と物がなぎ倒される音が続く。
「トリア! 愛してる! 一緒に帰ろう!」
ハルランの咆哮が、地獄と化した家の中に木霊する。シャニアは口を固く結び、嗚咽を堪えた。近隣の住民が異変に気づき、助けに来てくれることを心から祈りながら。
◇◇◇
ユダの黒いセダンが急カーブを曲がり、タイヤが悲鳴を上げた。シャニアの家の前には、すでに人だかりができていた。
割れた硝子が散乱するテラスを、サロンを身にまとった男性たちや警備員がテラスに集まり、怒号と罵声が入り乱れ、現場は混沌としていた。
「嘘……」
トリアは絶句し、口元を両手で覆った。ようやく取り戻しかけた平穏が、再び血の気が引くような恐怖に塗り替えられる。
ユダは乱暴に鍵を引き抜くと、車から飛び出した。助手席のドアを開け、トリアの手を強く握りしめる。
「俺の後ろを離れるな。いいか、絶対にだ」
ユダの低い声が、トリアの震えをわずかに鎮めた。二人は野次馬をかき分けて進む。
「通してください! 家主の親族です!」
ユダの威厳ある声に、人々が道を開けた。破壊された玄関を抜けた先、居間の光景にトリアは息を呑んだ。
家の中は無残だった。花瓶は砕け、ソファはひっくり返り、かつての安らぎは微塵もない。その中心に、ハルラン・アディティアがいた。
彼は床に組み伏せられ、二人の警備員と住民の男性に押さえつけられていた。手首を後ろに回され、顔を床に押しつけられながらも、ハルランはなおも喚き散らしていた。
「離せ! 俺には婚約者を迎えに来る権利があるんだ! トリア! トリアアア!」
「黙れ! 人の家で何て真似を!」
憤慨した住民の一人が、ハルランの頭を強く叩いた。
奥の廊下から、近所の女性に付き添われてシャニアが姿を現した。顔色は紙のように白いが、怪我はないようだ。ユダとトリアの姿を認めると、彼女の膝から力が抜けた。
「トリア……」
トリアが駆け寄ろうとしたその時、名前を呼ばれたハルランが、無理やり顔を上げた。
血走った瞳がトリアを捉える。痣だらけの顔に、歪んだ笑みが浮かんだ。
「トリア……愛してる……やっと帰ってきたんだね。さあ、ジャカルタへ戻ろう。結婚するんだ、ねえ?」
トリアは一歩後ずさり、ユダのシャツの袖を強く掴んだ。胃の底からせり上がる不快感と恐怖。床に這いつくばる男は、もはや彼女の知るハルランではなかった。執着という名の怪物がそこにいた。
「この狂人が!」
恐怖に震えるトリアの姿を見て、激昂した若い住民がハルランの脇腹を蹴り上げた。
ドカッ!
「まだそんなことが言えるのか! 人の家を壊しておいて、正気に戻れ!」
ハルランは苦悶の声を漏らしたが、それでも笑いを止めなかった。「彼女は俺のものだ……永遠に……お前らこそ邪魔をするな!」
そこへ、駆けつけた町内会長が割って入った。「もういい、やめなさい! 警察が来るまで捕まえておくんだ。すでに通報はしてある!」
ユダはトリアを自分の方へ引き寄せ、その無残な光景から守るように彼女をかばった。彼はハルランを、憐れみすら感じさせない冷徹な眼差しで見下ろした。
「お前はもう終わりだ、ハルラン」
ユダの静かな声が、騒然とする室内で鮮明に響いた。
ハルランはなおも抗い、ユダを睨みつけた。「お前……お前が盗んだんだ! トリアを洗脳したんだ! お前さえいなければ、彼女が去るはずがない!」
トリアは瞳を閉じ、その妄言を遮断した。壁の写真は傾き、床には硝子が散らばり、ドアは壊れている。ここはシャニアの家だ。自分を守ってくれた大切な場所が、自分のせいで壊されてしまった。
「私のせいだ……」
トリアの頬を涙が伝う。「シャニアさんを危険な目に遭わせて、家までめちゃくちゃにして……ここに来るべきじゃなかった……」
ユダは即座にトリアの体を自分の方へ向けさせ、自分を見つめさせた。背後の騒動など存在しないかのように、彼女の瞳だけを見つめる。
「違う。自分を責めるな。悪いのはあいつだ。罪を犯したのはあいつであって、被害者のお前じゃない」
シャニアもまた、震える足取りで二人に歩み寄り、トリアを強く抱きしめた。
「ユダさんの言う通りよ、トリア。変なことを考えないで」
シャニアの声も震えていたが、そこには確かな愛情があった。「私は大丈夫。物は買い替えればいいし、ドアも直せる。あなたが無事なら、それでいいの。この狂った男が捕まったんだから」
トリアはシャニアの肩に顔を埋め、声を殺して泣いた。「ごめんなさい、シャニアさん……本当にごめんなさい……」
やがて、パトカーのサイレンが近づき、野次馬を割って警察官が踏み込んできた。ハルランは乱暴に引き起こされ、手錠をかけられる。
シャツは破れ、惨めな姿で連行される間際、彼は不意に振り返った。
その瞳に後悔の色は微塵もなかった。ただ暗く、底知れない執念だけが宿り、無言の呪いのようにトリアを射抜いた。
「待っているよ、トリア……いつまでも……」
すれ違いざまに吐き出されたその囁きに、トリアの呼吸が止まりかけた。
しかし次の瞬間、彼女の視界は完全に遮られた。
ユダが一歩前に踏み出し、トリアの前に立ち塞がったのだ。その広い背中が、ハルランの毒々しい視線を断ち切る鉄壁の盾となった。
ユダはハルランを見向きもせず、ただ出口を見据えていた。背後に手を伸ばし、トリアの手を強く、壊れそうなほど強く握りしめる。
「もう、終わった」
ユダは自分自身に言い聞かせるように、毅然と言い放った。
「あいつには、二度と指一本触れさせない」
第58章、お読みいただきありがとうございます。 ハルランの暴走により、シャニアの家まで巻き込んでしまいました。 トリアの罪悪感、そしてユダの揺るぎない庇護。
「あいつには、二度と指一本触れさせない」 ユダの誓いは、果たして現実となるのでしょうか。
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