第56章 夜明け前の逃走
シャニアの家の客間にある壁時計が、午前四時を指した。外はまだ深い闇に包まれ、サヌールの静寂を切り裂くのは、遠くで鳴く虫の声と微かな海鳴りだけだった。
薄暗い部屋の中、カーテンの隙間から漏れる街灯の光を頼りに、トリアは音を立てずに動いていた。
一睡もできなかった。目は腫れぼったいが、涙はもう枯れ果てている。昨夜、すべての感情を吐き出し尽くしたのだ。
トリアは細心の注意を払いながら、最後の一着を畳んでスーツケースに収めた。無理に詰め込むのではなく、一つひとつの隙間を埋めるように、静かに服を押し込んでいく。
ふと、昨日の夕方の光景が脳裏をよぎった。ユダと一緒に帰路につく、その直前のことだ。
◇◇◇
オフィスのロビーは、すでに人影もまばらだった。トリアは震える手で厚みのある白い封筒を握りしめ、受付の警備デスクの前に立っていた。
「あの……」
当直の警備員に、消え入りそうな声で話しかける。
「おや、トリアさん。まだ帰ってなかったんですか? 何か忘れ物でも?」
警備員は、今朝の騒動などすっかり忘れたかのように、親しげに問いかけてきた。
トリアは力なく首を振り、無理やり口角を上げた。「いえ、これを預かっていただきたくて」
彼女はデスクの上に封筒を置いた。表書きには、はっきりと宛名が記されている。
『人事部長 バスカラ・リンタン殿』
「バスカラ部長への大切な書類なんです。もう帰宅されていますよね? 明日の朝一番、部長がいらっしゃる前にデスクに置いておいていただけますか」
「ああ、承知しました。責任を持って届けておきますよ」
「ありがとうございます。それから……今朝はお騒がせして、すみませんでした」
トリアはそう言い残すと、駐車場で待つユダのもとへ急いだ。溢れ出しそうな涙を、必死にこらえながら。
◇◇◇
トリアは荒っぽく顔を拭い、冷ややかな夜明けの現実に意識を引き戻した。スーツケースの準備は整い、ハンドバッグも肩にかけた。
枕元の小さなサイドテーブルに目を向ける。そこには手帳から破り取った一枚のメモと、インクが少し滲んだボールペンが置かれていた。
トリアはもう一度、そのペンを手に取った。ペン先が紙に触れた瞬間、手が激しく震える。
書きたいことは山ほどあった。実の姉のように接してくれたシャニアへの感謝。そして、臆病にも逃げ出す自分を、ユダに許してほしかった。
けれど、言葉を重ねようとするほど、胸が締め付けられて息ができなくなる。結局、彼女が綴ったのは、崩れそうな心を象徴するような短い一文だけだった。
『勝手にいなくなって、ごめんなさい。これ以上、みんなの迷惑になりたくないの。今まで本当にありがとう。そして……たくさんの人をトラブルに巻き込んでしまって、本当にごめんなさい』
トリアはペンを置いた。震える手で書いた文字は、ひどく乱れている。彼女は深く息を吸い込み、そのメモを枕の真ん中に置いた。シャニアがすぐに気づけるように。
スマートフォンを取り出し、配車アプリを開く。行き先に『イ・グスティ・ングラ・ライ国際空港』と打ち込んだ。
ただし、迎えの場所はシャニアの家の前には設定しなかった。こんな時間に車の音が響けば、家中の人間を起こしてしまう。トリアは乗車位置のピンを、住宅街から二百メートルほど離れたコンビニの前にずらした。
「ごめんなさい、ユダ……シャニアさん……」
誰もいない部屋に、微かな呟きが溶けていく。
トリアはスーツケースを持ち上げた。キャスターが床を鳴らさないよう、腕に力を込める。まるで自分の家で泥棒でもしているかのような足取りで、彼女は部屋を後にした。
リビングは暗く、静まり返っている。シャニアの部屋のドアは固く閉ざされたままだ。玄関に辿り着き、極めて慎重に鍵を回し、ドアノブを下げた。
カチッ。
その音はトリアの耳に爆発音のように響いたが、幸いにもシャニアの部屋に動きはなかった。
ドアを開けると、夜明け前の冷たい空気が頬を打った。外へ踏み出し、細心の注意を払ってドアを閉める。そして、預かっていた合鍵を、シャニアと決めていた隠し場所であるドアの鴨居の上にそっと置いた。
施錠を確認すると、ようやくスーツケースを地面に下ろした。トリアは深く息を吸い込み、バリの空気を肺に満たした。おそらく、これが最後になるだろう。
一度も振り返ることなく、トリアはスーツケースを引いて闇の中へと歩き出した。自分の心を、あの家に置き去りにしたまま。
◇◇◇
十分後。
シャニアは毛布の中で身じろぎした。喉が焼けつくように乾いている。
「喉がカラカラ……」
掠れた声で独り言を漏らし、重い体を引きずるようにしてキッチンへ向かった。家の中は、いつも以上に静まり返っているように感じられた。
トリアが眠っているはずの客間の前を通りかかったとき、シャニアの足が止まった。ドアがわずかに開いている。
「トリア?」
トリアが先に起きてトイレにでも行っているのかと思い、シャニアは低く声をかけた。
返事はない。
シャニアはそっとドアを押し開けた。「トリア、起きてるの?」
外からの街灯が、整えられたベッドを照らし出していた。あまりにも、綺麗に整えられすぎている。
シャニアは部屋の明かりをつけた。
目を見開いた。部屋はもぬけの殻だった。隅にあったはずのスーツケースも、机の上の仕事鞄もない。半開きになったクローゼットの中は、空っぽだった。
「トリア?!」
心臓が激しく脈打つ。シャニアはベッドに駆け寄り、枕の上に置かれた一枚の紙を見つけた。
それをひったくるように掴み、一気に目を通す。シャニアの顔から、みるみる血の気が引いていった。
「あの子、なんて馬鹿なの……! なんでこんなことするのよ!」
パニックに陥ったシャニアは、自分の部屋へ飛び込み、ナイトテーブルの上のスマートフォンを掴んだ。震える指で、短縮ダイヤルの名前を探す。
『ユダ・プラディプタ』
発信ボタンを押す。呼び出し音が、残酷なほど長く感じられた。
「出て、ユダ! 早く出てよ!」
シャニアは部屋の中をうろつきながら、狂ったように祈り続けた。
◇◇◇
ミニマリズムを体現したような自宅で、ユダはまだ眠りの中にいた。眠りは浅い。寝返りを打つたびに口角の傷が疼き、ハルランがトリアを連れ去ろうとする悪夢が彼を苛んでいた。
ジリリ……ジリリ……。
サイドテーブルで震えるスマートフォンの音が、悪夢を切り裂いた。ユダは呻き声を上げ、重い瞼をこじ開ける。手探りで机の上を探り、半分閉じた目で端末を掴んだ。
「もしもし……」
寝起きの、掠れたバリトンボイス。
『ユダ! トリアがいなくなったの!』
受話器の向こうから聞こえるシャニアの悲鳴は、バケツ一杯の氷水よりも確実にユダの意識を覚醒させた。彼は弾かれたようにベッドの上に飛び起きた。
「何だって?! いなくなったって、どういう意味だ!」
『逃げたのよ、ユダ! 部屋は空っぽで、荷物も全部なくなってる! メモが残ってたわ……これ以上迷惑をかけたくないって!』
シャニアの声は、パニックで涙に濡れていた。
『きっと空港よ! ジョグジャに帰るつもりか、それともどこか遠くへ……わからないけど!』
ユダの心臓が一瞬止まり、次の瞬間、狂ったような速さで鼓動を刻み始めた。
トリアが行ってしまった。彼女は、自分を守るために逃げる道を選んだのだ。
「いついなくなったんだ?」
ユダはベッドから飛び降りながら、素早く問いかけた。肩と耳でスマートフォンを挟み、椅子に放り投げてあったジーンズを掴み取る。
『わからないわ! とにかく探して、ユダ! 止めて! あんな状態のまま行かせちゃダメよ!』
「今すぐ行く」
ユダは電話を切った。顔を洗う暇さえ惜しかった。机の上の車のキーと財布を掴み、家を飛び出す。
ガレージのシャッターを開けると、早朝の冷気が顔を叩いた。黒いセダンに乗り込み、静まり返った住宅街にエンジン音を轟かせる。
「行かせない……頼むから、行かないでくれ……」
呪文のように何度も繰り返す。
ギアを叩き込み、アクセルを深く踏み込んだ。タイヤが悲鳴を上げ、車は猛烈な勢いで庭から飛び出した。まだ車影のないサヌールの通りを、猛スピードで駆け抜ける。
視線は鋭く前方の道路を射抜いていたが、意識はすでに空港へと飛んでいた。トリアなら、間違いなく一番早い便に乗ろうとするはずだ。
「二度と逃がさない。今度は、俺が君を追いかけてみせる」
ハンドルを握る指の関節が、白くなるほど強く力を込める。
トリアの過去のトラウマに、負けるわけにはいかない。今日という日も、そしてこれからも。
第56章、お読みいただきありがとうございます。
トリアの決断、そしてユダの焦り。
夜明け前の静寂を破る、緊迫の展開でした。
「二度と逃がさない」
ユダの想いは、果たして届くのでしょうか。
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